そば米汁
昔々、まだ都では藤氏が栄華の夢を極めていた頃……。
阿波の國は祖谷川のほとりに、三弥というたいへんな分限者がおりました。祖谷川は、四国三郎へそそぐ水量ゆたかな川でしたが、かずら橋など架かるずっと以前のことでしたので、ひとたび甚雨に見舞われると旅人はそれは難渋したそうです。足止めをくらった旅人は困り果て、三弥の家に一夜の宿を乞いました。
ところがこの三弥という男、見かけは善人ですが根性は天逆毎のごとくねじ曲がっておりました。彼は旅人が来ると決まって「そば米汁をいっぱい馳走しよう」と言いました。旅人が喜んで膳につくと、最初は椀に一杯、それを食うともう一杯、さらに一杯と食べ終える後から椀に盛り、たまりかねた旅人が「もう結構」と言うと「お前がいっぱい食うと申したから私は大鍋いっぱいに煮たのだ」と言って、むりやり口をこじ開け汁を流し込んだそうです。
あるとき、この三弥のところへ若い沙門がやって来て喜捨を乞いました。三弥は例のごとくその僧を家に上げ「そば米汁をいっぱい馳走しよう」と言います。僧は「ありがたし」と喜んで、出された椀をぺろりと平らげ、次の椀もぺろり、その次の椀もぺろりと次々平らげてゆきました。気がつくと大鍋は空っぽです。怒った三弥は村じゅうの蕎麦を買い集め、幾つもの大鍋でそれを煮ると休む間も与えず僧に供しました。ところが僧は出される先からたちまち食べ尽くし、ついにはすべての大鍋を空にして三弥を驚倒させたそうです。
この僧こそは名を如空といい、後の弘法大師でありました。そして三弥の家は、間もなく没落してしまったそうです。