グローバル戦略の曲がり角
翌日は営業本部会議だった。午後の開始を前に全国の営業幹部が続々と東京本社に集まってきた。横山は眠い目をこすりながら資料に目を通す。しかし数字も言葉もまったくあたまにはいらない。モニカにストーカー扱いされたことがくやしくてならず、昨夜は一睡もできなかった。
なにも罪に問われるようなことはしていない。もう一度、英会話教室に行ってしっかり説明するべきだ。いや、君子危うきに近寄らず。つまらないことで本当に警察沙汰になればどうなる。役員候補が一転、即解雇である。しかし、このままでは自分の気持ちはおさまらない。やはりもう一度説明すべきだ。
「グッドモーニング、ミスター横山」
英語で呼ばれて顔をあげると、同期入社の重松だった。重松は大阪支社の営業部長の職にあって、いわばライバルといえる存在だ。気持ちがわるいくらいに上機嫌である。大阪の売上はここ半年ほど低迷していて、冗談をいえる気分ではないはずなのに、かみ殺してもかみ殺しても笑いがにじみ出る、そんな顔をしている。
「大将、ずいぶん、ご機嫌だな」
「ご機嫌どころか、まな板の鯉やがな。いまも、専務に呼ばれて、こってり絞られてきたところや」
ピンときた。なるほどそういうことか。
「ユーはヘビースモーカーやったなぁ。バッドやがな。これからのビジネスは、ヘルシーでスマートに、ゴーせなあかんで」
こんな男までが、営業トップの候補にあがっているのか。あの専務のセンスはいったいどうなっているのだ。重松と入れ替わるように、こんどは名古屋支社長の松本があらわれた。
「最近は、マーケットのグローバル化を実感するよ」
「松本さんも英会話ですか?」
「いやいや。ビジネスマンとしてのコモンセンスだな。カスタマーがグローバル化している以上、こちらもイングリッシュくらいはスピークしないと、ビジネスがスムーズにゴーせんのだよ」
横山は頭痛を感じた。まるで合わせ鏡のように松本と重松の顔が無限に続いていた。
午後の営業本部会議は、カタカナ英語の大合唱のようになった。それをブルドックのような笑みをたたえて藤堂専務が満足そうに見つめている。
休憩時間に声をかけてきたのは東北営業所長の貝原だった。五年年上の貝原は人望が厚く、一時は役員候補という噂がたったが、藤堂専務と反りが合わなかった。今回も声がかからなかったらしい。
「あのブルドッグは、営業の部長職には軒なみ声をかけているんだ。おかげでうちの会社は仕事そっちのけで、英会話ごっこだぜ」
「いったい、何人に声をかけているんでしょうね。英語の成績でしぼりこむつもりですかね」
神妙な表情で訊くと貝原が意外そうな顔をして笑いだした。
「律儀だね。おまえは、まともに信じてたのか」
「信じるもなにも、専務は後進に道を譲るために、テストをしてるのでしょう?」
「あのブルドッグがそんな殊勝なこと考えると思うのか。ブルドッグはつかんだ権力は死んでも離さんよ」
「どういうことです?」
「英語と禁煙を自分の手柄にしたいのさ。やはり営業をまとめることができるのは藤堂だと、自分のことをアピールするつもりだよ」
会議が終わると懇親会が用意されている。夜景が自慢の本社ビルのラウンジに集まってビールと軽食で乾杯し、情報交換を行うのが通例である。乾杯の発声はもちろん藤堂専務である。
挨拶の席に進んだ専務の横に、黒いスーツ姿の女性がならんだ。
「見てみろよ。あれが、こんど来た専務専属の通訳らしいぜ。なかなかの美人じゃねえか。エロじじいだよな。会社の金で好き放題だぜ」
人の輪の外に立っていた横山は、貝原の耳打ちに反応して、からだをねじり背のびをして専務のとなりの女性をのぞきこんだ。
「あっ……」
思わず声がもれた。
長い金髪、ブルーの瞳、陶器のような白い肌。まちがいない。モニカである。
やさしく英会話を教えてくれたモニカ、この私をストーカー扱いしたモニカ、美しいうしろ姿を見せて去っていったモニカ、そのモニカが藤堂専務のとなりに立っている。
なぜだ。いったいなにが起こったのだ。めまいを感じて足もとがふらついた。ここにいたら気が狂いそうだ。
横山は乾杯の輪からそっとぬけ出した。オフィスの外にでてやみくもに歩く。タバコが吸いたかった。とにかくタバコが欲しい。黄色い看板に吸い寄せられるようにコンビニのドアをあけた。
「ショートホープとライターだ」
「こちらですね」
店員からむしりとるようにタバコをつかむとそのまま外にでた。
灰皿の前に立つとふるえる手つきでビニールの包装をはがす。一本くわえる。ライターの炎が目の前でゆれる。濃厚な煙を胸の奥に吸引する。一服するとすこし気分が落ちついた。
夢にまで見た役員のイスはあきらめるしかない。グローバル経済がもたらした、長いような短いような夢の世界が幕をとじた。白い煙を吐きだしながら、横山は静かにつぶやいた。
「わが社のグローバル戦略は、苦いぜ。三日ぶりのショートホープみたいにな」