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承2

 目が覚めると、ちょうどお母さんが出ていくところだった。あくびのついでにいってらっしゃいをして、もそもそと朝ごはんを食べる。「勉強頑張ってね!」と書かれた付箋を握りつぶして、天気予報を確認した。晴れだった。


 急な下り坂に持っていかれないように、ぎゅっと自転車のハンドルを握って歩く。家を出る前に空気をパンパンに入れてきたタイヤは、僕の手に地面のでこぼこを上機嫌に伝えていた。

 公園に差し掛かると、どうやらもう天音は来ているようだった。


「あまねー?」

「ゆうくーん?」


 声をかけると、返事があった。僕は自分の自転車を見て、彼女の驚く顔を思い浮かべる。


「ちょっと来てみなよ。いいもの持ってきた!」

「えー、めんどくさーい」

「どうせ第一公園行くんだから、変わんないだろー」

「うーん、それもそっか!」


 ブランコの音が止み、彼女のけんけん歩きが地面を擦る音がする。僕は入り口の樹木の陰に自転車をスタンドが音を立てないよう静かに置いて、入り口に仁王立ちする。少しして現れた天音は、僕のことをつま先から頭のてっぺんまで眺める。


「なんだ、何も持ってない」

「いや、ちょっとこっち来て」

「そりゃあ行くけどさ」


 松葉杖をついて、尺取虫みたいに歩いてくる天音も、なんだか上機嫌なように見えた。いつもは身に付けていない、可愛らしいポシェットを肩から提げている。僕は一歩下がって彼女を迎え、演劇じみて仰々しく僕の自転車を紹介した。


「ほら、自転車。天音はいいって言ったけど、やっぱり大変だろ? 俺だって男だし、二人乗りで連れてってあげるよ」


 そして天音は、「え、すごい! ありがとう!」と喜ぶ……なんてことにはならなかった。


「あはは……持ってきちゃったかぁ」


 僕の予想に反して、天音は困ったようにまなじりを下げた。指先がかりかりと松葉杖のグリップ部分を掻いている。


「……ダメだった?」

「だってわたし言ったじゃん。自分で歩くって」

「そりゃあ、そうだけど」

「優くん、一人で乗っていく? わたし、松葉杖で追っかける?」

「俺、すごい鬼畜じゃない、それ」

「バレたか」


 漫画でスクーターに乗ってランニングのコーチをするのは見たことあるけど、いくらなんでも酷すぎた。げんなりする僕を見て天音は笑うけど、実際、天音が乗らないのなら自転車は完全に邪魔だ。いざという時に天音を助けられないし、途中から乗せるにしても、松葉杖をどうにもできない。

 これは、一度家に帰って置いてくるしかないのかもしれない。さっきまで盛り上がってた気分が、しゅるしゅると萎える。

 いやでも、面倒だしなぁ。

 うんうん唸っていると、じっと立っていた天音が口を開いた。


「いいよ、乗ってこうか」

「えっ、いいの?」

「だってほら、第一公園に一人で行くのはいつだってできるけど、自転車の二人乗りは優くんがやる気になってくれた今しかできないじゃん」


「わたし、二人乗りしたことないんだよねー」と笑う天音が、僕に気を使ってくれてるのは明らかだ。でもそんなことより、僕は彼女が同じ自転車に乗ってくれる方が嬉しかった。


「じゃあ、早速行こう! 松葉杖は、一旦防災倉庫の裏にでも隠しておけばいいよね」

「うん、おねがーい」


 僕はもう、それこそウキウキで準備を整えて。


 数分ともたず、後悔した。


 ◇◆◇



 がっしゃ、がっしゃ。

 脚が悲鳴を上げていた。あのクソ教師の非じゃない。校庭を何周もするより、この坂一つ登り切る方が絶対に辛い。


「頑張れ優くん! 倒れたら一大事だからね?!」


 うゔっ、ぐるじぃ。

 自転車の荷台に横向きに腰掛けた天音が、僕のお腹にしがみつく腕の力を強める。もう一、二週間は運動してないとはいうけれど、その腕の力は本物だ。

 女の子のやわこい体が密着してる……なんて考えても、体力的苦しさが胸を締め付けてくる。


「ぐぎぎ……!」

「あはは、変な声ー」


 跳ねるような笑い声に、僕は絶対に仕返しをしてやると決めた。自販機で何か飲み物を買ってきてあげるにしても、振りに振りまくったコーラを渡してやろう。

 来たる爽快感に期待を膨らませ、ぐいっと顎を上げる。しみったれた住宅街にまっすぐ伸びた坂道は、青空の水色へと届くようだ。


 僕らはきっと、狭苦しい現実なんて置き去りにして、あの水色の中どこまでも行ける。坂道の端に辿り着けば、僕らを乗せた自転車は重力から解き放たれて、どこへでも行ける。どこかにはたどり着く。

