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『職員室』という部屋は、『学校』という空間において一際異質な存在だ。
基本的に生徒のために作られている『学校』という施設の中で、職員室という部屋だけは最初から生徒のためではなく教員のためにある。
生徒も教員もその他の関係者も帰宅し、全てが闇に沈み込む時間帯になっても、その雰囲気だけは変わらない。
「……」
きっちり締め切られたドアの前に立ち『職員室』というプレートを眺めた煌司は、隣に並んだ廉史に視線を投げた。
ニヤリと笑う相棒に向かって軽く顎をシャクれば、廉史はさらに笑みを深めて制服のスラックスに突っ込んでいた手を引き抜く。薄手の手袋がはめられた指先に引っ掛けられていたのは、本来ならば厳重に管理されているはずであるこの扉の鍵だった。
──どんなにしっかりしたセキュリティを導入してても、その要の管理が杜撰じゃ意味ねぇんだよなぁ。
この鍵は先程、守衛室から拝借してきたものだ。
守衛室の扉の鍵は、八桁の電子ロックキーによって管理されている。さらに守衛室の中に設置された各特殊教室の鍵が保管されているキーボックスは、守衛室の扉とは異なる八桁の電子ロックキーが設定されていた。
『学校設備』という面で見れば、それなりに堅固な守りだと言えなくもない。
だが残念なことに、今回は相手が悪かった。
──その程度の防壁が廉史に通じるわけがねぇんだよなぁ、これが。
守衛室の鍵も、キーボックスの鍵も、この数日のうちに廉史の目の前で開錠されている。その瞬間を得るために、わざわざ他の生徒の代理を買って出てまで廉史が鍵を借りに行ったという事実に、きっと誰も気付いていないだろう。
黒浜廉史の目の前で開かれた鍵など、もはや防壁の意味を成しはしないというのに。
──防犯カメラの配線も、先公どもと守衛のおっさんが帰った時点で焼き切ってある。
鍵は廉史の手中にあり、防犯カメラは機能不全。もはやこの扉に残された防壁は、セキュリティ会社の防犯セキュリティだけだ。
そしてこの外部警備システムというのが、自分達にとっては一番の難敵ではあるのだが。
煌司はもう一度廉史に視線を投げる。
口に出さなくてもそれだけで煌司の意図を正確に汲み取った廉史は、スッと己の左腕を煌司に向かって差し出した。手首に巻かれたアナログ式の時計は、暗闇の中でも淡く針の姿を浮かばせている。
時刻は作戦決行前に秒針にいたるまでキッチリ合わせてきた。あと十五秒ほどで日付が変わる。
──俺達に与えられた時間は、日付が変わった瞬間から一分間。
煌司が時計の秒針に視線を落とす中、廉史は鍵穴に視線を落として鍵先の位置を調整していた。
非常灯しか光源がない廊下は薄闇に沈んでいる。だが闇に慣れた二人の目には、その淡い光だけで十分視界が開けていた。
廉史が鍵をセットしたことを確認した煌司は、さらに視線をドア横の壁に投げる。視線の先では、セキュリティシステ厶が正常に作動していることを示す赤いランプが不気味に輝いていた。
──三、二、一。
その輝きが、フッと消える。
同時に煌司は軽く手を振って廉史に合図を出した。間髪を容れずに廉史が鍵穴に鍵を差し込むと、微かな音とともに鍵が開く。
素早くドアを開いて中へ侵入しても警報装置は作動しない。事が計画通りに進んでいることを確かめながら、煌司は音を立てない足さばきで職員室の奥まで駆ける。
目指すは教頭の席の後ろに置かれた耐火金庫だ。目的の物がその中に納められていることは、きちんと今日の放課後に確認が取れている。
腰高の大きな耐火金庫の前で足を止めた煌司は、流れるように片膝をついてその場にしゃがみ込んだ。ダイヤルキーの傍らに片手を差し伸べて顔を上げれば、タイミングを計ったかのように廉史も滑り込んでくる。
──やれるな? レン。
視線が絡んだ先で廉史が頷いたことを確認した煌司は、グッと握り込んだ右手をフワリと広げた。
その瞬間、何も載せられていない煌司の手のひらの上にポッと炎が灯る。煌司の錬力……異能力によって作られた灯火だ。
光源としては頼りないが、手元を照らす程度ならばこれで十分だろう。それを証明するかのように、ダイヤルキーの数字が闇の中にくっきりと浮かび上がる。
そのダイヤルに向かって、薄い手袋に包まれた廉史の手が迷いなく伸びた。カカカカッと勢いよく回されるダイヤルの動きは止まらない。まるでじゃれついて遊んでいるかのような勢いで、廉史はダイヤルを右へ左へとリズミカルに回す。
