六本木の女
横山は総務部をあとにするとエレベーターを三階でおりた。どうせ一服するなら、いつも見おろされている、あの喫煙ルームにしよう。
いってみると喫煙ルームにはスモーカーの姿もなく、がらんとした空間。窓ごしにいつもの自分の居場所が見える。なんとも居心地がわるくて、落ち着かない。
寒風にさらされながら、あの場所に立っている自分を想像すると、我ながら笑ってしまうほどわびしい姿だった。
ガラスの水槽のような喫煙ルームでは、いくら吸っても一服した気にならなかった。眼下にある錆びた鉄色の踊り場のほうが、落ちつくってことか。タバコを一服しながら妻の言葉が思い起される。
「あんたがデザイン会社の取締役?ムリムリムリムリ。デザインなんて、わからんだろ」
かつてグラフィックデザイナーであった妻は、ラビットデザイン社の勤務を喜ぶかと思ったのだが、予想に反して横山に食ってかかるような口調であった。
「おれは経営者の一員なんだよ。デザインはデザイナーがやればいい。うまく人をつかって、売れるデザインをつくらせるんだ」
「売れるデザインをつくらせる?自分のキャリアデザインも描けないのに」
「おれはすぐれたキャリアデザインを描いていた。ただ、実現しなかっただけだ」
不思議なことに、なぜか、この言葉は不機嫌な女房を喜ばせた。
「ふふふ。あんたってヤツは、ほんとにかわいいな」
女房は背広の黄土色のウサギの社章をなでながらにっこりと笑った。
タバコを二本灰にしてガラスの水槽から廊下にでると、目の前を魚がゆっくりと泳いでいく。目を疑ったが、まちがいなく、あの、気になる男である。
横山はひきずられるようにそのあとに続いた。同僚だろうか、若い男と話しながら歩いている。どんな声の主なのか気になって、耳を澄ませて静かについていく。
「だからさ。それはおれのせいじゃないんだよ。おかしいよね」
なんのことかわからない。しかし、すねたような口のきき方は子どもじみた男の性格がにじみ出ている。その声だけで、彼のすべてがわかるような気がした。きっと、自分の失敗を認めず他人のせいにしているのだろう。
「あんなことで、禁煙を強要されて、えらい迷惑だよ。きょうで三日目だぜ。よく、続いてるよ。おれってすげえよね。あぁ。マルボロ吸いてぇよ」
こんな子どもみたいな男が、背広を着てオフィスを闊歩していることが滑稽に思える。天井の高い廊下でサバ夫の背中を見送りながら横山は声をあげて笑った。
翌日から旧舘のビルは禁煙になった。
「きょうから全面的に禁煙ですよ。部長、わかってますよね」
「わかってますよ。灰皿撤去でしょ」
「あら、ものわかりがいいんですね。このさい、すっぱりタバコをおやめになったらいかがですか」
「そういうわけにはいきませんよ。ルールは守りますが、タバコはやめません。終業後に一日分まとめて吸います」
「いじらしいわね」
「意地くらいあります。窓際にもね」
「あら。窓際なんて」
といいながら、三浦さんがころころと笑った。この老女の笑顔を見たのは赴任して初めてのことだ。とくに美しくもないが、鬼ババの機嫌がいいのはなんともありがたい。
オフィスビルの全社員にメールを送り、館内禁煙のポスターを掲示する。さらに各階の踊り場をまわり、灰皿がわりの空き缶を回収していく。横山はみずからうごいた。
「あら。取締役がそんなことまでしなくても、いいんですよ」
といいながら、制止するわけでもなく、手伝うわけでもなく、三浦さんは笑って横山を眺めている。
「皮肉なことに、禁煙の準備をしてタバコが吸いたくなりましたよ」
「ちょうど、チャイムが鳴ったわ。どうぞ、銀座でも赤坂でも、お好きなところでタバコを楽しんでください」
「ハハハ。このところ、そんな高級な場所は無縁でね」
苦笑しながらも、開放感に満ちたかるい足どりで夕暮れの街にでた。
彼は珍しくはやめに会社をでた。あわてた様子でタクシーをひろって、六本木に車を走らせる。久しぶりのデートに思わず心がはやる。
彼女とはもうひと月以上逢っていない。平日は残業ばかり、土日は互いにイベントがはいって、予定が合わなかった。しかしそれだけではない。忙しかったのは事実だが、仕事にかこつけて彼女のメールに返信しなかったし、こちらから連絡をとらなかった。なんとなく倦怠感を覚えていたのである。
しかし、それがウソのように、きょうはうきうきしていた。予約をいれた六本木のダイニングバーは、雑誌でチェックをいれた店だ。しゃれた雰囲気のなかで食べるタンシチューが最高。デートにぴったり。と紹介されていた。
彼は約束の時間よりすこしはやくついた。それも珍しいことだ。いつもは仕事を理由に彼女をまたせることが多かった。
