第2章 拾う
暑い夏が過ぎ涼しくなった秋のとある土曜日の夕方のこと。
崎山優佳と青山雅人は優佳の家のキッチンでタバコをくゆらせながら話をしていた。
もう外を見ると暗くなり始めていた。
雅人が話しかけてくる。
「今日、優佳も“華山”にいくだろ?」
「ええ、行くわ」
「じゃ、あと少ししたら出かけようか?」
「そうね」
“華山”とは二人が良く行く焼き鳥屋さんである。
正式には焼き豚屋さんだった。
豚のホルモンを美味しく食べさせてくれるお店である。
二人はその店で出逢って付き合い始めたのだ。
まだ付き合い始めてから2か月くらいだった。
まだまだ、甘々な関係である。
優佳はタバコをくゆらせていると自宅のキッチンの裏の方から何やら小さな声が聞こえてくるのに気付いた。
その声は「ミー!ミー!」と言っている様であった。
雅人が話しかけてこようとした時、優佳はそれを遮った。
「しっ、雅人静かにして!!」
「どうしたんだよ?」
「声が聞こえるの」
「声?」
雅人も聞き耳を立てる。
すると、また小さな声で「ミー!ミー!」と言う音が聞こえてきた。
「雅人、もしかしたら…」
そう優佳は言うと暗闇の中、玄関を開け放ち外に出ていった。
その「ミー!ミー!」と言うものを探しに行ったのだ。
外は雨が降っていた。
優佳は傘もささずにその声の主を探した。
もう、外は暗くなっていた。
外は灯かりも付いていなかったのでその声を頼りに優佳は探した。
すると、地面に何やら小さな塊がうごめいて鳴いていた。
それは“まっくろくろすけ”の様な感じだった。
その、まっくろくろすけの様な塊は優佳の足元をめがけてヨチヨチと歩いてくるのである。
優佳はそのまっくろくろすけが歩いてくるのを待った。
一生懸命、必死になり鳴きながらその黒い塊はゆっくりと歩いてきた。
そして、ようやく優佳の足元にやってきた。
足元に来てもその黒い塊はミーミーと鳴いているのである。
優佳はその黒い塊を指でつまんで持ち上げた。
自分の手のひらに乗せてみたのだ。
丁度、片手に乗るくらいの大きさだった。
優佳はその生き物のしっぽの長さを確認するかのように触ってみた。
そのしっぽは真っ直ぐに長く伸びていたのだ。
優佳は急いで自宅に戻った。
その黒い塊を明るい所で見たかったのである。
部屋に入ってから確認してみた。
その黒い塊は猫だったのだ。
そう、黒猫の子猫だったのである。
優佳はその子猫の身体を優しくタオルで拭いてあげた。
雨の中、この子猫は一生懸命鳴き続けてきたのだ。
身体も少し冷えていた。
タオルに包んで手の中で温めた。
そうすると、少し落ち着いた様だった。
可愛らしい顔を見てみた。
左目は白く濁っていた。
雅人が話しかけてくる。
「まだ、乳飲み子じゃん?片目もおかしいよな?」
「そうね、片目は見えないかも知れないわ。他にも捨てられてる子がいるみたい。あちこちから声が聞こえるもの」
「ヒデー事する奴がいるんだな…」
「本当にそう感じるわ」
優佳はちょっと怒ったようにそう言った。
確かに、優佳が外に出た時、あちこちから鳴き声が聞こえていたのだ。
子猫はお腹を空かせている様であった。
雅人がこう言ってくる。
「今日の華山行きは中止だな」
「そうね、この子拾っちゃったし、気になるし」
「その子の面倒見てやれよ」
「うん、ありがとう。そうするわ」
「じゃ、俺は帰るから。また来るよ」
そう言うと雅人は玄関を出て自分の車で帰っていった。
***
優佳は子猫のミルクと哺乳瓶を買いに行こうと思っていた。
子猫をちょっと大きめの黒いコスメポーチに入れた。
そして、車を出しヨネヤマまで哺乳瓶とミルクを買いに行ったのだ。
ヨネヤマとはペットショップの様なところである。
そこで、哺乳瓶と猫用ミルクを買ったのだ。
急いで自宅に戻った。
自宅に戻ると子猫は大人しくコスメポーチの中で眠っていた。
