カウンターのすみ……
アーケード横町の西のはずれにある一杯飲み屋。カウンター席があるだけのこじんまりとした店だ。寂れるいっぽうの歓楽街にありながら、この店の排煙窓からはいつも真っ白い湯気が吐き出されていた。
切り盛りするのはもう四十路に手がとどきそうなママ。なんでも心臓発作で倒れた元のオーナーから居抜きで買い取ったらしく、家庭的な料理の味とママの愛想の良さで店はそこそこ繁盛していた。
ところがこの店にはひとつだけおかしな所があった。
どんなに混んでいてもカウンターの一番すみが、なぜか空席になっているのだ。しかも無人のテーブルには決まって燗をつけた銚子と突き出しが置かれている。ママはときどきその誰もいない席のほうを見やり、艶っぽい視線で笑いかけていた……。
あるとき酔った客がママにしつこくからみ始めた。あれを買ってやるだのどこへ連れていってやるだのと口説き、あげくにテーブルへ身を乗り出してママの手を握ろうとした。
突然、カウンターのすみに置かれていたコップが音を立ててひっくり返った。たちまち酒がこぼれ、テーブルの上を濡らしてゆく。
するとママはカウンターのすみに向かって、
「あら大人げない、酔ったお客さんの戯れ言じゃないの」
と言って婉然と微笑んだ。酔客はぎょっとなり、そそくさと勘定を払って逃げ出した。
数年後、店は再びオーナーを変えた。あのママは……やはり心臓発作で亡くなったらしい。今は別の女性がワインバーをやっている。噂ではカウンターのすみはいつも空席で、そこにはまるで常連のお客でもいるようにワインのグラスがひとつ、ぽつんと置かれているという……。