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一服どうぞ ~禁煙部長のぷかぷか漂流記~  作者: 谷ごろう
第四話 命がけで売ってこい
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命のかぎり

 梵鐘の音がゴーンと重く響いて、いつまでも横山の耳に鐘の余韻が残った。


 作務衣姿の横山はかたい床のうえで、胡坐を組んで座っていた。会社を無断欠勤して二泊三日の座禅研修に参加したのだ。

 残された二年という時間を、どうすごせばいいのか、どう生きたらいいのか。暗闇のなかを歩く横山には、たとえどんなちいさな灯りでも、道しるべが必要だ。

 妻のいう通りだ。つまらない欲望ばかりに振りまわされるくらいなら、いっそすべての煩悩を捨てて、裸の自分を見つめ直そう。そこから生きる意味が見えるかもしれない。横山はわらをもつかむような気持ちで、山奥にある禅寺の門を叩いたのだった。


 しかし、きのうからやっていることといえば、坊主のおもしろくない話を聞いて意識がとびそうになり、開放されたと思った晩飯は無言で麦飯と湯豆腐。ろくろく眠れないまま朝四時に叩き起こされて、いきなりお経を読まされ、門前の掃除に、廊下の雑巾がけ。それが終わってやっと朝飯だと思ったら、麦飯にタクアンだ。昼からまた坊主の話を聞いて、山道を歩かされて、晩飯前にまた座禅。最終日になってもアジの干物ひとつでてこない。研修費を二万円も払っているのに、どういうことだ。

 そう思った瞬間に、固い板状のものが横山の肩に食いこんだ。刺すような痛みが走って、思わずうなり声をあげた。こんな棒きれで殴られることになんの意味があるんだ。


 自分の命がなくなる時に、やはり気になるのは芸術大学でデザインを勉強しているひとり息子のことだ。そんな学歴で就職はできるのか。この厳しい競争社会を生き残っていけるのか。父親の背中という道しるべを失った息子の人生はどうなるのか。

 せめて、ひとり暮らしをしている息子に、父親としてなにか言葉を残してやりたい。長年のサラリーマン経験から抽出した智恵を、息子に伝えてやろう。社会の荒波にもまれて、息子が苦悩するときがくる。そのときに私の言葉で息子は生きる希望を見いだすだろう。

 人生とは、仕事とは、男とは、今こそ、それを息子に伝えよう。

 死期を前にして、ビジネスマンの父から息子への手紙というわけだな。なんだか、感動的だ。うまくまとめるとベストセラーになったりして。


 ようやく前向きな気分になってきた。魂の叫びに耳を傾けるために、横山は眼をとじて静かに考えた。これまでの人生をふり返り、自分の失敗そして成功、夢、希望、後悔、それを率直に言葉にすればいいのだ。かならず名文句が浮かんでくるはずだ。過去に思い巡らし、深呼吸して、心静かに考えればいいのだ。

 ぼんやりと灯りがともるように、横山のあたまに言葉が浮かんだ。

「初心は忘れるな。万事油断するな。働いて儲けて使え」

 そうだ。そういうことだ。

「水は絶やさぬようにしろ。産前産後を大切にしろ。大めしは食うな。火事は覚悟しておけ」

 ちがーう。これは、居酒屋のトイレに貼ってあるヤツだ。

 ちがうだろー。私のメッセージはこんなものじゃない。

 なにか、ソクラテストやニーチェのような金言が私のなかに眠っているはずだ。

 ニーチェ。ニーチェってなんだ。なんだか、腹がへってうまそうに思えてきた。朝からロクなものを食べていないからだ。ああ。焼肉が食いたい。ロース、カルビ、ホルモン、ニーチェ。おお。ニーチェはここにいたのか。すいませーん。ニーチェ二人前。ああ、ごはんが進みそうだ。塩ニーチェも追加してください。心のなかで叫んだ瞬間、横山の右肩に警策が食いこんだ。

「くうぅぅ」

 横山は鳩のようにうずくまった。今までで一番痛い。このくそ坊主、むきになって力をいれやがった。心を静めるどころか、腹がへって、ストレスがたまるばかりだ。生きる意味が見えてくるとはとても思えない。息子への言葉も見つからない。

 時間のムダ。むしろ、こんなところにいるくらいなら、会社に行きたい。ゲスな上司に媚を売ったり、アホな部下のミスで謝罪したり、イヤな得意先を接待したり、ババアの事務員にお世辞をいったり、そんな不条理なことばかりの会社。でも、こんな寺よりずっとマシだ。


「会社にいかなきゃ」

 横山はつぶやいた。もちろん座禅修行中の私語は厳禁である。坊主の衣づれの音が近づいてくる。警策が鋭くふりおろされて、右肩にまた痛みが走った。

 このクソ坊主め。私の肩を何回叩けば気がすむのだ。横山は立ちあがった。

「遊びは終わりだ」

 坊主にそう告げた瞬間ヒザが笑った。胡坐の形がわるかったのだ。ヒザがひくひくと痙攣したかと思うと、足が体重を支えきれずに、そのまま崩れるようにころがった。あわてて若い僧が横山に駆け寄った。

