2. Side: マリアンネ
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「それじゃ最後の質問。マリアンネ、君、生きた人間だね?」
ユリアンに問いただされたマリアンネの脳裏に浮かんだ言葉は「絶体絶命」の四文字だった。
好奇心は猫を殺す、というが本当にその通りだ。
(お父さま、アル兄さま、ルイ兄さま、ごめんなさい!)
「マリアンネ?」
心配そうな顔をしたユリアンに再び名を呼ばれるが、彼女の耳には入っていない。
先ほど引っ込んだばかりの涙が、再びぶわっと目からあふれる。
『お願いです、家族は見逃してください。私が勝手にやったことなんです!』
ぽたぽたと膝に落ちた涙がドレスに染みを作る。
途端に、魔封箱ががったんがったんと暴れ出した。
「禁書! 頼むから少し大人しくしていてくれ。話をするだけだ」
ユリアンが魔封箱をひと睨みすると、がががが、と唸るようにしばらく震えていたが、やがて諦めたように静かになった。
「さっきも言ったけれど、責めているわけじゃないよ」
ユリアンが彼女の隣に腰掛ける気配がした。と、ハンカチを握りしめている手に、彼の手が重ねられた。
大人の男性らしい大きな手は、骨張っていて指も長かった。握りしめたままの彼女の手の甲が、親指でそっと撫でられる。
家族以外の殿方に触れられたのは初めてで、びっくりして顔を上げると、灰色の綺麗な瞳と視線が合う。
先ほどの追いかけっこで乱れたのか、理知的な面に前髪が乱れ落ちている。
その色は漆黒、大公家の血筋の特徴だ。
ユリアンの父である宰相は、前大公の実弟にして侯爵。つまり、ユリアンは大公殿下の従兄弟、という雲の上の人だ。
『大変な失礼をいたしました。どうぞお許し下さいませ、ラウエンブルク子爵さま』
人間であることがバレた以上、彼に対して不遜な態度を取ることは許されない。姿勢と言葉遣いを改めて深々と頭を下げると、不満そうなため息が返ってきた。
「ユリアンで良いと言っただろう? 無礼を咎めたりしないから、さっきみたいに接してくれないかな?」
おそるおそる顔を上げると、ほっとしたようにユリアンは微笑んだ。
『良かった、泣き止んでくれて』
その笑顔が、どこか兄たちのそれを思い出させるもので、肩から少し力が抜けた。
「見たところ、君は良家のお嬢さんだろう? どうしてこんな姿でさまよっているの?」
悪いようにはしないから、事情を話してごらん、と穏やかにうながされて、マリアンネは洗いざらい白状する覚悟を決めた。
*******
マリアンネは、ロットナー子爵家の娘である。
生まれた時からそれはそれは体が弱く、死にかけた回数は両手の指で数えても足りないほどだった。
何度目かの危篤を経験したとき、マリアンネは発見した。寝室の天井の辺りをふらふらと漂いながら、自分の体を見下ろしている自分を。そして、魂だけになると、熱も息苦しさも痛みもなくなることを。
それからは、体が辛くなるとさっさと抜け出すことを覚えた。そうやって苦痛をやり過ごして、山を超えた頃に体に戻るのだ。
次第に大胆になったマリアンネは、体を壊していない時にも体から出るようになった。魂だけになった自分の姿が誰にも見えないのを良いことに、体に障るからと父や兄たちから禁じられていた遊びを片端から試していった。
「君がやりたかったのは、どんな遊びだったんだい?」
『ブランコとか、雪遊びとか、水遊びです』
無邪気な笑顔で答えたマリアンネを、ユリアンはどこか痛ましいものを見るような目で見た。
『お父さまも、お兄さまたちも過保護なんです』
小さく唇を尖らせて、マリアンネは付け加える。
マリアンネの母は、彼女が幼い頃に亡くなった。その母にそっくりの末っ子を、父と二人の兄は溺愛した。
いつ死んでもおかしくないひ弱さだったので、それはもうデロデロに甘やかされ、真綿にぐるぐる巻きにされるように大事に大事に育てられた。
たまに庭に出る時には、転ばないように両側にメイドが付き従い、日焼けしないようにと乳母が日傘を差しかける始末だ。もちろん、普通の子供がするような、鬼ごっこやボール遊びは一度もさせてもらえなかった。
でもマリアンネは、二人の兄と同じことがしたかったのだ。
『だから一番の思い出は、町の市場での買い食いです』
「食い逃げの間違いでは?」
すかさずユリアンに突っ込まれた。
『ちゃんとお代は置きました!』
大事なことなので、マリアンネはきっちり訂正した。
その日は、前々から入念に準備をして決行したのだ。兄たちに取材して場所を特定し、事前に偵察をして値段の相場を確認し、眠る前に枕元に小銭を用意しておいて、それを握りしめて行った。
「でもどうやって食べたの? さすがにその体では無理だよね?」
『お部屋に持って帰って、体に戻って食べました』
