プロローグ
がっしゃ、がっしゃ。
脚が悲鳴を上げていた。あのクソ教師の非じゃない。校庭を何周もするより、この坂一つ登り切る方が絶対に辛い。
「頑張れ優くん! 倒れたら一大事だからね?!」
うゔっ、ぐるじぃ。
自転車の荷台に横向きに腰掛けた天音が、僕のお腹にしがみつく腕の力を強める。女の子のやわこい体が密着してる……なんて考えても、胸を締め付けるのは体力的苦しさだ。
「ぐぎぎ……!」
「あはは、変な声ー」
跳ねるような笑い声に、僕は絶対に仕返しをしてやると決めた。自販機で飲み物を買ってあげるにしても、振りに振りまくったコーラを渡してやろう。
来たる爽快感に期待を膨らませ、ぐいっと顎を上げる。しみったれた住宅街にまっすぐ伸びた坂道は、青空の水色へと届くようだ。
僕らはきっと、あの水色の中どこまでも行ける。坂道の端に辿り着けば、僕らを乗せた自転車は重力から解き放たれて、どこへでも行ける。
ただ、後ろに彼女が座っていなかったら。たちまち墜落してしまうのだろう。
「も、もうむり……」
「え、ちょ! ばかぁ!」
脈絡もなく恥ずかしい妄想をするくらい、僕は疲労困憊だった。
◇◆◇
中学三年生、夏休み。セミの鳴き声と、遠くに聞こえるガキンチョのはしゃぐ声。魅力もないくせに立地条件だけで日本トップクラスの人口を獲得する某県在住の僕は、一人でウロウロと過ごしていた。
友達はみんな、学習塾に行っている。両親共働きでやっと暮らしている僕は、行ってない。
詰まる所、僕にとって今年の夏休みというのは、僕を一人きりにする期間だった。
「あっつ……」
そんな僕が何をしているかといえば、家々がギザギザと描く影の中を、なるべくはみ出ないように歩いている。間違えた。自分の家から逃げている。
「塾には行かせてあげられないけど、おうちでちゃんと勉強するのよ。お友達はこの夏でうんと勉強するんだから」
夏休み初日、早口に捲し立てたお母さんを覚えている。昔取った『わーぷろ検定』とかいうので掴み取った、データ入力の仕事へ出かける直前のこと。
夏休みだからとたっぷり寝たばかりの僕は「ふぁい」なんで返事して、すぐに後悔した。
だって、ラップのかかった朝ご飯の横には、ずしんずしんと問題集が置いてあったのだから。
「あんなの、やれるわけない」
特に目立ったのが、『S県公立入試問題集』とか書かれた一冊だ。ざっくりと黄色と黒でカラーリングされたそれは、まるで工事現場の角とか、駅の階段のフチとかにありそうな色合いで。僕に向かって、「お前ヤバイぞ、危ないぞ」と言ってるみたいだった。
確かに、僕は成績が良いわけじゃない。平均点を超えたことに一息ついて、前回より数点下がったことにため息をつくような、そんな感じ。
でも、行きたい高校もないんだから、ヤバイなんて言われたってわかるもんか。そもそも、どうせ勉強しなきゃいけないのに、『高校に行きたい』なんて思う方がどうかしてる。
声に出して言うと、僕の友達のいくらかもキチガイになっちゃうから言わないけど。
だから僕は、問題集やなんかを自分の部屋の奥に押し込んで、ここにいる。
「あーあ、つまんねぇ」
脇を走り抜ける小学生の集団を脇目に、石ころを蹴った。ころころ、ころころ転がって、見事排水溝にゴールイン。落っこちた。
友達と一緒なら、自慢して、煽って、みんなで石の蹴り合いを始めるのに。なんだかムズムズした僕は、それに任せて走り出す。道路に打ち水をしていた内閣総理大臣みたいな顔のおじさんが、なんだなんだと僕を見る。
そのまま、マンションの角を曲がった。舗装もされていないじめっとした茶色が覗く砂利道は足元がぐらついて、何より急だ。半分、転げ落ちるような心地で駆け抜けるのが楽しい。
