月の音
漆黒の夜空をそこだけくり抜いたように満月が光っていた。
周囲の星々のまたたきを圧倒して白く輝いている。
ベランダの手すりにもたれ、わたしは飽きることなくその月を見あげていた。
今夜もまた月はあの音を発しているだろうか。
あふれ出るシャンパンの泡のように、家々のトタン屋根を月光が濡れ色に染めている。
そっと目をとじた。
そして幼いころ祖母から聞かされた話を思い出していた。
彼女はよくわたしをひざに乗せて言ったものだ。
耳をすましてごらん。
ほら、月のほうからなにか聞こえてくるだろう。
はじめてその音を耳にしたときの感動は今でも忘れない。
金属がこすれ合うような、古びた滑車が回るときのような、硬く、冷たいノイズを――。
ああ、聞こえるよ。お婆ちゃん、わたしにも聞こえる。
祖母は満足そうに笑った。
月の音は女の子だけにしか聞こえないという。
祖母がそう教えてくれた。
大人となった今ではその意味がよくわかる。
ママ、なにしてるの。
気がつくと、五才になる娘が不思議そうにわたしを見ていた。
この子にも聞こえるだろうか。
ふと思いつき、わたしは娘を抱きあげ空の一点を指さした。
ほら、愛美にはあのお月さまの音が聞こえるかな。
まだ汚れを知らないひとみに満月が小さく映り込む。
しばらくして娘は、無言のままコクリとうなずいた。
ああ、やはりこの子にも聞こえるんだ。
胸のなかに熱いものがこみあげた。
照る月の 飽かず見るとも たまゆらの 音にぞ聞こゆ 潮のみちひき
月の発する音は、初経をむかえると同時に聞こえなくなる。
今のわたしにはもう、追想のなかへ耳をかたむけ懐かしく思うことしかできない。




