1. Side: ユリアン
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若い女性の笑い声を耳に留めて、シュターデ大公国筆頭宰相補佐官、ユリアン・フォン・シュターデは仕事の手を止めた。手元の懐中時計で時刻を確かめると、真夜中をだいぶ過ぎている。不寝番の使用人と衛兵以外は、すでに宿舎に戻っている刻限だ。
声は執務室の外の広間から聞こえてくる。立ち上がったユリアンは扉をそっと薄く開いた。
『*****が、*******で、*****なの』
『うむ、そうか! それは*****だな』
『そうなの? ******は****?』
そこから見えたのは、楽しそうにおしゃべりに興じる若い女性の姿だった。
思いがけず、ユリアンはその姿に見とれてしまった。
セピア色の髪は、この国の人間にはよくある色彩だった。しかしふわふわと波打つ艶のある髪が、彼女が何かを言うたびに踊る様は楽しげだ。瞳の色はここからではわからないが、薔薇色に頬を上気させてころころと笑う横顔が可愛い。
シンプルな若葉色のドレスを着ているが、袖からのぞく腕は、透けそうなくらいに色が白い。
いや、透けている。
「何だ、新入りか?」
戸を開いてユリアンが声をかけると、女性は振り向いた。長いまつ毛に囲まれた瞳の色は、きれいな勿忘草色だった。
『きゃああああああああっ!』
途端に、耳をつん裂くような悲鳴が響いた。
「あ、おい……!」
呼び止める間もなく、女性はあっという間に広間から駆け出した。バタン、と彼女が開け放していった扉が閉まる。
『おやおや宰相補佐官殿、うら若い娘さんを怖がらせちゃいかんですぞ』
「お前に言われたくないよ、干し首。一体何人の女性がお前のせいで失神したと思っている」
ため息をついてユリアンが振り返った先には、ガラスケースに収められた人間の頭部のミイラがあった。元は何色かも分からないボサボサの髪に縁取られた顔は、なめし革のようにカラカラに乾涸びて茶色い。おまけに目と口が太い糸で縫い閉じてあるのが、おどろおどろしさを増している。
『まあそれはそれ、これはこれですよ』
「で、今いた奴は何なんだ?」
『わしの茶飲み友達ですよ。いんや、がーるふれんどと言った方が当世風ですかのう。ほっほっほっほ』
どこから声を出しているのか、干し首は陽気に笑った。
「茶なんか飲まないだろう、お前」
これは真面目に答える気はないな、と判断したユリアンは、隣の立派な書架に目を向けた。
「禁書、そこに居るんだろう?お前なら知っているか?」
すると、バサっ、と鳥の羽音のような響きと共に、革装丁の立派な本が棚から飛び出してきた。本はユリアンの胸ぐらいの高さまで来ると、ばっさばっさと羽ばたきながら宙にとどまった。
開かれたページの文字が、ゆっくりと順に光る。
『イ』『ま』『ご』『炉』『き』『づ』『イ』『タ』『か』
「前からいたのか?」
『そ』『う』『ダ』『お』『前』『ふ』『死』『あ』『な』
「相変わらず口が悪いな。害はないんだな?」
『イ』『イ』『こ』『イ』『じ』『め』『る』『な』『殺』『す』
「………………」
どうも彼女は、宮中の化け物どもにかなり気に入られているようだ。
「無害ならいいか……」
気にはなったが、ひとまずは静観することにした。
「それはともかく、禁書、こんなところをうろつくんじゃない。誰かに見られたら厄介だ」
物騒な呪いばかりが収録されているために、この魔法書は禁書指定されている。一応暗号になっているのを良いことに、夜毎出歩くのには困っている。
ユリアンの小言に対して、バサバサ、と抗議するように禁書は大きく羽ばたいた。
「表現の自由? いやそれ言葉の使い方まちがっているからな」
再度ため息をついたユリアンは、仕事を続けるべく執務室に戻っていった。
*******
ユリアンは、人ならぬ存在の姿を見たり、声を聞いたり、触れることができる。いわゆる『魔眼』と呼ばれる能力の持ち主だ。
彼のような不思議な力を持つ者はこの国では珍しかったが、皆無というわけではない。
何百年か昔は、そのような超常的な力を持つ者もまだ多く、魔術師と呼ばれて重用されたらしい。今では昔話として語られる方が多いが。
とはいえ、使える力は有効に活用することにしている。ユリアンにとって宮廷の幽霊や化け物たちは、人間の部下からは得られない情報を時折もたらしてくれる存在だった。
………役に立たない時の方がはるかに多いが。
先日の出会いから数回、ユリアンは彼女の姿を宮殿内で見かけた。
ある時は舞踏会の会場で。
ひとりの令嬢が、母の形見だというイヤリングを無くして、泣きながら探していると、近くのテーブルにそっとそのイヤリングを置いてあげていた。
ある時は宮廷劇場で開かれたコンサートで。
初めて大公の前で演奏するという若い楽師が、演奏中に楽譜をめくり間違えて顔をこわばらせている時に、素知らぬ顔で正しいページを開いてやっていた。
掃除をしていることもあった。
ユリアンの執務室の隣の広間には、先代大公が集めた不気味なコレクションがずらりと陳列されている。
怪異が起こるとまことしやかに噂されている薄暗い空間は、ユリアン目当てで押しかける女性たちへの防波堤になってくれているが、メイドたちにも気味悪がられているため、掃除はかなりおざなりな状態だった。
ある夜、鼻歌が聞こえると思うと、はたきを手にした彼女が、棚に並ぶあれこれや干し首のガラスケースから、丁寧に埃を取り除いてやっていた。
(一体どういうことだ?)
