寛永の悪魔憑き
二代将軍のころ長崎奉行をつとめた竹中釆女正は、かの軍師竹中半兵衛の遠縁にあたる人で、質実剛健あっぱれ武士の鑑と世間からもてはやされていた。
ところがある時期より顔の色つやが失せ、頬がこけ、射るようだった眼光もどろりと濁りはじめた。心配して家臣が訊ねると、
「毎夜、夢枕に牛頭の鬼が立って我をさいなむのじゃ」
と打ち明けた。
一大事ということで僧侶を呼びよせ色々祈祷してみたが、鬼はいっこうに去らない。この話を聞いたある商家が、
「それは、べーるぜーぶるという西洋の鬼だから伴天連でなければ祓えない」
と言った。
折しも世は鎖国禁教の時代、ことに長崎奉行はキリシタン弾圧の元締めであるから、とてもじゃないが伴天連の世話になどなれない。そうこうするうちに釆女正の様子が尋常ではなくなり、夜中に目を剥いて汚物を吐き散らしたり、異国の言葉で喚き立てるようになった。
その頃を境に、彼のキリシタンに対する仕置きは苛烈さを増していった。糞尿の入った穴の上に何日も逆さ吊りにしたり、また煮えたぎった湯を少しずつ頭からかけたりした。悪事に手を染めるようにもなった。職権を利用して密貿易に加担したり、公金を横領したり、町人の娘を手篭めにしたりと悪行の限りを尽くした。
やがてこの事は御上の知るところとなり、寛永十年ついに切腹を言い渡された。
腹を切るとき彼は介錯を断り、腹腔から引きずり出した腸を検視の役人へ向かって投げつけ笑った。そして自身の手で切り落とした首が宙を舞い、
「いずれ雲仙にて……」
と言って飛び去ったという。
島原の乱がおこったのは、その三年後のことである。