冷めてしまったけれど、それでも忘れられない味だ。その後、お腹を壊してまた死にかけたが。
それを聞くと、耐えきれないようにユリアンは吹き出した。
「あっははは。ロットナー子爵家の『幻姫』が、こんな面白いお嬢さんとはね!」
『幻姫?』
耳慣れない名前に、マリアンネは首を傾げた。
「社交界での君の通り名だよ。誰も姿を見たことがない、幻のような存在だから」
『そうだったのですね』
ユリアンの説明に納得しかけたマリアンネは、続いた言葉に絶句した。
「美しい美しいとは噂されていたけれど、本物がこれほどとはね」
『え……』
ユリアンの手は、再び彼女の髪をとらえていた。
「マリアンネ、今の君は大層元気そうだけれど、まだ体を壊すことは多いの?」
『いえ。実はすっかり健康体です』
十五を超えた頃から、マリアンネの健康状態はめきめきと改善し、三年経った今では滅多に寝込むことはない。
「それなら、なぜ社交界には出ていないの?……もう将来を誓った相手がいるからかい?」
一瞬、ユリアンが真顔になったように思えたが、マリアンネはすぐに気のせいと片付けた。
『婚約者はいないです。社交界に出ていないのは……、えーとですね、面倒で逃げているからです』
あっけらかんと答えられて、ユリアンは安心したような呆れたような、いわく言い難い表情になった。
「面倒って……、嫁ぎ先が見つからないと、君のお父上は心配しないのかい?」
『お父さまを困らせたくはないんですけど、私はこんな感じで、昼間も眠っていることが多いですし……』
心配性の父はともかく、兄二人は「嫁になんか行かなくていい。兄さまたちとずっと一緒に暮らそう」と、来た縁談を蹴り続けている。
そんな兄二人の妨害を押し退けて婚活するのは、考えただけでも億劫だ。
けれど。
『いつまでもこんなことを続けるわけにもいかないですし、そろそろ遊びはやめて、貴族の娘として生きなきゃ、とは思っているんですけれどね……』
そうつぶやいたマリアンネの顔は、迷子の子供のように心細そうだった。
*******
結局ユリアンは、遠慮するマリアンネを自宅まで送り届けてくれた。
『ユリアン様以外の人には私は見えないんですから、大丈夫ですって! こんなところを誰かに見られたら、ユリアン様が変な人って思われてしまいますよ〜!』
「ダメだよ、マリアンネ。これについては譲らないよ」
物言いは終始穏やかなくせに、ユリアンは頑固だった。
淑女のようにエスコートされて夜更けの宮殿を出ると、彼の馬車でロットナー子爵邸の裏口まで送ってくれた。
自分の部屋に着いたマリアンネは、ベッドに寝かしておいた体に戻ると、震える手でろうそくに火を付けた。
それを持ってバルコニーに駆け出すと、三度、大きく左右に揺らした。
しばらくすると裏門の辺りから、馬車が去ってゆく気配がした。ユリアンの馬車だ。
彼女が無事に部屋に戻ったのを確認したいからと、合図をするように頼まれたのだ。
部屋の中に戻り、燭台をサイドテーブルに置くと、マリアンネはベッドに倒れ込んだ。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
家族や使用人を起こさないように、枕を顔に当てて小さく悲鳴を上げた。
そのまま、枕を抱えてごろごろと転がり回る。
(ユリアン様ったら、ユリアン様ったら……!)
マリアンネの脳裏は、先ほどの別れ際にユリアンが見せた表情で占められていた。
『送って下さって、ありがとうございました、ユリアン様』
馬車から彼の手を借りて降りると、マリアンネはユリアンに丁寧に頭を下げた。
「ここで待っているから、部屋に着いたら合図を送るんだよ。いいね?」
『分かっていますって。それでは失礼しますね』
何となく、ユリアンの態度が兄たちのように過保護になってきた気がする。
そう思いながら、背を向けて通用口を開けようとしたとき、くんっ、と彼女の左手が引き止められた。
『?』
何だろう、と思ってマリアンネが振り返った時、ユリアンはすくい上げた彼女の手に、唇を落とした。
『!!!』
ぼっ、と音を立てそうな勢いで顔が赤くなった。
そんな彼女にひたと視線を当てたまま、ユリアンは微笑んだ。
「マリアンネ、また連絡するよ。今度はお昼に会おう」
最後に一度、きゅっと握ると、ユリアンは名残惜しげに彼女の手を解放してくれた。
(あの後、どうやって部屋に戻ってきたか憶えてない〜!)
久しぶりに熱が出たみたいに、顔が熱い。
優しくて穏やかとばかりに思っていたユリアンなのに、最後に自分に向けてきた視線には、彼女の知らない熱がこもっていた。
(〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!)
それを思い出すだけで、とてもじっとしてはいられなくなった。
羽布団の上でのたうち回りながら、マリアンネは長い夜を過ごすのだった。