とある伯爵の後悔
私が亡くなった兄の跡を継ぎ、リグリー伯爵となったのは十年前のことだった。
兄夫婦とその一人娘アイリスの乗った馬車が賊に襲われ、兄はその妻とともに殺された。当時八歳だったアイリスは誘拐されかけたが、護衛を兼ねていた御者がなんとか助け出し無事だった。その後、御者もその時の傷がもとで亡くなっている。
当時、私は父である兄の先代リグリー伯爵から子爵位を分け与えられ家を出ていたが、私がアイリスを引き取り、リグリー伯爵となることになったのだった。
アイリスは大人しく控えめな子どもであった。義妹となった一歳年下の私の娘カレンにも優しく接した。
ただ私たち夫婦は悲惨な事件に傷ついたであろうアイリスにどう接したものか戸惑ってもいた。腫れ物に触れるような扱いをし、アイリスはますます内向的な性格になっていった。
そうして十年近くが過ぎ、兄がおこし私が引き継いで軌道に乗せ、安定していた事業をさらに発展させるべく、当時経済的に困窮していたノーリッシュ侯爵と婚姻による縁を結ぶことにした。公爵などのさらに上位の貴族の家と繋がる足掛かりとするためだった。
アイリスは十七歳、カレンは十六歳、相手のノーリッシュ侯爵の子息ダニエル殿は二十歳。より年の近いアイリスと婚約させることにした。
けれど、いま思えば年が近いからというのは言い訳だ。カレンが可愛くて手元に置いておきたかった。婿を取るならカレンに取らせたい。それが私と妻の本音だった。
アイリスとダニエルは順調に仲を深めているようだった。そう思っていたある日、カレンが泣きそうな顔でダニエルを好きなのだと私と妻に告白した。
確かにダニエルは物腰柔らかな好青年で見目も良い。彼の家が傾いていなければ引く手あまただろう。
どうしても義姉が自分の好いた相手と結婚するのがつらい、ダニエルもカレンを大事に想っていると言ってくれた。カレンは泣きながらそう訴える。だから、アイリスの意思を確認してアイリスが認めるなら婚約者の変更をノーリッシュ侯爵に申し出ようとカレンに提案した。
アイリスには私が尋ねた。
「そう、ですか。分かりました」
アイリスは静かにそう答えた。
翌日ノーリッシュ侯爵に使いをやり、その二日後に直接ノーリッシュ侯爵の屋敷を訪ねた。
「カレンがあまりにも可哀想で……それにダニエル殿もカレンを大事に想っていると。アイリスも承知のことです」
戸惑うノーリッシュ侯爵夫妻に、カレンのためならば持参金を三倍にしても良いと言えば、ノーリッシュ侯爵は「……分かった」と頷いた。
そうして無事にカレンとダニエル殿の間に婚約が結び直された。
けれどその後、社交界にはカレンが無理やりアイリスから婚約者を奪ったのだと噂が流れた。カレン自身からも陰口を言われたと聞いた。
どうしたものかと頭を悩ませていたところにアイリスが話をしたいと私の執務室を訪ねてきた。
「修道院に入りたいのです」
「なぜ……?」
「私はもうこの家の役に立つような縁談は受けられないでしょうし、ただ無心で神の身許に奉仕するという人生も良いかと思いました」
アイリスは相変わらず淡々とした様子で、視線は応接テーブルの上のティーカップに向けられている。
「結婚相手ならきっと良い人を見つける」
「いえ、いいんです。私は修道院に入りたいのです」
アイリスが視線を目を合わせてきたが、その瞳にはどんな感情も見つけられない。喜びも、悲しみも、怒りもない、凪いだ表情だった。
修道院へと旅立つ前日、アイリスは最後にお願いがあると言って私の書斎を訪ねてきた。
「ドレスも装飾品も今あるものはすべてカレンに譲ってかまいません」
確かに修道院ではドレスも装飾品も不要だろうが、持っていけば売却金を修道院に寄付することもできる。そう伝えたがアイリスは首を横に振った。
「ドレスは良いのです。けれど昔カレンに譲ったお母様のネックレスと、お父様の使っていた黒檀に金細工の万年筆を持っていくことを許していただけませんか」
アイリスはそんなものをカレンに譲っていたのかと驚く。
思い返してみればアイリスは様々なものをカレンに譲っているようだった。今まではアイリス自らカレンに譲っているのかと思っていたが、もしやカレンの方からねだったのか。
ああ、それに、万年筆は兄の結婚の祝いに贈ったものだ。書斎の机の引き出しの奥にしまってあったのを、そのままにしていた。ここに戻ってきたときに一度開けたきりの引き出しに。
その引き出しから取り出したのは革張りの箱だ。万年筆は贈った当時の姿のまま綺麗に箱へ仕舞われていた。
「この万年筆、お父様がとても大事にしていらしたのを今でも覚えています。お父様が叔父様に――『弟に贈られたものだ』とおっしゃって、家族の特別な日のためだけに使っていたんです」
箱ごと受け取ったアイリスが万年筆を指で撫で、目を細めて懐かしむように語った。ふつふつと罪悪感が込み上げる。
なんという今さらな罪悪感だろうか。
「ネックレスはすぐカレンの侍女に確認させる」
「……一度譲ったものなのに申し訳ありません」
使用人に呼びに行かせ、やってきた侍女にアイリスがネックレスの特徴を伝える。すぐに思い当たるものがあったようで「もう何年も使われておりませんので、カレン様もお忘れになっているかと」と答えた。
「そのまま持ってきなさい」
「かしこまりました」
黒いビロードのジュエリートレーに乗せられてきたのは、プラチナのチェーンにパールとダイヤが一つずつ連なったシンプルなデザインのネックレスだった。パールもダイヤも相当に上質のものというのが見てとれるが、カレンの好みではないのは確かだ。
「すまなかった」
「叔父様が謝罪されるようなことは、なにもありません」
だが、と言い募ろうとすればアイリスは首を横に振って私の謝罪を拒否する。
「私の方こそ、これまでのご恩を返すことができず申し訳ありません」
そんなもの感じなくても良いと言いたかった。けれど、顔を伏せたアイリスに対して言葉にすることができない。
「今までこの家に置いてくださり本当にありがとうございました」
最後にそう言って立ち上がり、アイリスは美しいカーテシーを見せると、静かに部屋を出ていった。朝早くに出ていくから見送りはいらないと言われている。これでアイリスと顔を合わせるのも最後になるだろう。
私はアイリスを見送ると万年筆の入っていた引き出しを開けた。そこにある白い木目をただじっと見つめる。言葉も思いもなにも浮かばず、ただ時間だけが過ぎ、夜は更けていった。