裏道に出て、脚の骨にまで響いてそうな衝撃を感じながらブレーキングすれば、第二公園はもう少しだった。
あそこは、塗装の剥げたブランコと滑り台と、あとやけにピカピカの防災倉庫くらいしかないけど、その分、人もいなくてゆっくりできる。
周りをまばらに囲むガサガサの樹も相まって、秘密基地みたいな場所……だったのに。
ぎっこ、ぎっこ。
こんな朝っぱらから、誰がいるんだろう。僕は生唾を飲み込んで、公園に足を踏み入れる。
果たして、そこにいたのは一人の女の子だった。
「あ、お邪魔してます」
「え? あぁ、うん」
すごく自然に言うもんだから、別に僕の家でもないのに返事をしてしまう。女の子はにししと笑って敬礼をしてみせた。
ブランコをぶらぶら揺らして、ついでにポニーテールもぶらぶら揺らす彼女は、ラフなTシャツにショートパンツといった出で立ちで、こんがり日焼けした肌と合わせてスポーティだ。普段はもう少し袖の長い服を着てるのか、裾からは日焼けしてない白い肌がチラチラとしている。
なんだかドキドキした。
「何してんの?」
言葉はするりと滑り出た。
「んー、わたし?」
「他にいないだろ」
「それもそうだ」
女の子は自分を指差してから、得心したとばかりに手を打つ。なんだか芝居臭い子だと思った。
彼女はブランコに座ったまま自分の右脚を上げ、指差す。
「なんていうか、怪我の療養中、かな」
その足は、漫画か何かの冗談みたいに、包帯でぐるぐる巻きだった。よく見れば、ブランコを囲う柵には松葉杖が立てかけてある。
「骨折?」
「そうそう、部活でやっちゃって。そしたら部活休めって言われたから、暇してるの」
「そりゃそうでしょ……」
まるで部活に出るつもりだったみたいな口ぶりに、呆れた声を出す。彼女は誤魔化すようにはにかんだ。そして、別の話題を振ってくる。
「君はよくここに来るの?」
「あー、うん。暇だから」
「部活とかないの?」
「中学三年生でさ。俺弱いから、部活は早々に引退になっちゃったんだ」
「へー、残念」
「そういう意味では、俺も一緒」
「……そうだね」
何の気なしに言うと、女の子はちょっと言い淀んだ。もしかしたら、ちょっと馴れ馴れしかったのかもしれない。さっき会ったばかりで、名前も知らないんだから。ちょっと焦る。
「えぇっと、これからもここに来るの?」
「そうだね。わたしも暇だし」
「じゃあさ、名前教えてよ」
「そういえば、自己紹介してなかったね」
ハッとして、彼女はブランコから立ち上がった。そのままけんけん歩きでブランコの柵に近寄るもんだから、危なっかしくて仕方ない。僕は急いで駆け寄って、松葉杖を渡してあげる。
ふわっと感じた彼女の汗の匂いは、ミントみたいに爽快だった。
意識して、変態みたいだと思って、鼻を擦る。その間に女の子は、いよっと松葉杖を両脇に挟んで、ブランコの柵越しに立った。
「どうも、我妻天音です。怪我が治るまで、よろしくね」
「えっと、須原優です。よろしく」
ちょうど背景の青空みたいな笑顔に、僕は口籠ってしまった。差し出される手のひらに、急いでズボンで手を拭いて応える。
「あはは、気にしなくて良いのに」
「気にするよ。我妻さんだって嫌だろ」
「えー、そんなことより、わたしは我妻って呼ばれる方が嫌だな。可愛くない」
「じゃあ……天音」
「呼び捨てかぁ。じゃあわたしは、優くんね」
なんでだよ、とぼそっと突っ込んだら、何が楽しいのか笑われて釈然としない。手のひらに伝わる感触は、漫画とかでよく見るように柔らかいだけじゃなくて、こりこりと硬い感触もあった。