「他の方のご迷惑になります。こちらへ」

 腕と足をふたりに抱えられて、横山は身をよじって抵抗した。

「はなしてくれ。会社に緊急の用を思い出したのだ」

「お静かに。修行中は、いかなる連絡も禁止です」

 あたまを青ぞりにした僧侶がワナにかかったイノシシを運ぶように、別室へと足早に運んでいく。

「はなせ。はなせ。会社にいかなきゃならないんだ。おまえらとちがって、おれは忙しいんだ」

 子どもがイヤイヤするように身をよじって抵抗すると、はらりと僧の手が解けて横山はふたたび床のうえにころがった。

「渇。渇。渇。渇。カァーツ」

 横山の全身に和尚の警策が連打された。

「このバカ者をほうり出せ」


 山門をでて腕時計を見ると朝八時半。すこし定時に遅れるが午前中には出勤できる。

 横山はニヤリと笑った。私がいなくて、困ったことが山積しているだろう。妻も心配しているにちがいない。この時間ならまだ家にいるはずだ。

「もしもし。おれだよ。おまえのいう通り、寺にはいった」

「生きる意味はつかめたのか?」

「わからない。でも、そんなことを考えるのがムダだとわかった」

「生きるってことは、一夜かぎりのワンナイトショーだな」

「なんだ、それ?」

「ヒーローになる時、アハ。それは今」

「おれはヒーローじゃない。ただのサラリーマンだ。それを全うするだけだ。いまから会社に行ってくる」

「そういえば、病院から電話があった。医者が直接電話してきたぞ」

 妻は林女医の名前と病院の連絡先を伝えた。


 なんだろう。もしや余命二年の襲撃に耐えながら、毅然とした態度で去っていった私の背中に、ふかい哀愁と男の強さを見たのかもしれない。中年男の渋さとダンディズムがたまらなくなって、電話をかけてきたのだろうか。

 ネオン街ゆき倒れ計画は、経済的な理由で頓挫したが、美しい女医と親密にお付き合いをふかめる程度なら、経済的になんとか二年くらいはもつだろう。

 すぐに病院に電話をいれた。総合病院の受付は怪訝そうな声をあげたが、内線電話の番号と至急の折り返しを求められていることを告げると、素直に電話をつないでくれた。


 林女医は先日のクールな印象とは別人のように、情熱的な口調で横山と対した。

「横山さん。ぜひお会いしたいの。すぐに来てくださらない。大事なお話なんですの」

「今、すぐにですか?」

「ええ。今、すぐに」

 熱を帯びた、すこしあわてた口調は、まぎれもなく恋をしている証しである。この私からむんむんと発散される、中年男の渋みオーラによって、彼女は恋の奴隷になってしまったのだ。私はなんて罪な男なんだ。


「もう会社など、どうでもよい。おれが行ったところで、どうせたいした仕事もないんだ」

 横山はふたたび会社を無断欠勤する決意をかためた。

 横山をのせた急行電車はオフィスのある西川口を猛スピードで通り過ぎていった。


 病院につくと林女医の診察室に向かった。息を切らせてドアをあけると、横山は渋い表情をつくって彼女に呼びかけた。

「先生。先生に会いにきました」

「ああ。横山さん。お忙しいところ、ほんとうにごめんなさい」

 きょうは白衣の前のボタンをとめていて、胸元も太ももも露出していない。しかし、それはそれで、清楚で美しい。まじめな装いで、自分の心を誠実に伝えたいのかもしれない。

「遠慮なんていらない。わたしもお会いしたかったのです」

「ああ。横山さん。ほんとうに、なんて申し上げていいのか」

「恥ずかしがらなくてもいい。思いままをぶつけてくだい」

「ありがとう。じつは……」

「じつは?」

 横山は生つばを飲みこんで、前のめりなった。

「あなたの診断データは、柳原さんによって改ざんされたものだったのです」

「改ざん?」

「ええ。彼が自分に都合のいいデータに加工してわたしに提出したのです」

「どういうことです」

「つまり、余命二年の診断は誤りだったということです。あなたは中途半端な生活習慣病予備軍でありますが、ほぼ健康だといえます」

 横山はがっくりと肩を落とした。すっかり林女医から恋の告白を受ける心づもりができあがっていたのだ。


「どうして落胆しているの?命が助かったのよ。うれしくないの?」

「生きることに意味なんてない。だから死ぬことなど怖くない」

「すばらしい覚悟だわ。そんなあなたにお願いがあるの」

「お願い?」

 横山はふたたび前のめりなった。きた。きた。きた。キター。どんな願いごとだ。なんでも叶えてあげる。今すぐふたりで旅にでてもいい。北に旅して早春を感じるのもいい。南の浜辺で恋を語り合うのもいい。

「じつは、このデータの改ざんについては、決して口外しないで頂きたいの。御社の社員がやったことですから、口外しても御社の恥になるだけですし」

 それを心配して心を乱していたのか。横山はふたたびがっくりと肩を落とした。落としすぎてイスからころがった。そんな事務的な願いごとをされるくらいなら、余命二年のままでもよかったくらいだ。


「お約束しましょう」

 床に伏したまま横山はつぶやいた。

「まあ。よかったわ。それがお互いのためですものね」

 林女医は、雲を吹き飛ばした夜空に月が輝きをとりもどしたような、晴れやかな、美しい笑顔を浮かべて、診察室のドアをあけた。一歩外にでると、うしろをふり返る前にバタンと音をたててドアがとじられた。


 病院内に設置されているコンビニに吸いこまれるようにはいると、ショートホープとライターを手にいれた。中庭の一角に喫煙場所があったはずだ。

 きょうもムームーを着た、貧乏神のような、やせ細った老人たちが数人、灰皿を囲んで悪魔の煙を吐いていた。いつかは通る道だ。しかし私にはまだ猶予がある。横山はその輪にはいって、ショートホープに火をつけた。

 煙が体内を駆け巡ると、きっとあちこちの血管が収縮しているのだろう。かえだがふるえるようだ。横山は空を見上げてつぶやいた。

「命ってヤツは、はかないぜ。一服すれば、灰になるショートホープのように」


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