──ただの人間がやってたら『ふざけてんのか』って言うしかねぇ行動。……でも。
黒浜廉史の手にかかれば、その『オフザケ』も『ガチ』に変わる。
その証拠に、廉史が手を止めた瞬間、廉史の手元からはピンッと微かな金属音が響いた。その音にニヤリと笑みを浮かべた廉史は、躊躇うことなく耐火金庫の取っ手を掴む。
廉史の指が優しく扉を引くと、耐火金庫はキィッと微かな音を響かせながらあっさりと重たい扉を開いた。次いで素早く中に手を突っ込んだ廉史は、大きな茶封筒を取り出す。
無事に目的の物を手にした廉史は、不敵な笑みとともに煌司を見遣ると得意げに茶封筒を振ってみせた。
──さすが。
相棒に笑みで答えた煌司は、さらに指の動きで『さっさと開けろ』と廉史に示す。同じく『了解』と指の動きだけで答えた廉史は、茶封筒の口を閉じていた紐をシュルシュルと手早く解き始めた。
──このタイミングなら、たとえ中身を見られたと先公どもが知っても、問題の差し替えは間に合わねぇ。
この中に入っているのは、明日から行われる定期考査の問題と模範解答だ。全学年、全教科の問題用紙がここに入っていることは、確かな筋から確認済みである。
テスト問題というのは、実施する際に与えられる回答時間の何倍もの時間が作成に費やされている。今このタイミングから作り直すことは不可能に近い。
だから仮に誰かが試験開始直前に試験問題の内容を知ってしまったと学校側が把握できたとしても、学校側はそれを『なかったこと』として試験を決行するしか選択の余地がない。
そもそもこの暗がりで問題と解答を一瞬盗み見ることができたとしても、普通の人間ならばそれを丸ごと暗記することなどできはしない。記憶力に自信がある人間でも、与えられた時間があまりにも短すぎる。
──そう、見た人間が『黒浜廉史』以外なら、な。
ここまで来れば自分達は勝利を収めたも同然だ。後は廉史が問題と解答を全てパラ見した後、茶封筒と金庫を元に戻し、制限時間内にこの場を離れるだけ。
残り時間は三十秒ちょっと。自分達ならば余裕でこなせる。
「な……っ!」
口笛でも吹きたい気分だった。
だがその余裕は隣から小さく響いた声に砕かれる。
「シラ!」
何事かと相棒を見遣れば、血相を変えた廉史が手にした紙を煌司へ突きつけてきた。
反射的にその紙に視線を走らせた煌司も、何が起きたのか瞬時に理解して血相を失う。
本来ならばミッシリと問題文か解答が印字されているべきはずである紙には、汚い手書き文字で煌司でも暗記できる短い言葉が書き殴られていた。
『残念! ハズレ!!』
「っ!?」
──ハメられた!
理解した瞬間、体は次に取るべき行動に移っている。
「レン!」
『逃げんぞ!』と続くはずだった声は、気配もなくいきなり灯った光に遮られた。
闇に慣れた視界には明るすぎる光に思わず腕で顔を庇った瞬間、入ってきた扉の方から耳がもげそうな大音声が轟く。
「クゥオラァッ!! やっぱり来やがったな! こンのクソガキどもがぁっ!!」
「ヤッベ、村井じゃんっ!!」
「レンッ!!」
あまりの爆音に両耳を押さえたまま後ろへひっくり返った相棒を引っ張って立たせながら、煌司は声の方へ右腕を伸ばす。そのままパチンッと指を鳴らすと、自分達と声の主を遮る形で空中に火花が散った。
「うぉっ!?」
突如炸裂した火球に声の主が怯む。その隙を逃さず職員室の奥角に向かって駆けた煌司は、背中に斜めに負うように掛けていた竹刀袋を手元に引き寄せた。
「おらよっ!!」
袋に入ったままの武器を両手で構えた煌司は、一切躊躇うことなくその切っ先を窓に向かって叩き付ける。
防犯対策として職員室の窓にはワイヤー入りのガラスが使われているが、唯一奥角の窓は災害に遭った時に割って逃げ出せるようにワイヤーなしのガラスが入れられている。
その窓を狙って竹刀袋の先を叩き付けると、窓ガラスは呆気ないくらい簡単に粉々になった。
「なっ!? オイコラ、クソガキども!!」
「飛べ、レンッ!!」
「はいよっ!」
閃光で目がやられていても、響いた音で煌司が何をしでかしたのか察したのだろう。二人を罠に嵌めた主犯が背後で声を荒げる。
だが廉史はそれに構うことなく、煌司が割った窓から外へ飛び出した。次いで煌司も同じ窓から外へ飛び出す。
職員室があるのは二階だ。二人の身体能力ならば、この程度の高さから飛び降りたところでどうってことはない。
──解答の盗み出しには失敗したが、そのまま大人しく捕まる俺らじゃねぇのよ!
