転
「……嘘じゃないよ」
「嘘だよ。友達から聞いたよ、須原優なんて子、見たことも聞いたこともないって」
「それは曜日が」
「夏期講習に曜日なんて、ないんでしょ」
目の前がクラクラとした。天音が腰を浮かして、一つ分僕から遠ざかる。
「わたしね、優くんと会うのは楽しかったけど、一つだけ嫌なことと、一つだけ不安があったんだよ」
「……」
「ねぇ、わたしが嫌だったこと、わかる?」
「……サボり組って言ったこと?」
「そ。せいかい」
必死に思い出して見つけた答えに、天音は素っ気なく返しただけだった。そのままショートパンツのポケットをまさぐって、何かを取り出す。てろんと細長い、カラフルだけど色あせた何か。
「ミサンガ、右足首につけてたから、包帯巻く時に切られちゃった」
ゆらゆら揺れるそれを見る天音の目は、ひどく寂しそうに映る。
「わたしはね、優くんとは違う。わたしは行きたい高校があるし、そのために頑張ってる。……頑張ってた。ねぇ、私立桜ヶ丘女子って、知ってる?」
桜ヶ丘女子、聞いたことはある。確かテニスが強くて、この前テレビに映ってたプロの人もそこの出身だとか。
知ってるよと言おうとした口はカサカサに乾いていて、僕は言葉を出せなかった。天音はそんな僕にミサンガを突き出してくる。
差し出されるままに受け取ると、結び目はそのままに、ハサミで切られたらしいことがわかる。そしてやはり、カラフルだったろうそれは、汚くくたびれている。
「わたし、そこに行きたかった。でも成績は全然足りなくて、行けるとしたらスポーツ推薦しかなかった」
「だからわたし、二年生の頃から頑張ったの。お父さんに何言われても、テニスで結果を出してやるんだって」
「そしたら大会にだって出れるようになって、結果も見えてきて、後は夏の大会で頑張るだけだったのに……!」
足を振り下ろす。
天音が包帯で巻かれた足を、勢いよく踏み鳴らした。音などならない。彼女の足を覆う布に音は吸われて、賑やかな公園の隅、ただ自分の足を痛めつけ続けている。
僕には止められなかった。
「こんな怪我! こんな怪我さえなきゃ!」
噛み締めるように苦しげな声。彼女の腿に水滴が落ちる。雨なんて降っちゃいない。
「ずっと、行きたかったのに……!」
途端、彼女は自分の右足を抱きかかえた。愛おしげにその表面を撫ぜ、嗚咽を漏らす。
僕は、そんな彼女が怖かった。
理解ができない。何がそんなに悔しいのか。何をそんなに恨むのか。何をそんなに大事にしているのか。
ただ、気が触れてしまったかのような彼女を見ていた。
「それで、どうしようって思ってたら、優くんが来たの」
だから、幽霊か何かみたいにふらりと視線を寄越された時、僕はびくりと肩を跳ねさせた。続く天音の声だけが、僕の鼓膜に響く。
「楽しかったよ。一人でどうしようもなくなった時に、優くんはそんな気分を吹き飛ばしてくれた」
「えぇっと」
「でもね、それだけ不安だったんだよ。そんな気分でも吹き飛んじゃったら、もう二度と戻ってこなくて。そしたら、二度と桜ヶ丘女子には行けないんだろうなって」
どこか調子のはずれた声だった。それは僕の頭の中を巡って、あぁ、彼女は本当にそこに行きたかったのだと、教えてくれる。
彼女は本当に楽しくて、本当に不安でいて。そして本当にーー
「だから、わたしは優くんが『同じだね』って言うのがたまらなく嫌だった。……優くんなんかと一緒にされるのが、たまらなく嫌だった」
本当に、僕なんかの仲間じゃないんだ。
言ってから唇を噛んだ天音が、ごめんねと零すのが辛かった。自転車に二人乗りして熱を持った体は、恐ろしいほどに冷え切っている。
もはや彼女は、僕を断頭台の前に押しやった。後は僕を突き放すだけで、倒れた僕の首には木枷がはまり、断罪されるに違いない。
……理不尽だと思った。
僕は一人でいた天音に声をかけてあげたのに。毎日足繁く通って、一緒にいてやったのに。今日だって、自転車に乗せて、ヒイコラ言ってやったのは誰のためだと思ってる。
彼女から渡されたミサンガごと、僕は強く拳を握り込む。
「……わかったよ。つまり、俺のことが嫌いなんだろ」
「そうじゃないけど。でもさ……」
沸きらない態度に苛立ち、僕は立ち上がる。刺々しい声をぶつける。
「うるさいな! じゃあもう、会いに来ないよ。それでいいだろ!」
言葉と共にきっと睨みつけると、天音は傷ついた顔をして、それから表情を崩した。
「うん、そうだね。わたしも、そう言おうと思ってたの」
「ーーっ! なら、勝手にしろよ!」
ちょうどよかった、なんて微塵も思ってなさそうな声色に、僕の感情は完全に弾けてしまった。
僕は駆け出した。呼び止める声はない。
彼女は松葉杖もなく、どう帰るのか。そう思いはした。立ち止まろうともした。でも立ち止まらなかった。
自転車のスタンドを蹴っ飛ばす。鍵を回すとしゃこんとロックが解けた。
跨って、最後にと思って天音を見ると、顔を覆っていた。余計に腹が立つ。
僕はそのままペダルに足をかけ、漕ぎ出した。
ゴミ箱を見かけて、そこにミサンガも投げ捨ててしまおうかと思ったけど、それだけはできなかった。