紫煙の誘惑
ぼく一人だけがぶざまに咳きこんで涙を流した。どうにもくやしい。なんとかならないだろうか。
この失態を帳消しにして、横山大輔の面目をとりもどすには、どうしたらいいのだろう。
「ええこと、思いついた」
チェリーが入道雲を見つめながらいった。きっと、白い雲がタバコの煙に見えたのだろう。
「おれらだけの秘密基地をつくって、そこで、だれにもないしょでタバコを吸おうぜ」
「なんやねん。チェリー、不良やなあ」
「あかんか?」
「めちゃめちゃカッコええやん」
「大ちゃんは?」
「サイコーやんけ」
ぼくも思わず大阪弁になった。すばらしいアイデアだ。もういちどチャンスをくれて、ありがとうチェリー。君は遊びの天才だ。
こんどは、涙を流したり、ゲロを吐きそうになったりせずに、カッコよくタバコを吸ってやる。
翌日から小学校四年生のスモーキングライフが始まった。
ぼくらの住む尼崎の海沿いの街には秘密基地の候補が山ほどある。空家になった鉄工所、放置されたままの自動車解体工場、鉄くずとガラスの山、稼動がとまったセメント工場。なかでも、気に入ったのが建材屋の材木置場だ。
「ここは、最近、夜逃げしよった」
スナック「チェリー」の一人息子は、近所のことはなんでも知っている。
草むらに高くそびえるフェンスのてっぺんには有刺鉄線が巻かれている。しかし灯台もと暗し。足もとに一か所だけ、なんとか子どもがはいれるほどの切れ目があった。
なかにはいると、細長い材木やパイプを立てかけた三角の塔、塔の横には砂利が山をつくっている。そして砂利の山のむこうは海。尼崎の海は残念ながら、ヘドロの浮いた茶色い水でにおいも強烈だ。
パイプや材木の陰は人目をさけて三人が輪になって座れるほどのスペースがあった。ツヨシは腰をおろして、ランドセルのなかからマイルドセブンをとり出した。
「ランドセルにタバコいれてたんか。やるなー。ほんまもんのワルやなー」
チェリーにいわれて、ツヨシはまんざらでもない顔でにやりと笑った。
「とうちゃんのタバコかっぱらって、給食袋のなかにかくしておいた」
「ツヨシは大悪党や。デビルマンや」
「へへへ。悪魔の煙をチューチュー吸うたるねん。放課後がたのしみやったで。さっそく吸おうぜ」
マッチをすると、湿った土のうえに火薬のこげた匂いが漂った。
ツヨシは頬をふくらませて目を白黒させている。口を尖らせて慎重に煙を吐きだす。体までくねくねとうごかすので、まるでタコ踊りだ。タコになって煙を吐きだすたびに、ぼくらは笑いころげた。
「次、大ちゃん吸えや」
軽い緊張が走る。もう、失敗はできない。また涙を流したりしたら、ぼくはタバコも吸えないダメ小学生になってしまう。
のどに流しこまないように注意して、リスのように頬をふくらませて煙をたくわえる。ここが肝心。のどに行かないようにしながら煙をすこしずつ吐きだしていく。ツヨシのマネをして、タコ踊りも忘れない。
頬の空気がぬけて、白い煙が一筋のぼると、ふたりが地面にころがって笑っていた。
「大ちゃんが、タコになって墨を吐きだした」
足をバタバタさせて笑っていたチェリーが続いてタバコをくわえると、タコが三匹ならんだ。
ぼくはタコ仲間と踊りながら叫んだ。
「タバコ、サイコー」
覚えたてのタバコの味は最高だった。タバコをくわえて火をつけると、その瞬間だけはおとなになれた。
夏やすみを前に短縮授業になったころ、チェリーが学校の理科室からアルコールランプを拝借してきた。これはヒットだった。うす暗い基地のあかりとりになり、ライターがわりになり、コンロになった。
「ええもん、持ってきてん。これ焼こうぜ」
チェリーは鼻をふくらませながら紙包みをとり出した。
「うわ。よっちゃんイカやんけ」
すばらしいアイデアだ。やっぱりチェリーは遊びの天才だ。
