第30話
「……無理だよ、僕には」
「え……」
それは、オリハ先輩の初めて聞く声だった。喉から絞り出すような、掠れた声。聞き漏らしそうになるほど小さな声量で、彼は言った。
「僕には何もない。マヤ・ナイラがどれだけきな臭い場所でも、僕にとっては唯一の居場所なんだ」
「……オリハ先輩」
オリハ先輩は、昔の記憶が曖昧だと言っていた。マヤ・ナイラに来る前の記憶は、どうしてなくなってしまったのだろう。
「僕はマヤ・ナイラに使われるために連れてこられたんだろうね。なんとなく、自分でも分かってる」
オリハ先輩は静かに微笑む。ずっと前から心を決めていると言わんばかりに、落ち着いた語り声だった。
「でも、僕の力は人を壊す。なんでかは分からないけど……確信があるんだ。そんなことになるくらいなら、マヤ・ナイラに管理された方がマシだ」
「……それって、魅了体質のことですか」
「たぶんね」
オリハ先輩は憂いた表情でうつむいた。繊細な彼の美貌は、そんな些細な仕草だけで様になる。
「だから、僕は過去のことなんて知らなくていい。マヤ・ナイラに来た理由も知らなくていい。必要なのは、やるべきことだけ。自分の力を、誰かを傷付けないようにうまく使う技術だけ」
「……っ!」
自分の力で、誰かを傷付けたくない。それは、私自身もずっと思っていたことだ。人より魔力の扱いがうまく、大地との接続が強い。その魔力を持て余して、人を傷付けるくらいなら……マヤ・ナイラで少しでも勉強して、扱う技術を習得したい。それを自分に課していた。
「……私は、オリハ先輩に傷付けられてません」
しっかりと言う。オリハ先輩は、怯えたような表情で私を見上げた。その様子がまるて迷子の子供のようで、私は彼の手をしっかりと握り直した。
「課題で何度も助けられました。魔力不足に陥った時も、魔物と戦った時も。……オリハ先輩が私を庇って死にかけた時は、……もう二度とこんな思いしたくないって思いました」
「……ナツさん」
「魅了したいならしてもいいですよ。したらいいじゃないですか。本気で私を魅了したら、こんなこと言わせられないでしょう」
「……ナツさん、僕は」
「言ったはずです。私、オリハ先輩にも負けたくないんです」
オリハ先輩は口をつぐんで、私を見上げた。しばらくお互いを見合っていたが、やがてオリハ先輩はふっと目元を和らげた。
「……卒業試験、受けるんだよね」
「……はい」
「マヤ・ナイラに本気で抗うっていうなら、まずはそこからだよ。校長に会うためには、クラウンの称号が前提として必要だ」
「……オリハ先輩」
一瞬目を輝かせた私の手を、オリハ先輩は空いている方の手でつかんだ。そして、そのまま引き寄せてくる。油断していた私はバランスを崩し、そのままオリハ先輩に抱き締められていた。
「……っ!?」
顔が暑くなる。オリハ先輩の体温と、微かな甘い香りが直に伝わってきた。
「ナツさんは魅了されないでいてくれる?」
「……されません」
「これでも?」
「……っ」
すっと優しく髪を撫でられて、私は身を固くした。ぞくっと体が震える。怖いような、甘いような誘惑に、流されてしまいたくなる。
「……いい子だね」
オリハ先輩は耳元で囁いた。髪の束をすくうように撫でたオリハ先輩は、親指で私の耳に触れた。
「や、めてください」
「本当に?」
「本当、です」
「ふうん」
彼の親指が耳を伝って、首筋をなぞる。その手つきが妙に艶めかしくて、私はびくりと震え、かたく目を閉じた。
オリハ先輩はぽん、と私の頭に手を置く。私は呪縛が解けたかのようにはっとした。顔を上げると、オリハ先輩がいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「……オリハ先輩……」
私はむかついて、オリハ先輩を押し退け立ち上がった。乱れた呼吸を整える。負けたくない、などと大口を叩いたそばから、これだ。
「ナツさん」
「なんですか」
苛立ちを含んだ目で振り返ると、オリハ先輩は柔らかく微笑んでいた。今までで一番、年相応の自然な笑みだと思った。
「楽しみにしてる。卒業試験で暴れるの」
「……別に、暴れる訳じゃ」
言いかけて、思い直す。にこにこしている彼の目をまっすぐ見て言った。
「よろしくお願いします。オリハ先輩」
「うん。よろしくね、ナツさん」
オリハ先輩が右手を差し出してくる。先程のことを思い出して一瞬眉を寄せたが、私はしっかりとその手を握った。
祝祭が終われば、長期休暇も終わる。そうすれば、卒業試験が始まる。何を課されるのか、私たちは何も伝えられていない。でも、何が来たとしてもこなすだけだ。何をするにしても、今の私たちには、それしか選択肢がないのだから。
第二章完結です。
ここまで読んでくれた方にまずお礼を申し上げます。
ナツとオリハの物語は、ここからさらに歩んでいきます。
どうか第三章もお付き合いいただけると幸いです。




