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一服どうぞ ~禁煙部長のぷかぷか漂流記~  作者: 谷ごろう
第四話 命がけで売ってこい
13/25

人間ドックのお楽しみ

「七十二番の横山さん、横山大輔さん」

 ビジネスホテルの寝巻きのような、丈の短いムームーのような、なんともだらしない服装でパイプイスに座っていた横山は、呼び出しの声に合わせて立ちあがった。

 大阪から東京にもどった横山は勤務もそこそこに、人間ドックの受診を命じられ、ラビット共済病院を訪れていた。ひと通りの検査が終わり、最後に医師のコメントを聞くのだ。


 面談室のドアをあけると、横山の胸がふるえた。目の前には、匂いたつように美しい女医が座っていた。三十代の半ばだろうか、いや若く見えるが四十代かもしれない。

 セミロングの黒髪はウェーブがかかっていて、きつめの顔だちに、キリッとした化粧と真っ赤なルージュがよく似合っている。

 白衣のすき間から、胸もとがあいたブラウスとミニスカートがのぞいている。そこから、大人の色気がむんむんと湧きあがっているではないか。まるで蒸しあがったばかりの小龍包の湯気を見るようだ。すこし突けば肉汁があふれてきそうである。横山は思わず深呼吸した。いい匂いが胸の奥を満たしていく。


「ハイ。お疲れさまでした。横山さんはね、全体的にちょっと数値が高めにでてますね。血糖値、尿酸値、中性脂肪。あと、血圧が高めです。ただ、標準値から大きくかけ離れているわけではないので、それほど心配する必要はないでしょう」

「そうですか。ありがとうございます」

「生活面では、塩分と脂っこいものは控えて、あとはタバコですね。そろそろ禁煙も考えてください」

「タバコですか。何度も禁煙にチャレンジしているのですが、なかなかうまくいかないのです。仕事上のストレスのせいかもしれない」

「お仕事、たいへんでしょうが、いい機会ですから、ぜひもう一度トライしてみてください」

「先生の指導があれば、やれるかもしれません」

「いまはいいお薬もあります。外来を紹介しますよ」

 外来は不要なのだ。あなたに指導して欲しい。あなたと一緒に歩めるのなら、禁煙してもいい。


「先生は以前からラビット病院にいらっしゃったのですか?」

 横山の質問に女医の美しい眉がゆがんだ。健康指導から話題がはずれることが不愉快なのだろうが、横山はひるまない。

「毎年来ているのですが、初めてお目にかかりました」

「五年前から勤務していますが、人間ドックの担当は今年で二年目です」

「どうりで、お見かけしなかったはずだ。元々のご専門は?」

 美しい女医は怪訝そうな眼ざしを向けた。

「いまの業務が医療機器の販売でして、医療のことをすこしでも知りたくて」

「内科です。専門は血管」

 女医は資料を片づけながら目も合わさずに吐きすてた。

「血管?」

「動脈硬化です。はい。もういいですか?次の方を呼びますね」

 女医の合図で、うしろに控えていた年配の看護婦が、まるで埃を集めて掃きだすように、横山を追いだした。


「動脈硬化か。いいなぁ」

 なにがいいのか、横山にもわからなかった。

 ただ、美しい女医の香水の余韻が横山の鼻をくすぐった。


 背広に着がえて、中庭の喫煙所でショートホープに火をつけた。入院患者だろう、ガリガリに痩せた老人が三人、横山をとり囲むように集まってきた。ムームーを着て呆けたような表情で煙を吐いている。なんだか地獄の亡者を見るようで、タバコがうまくなかった。


 病院の食堂でカレーを流しこんで、会社に向かう。着任したばかりで急ぎの仕事があるわけではないが、得意先の名前も、自社の製品情報も知らない状態だ。すこしでも早く仕事に慣れたい。胸には黄土色のウサギ。さっき食べたカレーのような色である。ラビットメディカル電子販売社の社章である。新設の会社なので、もう使える色が黄土色くらいしか残っていなかったのだ。

 もともと医薬品を手がけていたラビット化学は、さらに医療分野の多角化をねらって、中堅どころの医療機器メーカーを買収した。ところが狙いがはずれて、なかなか販売はのびない。そこで専門の販売会社をたちあげることになったのだ。営業担当常務として、白羽の矢が立ったのが、大阪で鳴かず飛ばずの二年を過ごした横山だった。


 できたばかりの中小企業で、常務といっても、前職から格下げの感はいなめない。しかし久しぶりの東京復帰で、横山ははりきっていた。

 オフィスは都心から離れた西川口。グループの中枢から離れる一抹の寂しさはあるが、精神的な開放感と大幅に短くなった通勤時間はありがたい。

 出世ひと筋だった横山にも、新しい価値観が芽生えようとしていた。


「常務、おまちしておりました」

 まちかまえていたのは若い柳原だ。小柄で色白で、少年のような目をした若者である。見た目を気にしない性格なのだろう、髪は天然パーマがぐるぐる巻きながらのびていて、食べかけの綿菓子があたまにのっているように見える。

 もともと親会社の技術開発者だった柳原は、みずから開発した装置の販売が芳しくないことに業を煮やして、みずから営業を志願してやってきた。

 ふだんはおとなしいが、自分の開発した装置のことになると、異常なまでに情熱を燃やす。引継ぎ書には、そう書かれてあった。

 ちいさな会社が飛躍的な成長をとげるためには、こういう情熱的な社員がぜったいに必要だ。その意味でも柳原は横山がひそかに期待を寄せる男である。

「人間ドックはいかがでしたか?」

「よくもなく、わるくもなくって感じだな」

「というと」

 綿菓子のようなあたまをかきながら、不思議そうな顔で訊いてくる。

「つまり、血圧、中性脂肪、尿酸値がいずれも標準オーバーだが、たいしたレベルではない。ということだ」

「それは興味ぶかい。じつはわたしのもっているデータでは、これはオーストラリアの医学研究チームの成果なのですが、人間ドックの検査項目に軽度の異常が多ければ多いほど、すでに動脈硬化が末期状態になっているという結果がでているのです」

