姉
「苦しくなったらこのボタンを押してくださいね」
ナースコールの端末を握らせて看護師が出てゆく。
緩和ケア病棟は私のような末期がん患者を入れておくところだ。
ただ死を待つだけの場所。
白いカーテンで仕切られた空間には死臭がみちている。
点滴の中身は抗がん剤などではなくモルヒネだ。
死ぬのは恐い。
だが日に日に衰えゆくこの身はすでに生への執着を失っていた。
眠い。
鎮痛剤を打った後はいつもこうだ。
目を閉じてまどろみかけた――そのとき。
〈コウスケ〉
不意に名を呼ばれた。
いつの間にか目のまえに少女の顔があった。
サラサラとした黒髪の先端が鼻さきへふれている。
……どこの子だろう。
勝気そうなひとみ。
そのひとみがつりあがる。
〈いつまで寝てるつもり〉
そこでようやく気づいた。
十歳のとき死んだ姉だった。
〈さあ行くよ〉
ちいさな手がさしのべられる。
枯れ枝のような私の指がその手をつかんだ。
途端これまでとは比較にならない激痛が襲ってきた。
まるで心臓に棒を突っ込まれたようだ。
呻吟し、苦痛に耐えかねてナースコールのボタンを押す。
「どうしましたっ」
看護師が駆け込んでくる。
しかしそのときにはすでに私の精神は肉体から切り離されていた。
看護師が慌てふためく様子を天井からぼんやり見おろしている。
〈ほら早く〉
姉がまた手を引いた。
私はついに観念してうなずいた。
とつぜん糸の切れた凧のように体がぐんぐんと急上昇をはじめた。
見おろす視界のなかで八十年暮らし続けた街が遠ざかってゆく。
やがて地球の輪郭が米粒ほどになったとき、下界のどこかで医者が「ステルベン」と言うのが微かに耳にとどいた。