結
家に逃げ帰ると、誰もいない。当たり前だ。誰かいたら、僕は家から出してもらえなかったろうから。
自分の部屋に入って扉を閉めると、予想外に大きな音が出て驚いた。向かいの窓から眩しいくらいに太陽が差し込んでいて、窓に歩み寄ってカーテンを閉める。カーテンがろうそくで照らしたみたいにぼんやりと光を通すだけの、心地よい薄暗さになった。
ふと、勉強机に目が止まった。そこには過去問集が置いてあって、昨日開いて押さえつけたもんだから、上の方のページがふっくら膨らんでいる。
そうだ、勉強しなくちゃいけないんだ。
あんなに嫌だったのに、自然と手が伸びた。机につき、一番得意な理科のページを開いて、昨日お母さんに貸し与えられたキッチンタイマーを五十分に合わせる。
スタート。
大問一は小問集合だ。ここをサラサラと解き進めないと、残りの大問を考える時間がないとお母さんが言っていた。二問くらいすっ飛ばした。
次いで、大問二。地震の問題だった。初期微動継続時間とかの計算は苦手だなぁと思いながら問題を読むと、見たこともない地震計が出てきた。諦める。
大問三、四。今までになく集中できていたが、わからないものはわからない。五十分なんてとても使いきれず、僕はタイマーを止めた。冊子の後ろに付いている解答解説を見ながら、丸付けをする。
「四十二点……」
五十点にすら届かない。昨日の結果は間違いかと思ったけれど、僕の実力なんてそんなものらしい。
椅子の上で背を伸ばして、凝りをほぐした。すると腿に何か当たるものを感じて、ポケットを探る。
細長いそれを摘んで、目の前に垂らした。
「くそっ、なんなんだよ」
ふてくされた声が出る。
天音から渡されて、そのまま持ち帰ってしまったミサンガだ。自然、彼女のことを思い出してしまう。
僕の嘘を暴いて、僕の罪状を並べ立てた彼女。彼女がなぜ急にそんなことをしたのかはわからないが、今になって、この汚いミサンガを見ているとわかることがある。
きっと、彼女は本気で、テニスをやっていたかったんだろう。だからミサンガなんて着けて、それが汚くなるくらいに練習して、夢に近づいていたのだ。
僕は自分の点数に目を落として、歯噛みした。
比べて僕はどうだ。何もしていないだろうと、四十二点が語りかけてくる。頑張れなくなった彼女と違って、僕は頑張らなかった。
それなのに、僕は彼女を僕と同じだと思って、それを伝えてきたんだ。
「もっと早く言ってくれればいいのに」
ぼそりと言って、涙が滲んだ。
別にそんな義務は彼女にない。僕と違って立派な彼女は、サボることに強い罪悪感も感じていたかもしれない。そしたら、言い出せなくたって仕方ない。僕だって、嘘で隠した。
彼女はとても、頑張り屋なんだ。僕があった時、偶然迷っていただけの。
じゃあ僕は。何も頑張っていない。怪我をしても頑張ろうとした彼女と比べて、僕は何もしていない。何もせず、それを言い訳して、仲間を見つけて喜んでいただけ。
「行かなきゃ」
問題集を閉じる。
頑張り屋な彼女はきっと、誰にも助けを求めない。一人で帰ろうとしてしまう。
僕は家の鍵と自転車の鍵とを引ったくって、外に飛び出した。肌が焦げそうなほど、日差しが熱い。
◇◆◇
第一公園にたどり着いた時、もう天音はいなかった。公園のゴミ箱には、見覚えのあるアイスティーのペットボトル。
そこら辺の小学生に聞いてみても、ちょうどお昼で人が入れ替わったらしく。天音の行き先はわからない。
でも、松葉杖の置いてある第二公園に戻るのは確実だ。
僕は自転車を力一杯漕いで、第二公園に向かう。
◇◆◇
第二公園に着いた。樹木に囲まれた公園は、外からじゃ誰がいるかなんてわからない。セミの鳴き声に背中を押されて、公園に入る。
