黒の老爺
医者から癌の告知をうけた。
余命三ヶ月だそうだ。
すぐに入院しなさいと言われたが、どうせ死ぬのなら動けるあいだは生まれ育った家で暮らしたいと主張して、しばらくは自宅から通院させてもらうことになった。
その頃からだろうか、視界のすみっこに妙な人影が映るようになったのは。やせこけて背の低い老爺だ。黒っぽい絣のきものを着て、なぜだか終始にこにこと嬉しそうにしている。ははあ、こいつが俗に言う死神というやつだな。ちょっと嫌な気分になったが、それでも一度死を覚悟してしまったせいか不思議と恐怖は覚えなかった。
はじめのうち視野の端をすっと横切る程度だったのが、やがて老爺は堂々と私の前へも姿を現すようになった。もちろん話かけても返事はない。ただなにが嬉しいのか、いつもにこにこしながらこっちを見ている。ときおり鬱陶しくもなるが、別段なにか悪さするわけでもないので放っておいた。
やがて容態がどんどん悪くなり、こりゃいよいよかなと覚悟を決めたとき、医者の出す薬が体に合わなかったのか、老爺のいる前でぷうっと粗相してしまった。途端にそれまで好々爺然としていた顔が、まるで酸っぱいものでも飲み込んだような情けないものになった。その表情があまりにも可笑しかったので、それ以降、私はその老爺を見かけるたびに尻を向けて、ぷうっとやらかすようになった。ある日とうとう腹を立てたらしく、老爺はぷいっと部屋を出たきり戻らなかった……。
その日を境に、私の体調はみるみる回復していった。
やがて抗癌剤投与も放射線治療も受けないまま、その年の暮れにはとうとう快癒してしまった。