第37話
「だめ……触っちゃ……」
アンのか細い声がする。反響すらしない。私にしか聞こえないほどの声だ。
よく見ると、アンを抱きしめたところから、肌が黒く変色していた。瘴気が入り込んでいるのかもしれない。それでも、私はアンを離さなかった。いっそう強く抱きしめる。
「私はね、何にも逆らえない自分が嫌だった」
ぽつりと呟く。アンはびくりと肩を震わせた。
「もしかしたら、無駄な足掻きなのかもしれないかど……それでも、私は抵抗したいんだ」
アンは顔を上げる。黒く変色した顔に、苦悶の表情を浮かべている。
「苦しいの?」
「……苦しい」
「それなら、一緒に」
「……だめっ」
アンは私を思い切り突き飛ばす。不意のことに、私は受け身も取れずに転がった。
「ナツさん!」
「……っ!」
肌がじくじくと痛む。闇の力が侵入しようとしているらしい。自分の身体を抱いて、負けまいとする。
「どうして……」
オリハ先輩が震える声で私を呼ぶ。私は必死に自分の体内の魔力を活性化させた。それでも、闇の力は暴れ出そうとする。
「は、ぁっ……」
「ナツさん。保健室に戻ろう。戦える状態じゃない」
「っ……」
私は揺らぐ意識の中でアンを見る。泉のほとりで、瘴気に包まれ、かくんと無機質な表情でうなだれている。
私は胸に手を当てた。首に下げたものを引きちぎる。それはレンリ先生からもらったペンダントだった。
「お願い、浄化を……っ」
魔力を込めると、ペンダントは光り出して私を蝕む瘴気を吸収した。役目を終えた光の結晶は音を立てて割れる。身体が軽くなったのを感じると、めまいがしてその場に倒れ込んだ。
「ナツさん!」
オリハ先輩のひどく焦った声を聞いて、私はほっと胸を撫で下ろす。オリハ先輩がいてくれるなら、安心だ。私は妙に安心して、すっと意識を失った。
◇
目覚めると、無音だった。
音だけではない。視界も白い。誰の気配もしない。だから、一瞬、自分が起きたと認識できなかった。もしかしたら夢の中にいるのかもしれない。ぼんやりとした頭を回そうとして、痛みが走る。
「……う」
何をしていたんだっけ。
上体を起こす。どうやら学校の保健室のようだった。ここに来るのはもう慣れっこになってしまった。
頭がうまく回らなくて、自分の身体を見下ろす。魔力が少ない。じわじわといたぶられたような、欠けた痕跡がある。
「……は、ぁ」
息をすることさえ辛い。喉の奥に引っかかりがある。魔力修復に使っている脳のリソースは、肉体の保全に注力しているらしい。現状の把握もままならない。ただ、息が苦しい。
「っ……」
ただひとつ分かっていることがある。オリハ先輩がいない。保健室にいる時は、オリハ先輩といることが多かった。だから、きっとどこかにいるはずなのだ。
「……探さないと」
本能的にそう思って、鈍い頭と重たい身体を動かす。このまま一人でいるのは危ない。理由は分からない。ただオリハ先輩を探さなければいけない、と思った。
「っは、はぁ……っ!」
身体中がねじれるような感覚がする。熱く脈動している血潮を感じながら、壁に手をついた。
「さ、がさ、ないと……!」
もはや、確信めいた何かだった。私は言うことをきかない身体に鞭打って、一歩ずつ歩き出す。
保健室から出ると、誰もいない廊下に出る。まるで人の気配がない。それでも、この広大な敷地から、オリハ先輩を見つけ出さなければ。
オリハ先輩がいそうな場所なんて知らなかった。私たちは、待ち合わせをして、課題やお手伝いという目的のためだけに集まっていただけだった。オリハ先輩が好きな場所、好きな食べ物、好きな授業、だなんて、話したこともない。それが今、後悔に変わっていく。
「っは……! う、ぁ」
身体にねじ切れるような痛みが走る。思わず廊下でしゃがみ込む。探さなきゃいけないのに。こんな時にまで不甲斐ない自分が嫌だった。こんなの、課題の時とまるで変わらない。マヤ・ナイラに抗うと決めたはずなのに、バディであるオリハ先輩がいなくなった時、探す手立ても見つからない。
「……っ」
身を引きずるように、壁を伝って進む。しばらく進むと、実習室の看板が見えた。私たちが初めて出会った場所。私は祈るように実習室へと歩みを進める。
ドアに触れると、中から声が聞こえてきた。
「っ……!」
慌てて声を上げそうになるのを抑えて、聞き耳を立てる。
「オリハ。オリハが……」
「うん」
アンの声だった。そして、応えているのは間違いなくオリハ先輩だった。うまく内容は聞き取れないが、声で誰がいるのかは分かる。
アンとオリハが何かを話している。私はそれを聞いてもいいのだろうか。もし、立ち会ってしまったことでオリハ先輩の身に何か起きたとしたら。思わずぶるっと震える。でも、なんとなく、聞かないといけないような気がした。もうオリハ先輩からも逃げたくなかった。
「オリハは、アンと似てる」
ひどく無機質な声が、やけに耳にしっかりとどいた。
「人間? うん、人間。でもそれだけじゃない」
「……そうか。やっぱり」
頭がフリーズする。どういうこと?
「だから、アンはオリハが好き。同族の匂い」
「ふふ、僕は嫌いだよ」
オリハ先輩が言葉に反して柔らかく笑う。それすら信じられなくて、私は固まっていた。
「いいこと。いいこと教えてあげる」
アンはけらけらと笑った。
「その扉の向こうに……」
はっとする。思わず立ち去ろうとする。でも、遅かった。
扉が勝手に開き、怯えたように見開いたオリハ先輩の目が、私を捉えた。




