幕間
僕と天音は、第一公園へ行くならもう、明日行こうと約束した。何故って、もう直ぐお盆休みだから。お母さんがいたらきっと、「外に遊びになんか行かないで勉強しなさい」って言われるに決まっていた。
そう事情を語ってしまえば、やる気満々の天音との約束が明日に定まるのは一瞬だった。
「一応、お金持ってった方がいいかな」
彼女に塾通いだと嘘をついている都合上、僕はお昼には帰らなきゃあいけない。じりじりと責め立ててくる熱さに汗を拭う。
第一公園までは、二十分くらいかかるはずだった。それも僕がつったか歩いた時の話で、松葉杖の天音はもっとかかる。そしたらきっと、喉がカラカラになっている。
第一公園の近くには写真屋があって、そこに自販機が置いてあるから。辿り着いたご褒美に何か奢ってあげるのは、とても良いことのように思えた。
……もしかしたら天音も同じことを考えていて、僕はパシられるのかもしれないけど。
公園に特別楽しいことが待ってるわけでもないのに、こうして明日のことを考えるのが楽しい。自然と歩くペースも早くなっていたのか、いつもより早く家に着いていた。
ポケットから鍵を取り出して、玄関のドアノブに挿す。どっちに回すと開くんだっけと考えることもなくなって、いつも通りに鍵をひねる。けれど、不思議と感触がなかった。
「あれ、鍵かけ忘れたかな?」
家を出る時、しっかりドアノブを引いて確認したのに。バレて怒られることはもちろんないだろうけど、気持ち的に落ち着かない。
釈然としないまま玄関を開けると、そこに答えはあった。
「お帰りなさい、優。どこで遊んでたの」
「……ただいま、母さん」
玄関の前に立ちはだかるお母さんの手には、あの公立入試問題集。
◇◆◇
僕のお母さんは、イライラしてる割に優しいお母さんだと思う。
好き嫌いは許してくれないけど、いくら頑張っても好きになれないパウチ入りのミートボールは、いつの間にか食卓に出なくなった。
中学に入って、夏場にペットボトルを学校に持っていくにはカバーをつけてくださいと言われた時には、学校に文句を言いながら裁縫箱を引っ張り出して、手作りしてくれた。
部屋の掃除をしないでいると毎日嫌味を言われるけど、片付け始めると手伝ってくれる。
そんなお母さんは怒ると、むしろ静かになる。ゆっくり流れる水みたいに、波音立てない。けど、濁った川みたいに底が見えない。
「お母さん、自分で勉強しなさいって、言ったわよね」
「……学校の宿題なら、やってるよ」
「ねぇ、わかってるでしょう。そういう話じゃないの」
真昼間の家の中に、僕とお母さんの二人きりというのは。なんだか作り物みたいな違和感があって、とても居心地が悪い。シフトを勘違いしていたから帰ってきたというお母さんと、食卓を挟んで向かい合う。その真ん中には警戒色が目に痛い一冊。
「優。一度でも開いてやってみた?」
「やったよ」
「その割に、真っ白だけど」
「ノートにやったんだ」
なんで僕の部屋に隠しておいたのにとは言わなかった。そこを突いても僕の問題集には一文字だって取り組んだ痕跡が増えるわけじゃないから。
膝の上に置いた手を強く握った。なんとか言い逃れなければ、きっと面倒くさいことになる。俯く僕に、多分能面みたいな顔をしてるんだろうお母さんが、言葉を重ねてくる。
「じゃあ、そのノートを見せなさい」
「……学校にあるんだ」
「夏休みなのに? 学校に? 問題集とは別にして?」
一個ずつ、僕の周りに壁を積まれていく気分だ。お母さんが淡々と疑問符を並べ立てるにつれて、最初から逃げ道なんてなかったとわかっていく。
しばらくして、お母さんはこめかみに手を当ててため息をついた。
「優、うちにあなたを塾に入れてあげるお金がないのはわかってる?」
「うん」
「それに関しては本当に申し訳ないと思ってるの。できるなら、それこそ西川進学塾にでも入れてあげたい」
僕にそんな学力はないのに、お母さんはどうも勘違いしているらしい。気持ちを押し殺すみたいに声を震わせるお母さんを、僕は一歩引いて見ていた。
「でもね、無理なものは無理なの。だから優には、おうちで勉強してもらわなきゃいけないのよ」
「うん」
「なのに、なんでやれないの?」
お母さんの指が、問題集の表紙をトントンと叩く。
「お隣の武ちゃんは夏期講習に行って、家にいる間は宿題して、一日何時間も塾でお勉強してるのよ? 模試だって何回も受けてて、あなたはまだ一回しか受けてない」
「そうだね」
「大変なのよ? なのになんで、勉強できないの」
最後はちょっとだけ、語気が強かった。顔を上げて様子を伺っても、お母さんは真っ直ぐに僕を見ているだけだ。
沈黙。
お母さんは僕の言葉を待ってる。僕が喋らなければ、このままずっと睨めっこを続けるんだろう。
お母さんが、ドラマか何かみたいにヒステリックな声を上げて怒り散らしてくれればいいのに。そしたら、僕も同じように癇癪を起こして、部屋に引きこもれるのに。
「だってさ……」
べっとりくっついていた口を開いて、僕は言う。
「だって、しなくたっていいじゃん。僕よりバカな奴なんていっぱいいるし、それにほら、部活とかでまだ勉強してない奴だっているのに」
「人は人、あなたはあなたよ。関係ないじゃない」
「僕だって人だよ。なんで僕ばっかり、いい子にしなくちゃいけないのさ」
「僕ばっかりってあなた……」
そうだ。大人はみんな、子供にいい子にしろと言う。いい子にすることがさも、この世で最も偉いことだとばかりに言う。
でも、周りを見てみれば、悪いやつの方が多いじゃないか。宿題を忘れるやつも、窓ガラスを割ったやつも、みんな普通に生きている。
犯罪者だって刑務所で生きているっていうのに、なんで勉強しなきゃいけないんだ。
「別に、なりたいものもないのに。勉強なんて使わないよ」
「そう言って、後からやっておけばよかったってなったらどうするの」
「ならないかもしれないじゃん」
僕は精一杯訴えるのに、お母さんに届いてる気はまるでしなかった。眉一つ動かさないその様は、まるで漫画の大魔王みたいで、怖い。
結局、どれだけ僕の気持ちを口に出したところで、お母さんを倒すことはできなかった。それは正しいからなんだろうな。僕はうなだれて、ごめんなさいを言う準備をする。
その時思い出したのは、ブランコから飛び出した天音だった。あのかっこいい姿と比べて、僕はなんて情けないんだろう。
だからといって、僕にできることは何もない。
「……ごめんなさい」
「わかってくれたならいいのよ。お盆休みはお母さんも付き合うから、一緒に頑張りましょ。ね?」
「うん」
「さて、じゃあお昼にするわよ。優、何食べたい」
「なんでもいいや」
手をパンと叩いて切り替えたお母さんが、手際よくお昼ごはんの準備を始めた。僕は食卓に座ったまま、並べられていくご飯を食べた。
その後は、お母さんと一緒に過去問を解いて、僕がたいして頭の良くないことを証明された。早く終わらそうとして手を抜いた結果でもあるのだけど、お母さんは頑張ろうと励ましてくれた。
夜、お父さんが帰ってきて、勉強はやめて夜ご飯を食べて、今は布団に潜っている。明日のことを考えていた。明日のことを考えていれば、僕は楽しくいられる。
そうだ。明日は自転車を持ち出して行って、天音を後ろに乗せてやろう。