「ごめん。またせちゃって」
時計を気にしていた彼はふり向いて長身の彼女を見上げた。ヒールをはくと自分よりも背が高く見える。白いジャケットに長くて黒い髪が映えた。短いスカートと革のロングブーツの組み合わせがまぶしい。
お互いにビールを注文すると、彼女は革のタバコケースからバージニアスリムをとり出して火をつけた。ライターは細身のブルー。
「そうだよ。たしかにタバコを吸ってたな」
思わず声がでた。
「え。どうしたの」
びっくりしたような顔でふり返る。その顔がびっくりするほどかわいい。かわいいけど、なにか腹立たしい。
「おれ、タバコやめたんだよ」
「へえぇ。どうしたの」
「いやね。なんというか」
彼はあたまをひねった。仕事のミスで課長に大目玉をくらって、禁煙を強制された。というのが事実だが、そんなことは口が裂けてもいえない。
「まあ。あれだよね。そろそろ禁煙も必要になってきたんだよね。いまや、ビジネスエグゼクティブで、タバコなんか吸ってるヤツはいないんだ。それどころか、喫煙者はビジネスの世界じゃ、自分をマネジメントできない落伍者の烙印を押されてしまう。タバコなんか吸ってちゃ、勝ち組に残れないってことなんだよ」
「へえぇ。そうなんだ」
うなずきながらほそいタバコをくわえて、鼻の穴からミントの香りの煙を吐きだした。
「大変だね。エリートサラリーマンは」
「大変ってわけでもないけどね」
エリート扱いされた彼は、柔らかい羽のようなもので胸のあたりを撫でられているような気持ちになった。ビールをのどに流しこむと、言葉があふれるようにでてくる。最近は怒られてばかりで、自分の意見をいう場面がなかった。その反動だろうか、自信が蘇った彼は饒舌になっていく。
彼は新しいキャンペーンに自分のアイデアが採用されて、チームリーダーの役割を背負っていると語った。
「へえぇ。すごいじゃん」
ウソではない。ウソではないが、そのチームはリーダーの能力不足で空中分解になっていた。それから、喫煙ルームに集まる面々がいかに無能で出世の望みがないかを語り、となりのおんぼろビルの踊り場で、風に吹かれてタバコを吸っている男の話をした。
「へえぇ。寒いのにかわいそうだね」
「でも、それが会社なんだよ。子会社に出向になって、そこでも役に立たないからタバコばっかり吸っている。そこからぬけ出す努力をしないと、一生窓際だよ」
ビールをおかわりしてから、彼は学生時代に自分が三百人を超えるサークルを主宰して、大金をうごかしていたエピソードを語った。
彼女はバージニアスリムの細長いタバコに火をつけた。店のピンライトに照らされた白い煙がいつまでも漂っていた。
「タバコやめないの」
自分が禁煙しているのに、彼女は自由気ままにタバコを吸っている。なんだか、それが彼の心に影をつくった。だからといって禁煙を強要することもできないが、気持ちが思わず口をついたのだった。
「なんでわたしが禁煙しなきゃいけないのよ。わたし、エリートサラリーマンじゃないもん。あなたの価値観を押しつけないでよ」
「いや。そうそう。無理にやめることはないよ。それは個人の自由だからさ」
思いのほか語気が強くて彼はあわてて言葉をとり消した。
タバコをやめる、やめないは彼女の自由だ。こんな会話で彼女の気分を害したくない。それよりも、はやく機嫌をなおしてもらって、今夜はふたりで濃厚な時間を過ごそう。彼はミニスカートからすらりとのびている美しい脚に視線を落とした。
「ごめん。わたしサ、新しいカレできたんだよね。そのうちにバイバイのメールでも送るつもりだったのよ。ま。ごはんくらいいいか、って思ったんだけどね。やっぱりダメだわ」
彼女はもう一本バージニアスリムをとり出して、ブルーのライターで火をつけた。きれいな形の鼻から白い煙が二筋、ぶおーんと吐きだされた。タバコを手にしたまま、彼女はグラスに残ったビールを一息に飲み干した。
「やっぱり合わないのね。わたしたち。あなたもそう思ってたんでしょ。わたし、バカだからね。あんたとちがって」
「ちょっとまってくれよ」
彼はあたまがくらくらして、なにが起こったのか理解できなかった。
タバコやめないの?って訊いただけなんだぞ。
しかもすぐにとり消したじゃないか、なぜこんなことになるんだ。
「あ。最後にアドバイスしてあげる。あんたの学生時代の話、女性にはぜったいウケないよ。何度も同じ話ばっかり聞かされて、うんざりなんだよ」
課長に怒鳴られたときのように、背筋が燃えるように熱くなって、いやな汗がわきの下に流れた。
「元気でね。禁煙でもして、せいぜい出世してね」
白いジャケットの背中に長い黒髪がゆれた。それが彼女を見た最後だった。