戦闘開始
単身赴任者向けのマンションのせまさで、ベッドからクローゼットに手がとどく。起きぬけに白のワイシャツに袖を通した。 ネクタイはグッチ、背広はアルマーニ。気合のはいった勝負服だ。
妻も子どももおき去りにして大阪にやってきた。転勤を伝えても、妻は眉ひとつうごかさず、しょうが焼きを炒めながらいった。
「羽根をのばして『やっぱ好きやねん』するなよ」
「意味がわからん」
妻はもう話すことはないというように、鼻唄をうたいながらしょうが焼きに集中して、横山はテレビを見ている息子に視線を送った。
ひとり息子は高校二年生になった。志望校ではなかったものの、いまから勉強をがんばれば有名大学もねらえるはずだ。いまさら親の都合で転校させるわけにはいかない。
「おれがいないからって、絵ばかり描いているンじゃないぞ。受験はまってくれないんだ」
そんな説教に息子が耳を傾けることもなく、横山は無言になった。まあ、いいだろう。いつか、息子にも父の言葉がわかる日がくる。父の愛情に感謝する日がかならずくる。
マンションの車寄せに白い営業車がすべりこんできた。車体にはレモンイエローのうさぎのマークと「あなたの街を支えるラビット建材」の文字がくっきりと浮かんでいる。
「きょうは大勝負でんな。天下分け目の天王山や。ところで支社長、ほんまに背広でいきまんのか?」
「あたりまえだ。相手はお得意先だ。ビジネスマンとして当然だ」
ハンドルを握っている東村は迷彩色の特攻服を着ている。
「あとで後悔しても知りまへんで」
あてつけの言葉を無視して東村はアクセルを踏みこんだ。
車は大阪から奈良方面に向かった。朝のラッシュアワーでうごかない反対車線を尻目に、営業車はすべるように進んでいく。生駒山を見ながら高速をおり、さらに住宅街をぬけて山道にさしかかると、こんどは急カーブの連続である。
「ぼちぼち、オーナーの土地にはいりましたで」
「なぜわかるんだ」
「ほら、電信柱の形を見なはれ」
よく見ると、電信柱の先端に黄金色に輝く木の実のようなものがついている。
「なんだ、ありゃ」
「わかりまへんか。千成瓢箪ですわ」
「なんだそれ?思春期の男子か?」
「それは、センズリ少年。センしか合うてへんがな。大阪歴史委員会にどやされまっせ。千成瓢箪は、秀吉の馬印でんがな。大阪やったら幼稚園の子どもでも知ってまっせ」
「馬印でも象印でも、犬印でも、なんでもいいんだよ」
吐きすてるように怒鳴ったとたんに、車が大きくバウンドして天井にあたまをぶつけた。
「気をつけろ、バカ野郎」
「ふッフフ。えらいすんまへん。山道やさかい」
東村の横顔にずるそうな笑みが浮かんでいるではないか。
横山は急に不安な気分に襲われた。よく考えると、こんな舗装もない山道の先に、大金持ちが住んでいるとは思えない。
となりで半笑いを浮かべているボンクラにだまされているのではないか。
左遷で飛ばされてきた支社長を笑っているのではないか。
そんな気持ちがよぎって、無性にタバコが吸いたくなった。右手が無意識のうちにワイシャツの胸ポケットをまさぐっていた。
「しまった。禁煙したんだ」
禁煙三日目にして初めてタバコを欲した。欲しいと思うと矢も盾もたまらず、貧乏ゆすりがとまらない。口さみしさをまぎらすためにミントのガムを口にほうりこんだ。次の瞬間、横山はからだをくの字にしてアゴをおさえた。東村の急ブレーキで舌を噛んだのだ。
「あがががが」
「ふッフフ。ここが指定の駐車場ですわ」
山のなかのちいさな草地に営業車がとまった。ころがり落ちるように車からおりると、目の前に看板がたてられている。
「勇無き者は直ちに去れ」
「戦いはすでに始まっている。ということでんな」
いつのまにか東村がタバコをくわえているではないか。のびをしながら吐きだした煙が山の緑に溶けていった。なぜ部下の東村が優雅に煙を吐いているのだ。おかしい。あきらかに立場が逆転しているぞ。
「ああ。タバコ、タバコ。おれにも一本」
横山の無心の言葉を銃声が切り裂いた。
営業車のドアミラーがこっぱみじんに吹き飛ばされ、東村の顔がおびえた表情に豹変した。
「ぶわっははは。このあほんだらめ」
下品なだみ声が響いて、崖を見上げると馬にのった武者姿があらわれた。
「でたな。千成開発」
「バカ。お得意先だぞ」
小声で制してから、横山は頭上に声をかけた。
「千成社長。わたくし、ラビット建材の横山でございます。ぜひ、名刺交換を……」
背広の内ポケットから名刺入れをとり出す。
「そんなくされ名刺などいらんわ」
居丈高にののしる老人を見ていると、不思議なことに気がついた。老人の兜はビニールでできている。のっている馬は張りぼてで、前脚と後脚に人がはいっているらしい。弓矢は馬の前脚から飛んできたのだ。
「なんだ。あいつら。どうして張りぼてなんだ。カッコわるいな」
