地獄の底なし沼
タバコへの未練を残して、横山はひとりで森にはいった。
千成軍団までは森の一本道だ。走れば追いつけるかもしれないが、急ぐ気になれなかった。
一歩一歩確かめるように歩くと、足もとにピアノ線のような透明なワイヤーが張られているのに気づいた。
ワナだ。
これに足をとられると、吹き矢かなにかが飛んでくるのだろう。
その手は食わぬといった笑みを浮かべて、離れた位置からジョーンズ先生のムチをワイヤーに叩きつけた。木立の上からバサバサと音を立てて、おおきな金盥が落ちてきた。
「こんどはドリフかよ。やつら、脳みそが恐竜なみだ。こんな子どもだましの手にかかるおれじゃないぜ」
ふたたび歩きだしたところに、もう一本のワイヤーが仕掛けられていた。静かな森のなかに、ゴツンという音が響いた。あたまを抱えてうずくまりながら、横山は叫んだ。
「チキショー。次、行ってみよう」
森の一本道をぬけると、草原があらわれて目の前が急に明るくなった。横山は「あっ」と思わず声をあげた。
高台に天守閣がそびえている。
五層の天守閣は大阪城を思わせる壮麗な姿である。
あのなかには金がうなるほど積まれているのだろう。タバコの買い置きも山ほどあるにちがいない。そうか。あそこに行って千成のジジイをやっつければ戦利品は好き放題だ。
戦意に火をつけた横山は天守閣に向かって走りだした。極限まで追いつめられた精神状態で、走りながらこんなことを考えた。
「タバコを根こそぎかっぱらって、飽きるほど吸ってやる。あのジジイをこてんぱんにやっつけて金目のものは略奪するのだ。取引はこちらのいい値だ。ついでに女がいれば、自分のものにするのだ。それが戦国。この世は、下克上なのよー。ワッハハハー……」
天守閣が近づくと、うおおーと叫びながら石垣に飛びつこうとした。しかし急に足が重くなって、からだがうごかない。地面を見るとからだが粘り気のある土の中に埋もれていく。もがけばもがくほど、ずぶずぶと土の中に沈んでいく。
「やられた。底なし沼か」
「ぶわっははは。このあほんだらめ」
いつのまにか沼の土手に千成が立っていた。
「この沼に落ちるヤツは、強欲で心の汚れた人間と決まっておる。この城の財宝を盗むことでも考えておったのじゃろう」
図星である。図星すぎて反論の言葉もない。
「チキショー。バーカ。バーカ」
意味のない悪態をついているあいだに、横山のからだは胸のあたりまで土に埋もれてしまった。はたと気づいて、腰にさげたジョーンズ先生のムチを土のなかからひきあげる。
「そうだ、これがあったぜ」
横山は高らかに歌いながらムチをふるった。まるで命を吹きこまれたように、しなやかにのびたムチは土手の立木に巻きついた。
「ワッははは。この横山は不死身なのだ」
これをたぐり寄せれば土手にたどりつく。そうすれば反撃開始だ。腕に力をこめてムチをひき寄せる。
「なにをこしゃくな」
千成が軍配をふるとサングラスのふたりがあらわれた。手にはマジックハンドを持っている。
「ぶわっははは。笑い死させるのじゃ」
「やめろー。それだけは……」
サングラスは容赦なく左右両方から横山のわきの下をくすぐり始めた。
「やめろー。ひぃぃ、ヤメロー。ひっひっひ」
執拗に続く攻撃にこらえきれずにムチを奪われてしまった。しかも気がつけばクビのあたりまで土に埋もれているではないか。
「そろそろゲームオーバーのようじゃな」
千成が指を二本立てると、サングラスがタバコを用意して、金色に輝くデュポンのライターで火をつけた。小気味よい音が響き、やがて青い煙が広がり空に溶けていった。
「ショートホープだ」
香りでわかる。私のお気に入りと同じ銘柄だ。横山は思った。ああ、一服吸いたい。死は覚悟した。立身出世の夢、東京に残した家族、息子の将来、心配事は尽きないが、時間がない。死神はすぐとなりまで来ている。
「おぬしの最後の望みがあればいうてみろ」
「タバコをくれ。一服してから死にたい」
「いいだろう。残りすくない人生じゃ」
サングラスがショーホープの箱を指ではじくと、横山の目の前に飛んできた。
「ゆっくり吸うがよいわ。その命が続く限りな。さらばじゃ」
千成は捨てゼリフを吐くと背中を向けて歩きだした。石垣の一部が電動でうごいて、城への入口がぽっかりあいた。千成の背中が消えていく。
横山は泥だらけの手でタバコをとり出すと、なんとか口にくわえた。そして、はたと気がついた。
「あああ。ライターがない」
禁煙を始めたときに捨ててしまったのだ。当然もち歩いているはずがない。
「ジジイ。火だよ。火がないんだよー」
必死の思いでもがくと、タバコをくわえたまま顔面に泥が覆いかぶさってきた。こんな、なさけない死に方はイヤだ。
「おーい。火だよ。火をくれよー」
タバコが押しつぶされていく。そして息がとぎれていく。
「どうやって吸うんだよー」
泥のなかで叫んだ瞬間、視界が大きく広がった。底なし沼の底をぬけると、そこは地下室だった。
つるつるに磨きこまれた床のうえに、泥だらけの横山が叩きつけられた。目の前にはダークスーツの千成が立っている。
「ラビット建材もつまらん会社じゃの」
横山は目が覚めた。これはビジネスだ。接待だ。
勝負に負けてビジネスで勝つのだ。チャンスをつかむのだ。
「これは千成社長。とんだ失礼をいたしました。あらためてご挨拶を」
横山はうやうやしく名刺をさし出した。
「そんなきたない名刺なんぞいらんわ。ビジネスマナーもわきまえん大バカ者め。さっさと帰って、イモ食って、屁ぇこいで、寝ろ。そして、このイモ野郎をつれて帰るのじゃ」
サングラスのふたりがゴミでも捨てるように、東村を投げだした。
「二度とおまえたちに会うことはあるまい」
「しばらく。あいや、しばらく。おまちください。わが社の技術だけでも、ご説明させてください」
「ええい。くどいわ。おまえの最後の願い。これでも持って帰るがええわ」
千成はショートホープを投げつけると、片手をあげた。それを合図に片側の床だけがせり上がる。
つるつるの床に角度がついて、床がすべり台に変身した。ふたりは悲鳴をあげながら城の横にのびる空堀に投げだされた。
「チキショー。あのジジイ」
横山は砂をつかんだ拳を地面に叩きつけた。
「支社長、おつかれはんでしたなぁ。やっぱり千成は強敵でした。しょうがおまへん。まあ、一服しまひょ。それとも、まだ禁煙続けまっか?」
「バカヤロウ。このショートホープは、唯一の戦利品だぞ。支社長のおれが吸わないで、だれが吸うんだ」
タバコをくわえると東村が百円ライターで火をつけた。
横山は目をとじて、甘く芳ばしい煙を胸の奥まで吸いこんだ。久しぶりの紫煙がからだを駆けめぐる。横山は目をとじて額に手を添えた。あたまがくらくらするのはタバコのせいなのか、激しい戦いによる疲労のせいなのか。
「ああ。大阪の商売は渋い。渋すぎるぜ。ひさしぶりのショートホープよりもな」