GO!GO!English
専務と約束したその日の夜、家族に禁煙宣言をした。
「禁煙?ムリムリムリムリ、ムリ。あんたにできるとしたら、失禁ぐらいじゃないの。最近、パンツが黄色いぞ。洗うのが大変なのだ」
妻は三つ上の姉さん女房である。ラビット化学に入社した横山は、花形ともいわれる広告部に配属になった。妻とはその頃に知り合ったのだ。
彼女はデザイナーだった。都会的なセンスに惹かれたのだが、つき合ってみると、男兄弟が多いせいかオッサンのような感性の持ち主だった。しかも最近はオッサン化が猛烈な勢いで進行している。
「洋輔はどうだ?」
横山は失禁からさりげなく話をかえた。ひとり息子の洋輔は高校受験を控えた中学三年生。今が一番大事な時だ。
「部屋にこもって、絵ばかり描いてるんじゃないだろうな。いい大学にいくには高校が大事なんだよ」
学歴偏重の横山の言葉に興をそがれたのか、妻は無言のまま寝室へと消えていった。
英会話教室に入学したのは翌日のことだ。仕事そっちのけで調べると、ちょうど帰り道に時間の融通がきく英会話教室を見つけた。
インド人だろうが、半魚人だろうが、社長の色に染まってやる。禁煙をして、英会話にまい進する。そして、営業のトップにのぼりつめるのだ。
まだ明るいうちに会社をでると横山は帰宅途中の駅でおりた。英会話教室は駅前ビルの六階、さがす手間もかからずに見つかった。
しかし、いざビルの前に立つとなかなか足が進まない。
英会話教室に足を踏みいれるのがなんとも恥ずかしい。ああ、こんなときこそタバコを一服つけたい。まわりを見わたすと、道路向かいにコンビニ。黄色い看板に「たばこ」と赤い文字が染めぬかれている。無意識のうちにふらふらと車道にでた。
その瞬間、トラックのクラクションが横山の頬を殴るように激しく鳴らされた。
なにをやっているんだ。私は専務のポストをつかもうとしているのだぞ。寄り道をしている場合じゃない。一服している場合じゃない。走るのだ。出世街道をひたすら走るのだ。
エレベーターのドアがひらくと、目の前が受付になっていた。
「こんにちは。はじめてのひとかな?」
若い女性が親しげに話しかけてくる。
「横山と申します。英語はこれまでまったく勉強してこなかったのですが、早急に上達したいのです。少々スパルタでもいい」
「そっかー。じゃ、横山さんには、マンツーマンの二時間コースがおススメかも。もちろんEnglish only だよ」
欧米風というのか、若者風というのか、なれなれしい口調で話しかけてくる。
まあ、いいだろう。これは戦いなのだ。グローバルな経済戦争は、欧米文化との戦いでもある。その挑戦を日本を代表して私が受けて立とう。
「ところで、きょうはどうするの?レッスンしていく?ちょうどキャンセルがはいったのよ。善は急げってとこね」
なんだと、このまま戦闘態勢にはいるというのか。いいだろう。望むところだ。欧米風でみっちり鍛えてもらおうじゃないか。
「やってやろうじゃないか」
力がはいって野太い声で答えると、女性はびっくりした表情になった。
指定された教室は、四人がけのテーブルにホワイトボードがあるだけの殺風景な小部屋。ひとりで座っていると、なんだか不安な気分になってくる。
ドアがひらくと、屈強な肉体をもった海兵隊みたいな男がはいってくる。早口の英語でまくしたてられて、オドオドしてなにも答えられない中年男。海兵隊は怒り狂って、中年男の無能を英語でなじり、太い腕でクビを締めあげる。
そんな想像がひろがってスパルタを希望したことを後悔した。やはりグローバルなビジネスマンは、平和な国際交流を図る必要がある。カネで解決してもいい。なんとか穏便な形で英会話をスタートできないだろうか。
横山の願いが通じたのか、部屋にはいってきたのは白人の女性だった。金髪に陶器のような白い肌。ブルーの瞳。けっこう美人だ。年の頃は三十代の半ばくらいか。
「I m glad to meet you.」
さすがにこれくらいの英語はわかる。はじめまして。お会いできてうれしいわ。
「あー。ナイス、トゥー、ミート、チュー」
「Oh Very good.」
白人女性が笑顔で手を差しのべてくる。横山は思わずその手をつよく握った。
「My name is Manika.」
この人はモニカという名前なのか。昔の歌にあったな。なんとなく、海が似合う名前だ。
「What is your name?」
おっと、こんどはこっちにきた。しかし、これくらいは常識ですよ。
「あー。マイ、ネーム、イズ、ダイスケ、ヨコヤマ」
「OK.Daisuke.」
彼女の発音はダイスケではなく、ダイスキに聞こえる。横山の耳にはそれが心地よく響いた。
「Please tell me why you study English.」