よっちゃんイカの串を持ってアルコールランプにかざす。タバコとはちがう香ばしい煙が立ちのぼる。せまくて暗い基地のなかにイカ焼きの匂いが充満すると、よだれがでそうだ。
ぼくらは唇をやけどしながら、よっちゃんイカを食いちぎり、その合間にタバコの煙を吐きだした。
アルコールランプ導入をきっかけに、トランプがもちこまれ、コロコロコミックがころがり、安物のおもちゃがならんだ。そのなかにパチンコがはいっていた。パチンコ屋さんのほうではなく、Y字状のプラスチックにゴムが張ってあるパチンコだ。
チェリオの空き瓶を土管のうえにセットして、小石をはさんで狙いを定める。これがふつうの小学生の遊びとちがうところは、タバコを吸いながら戦うことだ。これがカッコいい。射的ゲームが、タバコを一本くわえるだけで西部劇の一場面になる。ぼくらは荒野を疾走する用心棒であり、早撃ちガンマンであり、馬車を襲撃する強盗だ。
最初にチェリオの空き瓶に命中させたのはツヨシだ。小石があたるとチーンといういい音をさせて土管から落ちていった。それを満足そうに見ていたツヨシはアゴをなでながらつぶやいた。
「うーん。マンダム」
ぼくとチェリーは地団太をふんだ。チキショー。はやく命中させてアレをやりたい。しかし、ぼくらの宝物は翌日の昼やすみに河野先生に没収された。チェリーが消ゴムを飛ばして女子にあてたことが先生にバレたのだ。ぼくらがいくら大悪党でも河野先生には勝てない。メガネカバゴンという新怪獣なので、地球防衛軍なみの兵器が必要だ。
「なにか、パチンコのかわりになるもんないかな。空き瓶が一瞬でバカーンとなるようなもんは」
「そんな破壊力があるのは、本物の拳銃くらいだよ」
「さすがに拳銃は手にはいらんな」
ヒゲのないチャールズ・ブロンソンは残念そうに目をほそめて空を見上げた。
「本物か。ええこと思いついた」
チェリーの声にふたりがふり返る。この天才はまたしても、ええことを思いついたのか。
「本物をつくろう。パチンコはもっとおおきいのをつくって、ゴムも太いのをとりつける。それから、タマや。パチンコには、パチンコ。本物のパチンコ玉を飛ばすんや」
「スゲー」
すばらしいアイデアだ。やっぱりチェリーは遊びの天才だ。こんなに天才なのに、どうして分数がわからないのか不思議なくらいだ。
さっそく武庫川の河原や公園、ゴミ捨て場をまわって、とにかくY字状の大ぶりの枝をさがし歩いた。ちょうど植木屋がはいっていた神社のうらから、チェリーが拾ってきたのは、鹿の角のように広がった枝だった。
「さすがに、これはデカすぎるやろ。チェリー」
「なんでやねん。ぜんぶ使うんとちゃうで。この部分見てみぃ。ええ感じのY字やろ」
チェリーはY字になった、お股の部分を思わせぶりにゆっくりとなであげた。
「この部分をのこぎりで切りだすねん」
「さすがチェリー。これなら太い軸の部分が、ちょうどにぎりやすい大きさだよ。おれもさがそう」
「おれも、おれも」
植木屋の剪定くずからバカでかい枝を秘密基地に運び、糸ノコでY字に切りだす。紙やすりでなめらかにして、にぎり部分には布テープを巻いてドクロの絵を描いた。仕上げは特大ゴムバンドをとりつけ接着剤で固定する。
ぼくらは、江戸時代から続く伝統工芸の職人のような真剣さで、パチンコづくりに向き合った。この半分の情熱で勉強をしたら、きっと東大にいけただろう。
「あとは、パチンコ玉やな」
「どうするの?」
パチンコ玉の入手方法など、ぼくには思いつかなかった。
「きまってるやん。パチンコ屋に行こう」
「そうそう。ぜったい床にパチンコ玉が落ちてるから、それを拾うねん」
「子どもだけで、パチンコ屋にいくの?」
「そうそう。親と来てるふりをするねんで」
ぼくは半信半疑のまま、チェリーの言葉にうなずいた。