優佳は買ってきたミルクをお湯で溶かして作った。
人肌まで冷まさないといけない。
まだ、乳飲み子なのだ。
人肌まで冷ますと子猫の口に哺乳瓶の乳首を当ててみた。
「さぁ、子猫ちゃん、お口を開けて頂戴…」
優佳は祈るようにそう言った。
すると、条件反射の様に乳首に吸い付き飲み始めたのだ。
余程、お腹が空いていたのだろう。
一生懸命にミルクを飲んでいる。
その姿を見ると優佳は少しホッとしたのである。
先住の愛犬マルもその姿を見ていた。
犬のマルはとても不思議なものを見ている様な目つきで見ていた。
ミルクを強か飲み干すと子猫はまた眠ってしまった。
時刻はすでに夜の9時に近かった。
***
優佳は子猫の目の事が気になっていた。
そこで、夜間動物病院に連れて行くことにしたのだ。
すでに時刻は夜の9時を回っている。
こんな夜遅くには行きつけの動物病院はやっていない。
夜間動物病院には何度か行ったことがあった。
場所も分かっている。
子猫が入ったコスメポーチを持ち玄関を出た。
犬のマルはちょっと不安げな顔をしていた。
「マル、いい子にして待っててね」
そう言うと優佳は車に乗り動物病院へと車を走らせた。
夜間動物病院は港北インターチェンジの近くにあった。
そこまで、そんなに時間はかからなかった。
車を駐車場に停める。
夜間動物病院のドアを開けた。
受付で看護師の人と話をする。
「猫ちゃんなんですけど診てもらえますか?」
「ええ、大丈夫ですよ、ただ、夜間動物病院なので最低1万円は掛かりますけど大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
「なら、待合室で待っててください。お呼びしますので」
「はい、分かりました」
優佳はそう言うと待合室の椅子に腰かけた。
待つ事数分。
優佳が呼ばれたので診察室に入っていった。
優佳は先生にこう言った。
「今日、この子を拾ったのですが、片目が見えない様なんですけど。それと体調も気になってしまって連れてきました」
「分かりました。今、診てみますね」
そう獣医さんは話すと子猫を奥の部屋に連れて行った。
暫くしてから獣医さんが子猫を連れて戻ってきた。
「左目はもしかしたら見えなくなるかも知れません。でも、猫ちゃんは片目だけでも十分に生活していけますから心配しないでくださいね」
「はい、わかりました」
「掛かりつけの動物病院はありますか?」
「はい、あります」
「どちらへ通われてますか?」
「奥津動物病院ですが…」
「ああ、奥津先生のところですね。分かりました。今日の検査のデータを奥津先生の所に送っておきますから明日、奥津先生のところに猫ちゃんを連れて行って診察してもらってくださいね」
「はい、わかりました」
「お大事に…」
獣医さんはそう言うと笑ってくれた。
会計を済ませると優佳は子猫を連れて病院を出て自宅に戻った。
***
翌日の日曜日。
奥津動物病院が始まるのは朝の9時からだった。
その時間に合わせて子猫にミルクを与えた。
この日の朝も子猫の食欲は旺盛であった。
沢山ミルクを飲んでは直ぐにコスメポーチの中で眠ってしまうのだった。
優佳は9時ちょっと前に子猫を連れて家を出た。
この日も愛犬マルにこう言った。
「マル、お利口さんにして待っててね」
そう言うとマルは嬉しそうにしっぽを振るのだった。
優佳は奥津動物病院へと車を走らせた。
動物病院が指定している駐車場に車を停める。
そして、動物病院のドアを開けた。
受付で名前を記入して受付を済ませた。
待合室にはすでに数人の患者さんが待っていた。
優佳も子猫が入ったコスメポーチを大事に抱えて椅子に腰かけた。
9時を知らせる時計の音がした。
順番に呼ばれてゆく。
優佳は3番目らしかった。
暫く待つ事数十分。
「崎山さーん」
優佳の名前が呼ばれた。
診察室に入ってゆく。
「先生、お久しぶりです」
