過去と未来の交差点
昼間タバコをガマンしていた横山は、新橋のガード下で縄のれんをくぐると、矢も盾もたまらず立て続けにタバコの煙を吸いこんだ。
「やっぱり、タバコはうまいねぇ」
何度となく禁煙に挑戦して、ことごとく失敗してきたが、それでよかったのだ。
男の人生にはコイツが必要なのだ。
学生のときから背のびをして吸ってきた。苦しいときも、悲しいときも、いつもコイツがいた。
おまえに火をつけて、ひとにはいえない気持ちを煙とともに吐きだしてきた。
横山は火玉がついたショートホープをじっくりとながめた。そういえば、息子がタバコを吸っているらしい。生意気になったものだ。
「男のくせに美術学校なんか行って、ほんとにそれで食っていけるのか。そう思ってたよ。でも、ちがうんだな。自分が好きなことを仕事にできるって、最高に幸せなんだろう。おれにはもうできないけど、洋輔には、それができるんだな」
妻は缶ビールを飲みながら無言でうなずいた。息子の洋輔は母親の影響を受けて、地方都市の美術大学に通っている。それもあと二年で卒業である。将来はデザイン会社で働きたいといっていた。
「うちの会社に来たりして……」
「ピンクのうさ公が二羽に増えるのか。ハハハ。英会話教室みたいな家だな」
困ったもんだという顔をしながら、妻は微笑んでいた。
「しかしデザインの実力はだいじょうぶなのか。うちにも試験はあるんだぞ」
「ふふ。才能は折り紙つきだよ。なにせわたしの血が流れている。もし、落ちたら、あんたの血のせいだな」
「おれのせいかよ。イヤなことをいうな」
という横山の声を無視して、妻は別室にはいると大きな紙袋をかかえてもどってきた。妻がとり出したのは、魚がまるくなって飛び跳ねながら笑っているイラストだった。
「なんだよ、それ」
「洋輔のデザイン。サバ缶のキャラクター募集で入選したんだよ。春からサバ缶に洋輔のイラストがはいるぞ」
「ホントかよ。すごいな。いつのまにそんなことを」
横山はまじまじとイラストを眺めた。正直いって、イラストの良し悪しなど、まるでわからない。しかし、息子の成長が頼もしく胸に迫ってくる。
「あいつは、子どものころから絵と釣りが好きだったからな」
「その魚、あんたに似てるよ」
「おれがサカナ?バカ、似てないよ。ぜんぜんちがう」
「似てるよ。きっとあんたを書いたのだな。パパが大好きだったからな」
横山はもう一度じっくり息子のイラストを眺めた。これがサバ缶に採用されたら、毎日サバ缶を食うだろうな。それもいい。血液がさらさらになる。もう動脈硬化はこりごりだ。
「春やすみにもどってきたら、ふたりで釣りに行っておいで」
「それもいいかもな」
「サバの味噌煮をつくってやる」
妻の言葉を思い出しながら、やさしい気分になってビール二本と熱燗一合、そしてタバコをたくさん吸って、ほろ酔いで店をでた。
鼻唄まじりで地下鉄にのりこんでから帰宅の道のりをあたまに描いた。最寄の駅まで一時間以上かかる。それは困る。珍しく、そしてひさしぶりに、いい気分なのだ。
もっと飲みたい。もっと吸いたい。今すぐ吸いたい。今すぐ飲みたい。駄々っ子のように電車のなかでジタバタして叫びたいほどだ。
地下鉄が六本木の駅に停車すると、横山はわれ知らず、ホームにおりていた。
「六本木か・・・」
アラビア人の接待できて以来、まったく寄りついていなかった街だ。あのときは私もバカだった。横山は失態を思い出して苦笑した。
タバコが吸いたくておりたものの、どこへいけばいいのか、見当がつかない。
「まさか、アラビアンクラブにはいけないな。金もないし」
改札をでて長い階段をのぼると、ひしめき合うようにして信号まちをしている若者の群。その間を泳ぐように進むと、若者にしかない甘い体臭が鼻をつく。六本木通りに沿ってゆっくり歩く。タバコが吸えればどこでもいい。急ぐことはない。キョロキョロしながら歩いていると、斜め前から魚みたいな顔をした男がやってきた。