錬力犯罪の基本は現行犯逮捕。目撃情報だけでは犯人は捕まえられない。同じ原理で現行犯逮捕ができなければ、二人が公に罰されることだってないはずだ。
この場から逃げ出せれば、煌司と廉史の勝ちであることに変わりはない。
二人は現場に目撃情報以外の証拠を残してこなかった。明日小言くらいは喰らうだろうが、それ以上に教員は自分達を絞り上げることはできない。
──ま、仕方がねぇからテスト勉強はしますかね。
そんなことを一瞬で考えながら、煌司は軽やかに地面に着地する。衝撃を上手く逃しながら竹刀袋を背中に戻すと、一足早く着地していた廉史が腕の動きで退路を指示してきた。
煌司は疑うまでもなく、廉史の動きに従って体を反転……
「っ!?」
……させようとしたのだが、体が言うことを聞かなかった。
何かが絡みつく感触に視線を下げれば、いつの間にか網のような物が自分達の足元にとぐろを巻いている。
「シラッ! ぬぉっ!?」
反射的に竹刀袋に手が伸びたが、まるで生きているかのように蠢いた網に全身を縛り上げられる方が早い。そんな煌司の異変に気付いた廉史が煌司を振り返るが、廉史も廉史であっという間に網の中に捕獲されていた。
「おーおー、逃げ出せると思ってたのかよ『仁王』のガキンチョども」
思わず歯を食い縛った瞬間、婀娜っぽい声とともにサーチライトの強烈な光が向けられた。
白く視界が焼かれる中、無理やり声の方を見やれば、白い闇の中から白衣を翻した麗しい女医が姿を現す。
「はぁー、あっめぇの! 大人ナメんなぁ? このクソガキが」
「んっげ……。花ちゃん先生までいやがったのかよ……」
『白衣の女傑』の登場に廉史はさっさと白旗を上げたようだった。隣の網からは諦めの声が聞こえてくる。
「ハッ! そのクソガキ二人に対して、先公総出でこんな御大層な罠まで仕掛けてお出迎えかよ?」
対して煌司は、同じ諦めでも廉史のようにしおらしくはしてやらなかった。
職員室の窓から顔を出す生徒指導や、闇の中から姿を現した養護教諭以外にも、周囲に潜んだ教員達を挑発するかのように声を張り上げる。
「錬力使い育成機関の最高峰、国立五華学園の先公どもが聞いて呆れるぜ!」
「オメェのその活きの良さ、アタシは嫌いじゃないぜ」
煌司の目の前まで進み出た女医は、唇に火がついたタバコをくわえたままニヤリと笑った。
服装を整え、淑やかに微笑めば聖母のように見えるだろう清廉な容姿をした女性教諭だった。だが実際のところ、胸元を大きくはだけ、サーチライトの光を背に白衣を大きく翻す姿は『養護教諭』や『女医』という言葉よりも『ヤクザの女組長』という言葉の方がよく似合う。
その証拠に、煌司に手を伸ばした女医は、煌司の髪を鷲掴むと無理やり顔を引っ張り上げた。
「その方がイジメ甲斐があるってもんだよなぁ? 白浜煌司」
次いで頭部に走った衝撃に、煌司の意識はクラリと揺れる。
「シラッ!?」
「さぁて、言葉で理解できねぇヤツは、きっちり体に教え込んでやんなきゃなぁ?」
隣から響いた悲鳴と消えゆく意識が無理やり拾った声で、煌司は己の身に何が起きたのかを理解した。
──クソババア、テッメェ……火ィついたタバコくわえたままヘッドバットかましやがったな……っ!?
逃げなければ、という考えを押しのけて、目の前の理不尽への怒りが湧き上がる。
だがどちらも表に出すことはできないまま、煌司の意識は闇に呑まれていった。