「そうだね。久しぶりだね。マルちゃんは元気?」
「はい、元気です」
「で、今日はどうしたの?」
「実は、この子を拾ってしまって…」
優佳はコスメポーチの中に入っている子猫を見せた。
すると、先生はこう言うのだ。
「崎山さんて、やっぱり猫拾っちゃうんだね?」
そう言うと先生は笑うのだった。
優佳はちょっと恥ずかしかったのだ。
尚も先生は続けた。
「犬のマルちゃんを飼うって言った時は本当に驚いたけど、今回は猫ちゃんだから驚かないよ。僕にはやっぱり崎山さんは猫ちゃんのイメージが強いんだよ」
「そうですか?」
「そうだよ」
そう言うと先生はまた笑うのだ。
「さ、診せて」
「はい」
優佳はそう言うと子猫をコスメポーチから出した。
診察台の上に子猫載せた。
先生は聴診器で心音を聞いたり、体重を測ったりしてくれた。
左目には目薬が点された。
診察を終えると先生はこう言うのだ。
「左目は確かに見えなくなるかも知れないけど、猫ちゃんは片目だけでも生活できるから安心してね」
「やっぱりそうなんですね」
「うん、目薬出しておくから点してあげてね」
「はい、分かりました」
「ところで、名前は決まったの?」
「いえ、まだ決まってないんです。里子に出そうかとも考えてるんです」
そうなのだ。
優佳は子猫を里子に出そうと考えていたのだ。
しかし、余りの可愛さに里子に出せるかどうか心配だった。
この里子の話しは後に分かることになるのである。
***
翌日は月曜日で仕事だった。
優佳の仕事は不動産屋で事務の仕事をしていた。
仕事柄、自動車で勤務先まで行くことになっていた。
優佳は子猫を残して仕事に行けないと思っていた。
まだ、乳飲み子なのだ。
決まった時間にミルクを与えないと死んでしまう。
どうしようかと思った。
その時だった。
そうだ、コスメポーチにミルクの哺乳瓶を一緒に入れて会社に連れていけばいい。
そう考えたのである。
仕事に行く前にたっぷり子猫にミルクを与えておけばその後は眠ってしまう。
それに、朝は店長が居るが、優佳が出社すると直ぐに外出してしまう。
もう一人の社員も優佳が出社してしまえば同じく外出してしまうのだ。
優佳の働く不動産屋は正社員が1人と店長と自分と3人だけだった。
本当に小さな不動産屋だったのだ。
後は、店長の奥さんが経理などをやっていた。
ファミリー会社のようである。
ここの事務の仕事も優佳はやりがいを感じていたのだ。
店長は自由に仕事をさせてくれる人だった。
優佳は自分で考えながら仕事ができたのである。
そんな、留守番が殆どな職場だったので、子猫を連れて行っても気づかれなかった。
優佳は子猫が入ったコスメポーチを受付の自分の椅子の下に置いた。
ここに置いておけば誰にも気づかれることはなかった。
優佳は普通に仕事をしていった。
朝、店長に挨拶をすると、直ぐに店長も正社員の人も外出してしまうのだ。
優佳はいつもひとりで事務の仕事をしていたのである。
子猫はお腹が空くと「ミーミー」と鳴いて知らせた。
その声を聞くと優佳は子猫をコスメポーチから出してミルクを与えた。
子猫はお腹がいっぱいになるとまたぐっすりと眠ってしまうのだ。
こんな事が2~3週間ほど続いて行った。
子猫はようやく離乳食が食べられるようになってきた。
優佳はカルカンの子猫用パウチを買って食べさせてみた。
「子猫ちゃん、さ、食べてみて」
「(美味しそう)」
すると、物凄い速さで食べてしまうのだ。
パウチ1袋では足りない様であった。
もう1袋あげてみる。
すると、瞬く間に食べてしまう。
「(僕、お腹いっぱいで眠くなってきた…)」
そう一声鳴くとその後は決まって部屋のフローリングの至る所に寝転がって眠ってしまうのだ。
その光景は実に微笑ましいものだった。
毎回そんな姿を見ては、優佳は笑っていたのである。
この時点で、里子の話しは消えたのだった。