愛しのモニカ
きのう初めて出逢ったばかりのモニカがすぐ目の前にいる不思議。横山は言葉を失って、彼女の美しいブロンドヘアーを呆然と見つめた。
「I am Manika.what happened?」
「ハーイ、モニカ」
「No.No.Manika」
発音がわるいらしい。
「アイム、ソリー、モニカ」
声にだしてから前島と関口が同席していることに気づいて、急に恥ずかしくなった。
自分でも耳の辺りが赤くなっているのがわかる。しかし、あともどりはできない。モニカが英悟で話しかけてくるのだ。
「Do you study English today?」
してるよ。きょうは電車でみっちり勉強しましたよ。
「アイ、スタディ、イングリシュ、イン、マイトレイン、トゥデイ、モーニング」
「Oh! You are an excellent student.」
また褒められた。そしてモニカが笑顔になった。
「Good bye Daisuke. See you next time.」
やはり自分の名前が「大好き」に聞こえる。モニカは手をふって出口に向かって歩きだした。ポニーテールにまとめた長いブロンドが揺れている。彼女が去っても、横山の脳裏にモニカの笑顔が心地よい残像として残った。
「部長、いったいだれです。あの金髪美人は。どうして、部長が……」
香水の残り香のような余韻を前島の言葉が叩きこわして、横山は現実へとひきもどされた。なるほど、もっともな疑問だ。外国人の金髪美女と知り合いだなんて、二日前なら自分でも想像すらできなかった。
「まさか、部長。高級コールガールじゃないでしょうね」
インバウンドで観光客がわんさか来日しているというのに、いったい脳みそになにをつめこんでいるのだ。この男は早晩、国際問題をひき起こすにちがいない。
こんなくだらない質問は無視してもいいが、買春疑惑をこのまま放置はできない。
「じつはきのうから、英会話教室に通っているんだ。なにせ、グローバル経済だからな」
「英会話?」
「へんな声をだすなよ。ビジネスマンとしてのたしなみだ。英会話ぐらい」
そうだ。なにも恥ずかしがることはない。企業人の必須スキルだ。いまや経済はボーダレスだ。営業も世界に目を向ける必要に迫られている。日本を代表するラビット化学工業の部長が、英会話教室に通うことになんの不思議もない。
「しかし、部長が海外志向だとは思いませんでした。わが社のグローバル戦略を遂行するわけですね」
会社の方針におもねる姿に皮肉をこめていったのかもしれない。しかし横山はそんな前島を若いと思った。専務直々に後継者候補に指名されているのだ。役員のイスがすぐ目の前にあるのだ。私は迷わず、ジャガポックル社長のイヌになる。
その夜、横山は銀座にでた。得意先との会食までにはすこし時間があり、書店に立ち寄った。なんだか背のびをしたい気分で洋書コーナーに足を運ぶ。原書で読めるはずはないが、ちょっと眺めているだけでも、インテリになった気分を味わえる。
しかし経済書をひらいた横山はめまいを感じながら本を元にもどして、となりの童話コーナーから一冊ひきぬいた。
「Alice in Wonderland」
いいおっさんがアリスの絵本をどこで読むかね。部下に見られた日には、どんな反応になるだろう。
「あの部長、不思議の国のアリスとか原書で読んでんのよ。あんな顔してロリコンなの。バカじゃないの。いい年して」
口さがないベテラン女子社員の顔が浮かんで、絶望的な気分で表紙をとじた。
とてもじゃないが、こんな本をもち歩けない。本棚にもどそうと手をのばした時だ。女性の声が横山の名前を呼んだ。
「Hey Daisuke.Good evening.」
やはり「大好き」だ。まさか一日に二度も出逢うなんて。ポニーテールに束ねていた髪をおろして、今はさらさらとした綺麗なブロンドヘアーが背中に広がっている。モニカが髪をかきあげると横山は、その美しさに息をのんだ。
「Oh!.Alice.this is a very lovely story.」
横山が手にした絵本を見つけると、モニカがうれしそうに笑った。
「アイ、スタディー、イングリッシュ、デス ブック」
「Very wonderful! It is very effective to study English. You are a diligent student」
「サンキュー。アイ ライク アリス」
なにいってんだ。おれは……。
「You are so innocent.」
