第29話
その夜、私はマヤ・ナイラを訪れていた。夜間、校舎は施錠されている。でも、私の目的は別にあった。
敷地内、校門の外に立ち並んでいる学生寮。その一角に、足を運んだ。今まで立ち寄ることのなかった場所だ。私は迷わないよう、慎重に辺りを確認する。
オリハ先輩にチャットを送ったのは1時間前のことだ。話がしたいと伝えると、学生寮の部屋番号を教えてくれた。危機感がなかったわけではない。それでも、彼と会わなければいけない、と思ったのだ。
「……杜撰だなあ」
すんなり学生寮に忍び込めてしまい、思わず呆れを漏らす。警備も監視もないらしい。オリハ先輩が住んでいる男子寮の棟に入るまで、私は誰とも会うことがなかった。仮にも上流階級の子供たちが住む寮が、こんな管理でいいのだろうか。でも、今はそれがありがたかった。
チャットを見返し、オリハ先輩の部屋の前に辿り着く。ごくりと喉を鳴らした。他の部屋と見分けがつかない、ただの扉。でもその向こうに、私のバディとなる人が住んでいる。
チャットを送ると、すぐに扉が開いた。オリハ先輩が部屋着姿で現れて、私は思わず息をのんだ。
「……入って」
オリハ先輩は、そんな私を気にもせず無表情に言った。慌てて中に入ると、オリハ先輩は振り返って身を寄せてくる。
「……っ」
身を固めて様子を窺うが、オリハ先輩は私のすぐ横に手を伸ばし、部屋の鍵をかけた。そのまま離れたオリハ先輩の背中に、少なからず安堵を感じた。
最低限の設備しかない狭いワンルームの部屋は、新品のように何も置かれていなかった。まるでホテルの一室のようだ。オリハ先輩の個性のようなものを、この部屋からは何一つ感じられない。
「話って、何?」
振り返って問うオリハ先輩の声は、いつもより冷ややかだ。それだけで震え上がってしまうのを感じながら、言わずにはいられない。
「オリハ先輩、言いましたよね。負けたくないって」
オリハ先輩は胡乱げに首を傾げる。
「……私、その言葉を信じます。私も、負けたくないから」
足が震える。オリハ先輩の冷たい瞳が、刺すように痛い。体が凍えてしまいそうだ。それでも、私は声を上げる。
「卒業試験、受けます。オリハ先輩のバディとして」
「……そう」
オリハ先輩は無感情に応える。
「話はそれだけ?」
「……オリハ先輩、は」
言葉に詰まる。何かを言い募ろうとする。でも、うまく声にならない。もどかしく口ごもる私に、オリハ先輩は手を伸ばしてきた。
私の腕を引き、至近距離で見つめてくる。彼の青灰色が、私の頭をぴしりと凍らせてくる。
オリハ先輩が唇をゆっくりと開く。何かを言おうとする彼の動きに、目が離せない。
オリハ先輩はそんな私を見て、ふうっとため息をついた。気付けば私は解放されていて、オリハ先輩は奥のベッドに腰掛けていた。
「帰った方がいいよ。ここにいるのはよくない」
「オリハ先輩!」
「帰って」
それは、明確な拒絶だった。私は、この先に行くことができない。彼の心に立ち入ることは許されない。彼の部屋にいるのに、明確な線がそこにあった。
「……っ」
唇を噛んで立ち尽くしていると、オリハ先輩は怪しく笑った。
「帰らないなら、こっちにおいでよ。優しく撫でてあげる」
「そういうつもりじゃ……!」
怒りを顕にするが、オリハ先輩の態度は変わらなかった。誘惑に乗るなんて、願い下げだ。魅了体質を持つ彼は、何度もこうやって誰かを誘惑してきたのだろうか。そう思うと煮えくり返る心地がした。でも一番腹が立つのは、その誘惑する対象の一人に私を加える、という彼の行動だった。
「じゃあ、どういうつもり?」
オリハ先輩は、甘い声で低く囁く。見えない線の奥から、誘われている。耳を撫でるようなぞわっとした声に、私は爪が食い込むほどこぶしを握りしめた。
「……嫌なんです」
絞り出した声に、オリハ先輩は笑みを収めた。
「一族に逆らえない自分も、マヤ・ナイラに逆らえない自分も、……何も選べない自分も」
オリハ先輩はまっすぐに私を見る。私は声を詰まらせながらも、彼の目を捉えた。
「オリハ先輩が諦めたとしても、私は諦めたくないです。足掻き続けたいんです」
私はオリハ先輩に近付く。見えない線をくぐり、ベッドに腰掛けるオリハ先輩を見下ろした。寝巻きに包まれた体は線が細く、制服姿の時より壊れやすい印象を受けた。
「……負けませんから。オリハ先輩にも、マヤ・ナイラにも」
こぶしを握る。まっすぐ彼の目を見る。底知れない恐怖が身を震わせる。それでも、体内の魔力は熱く滾っていた。
オリハ先輩は、ふっと力を抜いて視線を逸らした。
「……君は、眩しすぎるよ」
「え?」
オリハ先輩は疲れたように微笑んだ。
「僕は君のようにはなれない。でも、君を素敵だと思う」
「……オリハ先輩」
「ごめんね」
オリハ先輩はぽそりと謝った。その姿が小さな子供のようで、私は思わず彼の手を取る。驚いたオリハ先輩の目を見て、私は言い募った。
「私たちなら」
私は課題の時のオリハ先輩を思い出していた。自分のことも、マヤ・ナイラのことも、何も知らなかった頃の私を、オリハ先輩は支えてくれたのだ。
「私たちなら、できます。信じてください」
オリハ先輩がくれた言葉をなぞる。オリハ先輩の手を、両手でぎゅっと握りしめる。
「……怖いんです、私。こんなことを言ってても、まだ、死ぬのが怖い。堅実な道から外れるのも……怖い」
自分の手が震えるのを感じながら、それでも強く握る。
「でもこのままマヤ・ナイラの一部になるのはもっと嫌です」
ぴくり、とオリハ先輩の眉が跳ねた。
「……一緒に、戦ってくれませんか」
オリハ先輩は、静かに私を見返していた。もう怪しい雰囲気も、冷たい様子もない。ただのオリハ先輩が、私を臆病な目線で見つめていた。