誰もいなかった。
塗装の剥げたブランコは揺れることもなく、黒ずんだ鎖で座面をぶら下げているだけ。
もしかして、もう帰ったんじゃ。両親が何故だか知らないけど迎えに来て、無事に帰ったのかもしれない。
そう思うと、胸が苦しくなった。お盆中は天音に会えないと言ってしまっているし、彼女は公園に来ないかもしれない。そしたら、しばらくは会えないし、そのままずっと会えなくなるかもしれない。
それは嫌だ。
とにかく探そうと思い立って、走り出す。が、済んでのところで一つ思い至る。
防災倉庫の陰を確認すると、そこにはまだ松葉杖がある。
「まだ、何処かにいるんだ……!」
両親が迎えに来たとしても、それならば松葉杖も回収してかえるだろう。つまりは、彼女はまだ第二公園に来る途中。
「別の道を使ったんだ」
それしかない。
僕は最短ルートを使って来たけど、登り下りの激しい道だから、迂回したのかもしれなかった。ならば、ひたすら道を変えて往復していればいつかは会える。
「よし……」
スピード勝負だ。彼女がここに来るまでに見つけなければ、僕はもう当てがない。
乱れた息を整えて、目にかかる汗を拭い去った。
一往復。
見つからない。確認すると、まだ松葉杖はある。
二往復。
自転車のハンドルを叩きつけた。松葉杖だけはそこにある。
三往復。
「くそっ!」
どうしても天音は見つからない。もう、自転車を押すだけでも重く感じる。松葉杖があるかを確認するのも面倒で、僕は公園のガキンチョに不審な目で見られながら、別なルートを探すことにする。
習慣とは恐ろしいもので、棒みたいな足を引きずっていたら、無意識にいつも家からここへ来る時に使う道を選んでいた。あの茶色い砂利道は自転車じゃ上りたくないし、彼女も辛いだろうと、ずっと避けていた。
ただ、もう戻るのも難儀になっていて、僕は問題の坂道に差し掛かる。
「優……くん?」
「……天音?」
その坂の上に天音がいた。逆光になっている天音の困惑した顔を見て、僕はその場にへたり込む。
「わっ、大丈夫!?」
天音はそう声をかけてくれるが、こちらへ来るのを躊躇っていた。彼女は電信柱に手をついて片足立ちをしていて、そりゃあ、こんな急な坂道を下るのは怖いだろう。
「いいよ、今行くから」
僕は自転車をその場に立てて、一歩一歩坂を上る。天音に近づくと、彼女もまた汗だくになっているのがわかった。やっぱり、一人でここまで戻って来たんだ。
「どうしたの、優くん」
天音は視線を迷わせながら、歯切れ悪く言う。僕は深呼吸一つ、彼女に向き合った。
「謝りに来たんだ」
「え?」
「ごめん! 僕は全然逃げてばかりで、天音はすごく頑張ってたのに。サボり同盟だなんて、失礼だった!」
思いっきり頭を下げて、僕は詫びた。おかげで、彼女の顔は見えない。それが僕にとってはむしろちょうど良くて、まくし立てる。
「僕なんかと一緒にしてごめん! 自転車なんて持って来ちゃってごめん! その後、置いてっちゃってごめん!」
会って何を話すかなんて考えてなかったから、何を喋れているのか不安だったけど。僕はしゃべり切って、天音の言葉を待つ。「えっと……」という呟きがあって、彼女の足先がもじもじとしている。
待ちきれなくなって顔を上げると、天音は困ったように横髪をいじっていた。
「とりあえず、公園行かない?」
その手の陰からたまに覗く耳は、赤く染まっているようにも見えた。
天音に肩を貸して、一歩一歩降りていく。僕としても、もしも天音が滑り落ちたら支えきれる自信がなかったから、すごく肝が冷える。
「ねぇ、優くん」
「な、なに?」