相手は気がついていないが、横山には、はっきりとわかった。夜のせいか、きのう見かけたときよりも沈んだ暗い顔だ。目に生気がなくて濁っている。
「死んだ魚のような目って、これだよ」
酔いも手伝って横山はなんだか楽しくなってきた。くるりときびすを返して、サバ夫のあとをつける。カッコをつけたレストランでデートでもするのかと思っていたら、安っぽい回転寿司屋にひとりではいっていった。
横山は向かいのコンビニでタバコを二箱買ってから回転寿司のドアをあけた。店は空いていたが、まっすぐにあの男のとなりに座った。広いガラス窓にふたりの姿が映っていた。横山はすべてを悟った。なぜ、この男が気になるのか。それがはっきりわかった。
横山は買ったばかりのショートホープの封を切り、百円ライターで火をつけた。わざと大きな音をたて煙をはき出した。
となりの気配に気づいたサバ夫がこちらを見た。
気づいていない。私が毎日、おんぼろビルの踊り場で、風に吹かれてタバコを吸っている男だと、まったく気づいていない。
そして死んだ魚のような目は、行き場を失ったように宙を見つめていた。
「よう、大将。一服しなよ」
横山はマールボロの赤い箱を男にさし出した。死んだ魚はビクッとふるえて、もう一度横山を向いた。
「あんたは、だれ……」
目が生き返り、おどろいた表情を浮かべた。
「まあ、吸いなよ」
もう一度マールボロの赤い箱を、押しつけるようにさし出すと、男は目をむいて赤い箱をにらみつける。
「なぜ、おれのタバコが……」
「マールボロだって知ってるよ。おれは、おまえのことはなんだって知っている。おまえは禁煙してる。仕事のミスが原因で、上司に禁煙を強要された」
「なぜ……」
まばたきもせず、横山をじっとみつめている。おどろきの表情に恐怖の影がさした。
「でも、長くは続かない。おまえはもうすぐ、タバコを始める。まちがいない。まあ、一本吸ってみなよ。うまいぜ」
「おれは禁煙する。タバコなんて吸わない」
「それは無理な話さ。だっておまえは何度も禁煙にチャレンジするが、結局タバコはやめられない。すくなくとも、五十八歳まではな」
男はぶるぶるとクビを振りながら、おびえた表情を浮かべた。
「あんた、だれなんだよ。なぜおれのことを知ってるんだ。」
「おまえのことは、なんだってわかる」
「なぜだ。なぜ、おれのことを知っている」
「簡単さ。おれはおまえなんだ。三十年後の、おまえだよ」
「なにをバカな……」
「信じたくないのはわかるが、事実なんだよ」
横山はショートホープを口にくわえて火をつけた。
「おまえの未来を教えてやるよ。おまえはこれから、禁煙に失敗する。そしてちょっと変ったデザイナーの女と結婚する。でも、上司に嫌われて広告部から地方に飛ばされる。でも、おまえはがんばるよ。営業で成績を残して部長になる。しかし部長になった途端にあとは転落人生だよ。子会社を転々として、仕事ももらえない窓際族になるんだ」
魚みたいな男は口をあけたまま無言で横山を見ている。
横山はタバコをもみ消して立ち上がった。
「今さら、おまえに注意したところで、おれの人生は変わらない。まあ、一服しながら、これからのキャリアデザインを考えるんだな。人生はデザイン力だよ」
マールボロを寿司の皿にのせると横山は立ちあがり、男に向かって一言つけ加えた。
「もうジッポーはないだろ。これでも使えよ」
横山は百円ライターをほうり投げ、寿司屋をあとにした。
外にでてから店内をのぞくと、気になる男は背中をまるめてちいさくなっていた。男はおそるおそる、マールボロの箱に手をのばし、百円ライターで火をつけた。白い煙が一筋あがった。気になる男はゆっくりと崩れるようにカウンターに突っ伏した。
横山は歩きだした。六本木のネオンが眼にまぶしい。もう私の人生にタバコはいらない。胸ポケットにあったショートホープをコンビニのごみ箱に捨てて、横山はつぶやいた。
「男の過去ってやつは、むなしいもんだぜ。あっというまに灰になる、ショートホープみたいに」