モニカは横山の学習態度を何度も褒め、さらに不思議の国のアリスについて、幼いときの思い出を語った。この絵本ばかりを読むので、アリスの絵本だけがぼろぼろになってしまって、他の本も読むよう母親に怒られたそうだ。ああ。なんというかわいい女性なのだろう。
ちょっとまてよ。このあとの彼女の予定はどうなっているのだろうか。このまま、お茶でも誘ったら失礼なのか。夕暮れ時の銀座である。お茶やコーヒーというのも味気ない。相手は大人の女性だ。ビールの一杯でも、お誘いするのが礼儀ではないか。
食事をするなら、有名なビアホールがすぐそこにある。しかし、銀座らしい落ちついたところのほうがよくないか。やはり、和食か。しかし、生の魚は大丈夫か。洋食のほうが無難だろうか。食事をすれば、バーに誘うのもスマートだ。粋なバーでカクテルグラスを傾け合うのもわるくない。バーの暗がりのなかで見るモニカの姿は天使のように美しいにちがいない。
酔ったモニカが甘えるように私の肩にしなだれかかり、私は無言でそっと彼女の肩を抱きよせる。バーをあとにしたふたりはからだをよせ合い、やがて一つになって夜の闇に溶けていく。なんのきっかけもなく、目が合った瞬間、無言のまま唇が重なり合う。
あるかもしれん…。むむむ。もしかしたら、あるかもしれん。得意先の会食など、もう、どうでもよい。そんなことより、もっと重要なミッションがあるのだ。
「もし、時間があれば、ビールでも一緒にのみませんか?」
モニカの表情がとつぜん変わった。ビックリしたように大きく瞳を見ひらいて、ふかいため息をついた。
「No.No. No thank you.I have no time right now.」
去っていく女はいつも美しい。藤堂専務の言葉を思い出すと、無性にタバコが吸いたくなった。
禁煙三日目の午後。横山はある病院に向かった。懇意にしているお得意先の部長が交通事故で入院しているという情報を得たからだ。重篤な病気や怪我ならお見舞いも遠慮するところだが、自転車でころんで骨折という命に別状のない入院だった。
都内でも有名な総合病院で、ロビーは患者や見舞客でごった返している。横山は受付で入院患者の名前をつげて病室を教えてもらった。エレベーターに向かった瞬間、遠くに長身の女性が見えた。ブロンドの美しい髪が輝いている。まちがいない。何度も目をこらしたが、まちがいない。
この広い東京の街で偶然二回も出逢った。そしていま三度目の偶然がそこにある。偶然の出逢いが三回続くと、それは運命の人だと聞いたことがある。出逢うことを運命づけられたふたりなのだ。
運命のひとがブロンドの髪を揺らし、黄金色の光をふりまくようにまっすぐ私に向かって歩いてくる。
神様。仏様。これが運命なのか。妻よ。息子よ。すまない。私は運命に従って、地獄へ落ちるしかない。みずから火宅の道へ進むのだ。
自然にからだがうごいた。横山は泳ぐようにしてモニカに近づいていった。
「Hi Manika.」
横山を見たモニカは、雷に打たれたようにはたと立ちどまり、ゆっくりと長い髪をかきあげた。
「Shit.このクソ野郎」
短い言葉を吐きすて足早に通りすぎていく。横山は反射的にあとを追った。
「What happened?」
モニカがふり返った。ブロンドの美しい髪がきらきらと輝いていた。
「なんやねん。あんた、ストーカーやろ。これ以上つきまとうな。オッサン、気持ちわるいねん」
自分がストーカー扱いをされていることよりも、美しいモニカが関西弁を話していることに衝撃を受けた。
「Oh. Manika.」
「なれなれしいねん、モニカとか、いうな。こっちは、わかってるねんで。ずっとストーカーしてるやろ。毎日、わたしをつけてるやろ」
ふたりの周囲が騒然となって、ロビーにいる全員の視線が美しい外国人女性と中年サラリーマンに注がれ、横山は正気にかえった。ようやく窮地に追いこまれていることを理解した。
「No! No!.It is accidental.」
「アホか。なにが偶然やねん。いつも、いやらしい目で見てたやろ。このどスケベ」
「No.No. You misunderstand me.I just want to study English.」
「このドテかぼちゃ。なにが英語やねん。外人のオンナが好きなんやろ。これ以上、つきまとったら、警察につきだすで」
警察という言葉が横山を凍りつかせた。背中に注がれる鋭い針のような視線を無数に感じながら、横山は無言でその場に立ち尽くした。