阿修羅
その見慣れない飲み屋は、間口わずか二間ばかり、奥へ向かってカウンターの伸びるうなぎの寝床というやつで、看板には「阿修羅」と大書してあった。暖簾をくぐるとまだ客はおらず、焼き台の前では作務衣を着た爺さんがひとり、団扇で炭を熾していた。
「らっしゃい」
カウンター越しに酒をたのみ、そのついでに訊ねてみた。
「阿修羅なんて変わった名前だけど、なにか由来でもあるのかい?」
爺さんは、へへへ、と笑ってごまかした。
そのうちに団体客がドヤドヤなだれ込んできて、二十席ほどあるカウンターはすべて満席となった。
「シソ巻き」
「豚串四人前」
「うずらとネギ」
「ジョッキ五つ」
わいわい騒ぎながら、みな勝手気ままに注文する。こうなってくると爺さんひとりでは大変だ。
「つくね」
「手羽焼いて」
「ほっけの開き、まだですか」
「お酒ちょうだい」
ねじり鉢巻きで右往左往していた爺さんだが、ついに進退きわまったのか、おもむろに目を閉じ、合掌した。
オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ
すると突然、作務衣から新しい腕がニョキニョキと伸びてきた。同時に、顔の横から別の顔があらわれる。
「わっ」
私は思わずイスから転げ落ちそうになったが、鬼神のごとき姿となった爺さんは文字通り三面六臂の活躍をはじめた。三つの顔で注文を聞き分け、六本の腕で焼鳥をひっくり返す。他の客はそんな光景を見慣れているのか、みなニヤニヤしている。私は惚けたように口をぽかんと開けていたが、ふと爺さんは六つある視線をこちらへ向け、照れ笑いした。
「このご時勢、阿修羅にでもならなきゃ店はやってけないよ」
経営者の底力を見た気がした。