振り返ると、すぐ近くに天音の顔がある。気恥ずかしくて、すぐに足元に視線を落とした。ちらりと見えた彼女の顔も、おんなじに真剣だった。
「わたしもごめんね。流石に、意味わかんなかったなって思う」
「別に、そんなことないよ」
急だとは思ったけど。とは、流石に今言うと反省してないように聞こえかねないから、口に出さない。
天音は苦笑いする。
「そうだよね。今聞いてもそうとしか言えないよね」
「いや、その……」
「いいんだ。わたしだって、優くんと同じだったし」
「え?」
思わず足を止めると、天音に怒られた。せっつかれて、僕は足を進めながら続きを待った。
「わたしだってきっと、嘘をついてる優くんを見て、安心してたんだよ。こんなわたしより、もっとダメな人がいるって」
「ひどっ」
「でも、その通りでしょ」
「はい、その通りです」
坂道の半分を過ぎる。ここまで来ると幾分慣れて来て、僕はいつもより近い天音の声にどきりとする。彼女が僕に体重を預けてくれているのが、疲労を超えて嬉しい。
僕はすっかり浮かれきって。
「だからさ、やっぱりわたし、もう公園行かないよ」
「……ん?」
そういえば、大事なことを忘れていた。
「勉強することにしたんだ。部活ができなくて、成績が足りなくたって、勉強しない理由にはならないもん」
「そっか」
「優くんはどうするの?」
「俺?」
急に話を振られて、空を仰いだ。
結局のところ、天音とは会えなくなってしまうようだ。公園に来て勉強をするわけにもいかないだろうし、全く正しいだろうと思えた。
じゃあ、僕はどうしよう。一人で公園に来たってつまらないし、だからと言って勉強しても、だらだらとしてしまうだろう。
見上げる空は憎らしいほど青くて、ぽっかりと穴が空いたみたいに捉え所がなかった。
「そうだなぁ、考えてみるよ」
「考える?」
「どこの高校に行きたいのか、ちゃんと考えてみる。今まで、どうせ勉強する場所だからって、ろくに調べてもなかったし」
足元を取られそうになって、顔を下げる。公園までの道はすぅっと延びていた。その時、まるで天啓のようにアイデアをひらめく。
「お盆の間にいくつか決めて、目標を作るからさ。そしたら、一緒に勉強しない」
「一緒に?」
「そう、一緒に」
場所は、図書館でもなんでもいいだろう。ちょっと遠いかもしれないが、今度こそ僕が自転車で運んであげればいい。僕は恐る恐る、彼女の表情を窺った。すると、目があった。
きょとんとしていた彼女は顔を綻ばせ、僕の腕からするりと抜け出す。残りの坂道を滑り落ちるように片足で跳ねていって、あわや倒れるといったところで、僕の自転車につかまって事なきを得る。
「ミサンガ!」
突然のことに固まっていた僕に、彼女が声を張る。
「優くんが持ってっちゃったやつ、そのまま持ってて! それで、お盆が終わったら持ってくること!」
「それって……!」
「約束! 待ってるから!」
あまねは言い切ると、一人で第二公園へ向かってしまう。ポニーテールが元気に揺れていた。
夏の日差しに、虹色を反射して。
「あぁ、もう」
僕は悪態一つ、それを追いかける。
もしお読みいただいた方がいたのでしたら、ありがとうございます。本作、『ストーリーの解剖学』という書籍で学んだことをデモンストレーションしてみたく、思いつきで書き始めた作品です。かなりの改善点を抱えた作品だったとは思いますが、そのうちの一つでも教えていただけると幸いです。
ここからは、R-18の作品に戻りつつ、Twitter上の企画である書き出し祭り提出作品を仕上げて行きますので。是非そちらもご覧ください。
重ね重ね、本当にありがとうございました。
P.S. 感想欲しいです。