密林の激闘
「助けてくれー」
ワナにかかったイノシシみたいに、網のなかでもがいていると東村が走り寄ってきた。
「支社長、フフッ。だいじょうぶでっか」
「ワナだ。はやく助けてくれ」
「ふッフフ。アホな顔して歩いてるからでっせ」
笑いをこらえながら東村はタバコに火をつけた。
「アホな顔などしておらん」
「ふッフ。この金具を踏むと木の枝に結んだロープが、ふッフ。引っぱられるんですな」
解説の言葉とともに、白い煙が吐きだされていく。
「なんで、タバコなんか吸っているんだ。それより、はやくここからだせ」
「ふッフフ。しようがおまへんな」
ナイフでロープを切断すると、芋が落ちるように横山が地面にころがった。
「ぶわっははは。こんなワナにかかるとは、イノシシ以下の脳みそじゃ」
木かげから千成が顔をだした。
「なにを。このジジイ」
横山は胸ポケットから、手裏剣をとり出すと、千成めがけて投げつけた。
手裏剣には名刺を貼りつけてあるのだ。
攻撃とてビジネスチャンスである。
しかし残念ながら右にそれて森のなかに消えていった。
「なんじゃ、そのへっぴり腰は。実践的じゃないのぉ。おぬしには、おもちゃで忍者ごっこがお似合いじゃ」
「おもちゃは、おまえのカブトだろ」
もう一枚投げようとした瞬間に、横山の目の前に弓矢が刺さった。あと、三十センチずれていたら太ももに命中していただろう。
「こんなに弱いと戦う気がせんのぉ。帰ろう、帰ろう」
「なんだと、バカにしやがって」
あたまに血がのぼった横山は、千成のあとを追って駆けだした。
「アカン。支社長、ワナや」
東村の声がむなしく響き、横山のすがたが忽然と消えた。
今度は落とし穴だ。目の前には三本の竹やりがのびていた。
ご丁寧に先端を尖らせている。間一髪とはこのことだ。もうすこしで尻が串刺になるところだった。
「あいつら、ほんとにおれを殺す気だ」
落とし穴から脱出すると、背広は泥だらけになっていた。
「ああ、袖に穴があいている。許せん。これはアルマーニなんだぞ」
「だからいうたでしょ。なめたらアカンて」
「チキショー。東村、おれは本気になったぜ」
ふたりは馬のあとを追って先を急いだ。しかし山道は迷路のように曲がりくねっていて、なかなか距離が縮まらない。見通しのよい直線で、ようやく千成の姿をはっきりとらえた。
小川に架かる橋をわたっている。
川をわたると、馬の前脚と後脚から人がでてきた。黒いスーツにサングラスのふたり組。ひとりが橋のたもとの大きなハンドルをまわすと、橋の片側がせり上がっていく。
「あかん。跳ね橋や。わたれなくなる」
東村がダッシュで駆けより、跳ね橋にジャンプ一番、欄干にしがみついた。
「ぶわっははは。このあほんだらをふり落とすのじゃ」
千成が軍配をふると、サングラスの二人が細長い棒のようなものをとり出した。棒の先に仕掛けがあるらしい。
「あれは、高枝切りバサミだ。あぶない。気をつけろ。ヤツらおまえを切りつける気だぞ」
よく見るとハサミの部分が改造されてマジックハンドになっている。サングラスの二人は改造のマジックハンドで東村の脇の下をくすぐり始めた。
「ひぃぃ、やめろぉ。ふぁはっはっは」
「もっと、こちょばして、笑い死にさせるのじゃ」
それくらいで死ぬはずがないと思ったが、橋の下をのぞいてあっと声をあげた。
「ワニだ。東村、気をつけろ。川にはワニがいるぞ」
「ぶわっははは。ようやく、気がついたか。もう三日はエサを与えておらん。腹ペコじゃ」
「ひぃぃ、ひっひっひ」
事態の深刻さを理解しているのか、いないのか。東村の笑い声はテンションを上げている。
「笑ってる場合じゃないんだぞ。わかってるのか。ワニがいるんだよ」
「ひーひっひ。もうあかん」
欄干を握りしめていた手から力がぬけて、すべるように東村が落下していく。
「ひがしむらァー」
東村がワニの背中にドスンと落ちると、おどろいたのか、巨大なワニが尾をふりながら、牙をむき出して襲いかかる。
「逃げろ。逃げるんだ」
寸前でワニをかわして崖をよじ登る東村。
「支社長、助けて。助けて」
手をのばし必死の形相で助けを求める姿に反応して、横山は腰にさげたムチを手にとった。
「よし。わかった。これにつかまるんだ」
ムチをふりおろすとつい力がはいりすぎた。東村を見ると、顔面にムチが食いこんでいた。
「支社長ぉぉ。なにしまんねん……」
苦痛に顔をゆがめる東村がスローモーションで川底に落ちていくではないか。
「ヒガシムラぁー。すまねえぇー」
声をかぎりに叫んだ。
これで東村がワニに食われてしまったら、まちがいなく上司である自分の責任である。業務時間中なので労災になる。こんどはどこに左遷になるのか想像もつかない。
「なんとか逃げてくれー」
ワニの背中に落ちると、それがほどよいクッションになって、東村はすばやく立ち上がった。踊るようにワニを避けながら、もう一度横山の足もとまでやってきた。
こんどはゆっくりムチをおろして、東村がしっかりと握った。
「持ちあげるぞ。急ぐんだ。もう少し。がんばれ。ファイトー」
「一発!」
もう大丈夫だ。そう思った瞬間、強靭な尾を水面に叩きつけたワニがジャンプして、東村の太ももに食いついた。断末魔のような叫び声が山のなかに響いた。
「ああ。だめだ。労災確定だ」
「もうあかん。足が。足が、食いちぎられた。痛い、痛い」
「だいじょうぶだ。足はしっかりついてる」
なんとか引き上げると、ズボンがズタズタに破れて、太ももから血が流れている。
「ひでえことをしやがる」
横山はタオルで応急の止血処置をした。接待ゲームでここまでやるとは許せない。
「この恨み、かならずおれが晴らしてやる。そして、どっさり注文をとってくる」
「わいはだいじょうぶ。思ったよりも軽症ですわ。あとはたのんまっせ」
「かならず、おまえを迎えにくる。取引開始はおまえの手柄だ。そしておれは本社復帰だ」
「吉報、まってまっせ」
東村がポケットをまさぐり、くしゃくしゃになったタバコの箱をとり出した。
「残り一本ですわ。どうです。吸いたかったんでしょ」
苦しそうな表情を浮かべて最後の一本を差しだした。
「ああ。ありがと。イヤイヤイヤイヤ。おれはいま、禁煙してるんだよ」
「禁煙でっか。いつまで続きますやろな」
「取引が始まるまでだ。それももうすぐ実現する。だから、最後の一本はおまえが吸えばいい」
森の緑に一筋の煙がたなびく。仕事をやり尽くした。そんな感じで東村はタバコをくわえている。
いかにもうまそうである。横山はその煙を羨望の眼ざしで追いかけた。