第35話
「……来た。来た」
独特の声が聞こえて、一瞬で緊張が走る。空間全体がぐわんと揺れる。森が風でも吹いたかのようにざわめいた。
「逃げたのに。逃げたのに」
見渡すと、奥の木の上に少女がいた。太い枝に座って、つまんなさそうにこちらを見ている。
「ここは、あなたの住処?」
そう聞くと、彼女はふんと鼻を鳴らした。
「森じゃない。じゃない」
「じゃあ……」
「全部。全部わたしの」
アンは木から下りて、てくてくとこちらに寄ってきた。あまりにも敵意がない。存在感も、やはりない。先程とは別人のようだった。
「全部分かるよ。全部」
じっと私を見つめる。真っ黒な瞳だ。まるで黒曜石のように深みのある黒。それに見つめられて、私はぐっと動揺を隠した。
「ナツ。ナツは」
不意に名前を呼ばれ、ごくりと唾を飲み込む。
「オリハ。オリハのことが好き」
「え?」
その言葉に、胸がわしづかみにされたように固まってしまう。思わず動揺を隠せなくなる。そんなことはない、と言いたい。オリハ先輩とはただの先輩後輩の関係で、卒業試験のバディだ。だが、反論しようとする口が動かない。
「ナツさん。耳を傾けちゃだめだよ」
オリハ先輩の冷静な声に窘められてはっとする。相手の言葉に飲み込まれそうになっているのを自覚した。それでも、動揺は収まってくれない。
「ひひ。ひひ」
アンは口の両端を上げた。
「マウ。マウと似てる」
「……っ!?」
突然出てきた名前に驚く。
「なんでマウ先生? 私が?」
「おいで。おいで」
アンは軽やかに奥へと駆けていった。その先は泉だ。マップは頭に入っている。追わない理由はない。
オリハ先輩と頷き合うと、泉へ走り抜けた。そして、そこに待っていた光景は。
「……なに、これ」
まるでマヤ・ナイラのものと違う。泉にたたえられているのは清浄な水などではない。溢れんばかりの、瘴気だ。闇の魔力、なんて優しいものではない。闇を濃縮してヘドロ状にしたようなものが、泉に満ちていた。
そして、そのほとりに、少女がぽつんと佇んでいる。その異様な光景に、寒気がした。少女は振り返って、無機質な目で私たちを見た。
「これ。これが、アン」
「これが……?」
この、おぞましい瘴気の塊が、アンだというのか?
「じゃあ、レンリ先生の魔法生物って……」
「……あれは。あれは、レンリが。アンの一部を持ってった」
「アンの、一部……?」
つまり、魔法生物という訳でもないのだろうか。いや、それにしたっておかしい。あの魔法生物はこんな異様な雰囲気をしていなかった。
「レンリが。レンリが、世界を見せてくれるって」
「……レンリ先生が?」
アンは泉のほとりでしゃがみこんだ。黒々とした水面を見つめている。
「アンを。アンを封印する代わりに、友達。友達になってくれた」
「友達……」
「マウ。マウも。反対してたけど。了承してくれた」
アンの声はどこまでも抑揚がなく、無機質だった。殺し合いをして笑い声を上げていたアンとは別人みたいだ。
「アンは。アンは大人しくしてる。レンリが。レンリが。世界を見せてくれてるから」
「……世界を見せるって……」
「……そうか」
オリハ先輩が得心がいったように私を見た。
「レンリ先生と魔法生物は魔力で繋がっていた。魔法生物は森にいたけど、魔力を通じてずっとレンリ先生の目を通して世界を見ていたんだ」
「……え、でも、それって」
「うん。……相当な、魔力使用量だ」
背筋が冷えた。レンリ先生は、そんな約束で、この化け物を抑え込んでいるというのか。
「校長は。校長は言った。オリハとナツを殺せって」
「……それが、私たちにとっては、卒業試験の内容なんだよね」
アンはかくんとうなだれた。
「アンは。アンは、殺したくない。レンリが見せてくれた世界が、好きだ」
「……アン……」
心が揺れる。卒業のためには、アンと殺し合いをしなければいけないという。でも、私にこの少女を殺せるだろうか。レンリ先生が見せてくれた、外の世界を好きだという、この子を。
「……ナツさん。同情しちゃだめだよ」
「……分かってます。けど」
「ナツさんがやらないなら、僕がやるから」
オリハ先輩は、口元に笑みを浮かべた。それを見て、私はなんだか傷付いたような気分で視線をそらした。
アンが立ち上がり、ゆらりと振り返る。その背中から、めきめきと音を立て、邪悪な翼のようなものが生えてくる。
「アンは。アンは。役目を果たさなきゃ」
「……校長の、言う通りにしなきゃいけないの?」
「そう。そうだよ」
空間が揺れる。アンの声が反響する。ぐわん、とアンの周りの魔力が歪んでいく。質量のある瘴気の塊が、アンを包んだ。
「殺し合い。殺し合い。しなきゃ」
アンは、真っ赤な瞳をこちらに向ける。そして、真っ黒な鋭い爪を持った手を掲げたのだった。