まだまだ、それぐらいわかりますよ。英語を学ぶ理由だろ。つまり、専務にいわれたからだよ。そんなこといえんな。出世か?それも生ぐさいな。英語もわからんし……。
「ビコーズ、アイ、ニード、イングリッシュ、イン、ビジネス」
「Oh! Great.You are a very good businessman.」
おそらく学校の方針なのだろう。モニカの教え方は、とにかく褒めて褒めて、褒めちぎるのだった。発音がよいと褒め、意味が通じると褒め、回答がおもしろいと褒める。もちろんわるい気はしない。初めて英会話教室にきた中年男が、いつのまにか積極的に言葉を発するようになっていた。
二時間はまたたく間にすぎ、来週のレッスンの予約をすると、モニカは笑顔で握手を求めてきた。横山はほそくしなやかな手をしっかりと握りしめた。
六時四十六分発の通勤急行。横山の朝ははやい。この時間の電車にのれば、座って通勤ができるからだ。通勤時間は長いが、周囲の混雑からは別世界。腰をおろすと、手帳をとり出してきょうのスケジュールに思いをめぐらせるのが日課である。
きょうは大事な商談がはいっている。ラビット化学が新たに開発した機能性繊維を来年の冬物衣料に採用してもらうために、大手のアパレルメーカーを訪ねるのだ。
電車がうごきだす頃には文庫本をとり出して、歴史小説を読むのが習慣だったが、きょうからは方針変更である。横山は英会話教室のテキストを広げイヤフォンを耳につめた。通勤の一時間を英語の勉強にあてる。男一生の立身出世がかかっているのだ。通勤時間も真剣勝負だ。
七時四十五分に会社につくと朝の静かなオフィスで雑務を片づける。生産性があがるのを実感する瞬間である。
「部長、そろそろ参りましょうか」
課長の前島と担当の関口がならんで声をかけてきた。
「お。もうそんな時間か」
時計を見ると九時四十五分。タクシーにのれば、約束の十時半よりはやめに到着するだろう。
近年急成長しているアパレルメーカー、ラクダ屋本舗の本社は倉庫を兼ねた五階建てのビル。売上規模にくらべると粗末に見えるが、無駄なコストを徹底的に削減する創業者の姿勢が色濃くあらわれている。値引き要請がキツイことで有名な会社だが、販売量を稼ごうとすると避けては通れない。すでに価格交渉は最終段階にあった。値引きの切り札は用意をしているが、できれば温存したまま商談を終えたい。
先方の開発担当役員とは若いころからの旧知の間柄である。昔話をしながらの商談だったが、値引きの話がいつでるか、ひやひやしながらさぐるように話を進める。
「横山さんが、ひさしぶりに来てくれたんだ。この価格でやってみましょう」
ラビット化学の三人は顔を見合わせた。百点満点だった。切り札を使わないまま納入が決まった。こんなスムーズな商談はかってないほどだ。
「うまくいきましたね」
ラクダ屋本舗のビルをでると、課長の前島が嬉々として口をひらいた。
「ありがとうございます。横山部長のおかげです」
担当の関口も殊勝なことをいう。
「おれがでていった効果があったぜ。しかし、ほんとうのビジネスはこれからだ。あとは、売って売って、売りまくれ。これが売れたら、うちの部署の功績だ。おれたちが、新しいグローバルスタンダードのパイオニアになるんだ」
そして私は専務のイスを手にいれるのだ。横山は必死で笑いをこらえて渋い顔を装った。
「すこしはやいが、昼メシといこう」
三人は大通りまで歩いてファミリーレストランにはいった。
十二時にはすこし時間があって店内は混雑していない。すぐに案内係がやってきた。喫煙、禁煙を問われた前島が迷うことなく、喫煙を選んだ。横山が禁煙を始めたことに気づいていないのだ。席に通されると早速うまそうに煙を吐きだす前島。
商談が思い通りに進んだあとの勝利の一服である。イライラしているときのタバコとは、別物に思えるほどにうまい。愛煙家ならだれでも、そのうまさを痛いほど知っている。麻雀でテンパイしたときの一服。ゴルフでナイスショットしたあとの一服。焼肉を食ったあとの一服。いい女を抱いたあとの一服。なにより、いい仕事をしたあとの一服は最高だ。
一本でいいから欲しい。いやいや、なんなら一口でもいい。
仕事をやり遂げた直後の陶酔のなかで、あの香り高い紫煙を味わいたい。きょうの商談によって会社に膨大な利益をもたらすのだ。タバコの一本や二本、なんの問題もない。禁煙よりも営業成績のほうが出世の近道だろう。それに、だれが見ているわけでもない。黙って吸って、また秘かに禁煙を始めればいいのだ。
「前島、一本くれないか」
そう告げようとした瞬間、ふいに肩を叩かれた。ふり向くと息がとまりそうにおどろいた。
「Hello Daisuke.Good afternoon.」
モニカである。やはり「ダイスキ」に聞こえる。モニカがいたずらをするような目で横山を見ていた。