彼が知る限り、幽霊のような精神体は基本、物に触ることができないはずだ。けれども彼女は、ちょっとした物なら手に取ったり動かしたりできるらしい。
逆に、彼が知る他の幽霊のように、壁を抜けたり消えたりする素振りがない。いつもちゃんと人間のように戸口を通って移動している。
興味を引かれたユリアンは、一計を案じることにした。
前回の掃除から半月ほど経った頃、彼女は再びはたきを手に広間に現れた。
「今晩は、お嬢さん」
彼女が掃除に夢中になっている頃合いを見計らって、足音を消して近づいたユリアンは、背後から声をかけた。
『ひゃああああああ?!』
案の定、悲鳴を上げて振り返った女性は、はたきを落として逃げ出した。
「待って!」
ユリアンも彼女を追って駆け出した。
『こおぉらあぁ! 娘さんに無体をしたら承知せんぞ!』
背後から怒声が響いた。干し首だろう。
ユリアンは構わず、上着のポケットに入れていた銀の笛をピイィ、と鳴らした。すると、彼女が逃げ込んだ通路の向こうで、ガチャン、と鍵がかけられる音が響いた。
『!』
その音を聞いて一瞬、立ちすくんだ女性は、通路に並ぶ扉のひとつに向かって再び走り出した。
彼女が近づいた刹那、ぎいぃ、と鈍い音を立てて扉が開く。その先には、今は使われていない客間がある。
彼女に続いて客間に入ったユリアンの目は、続きの間の戸口に消えようとする後ろ姿をとらえた。
「その先は行き止まりだよ。諦めなさい」
用心しながら部屋に入ったユリアンは、鎧戸の降りた窓と埃除けのカバーがかかった寝台の間に、身を縮こませるようにして丸まっている姿を見つけた。
「別に君を害するつもりはないから、安心して」
涙目で見上げる彼女を落ち着かせようと、ユリアンは微笑んでみせた。
「少し話がしたいだけだよ。君のことが少し知りたくなったんだ」
*******
女性はマリアンネと名乗った。
ユリアンの執務室に連れてこられたマリアンネは、不安そうに震えていたが、ソファに腰掛けるとあちこちを珍しそうに見回していた。どうも好奇心旺盛な性格のようだ。
『あの、ラウエンブルク子爵さま』
おずおずと呼びかけられた。ユリアンのことは知っていたようだ。
「ユリアンでいいよ。君に爵位で呼ばれても落ち着かないからね」
『えっ、よろしいのですか?』
幽霊には人の身分も地位も関係ない。名で呼ぶように言うと、女性はしばらく迷ってから彼の名を口にした。
『……………では、あの、失礼して、ユリアン、さま』
「何だい?」
『ごめんなさい!出来心なんです!』
両手を祈るように合わせると、彼女はぼたぼた涙を流しながら謝ってきた。
『最初はおうちの近所をお散歩していたんです。あと、町中の劇場に行ったり、大通りのお店をのぞいたり、お出かけが許されるならしたいな〜って思っていた場所に行っていたんです。でもその内に、誰も気がつかないなら、宮殿にも入っちゃっていいかな〜って思いついてしまって。そしたら行きたくてたまらなくなって、入っちゃったんです。でも誓って言えます! 起きている時に入っちゃいけない場所には入ってないです! 信じてください!」
「ちょ、ちょっと待って。一回落ち着こうか」
一気にまくし立てられて、ユリアンは気圧されたように両手をあげた。情報量が多すぎて、どこから突っ込めば良いか迷う。
「責めているわけじゃないから、泣かないで」
ポケットに入れていたハンカチを渡そうと、ユリアンが彼女に近づいた時、鳥の羽ばたきのような音に続いて、どご、という衝撃がユリアンの頭を襲った。
「あいたっ!」
『禁書さん!』
