やってやろうじゃないか
第1話は英会話にチャレンジです。すてきな外国人の女性講師に淡い恋心を抱きながら、役員のイスをめざして、禁煙と英会話に邁進します。
「横山でございます。失礼いたします」
横山大輔は神妙な顔つきで専務室をノックした。
今月の営業成績が予算に届かない。東京営業部の部長職にある横山は、専務から厳しいムチがはいるのを覚悟しながらドアをあけた。
「かけたまえ」
専務の藤堂がソファに深々と腰をおろし、こちらを一瞥するとぶ然とした表情のままタバコに火をつけた。
「最近は息がつまるな」
君もどうだ、というように一本さし出す。藤堂のお気に入り、パーラメントのブルーの箱がキラリと光った。
「ありがとうございます」
思わず頭上に捧げもつようにタバコを受けとった。新社長が就任して、いちはやく改革されたのが禁煙の促進である。鶴の一声で会社の喫煙ルームはすべて閉鎖され、ビルの外にあった灰皿まであっという間に撤去されてしまった。唯一の例外がこの専務室だ。
「いまや会社のなかでタバコが吸えるのは、専務のお部屋だけですからね。貴重な一本です」
「それもいつまで続くかな。横山、おれもそろそろ引退だよ」
「とんでもない。藤堂専務が引退だなんて、考えられません」
「そりゃ、買いかぶりだ」
藤堂は煙が目に沁みたのか、ほそい目をして続けた。
「ジャガンナータ社長が正論なんだよ。我々ラビット化学は、変わらなくてはならない。いつまでもロートルが親分じゃ変われないだろ」
この四月に就任した新しい社長はインド人だった。
ラビット化学グループの中興の祖といわれる柏原会長の肝いりで、インド人のエリートを社長に抜擢した。会社の将来をグローバル展開に賭けたのだ。
横山の勤めるラビット化学工業は、戦前の化学繊維からスタートして、化成品、建材、住宅、電子部品で急成長をとげてきた。藤堂専務は国内営業部門のトップであり、その権力ははかり知れない。
藤堂が灰皿に手をのばすと、艶やかな紺の背広にゴールドの社章が輝いた。金色のウサギのマーク。ラビット化学のシンボルである。
「いいか横山。時代はグローバルだ。国内とか海外とか区別する時代じゃない」
パーラメントの煙とともに吐きだされた言葉に横山はふかくうなずいた。
「もう、おれの時代じゃない。次はおまえの番だよ。単刀直入にいおう。横山。おれのあとはおまえに託したい」
横山は目を見張った。なにそれ。このわたしが専務ってことか?
目の前にはタバコをくゆらせている専務取締役。背後には黒の革ばりのイスと一枚板の執務デスク。
ここに座るのか。いったい、何段ぬきの出世になるのか。横山は相好が崩れそうになるのを必死でこらえた。
「大変光栄なお言葉ですが、わたしのような若輩には、とても務まりません」
心と裏腹な言葉をならべると、藤堂がニヤリと笑った。
「いいか。ジャガニコーミ社長はとにかく会社を変えたいんだ」
煮こみではない。正確にはジャガンナーレ社長である。もちろん横山はだまっていた。
「なんでもいい。シンボリックな改革で全社をびっくりさせたいのだ。おれのあとのポストにだれが就くか。これは目玉人事だよ。だれもが予想できる人事じゃダメだ。若手を起用したサプライズがないとな」
横山は小刻みにふるえる手でタバコをもみ消した。
「それが、わたしだと……」
いつのまにかのどが渇いて声がかすれていた。
「そういうことだ。おれはおまえを推す」
オー・マイ・ガー。神様。本当ですか?
横山は天上から祝福の光がおりてくるのをはっきりと見た。
周囲がひれ伏す権力を、注がれる尊敬のまなざしを、だれもが羨む社会的な地位を、そして膨大な接待費を、そのすべてを手に入れるのだ。
「しかし、条件がある」
夢を見ていた横山は我にかえった。一気に冷水を浴びせられた気分だ。やはり、会社のなかにうまい話はころがっていない。
どんな無理難題が課せられるのか、横山は身をかたくして、藤堂の言葉をまった。
「横山。おまえはジャガカレー社長の改革の旗手になれ」
カレーではない。正確にはジャガンナーレ社長である。専務は社長の名前を覚える気がないらしい。もちろん横山はだまっていた。
「いいか。社長のいうことは、なんでも実践するイエスマンになるんだ」
立身出世をめざして働いてきた横山は、元々忠犬ハチ公のような男である。いまさら反骨精神をもてといわれるほうが困る。あまりにたやすい要求ではないか。
「まずは、これだな」
藤堂専務は半分ほど吸ったタバコをクリスタルの灰皿に押しつけた。くの字に折れたタバコからひと筋の紫煙が立ちのぼっていく。
「と。いいますと……」
「ふふ。禁煙だよ」
「キンエンですか」
思わず声が裏返った。なにそれ。たったそれだけ?改革の旗手にふさわしいミッションとか、極秘プロジェクトとか、そういうのじゃないの?ほんとに禁煙だけなの?
「できないのか。腹をくくるんだな。宮づかえとは、おまえの人生そのものを社長の色に染めることだよ」
「わかりました。禁煙だろうが失禁だろうが、なんだってやってみせましょう」
「その意気だ。横山、もうひとつ、今すぐ始めることがある」
「なんでしょう」
「英会話だ。二ヵ月後にTOEICを受けろ。七五〇点。それが最低ラインだ」
「ウソでしょ。英語はちょっと……」
英語なんて、いまや中学生レベルだ。いくら勉強してもTOEICで高得点など望むべくもない。
「いいか。ジャガリーコ社長は、海外展開をつよく推進しようとしている」
スナック菓子ではない。何度もいうようだが、正確にはジャガンナーレ社長である。しかし、社長の名前なんか、もうどうでもよい。
「国内営業だけが、社長の意向にブレーキをかけている。禁煙と英会話は緊急かつ最重要課題だと肝に銘じておけ」
「わかりました。専務、最後にもう一本吸ってもよろしいでしょうか?」
「未練だな。女にモテないぞ」
「これが最後だと思うと、離れがたいものですね」
藤堂がタバコを差しだした。
「去っていく女はいつも美しいものよ」