ムカデの夫
古より下野の國には人外境の山林やら霧り塞がれた沼地が多くあり、そういう場所には得てして魔ものが棲みついているものだった。
後鳥羽院の治天、黒髪山のふもとにチャリという若者が住んでいた。ある日のこと、彼が狩りをしようと深山へ分け入ったところ、ちょうど衣川の源流にさしかかったあたりで河べりに立つ妙齢の女と出くわした。絹綾をまとい衣被で顔を隠して、なにやら山人の娘とも思えぬ。さては魔ものかと自慢の強弓に矢をつがえて、ひょうと放てば、女はそれを素手でつかみ取った。怖くなって今度は熊を射殺すための毒矢を次々と放ったところ、そのうちの一筋が腹に刺さった。
ぐえっ
女は一声呻いてその場に倒れ伏した。恐る恐る覗いてみると、なんとそれは巨大なムカデだった。
「放っておけば人間に害をおよぼしたに違いない」
村へ帰ってさっそく皆にその話をしたところ、長老が怖い顔でこう言った。
「もちろん、つがいで退治したろうな」
「いえ、一匹だけです」
「ばかな、そのムカデは妻のほうで、まだ夫がどこかにいるはずだ」
ムカデはたいへん夫婦仲の良い生きものである。退治るときはつがいで殺しておかないと、後で生き残ったほうが必ず復讐にくる。ただちに村の男どもが集められ山狩りをしたが、ムカデの夫はついに見つからなかった。
それから数日経ち。
狩猟の帰りにチャリは身のたけ六尺はあろうかという巨漢の山伏とすれ違った。
「はて、見かけぬ顔だが……」
妙に思いながらも我が家の筵戸をはねて、彼はあっと叫んだ。自分の妻が全裸でひっくり返っていたのだ。腹を食い破られて、それはひどい有りさまだった。