アラビアンナイトはバラの香り
「すごいリムジンだな。あんなクルマ、路地にはいれない」
六本木通りにバカでかいリムジンがとまると、横山を先頭に五人の背広姿が整列した。運転手が静かにドアをあけると、白いワンピースのような民族衣装を着た男がおりてきた。横山が笑顔で出迎えると、あとから、ぞくぞくと同じ服装の男たちがおりてくる。
「なんだ。ひとりじゃないのか」
「アラビアで地位の高い人は、かならずおつきの人を連れてきます。きょうは人数をしぼられたようですね」
となりに控えている通訳が横山に説明した。
「しぼった?それでも十人はいるぞ。こっちとあわせて十五名か。席と予算はだいじょうか?」
「席関係はすぐに押さえます。予算関係は部長がなんとかしてくださいよ」
吉崎が携帯電話で店に連絡をしながら答えた。
「わかったよ。毒を食らわば皿までだ。しかし、どれくらい心づもりすればいいんだ」
吉崎は二本のゆびを立てて、横山にさしだした。
「ひとり二万円で総額三十万か。きついなあ」
「部長。ケタが違うよ。総額二百万はいくね」
「二百万?ひと晩飲んだだけで、そんなにいくの?まいったな」
「だいじょうぶ。会社のカネですよ。サインをすればいいだけだ。どーんと行って、どーんと儲けましょう」
泉川がそういって横山の肩をたたいた。
六本木の薄暗い路地に、砂漠の隊商のような集団が歩いていく。すれちがった若いカップルが、夢の国に迷いこんだみたいな顔で見送った。
会員制アラビアンクラブ「アリババ」は路地をすこし歩いたマンションの地下。黒光りするような木製の大きなドアの中央に、古い銅製の呼び鈴がぶらさがっているだけで、看板はおろか、店名のプレートすらでていない。
「さあ、部長。この鐘を鳴らすのは、ブチョー」
「うむ」
横山は神妙な顔つきで呼び鈴をならした。この扉の向こうにはセクシーハーレムが広がっている。そしてその先には、もういちど自分を出世街道に導くビジネスの果実が実っているのだ。
呼び鈴はいままで聞いたことがない美しい音色を響かせた。これからの未来を暗示しているようだ。
「部長、呪文を」
「うむ。ひらけー、ゴマラー油」
そして心なかで続けた。ひらけー、わたしの未来よ。
静かにドアがひらくと、あたまにターバンを巻いたボーイが炎をふき出すランプを携えてあらわれた。あとは空飛ぶカーペットにのって姫のまつハーレムへ。
店の中は、ピンクのような緑色のような、妖艶で不思議な光に満ちている。奥の中央には円形のダンスステージ、それをとり囲むように、いくつかのまるいボックス席がある。ステージ正面のテーブルにつくと、となりには王族の青年が座った。
ターバンからのぞく横顔は、脂が浮くほど肌つやがよく、四十五歳と聞いていたが、青年というにふさわしい若々しさだ。かるく会釈をすると、上品なしぐさで微笑みがかえってきた。
すぐに、ふたりのすき間を美女が埋めてくれた。美しいだけではない。ただのコスプレ集団ではない。座るだけで淫靡な空気がソファに満ちあふれる。そしてエロスのオーラと甘い香りが悶々と漂ってくるのだ。
「お酒を召しあがるまえに、すこしお口に潤いをどうぞ」
美女が薄いピンク色の飲み物をさし出した。部屋と同じ、そしてこの美女と同じ、甘い香りがする。
「これは」
「バラ水ですわ」
美女がこのバラ水をさし出すと、アラビアの王族も、にこりと笑って、満足そうに口をつけた。
テーブルには色鮮やかなフルーツが大きな銀皿にのせられて運ばれた。さらにキャビアをのせた前菜、特大のローストビーフにはトリュフのソースが添えられている。
「イスラムの方の食事は、制限があるそうだが」
横山が豪華な皿を眺めながら確認すると、美女はかろやかに笑った。
「もちろん、すべてハラールフードですわ。こちらは、バラの花びらと一緒に蒸溜したブランデー。すてきな香りでしょ」
「ここは、ばらの園なんだね。香りもお酒も、そして君も」
「まあ、お上手ね」
「そういえば、イスラムではお酒は禁止ではないのか」
「厳格なかたもいらっしゃいますが、このお客様は、すこしたしなまれるようですわ」
彼女が王族の青年に話しかけると、クリスタルのブランデーグラスを胸の前に掲げて、アラビア語で返す。
「我々はけっして酒を飲まないというわけではない。大事なのは、我を忘れてはならないということだ。酔って、お祈りを忘れ、戒律を忘れ、自分を失ってしまうことは、人間として最低な行為だ。我々はお酒をたしなむことは厭わないが、泥酔すること、そして泥酔する人物は忌み嫌うのだ」
冷静な通訳の言葉を聞きながら、横山はふかくうなずいた。そして、通訳に語りかけた。
「わたしもその意見には大賛成です。お酒は美しく、上品にたしなむものだと、思っています」
通訳がアラビア語に訳すと、王族の男は横山に握手を求め、ブランデーグラスを重ね合わせた。
向かいのテーブルの吉崎がショートホープをとり出すと、となりからほそくて白い腕がしなやかにのびて、バラ色のスリムなライターが静かに炎を点じた。
至福の笑顔で吉崎が煙を吐きだした。それを見たアラビアの男たちは口々に不満そうな様子でなにかを訴えている。もしかしたらイスラム世界では、タバコもタブーなのか。とすれば、吉崎の行為が彼らの機嫌を損ねるのではないか。
「これは遊びじゃない。失敗の許されないビジネスなんだ」
軽薄な顔で酒を飲んでいる吉崎の耳もとで怒鳴ってやりたい。たかがタバコでこのビジネスが潰れたら、おまえをクビにしてやる。そう思って吉崎を睨みつけた。
しかし女たちが細長いチューブがまきついたガラス燭台のようなものを持ってくると、アラビアの男たちに笑顔がもどった。
「あれ、なに?魔法のランプかい」
「ふふふ。おかしな部長さん。魔法のランプだなんて、かわいいおかたね」
しばらく様子を見ていると、男たちはガラス容器につながる真鍮色のキセルをくわえて、満足した様子で煙を吐きだしている。見たこともない風景だ。いったいあれはなにをしているのだろう。違法の匂いがぷんぷんと漂ってくる。
「なに、あれ。ヤバクないの?アヘンとかじゃないよね」
「ふふふ。おかしな部長さん。ここは魔法の国ですわ。でも、あれはただの水タバコ。水を通して煙を吸うガラスのパイプなのよ」
「これはなかなかおもしろい。ちょいと風流だ。どうです、部長も一服関係」
吉崎が声をかけたが、横山はかたくなにクビをふった。ここはガマンだ。今回のプロジェクトが成功するまでタバコは断つ。禁煙が成功すれば、プロジェクトもかならず成功する。横山はそう信じることにした。