肩を叩かれる
春の人事異動で勤務先が変わり、急遽引っ越すことになった。独り身の気楽なアパート暮らしだが新生活を始めるには半端な時期だったらしく、ろくな賃貸物件が残っていない。それでも根気よく不動産屋をまわるうち、ある掘り出しものを見つけた。建物は新しく駅からもわりと近い。ただ家賃が妙に安いのだけが少し気になった。
しかし引っ越してすぐにその理由が分かった。
夜中にトイレへ入ると後から肩を叩かれるのだ。驚いて振り返るがもちろんだれもいない。どうやら、そこは「出る」部屋らしかった。不動産屋を問いつめてみようか迷ったが、他にこれといっておかしな現象が起こるわけではない。ふたたび部屋を探し歩くのはうんざりなので、しばらくは我慢して暮らすことにした。
慣れとは恐ろしいもので、半年もすると夜中に肩を叩かれてもさほど気にならなくなった。
そんなある日のこと。酒を飲んで深夜に帰宅し、そのままトイレへ駆け込んだ。気持ち良く用を足していると、不意にまたあの肩を叩かれる予感がした。酔って気が大きくなっていたせいだろう、私はタイミングを計ってその手をつかんでみた。
「やった」
喜んだのもつかの間、すぐに私は後悔した。その手は氷のように冷たく、しかも指が異様に長かったのだ。もしかすると、かなり体の大きなヤツなのかもしれない。
怖くて振り向けずにいると、背後の、少し高い位置から顔の近づいてくる気配があった。首筋にゾッとする冷たい息が吹きかかる。そして耳もとで、やや舌っ足らずな少女の声が嬉しそうに言った。
「ふふ、捉まっちゃった。じゃあ今度はわたしがオニになる番ね……」