「あぶないさかい、馬にはのれんのでしょ。カブトも本物やと重いし。なにせおじいちゃんやさかい」
東村が手ごろな石をひろって投げつけると、ちょうど馬の尻に命中した。すると脚のなかから声が聞こえた。
「やってくれたな。この山城に一歩でも足を踏み入れた以上、生きて帰れると思うなよ」
張りぼての馬が不器用に方向転換をすると、老人を背中にのせたまま、ぎこちない動作で草むらのなかに消えていった。
「追いかけまひょか」
「いや、まて。これは接待なんだ。すぐに追いついて、こちらが簡単に勝利したらつまらないだろ。接戦が大事なんだ。いい戦いをしながら相手に勝利を捧げる。それが接待ゲームだ。千成にもたっぷり楽しんでもらおう」
「なるほど。さすが支社長、商売の肝を知ってますな。まずは腹ごしらえといきますか」
東村はコンビニの袋をとり出した。なかにはおにぎりが数個。
「用意がいいじゃないか」
「そら、そうです。支社長みたいに丸腰の背広姿では、命落としまっせ」
「バカ野郎、命を落とすだと。見ただろう。馬にはのれないし、ビニール製のカブトをかぶっているんだぞ。あんな年寄りのなにが怖いんだ」
横山は心の底からバカにしたように、大声をあげて笑った。
「相手をみくびるのが一番の敵でっせ。用意した武器を見せまひょ」
「なんだよ。武器なんかいるのか。素手でじゅうぶんだぜ」
迷彩服をきた東村は大きなリュックを地面におろした。決戦のために集めた武器がはいっているのだ。
「まず、これです。目には目を。ライフルにはライフルを。これ、組み立て式でんねん」
「なんだ。高そうだな」
「ええ値段しまっせ。でも会社の経費ですわ」
「なんだと、こんなおもちゃ。経費で落ちるわけないだろ」
「これは重要な接待やて。支社長がいうたんでっせ。しかも、ただのライフルちゃいまんねん。コルトのM16A2。世界的に有名な、あの超A級スナイパーと同じモデルですわ」
「超A級スナイパーだと」
横山の目の色が変わった。相手がどれだけ弱くても、このおもちゃは魅力的だ。
「これが、あの、ライフルなのか……。ちょっと、もたせてくれ」
持ってみるとずっしりと重い。構えてみるとじつに誇らしい。超A級スナイパーになった気分だ。
引き金をひくと、轟音とはいかないが、風を切る音を発して弾丸が飛びだし、次の瞬間には崖の岩肌に砂煙が舞っていた。
「東村」
「なんです?」
「おれのうしろに立つな」
「そんなんええから、はやく返してください」
「おれは、だれの指示も受けない」
「もう。ハラたつなあ。ほかにもありまんねんで」
東村はタバコに火をつけ、リュックから鉄製の手裏剣をとり出した。
「こんなのどこで売ってるんだ」
横山はなつかしむような目で見ると、ライフルを手ばなし手裏剣を手にとった。
「そこだ、くせ者。柳生の追っ手か」
ふり向きざまに手裏剣を投げつけると、カツーンと心地よい音。
看板には手裏剣がつき刺さっている。なんともいえぬ快感である。
まるで映画のワンシーンのようだ。もちろん主役は横山大輔である。
「なにを自慢げにニタニタしてまんねん。看板はすぐ目の前やんか。そんなに近かったら、だれでも当てれまっせ」
「バカ。目の前ではない。六十センチは離れている」
「ふふん。実践的やおまへんな。支社長、次はムチです」
「だれが無知だ。おれは支社長だぞ」
「こっちのムチです」
「おお。このムチか。これは、アレだな」
「そうです。こんどはハリウッド進出ですわ」
東山はそういってムチをふるうと、まるで生き物のようにしなりながら、看板を叩きつぶした。
「どうでっか?ジョーンズ先生みたいでっしゃろ」
「うーん。いいなあ、それも」
「しゃあない。支社長のお気に入りの、手裏剣とムチをあげまひょ。ライフルはあきまへんで」
「ありがとう」
素直にうれしかった。手裏剣を内ポケットに入れ、ムチをベルトにひっかけると準備万端。追撃あるのみだ。
「よし、出発するか。すこしは千成にも骨があるといいな。手をぬくにも限度がある」
崖のうえにあがると、山道がほそくのびていた。あの張りぼての馬が通るのはここしかない。しばらく歩くと、草むらが森に変わった。
この森のなかに千成開発のオーナーがいる。
そして戦争ごっこという名の接待を通して、二人は意気投合する。
ビニール製の兜を脱いで千成のジジイが握手を求めてくる。
「ラビット建材には完敗じゃ。すばらしい戦いをしてくれた。敬意をこめて、これからの建材発注は、すべてラビット建材にお願いすることにしよう」
販路拡大、売上急増。万年最下位の大阪支社を再建した伝説の男として、新たな重要ポストがまっている。ニヤつきながら歩いていると、なにか足先にかたい感触を感じた。次の瞬間、横山のからだが宙に浮いた。うわわぁ、と思わず悲鳴をあげる。トラップだ。ロープで編んだ巨大な網がからだを包みこんで、宙にもち上げたのだ。