「おいおい。イヤなことをいうなよ」

 苦笑いをしながら、この話題から遠ざかろうとしたのだが、柳原は横山の気持ちなど意にも介さず、土足でずんずん突っこんでくる。

「わたしが思うに、常務の血管はすでに、柔軟性をなくして、カチカチになっているはずです。からだのあちこちに動脈瘤ができて、局部的に新鮮な血液が届かなくなっているのです。人間ドック時は空腹ですから血圧も下がって見えますが、食事をすれば異常値に跳ねあがるはずです」

「おれを病気にする気かよ」

「これは、ビジネスチャンスなんですよ」

「なんでおれの病気が、ビジネスチャンスなんだ」

「わたしが開発した装置は、隠れ動脈硬化を発見する機能が売りなんですよ」

「だからなんなんだ」

 横山はムっとして声を荒げたが、柳原には上司の気持ちはまったく伝わらない。

「常務のもろくなった血管で、脳に少量の血液を送りながら、よく考えてください。人間ドックでは見つからない重症患者の兆候が、この装置ではっきりとわかるんですよ。これさえあれば、他の医者とあきらかに差別化ができる。わたしの開発した装置さえ手にいれれば、平凡で無能な内科医が、循環器系の名医になれるんです」


 横山は美しい女医の姿を思い浮かべた。

「なるほど、おれがモルモットになって、この装置の実力を見せつけるんだな。商談のセールストークをつくるわけだ」

 柳原の表情に笑顔が浮かんだ。

「常務、ようやく、脳内に血液が循環したんですね」

「いい方は気にいらないが、その根性は認めよう。装置の名前はなんだ」

「装置も開発しましたが、ネーミングもわたしがみずから考えました。血管を精細に調査できる、その名もケッカマン」

「え。そうなの」

 売れなさそー。という言葉をなんとか飲みこんだ。

「なんか、ライターみたいじゃないか」

「それはチャッカマン」

「なんか、コウモリみた」

「それはバットマン」

「なんか、白鳥」

「それは、ガッチャマン」

 横山は感心したようにうなり声をあげた。

「うむ。いろいろ考えているのだな」

「もちろんです。血管の検査で医療機器の世界に革命をもたらす。だから、その名もケッカマン」

 なにが「だから」なのか、よくわからないが、若者の情熱だけは横山にビンビン伝わってきた。

「よし、おまえの気持ちはわかった。ひと肌ぬごう」

「ありがとうございます。常務の中途半端なダメ数値が必要なのです。今すぐ、ラビット共済病院にもどりましょう」

「いま会社にもどったばかりなんだぜ。一週間もあれば郵送されてくるよ」

「そんな悠長なことをいってる場合じゃない。常務のからだは、すでにボロボロなんだ。脳内出血がいつ起こってもおかしくない。病気が発現する前にケッカマンで診断しないといけないんです。発現してからでは意味がない。だれも気づいていない予兆を、ズバリ発見するからこそ価値があるのです」

「おれのことなら大丈夫だよ。心配いらない。一週間くらいピンピンしてるよ」

「常務のからだなんて、まったく心配してません。とにかく病気になるまえに測定したいんだ。ぼくのケッカマンを売るために」

「あのね。もうちょっと気をつかってしゃべってもいいんじゃないか」


 横山の言葉を無視して、柳原はどこかに電話をいれている。

「ラビットメディカル電子販売の柳原と申します。緊急かつ極めて重要なビジネス上の問題が発生しまして、本日受診した人間ドックのデータを先どりさせてもらいたいのです」

 ラビット共済病院に架電しているらしいが、唐突な要望に先方は難色を示しているようだ。柳原はイラだちながら電話に向かって語気を強めた。

「いったい、なぜあなたにそれを断る権限があるんだ。これはラビットグループ全体のビジネス変革につながる案件なんだ。人間ドックの事務員ふぜいが、決めることじゃない。はやく上の者とかわりなさい。健康診断部長がいるだろう」

 綿菓子みたいなボサボサあたまの若者に、こんなに強引で、はったりだらけのネゴシエーションができるとは想像もつかなかった。これが引継ぎ書に書かれていた、製品への異常な情熱というものだろうか。

 柳原は何度も電話をかけなおして、結局自分の要望を押し通した。

「さあ常務、ぼやぼやしてないで、行きましょう」

「ぼやぼやなどしておらん。失礼なヤツめ。おれは常務だぞ」

 威厳を保ち、むっととして投げつけた言葉を無視して、柳原はカバンに製品資料を詰めこんでいる。

「未破裂の動脈瘤が脳内に見つかるといいですね」

 横山をふり向くと、屈託のない表情でにっこりと笑った。

「縁起でもないことをいうな。おれの血管は痛んでいない」

「ハハハ。ぼくのケッカマンで調べれば、一発でわかりますよ。ああ、楽しみだなあ。常務の動脈瘤が、破裂しそうなほど大きいといいなあ」

柳原は駅へと急ぎながら、すっきりと晴れた空を見上げてつぶやいた。


今度の仕事は、新設されたばかりの医療機器販売会社。人間ドックで出会った美しい女医に禁煙を命じられます。禁煙しながら自らがモルモットになって、医療機器を売りこもうとする主人公がひと騒動を起こします。

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