 ただ、後ろに彼女が座っていなかったら、たちまち墜落してしまうのだろう。僕の心はずしりと重くなって、その重さに引かれて落ちるのだ。


「も、もうむり……」

「え、ちょ! ばかぁ!」


 脈絡もなく恥ずかしい妄想をするくらい、僕は疲労困憊だった。


 ◇◆◇


「はい、天音の分」

「ごめんね、疲れてるのに」

「仕方ないよ。それに、奢ってくれるんならむしろ、安いくらいだ」


 途中、倒れそうにもなったけど。僕らはなんとか第一公園にたどり着いた。その隅には木製の木組みに緑の茂った、天然の屋根みたいなのがあって。涼やかな日陰に置かれたベンチに腰掛けた天音に、買ってきたアイスティーとコーラのうち、アイスティーを渡した。

 ひんやりと濡れたそれを受け取って、天音はフタを開ける。後ろに座っていただけとはいえ、汗だくの僕にピッタリくっついていた天音も相当に熱かったらしく。喉をごくごくならしてペットボトルを煽り、艶かしく嚥下する喉を汗が伝う。

 僕はちびりとコーラを飲んだ。パチパチとした刺激と、それに負けない甘みがたまらなく染みるけど、首を上に上げて飲む気にはならなかった。

 服の中にじっとりと残る熱気がうざったくて、襟口をパタパタとする。ぷはぁ、と満足げに口を離した天音が後ろに手をついて言った。


「それにしても、残念だね」

「あぁ、まぁ、第一公園は人気だし」


 互いに肩を落とす僕らの視線の先には、元気に揺れるピカピカのブランコ。大きな国道沿いにある第一公園は小学校のすぐ近くなこともあって、今日も大盛況だ。回転ジャングルジムだって、ミックスジュースを作るミキサーみたいにいっぱいいっぱい。

 いわんや、他の遊具をや。足をかばう天音に遊べる場所なんて幼稚園生向けの動物バイクくらいで、僕は天音の横に間隔を置いて座った。


「どうする? 少し休憩したら帰る?」

「それじゃあ、来たのが勿体無いじゃん?」

「そうは言ってもさぁ」

「ちょっとお話ししてこーよ。わたし、ここ好きだし」


 彼女はそう言って目を瞑る。ちょうど、爽やかに風が通り過ぎた。頭の上で葉っぱが擦れて、消え入りそうな声で囁いている。彼女にならって手をついて目を瞑ると、風が肌を撫で、汗が引いていくのがわかった。

 小学生の、あるいは中学生かもっと上のはしゃぐ声が遠くに聞こえる。


「ねぇ、優くん」

「なんだよ」

「どうして、自転車を持ってきちゃったの?」

「それは……」


 言われてみると、なんでだろう。お母さんに怒られて、それからそう思ったのは覚えているけど。なんでお母さんに怒られら自転車を持ってくるのか、それはわからない。

 そも、どうしてそんなこと聞くんだろうと思って天音を見たけれど、目を瞑ったままだ。


「わかんないや。気まぐれだよ」

「嘘だぁ、全然乗り気じゃなかった」

「いや、乗り気だった」

「いやいや、絶対乗り気じゃない」

「いやいやいや、乗り気だったね」

「いやいやいやいや」


 とりあえず否定してみたのだけれど、天音は全然認めてくれない。確信してるのかってくらいしつこい。

 本当のことを言ったほうが早いかとも思ったけど、それはそれで言い出しにくかった。塾に行ってるはずの僕が、勉強してないことを怒られるっていうのも、おかしな話だし。

 それにしても、天音は妙にしつこかった。ろくに言い訳の思い浮かばない僕では、うまく切り抜けるなんてできないだろう。

『いや』の数がもう数えられなくなったくらいで、ふと思った。


 あのかっこいい天音なら、どうしたんだろう。


「ーー実はさ」

「いやい……あれ、やっと観念したの?」

「うん、そうそう」


 急に態度を変えた僕にきょとんとする天音を適当にいなす。


「実はさ、昨日お母さんに怒られたんだ。なんで勉強しないのって。僕、勉強なんて嫌いだから、家だとやる気が出ないんだよ。それで怒られちゃってさ」

「それで、持ってきたの?」

「よくわかんないけど、多分そういうこと」

「そっかぁ……」


 天音が目をすぅっと開く。木漏れ日に照らされる横顔は、驚くくらい綺麗に見えた。天音にしては珍しい、低く落ち着いた声がそれに拍車をかけているように感じる。

 僕は誘われるように続けた。


「なぁ、天音はどう思う? 勉強って、そんなにしなきゃいけないことなのかな」

「うーん、よくわかんないけどさ」


 天音はよっこらせと身体を起こし、僕を真っ直ぐに見据える。その黒く澄んだ瞳から目が離せなくて、僕も自然、視線を正した。

 天音に悟られないよう生唾を飲む。なぜ緊張しているのだろう。そう思って、自分が緊張していることを知った。

 風が、ピタリと止む。


「勉強するのは、そんなに大切なんだよ。だから、優くんが怒られたのだって、優くんが悪い」

「……え?」


 天音は酷薄に笑って、告げる。


「だって優くん、塾に行ってるなんて、嘘でしょ?」

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