ガラスの水槽
入社五年目。仕事には慣れてきた。マーケの要望をまとめて、広告代理店に説明する。幹部好みのクリエイティブを提出させて、企画を社内で通していく。そんな流れをひと通りつくることができる。広告の評判わるくない。自分の評価も若手では先頭を走っているはずだ。
ところがこんどの課長は手厳しい。うまく仕事がまわっているのは周囲の手助けのおかげで、彼の実力ではないというのだ。
タバコを二本灰にして喫煙ルームからもどるとまずいことになっていた。代理店にGOをだしていた企画に、急に上からストップがかかったのだ。マーケの担当から直接課長に連絡がはいっていた。企画はすでに走っていて、ポスターデザインもすでに決定し、媒体手配も、印刷会社への発注も終わっている。今さら変更なんてありえない。
五分後だったら自分が電話を受けたのに。そう思ってもあとの祭りだ。
「バカ野郎。どんな調整してるんだ。悠長にタバコなんか吸いやがって」
第一声から罵倒だが、彼も負けてはいない。
「悠長に吸っていたわけではないです」
「このバカ。なにを口ごたえしてるんだ。おまえのミスで、まわりがすべて迷惑するんだよ」
「ぼくのミスじゃありませんよ。先方の要望が急に変更になって」
「どんな話しこみをしてきたんだ。いってみろ」
「しっかり握り合っていましたよ」
「だったら、なんでこんな根本的な修正が飛びだしてくるんだ」
「それは、わたしにいわれましても……」
「担当のおまえにいわなくて、だれにいうんだ。どこにミスがあったのか、しっかり反省しろよ」
「反省するポイントが不明瞭で……」
もうおまえの言葉は聞きたくないという表情で、長いため息をつくと、課長は務めて平静な声で告げた。
「いいか。あしたから禁煙しろ。絶対命令だ」
「あ。いや。ホント反省しますよ。でも、禁煙はちょっとムリっていうか、それはスジがちがうというか。ホントお詫びしますから」
しゃべればしゃべるほど課長をイラつかせてしまうらしい。
「おまえみたいに、ちゃらちゃらうわついたヤツがいると、部署全体がかるく見られるんだよ。ぜったいに禁煙だ。煙はきょうまでだ。一日、蚊取り線香でもくわえていろ。あしたからは一本たりとも吸うんじゃないぞ。わかったか」
仕事とタバコは関係ないだろ。という言葉を飲みこんで、彼は代理店に説明したり、印刷会社に電話をしたり、予算を見直したりと、残務に走りまわった。ガラスの水槽で一服ついたときには深夜になっていた。
「チキショー。これが最後の一本かよ。おれのミスじゃないよ。おれが、なにを反省するんだよ」
彼はマールボロをとり出してジッポーで火をつけた。
横山はクビをひねっていた。この三日ほど、あの魚みたいな顔をした若者を見かけない。べつに見たいわけではない。むしろ、ヤツの姿が視界にはいるのが不快なのだ。しかし三日も姿を見ないと、なんとなく気にかかる。忘れものをしたのに、なにを忘れたのかが思い出せない、そんな感じで胸の奥がざわざわした。
落ちつかない気分で非常階段の踊り場からオフィスにもどると、本社の総務課から連絡があった。珍しいことだ。飛び移れそうなほどの距離だが、異動して以来、一度も足を踏みいれたことはない。
今さらなんの用だと、いぶかりながら、本社の総務課に顔をだすと、ああ、と関心のなさそうな声をあげて課長の松本が迎えた。横山はカチンときた。おまえが呼びつけておいて、この鼻であしらうような態度はなんだ。
松本は七つ八つほど年下のはずだが、本社の管理上では横山の上司にあたる。だからといってつまらない話を聞かされるのなら、ガツンといってやる。横山はひそかに拳をかためた。
「横山さん、どうです、そっちは。平和が一番でしょ。いや。古くても別館のほうがいいでしょ。はっきりいって、もう、こっちはなんやかんやで忙しくて、目がまわりそうですよ。会議ばっかり多くて、仕事にならないですね。これじゃ、タバコを吸う暇もないです。はっきりいって」
打ち合わせ用の丸いテーブルに座りながら横山は思った。話が長いわりにはまったく要領を得ない。唯一理解できたのは、こんな男が忙しいはずがないということだけだ。
「じつはですね。横山さん。上からいろいろいわれてまして。治安だとか、マナーとかね。はっきりいって、こっちも大変でしてね。いまさらあんなビルで分煙もないですから。別館に喫煙ルームなんて、はっきりいって、ありえないでしょ」
「そんなことは、望んでいない」
「いや。それがね。いまのままでは困るんですよ。はっきりいって」
「いったい、なんの話なんだ。はっきりいったらどうだ」
横山はイラだった。なぜこんな男の話を聞いていなければならないのか。時間の浪費だ。この男は、会社にとって無駄以外の何ものでもない。自分のことは棚にあげて横山は怒った。とにかくこの男と一緒にいるのは苦痛だ。
「だから、時代も時代ですからね。反対する理由もないでしょ。ほら社員の健康面からも、あまりよろしくないでしょ。それよりも、はっきりいって、危険だということかな」
「もう一度、訊く。なんの話なんだ?」
横山は声を荒げた。自分でも声がふるえるのがわかった。こいつと話をしていると気が狂いそうだ。
「ですから、はっきりいって、別館は全面的に禁煙になります。ロビーも非常階段の踊り場も、なにもかも」
横山は長いため息をついた。やっと、はっきりいってくれた。しかし、そんなことくらい、メールで知らせろよ。ふと天井を見上げると、三浦さんの丸々とした厚化粧の顔が浮かんで、たまらなくタバコが吸いたくなった。
「別館の禁煙はいつからだ?」
「はっきりいって、あしたからです」
「急だな」
「上から指示でしてね」
「上から?だれの指示だ」
横山はひさしぶりに藤堂のブルドックのような顔を思い出した。彼はあれから副社長に昇進し、いまだに相談役としてこのビルの最上階にいるはずだ。知らない仲ではない。直談判をすれば、別館の禁煙くらいは解除できるかもしれない。しかし、それも億劫な話だ。
「わたしも、そこまで詳しいことは聞いてませんが、いろいろありましてね」
「いろいろあったよ。おれも。本社は喫煙スペースがあったよな」
「これは、まあ。アレみたいなもので。特にアレする方針まではないんですが」
横山が不公平だと意見したと思ったのか、松本はしどろもどろになった。
「最後に、ご本社様で一服させてもらうよ」
「まあ、そのうちに、本社サイドも全面禁煙に移行しますよ。いつとはいえませんがね」
「本社の禁煙なんて、はっきりいって、おれには関係ないな」