マリアンネを守るように、分厚い本が彼の前に立ちはだかると、次々に文字が光った。
『な』『か』『し』『タ』『な』『呪』『殺』『す』『る』
「わざとじゃない!ややこしくなるから、ちょっと寝ててくれ。」
ユリアンはさっと手を伸ばして本を両手で捕らえると、ばたん、と閉じた。それでもジタバタしている禁書を、壁際の棚の上に置いてあった鍵付きの箱に入れた。
「騒がしくてすまないね」
どん、ばたん、と禁書は箱の中で暴れ回っていたが、しばらくすると静かになった。
『いえ……。あの、禁書さん、大丈夫なんですか?』
「問題ないよ。あれは魔封箱でね、入れたら中でしばらく大人しくしてくれるんだけど、その内また脱走するから」
マリアンネはまだすんすん鼻を鳴らしてはいるが、この騒ぎであらかた涙は引いたようだ。
そっとハンカチを渡してから、ユリアンは聞きたかったことをたずねてみることにした。
「まず確認したいのだけれど、君は物を触ったり動かしたりできるんだね?」
『はい、できます』
「そんなことができる幽霊は、君が初めてなんだが」
あっさりと認めた彼女は、ユリアンの言葉に一瞬きょとんとした。
『そうなのですか? え……、あっ、ということは、ユリアン様も他の幽霊さんをご存じなんですか?』
「ああ、結構な数と知り合いだよ」
ユリアンの力のことを説明すると、うれしそうに目を輝かせた。
『干し頭さんも禁書さんも宮廷楽師さんも、皆さんとっても良い方ですよね! 私、ここに来てたくさんのお友達ができたので、本当に来てよかったと思っているんです!』
「そうか」
宮廷の人外の社交界を満喫している様子に、ユリアンは苦笑した。
「もうひとつ教えてほしい。さっき、鍵がかかっていた扉を開けていたね?あれはどうしたの?」
使用されない客間は、きちんと施錠されていたはずだ。
『あ〜、えっと』
途端、マリアンネの目が泳いだ。落ち着かなげに髪に手をやると、毛先をくるくるといじり始める。
「マリアンネ、教えてくれる?」
ユリアンは立ち上がって近づくと、彼女の手から髪をそっとすくい上げた。マリアンネのセピアの髪は、思っていたよりも柔らかくて、ひんやりと冷たかった。
見上げてくる勿忘草色の瞳から目を離さないでいると、はああ、と観念したようにマリアンネはため息をついた。
『たとえばなんですが、窓を開けてほしいな、と思いますよね?』
「ああ、ごめん、ここは風通しが悪いよね。開けようか」
『あ、ちがうんです。別にユリアン様にお願いしているわけじゃなくて』
窓に向かおうとしているユリアンを、マリアンネは止めた。
『ええと、そう私が思うとですね、風が吹いて、立て付けの悪い窓が偶然、開いてくれたりするんです』
バタン、とその時、ユリアンの背後の窓が開いた。がたた、と立て付けの悪い窓枠を風が揺らした。
「………………」
これはまた、何ともでたらめな能力だ。
「でもそれなら、戸に鍵をかけられても逃げられたんじゃないか?」
ユリアンの笛の合図は、待機させていた衛兵に、出入り口を施錠させるためのものだった。それでも彼女なら、突破できたのではないだろうか。
思いついた疑問を口にすると、マリアンネはゆっくりと首を降った。
『人にはダメなんです』
人間には彼女の力は効かないという。だから宮殿内を行き来する時も、人が近くにいない扉を通っていたらしい。
「ありがとう。疑問が解けたよ」
ユリアンはにっこりと笑った。
「それじゃ最後の質問。マリアンネ、君、生きた人間だね?」
ぎくり、と身をこわばらせたマリアンネの手から、ハンカチがぽたりと膝に落ちた。