【5】出会い、のち、印象は
「あいつは誰だ」
艶のある声はそれだけで威圧感を放つ。生徒会会長が怒りを込めた声で転入生に詰め寄るのは、生徒会室の隣にある休憩室だった。中央に置いたガラスのローテーブルを囲む生徒会役員と、転入生。くつろぐはずの空間は、緊迫感で包まれていた。
「お前こそ、あいつが誰かわかんねぇのか!? 生徒会なんだろ!」
二人がけのソファに座る転入生が、真横に怒鳴りつける。その勢いは会長の綺麗な顔を歪ませるほどに、激しいものだった。転入生の視線がぐるりと回る。それぞれの視線がひらりと逃げる。
すでに昼休みが終わり、午後の授業を知らせる鐘は鳴った。本来であれば教室で授業を受けなければならないはずの彼らだが、生徒会に与えられた特権のひとつである授業免除を行使し、ここで歓談に興じていた。一般の生徒にはない生徒会の活動は、時期によっては多忙を極める。よって申請を行うことで授業を抜ける許可が得られ、また、協力を仰ぐ一般の生徒にも同じように適用できる仕様になっていた。可能な限り授業に支障をきたさないようにという文句も添えられている。
「生徒会だからって、生徒一人一人までわかるわけねぇだろ」
「なんだよ、役に立たないのな!」
そう吐き捨てた転入生は、はぁ、と強くため息をついた。話の主軸は直前の、廊下での邂逅だった。
「チッ……そっちこそ、本当に知り合いじゃねぇのか?」
「知らねぇ!! 知ってたら、知ってたら……」
転入生はそこで黙した。うつむくと、膝の上で握った自身の拳が目に入る。その手は、一人の生徒を掴んだ手だった。無理矢理振り向かせ、言葉を投げつけ、目が合った。転入生ははっきり覚えている。
生徒会の面々と歩く人のいない廊下。前から歩いてくる一人の生徒は、ただの背景だった。転入生の道程に必要な存在ではなく、質量のないものだった。けれどすれ違いざま、見えたのは光る目尻。その直前、今から向かう特別棟の説明を受けていた転入生は、体を方向転換させていた。すでに遠ざかった後ろ姿。短く切りそろえられた髪。階段。
笑っていた。いや、笑われたんだ。転入生は肩を掴んで振り向かせた相手の顔を思い出していた。笑われていたことに、思い出して初めて気づく。あくび、と言いながら笑った顔。肩を掴まれた痛みで歪んでいたその顔が、じわりと華やぐ。整った顔立ちをしているわけでも、かといって不細工なわけでもない凡庸な顔。そこに涙の跡はあっただろうか、泣いていたのかすら怪しい。
転入生はひたすら回視する。思い出せば思い出すほど、邂逅は形を変えていく。転入生にとって、それは不思議なことだった。
一年B組。彼は予鈴までに間に合わなかった。教室後方の扉から入室すると、クラスメイトのほとんどが着席して教師を待っている。教材を手にし、彼は足早に自席へ向かった。
予鈴に間に合わないことでペナルティがあるわけではないが、普段から時間に厳しく行動する彼が急いで席に着く姿に、隣席の親しい友人は物珍しげな顔を見せた。あ、と詰問の手が伸びかけたときには本鈴が鳴り響き、親友は会話は諦めた。ぴしりと引き締まる空気に、私語は許されない。教室前方から教科担当の教師が入室し、委員長の号令によって速やかに授業が始まった。眠気入り交じる午後。転入生の姿はない。
授業が終わると、すぐさま友人が彼に詰め寄ってきた。教師から配られた宿題のプリントもそこそこに、隣の席で体をひょいと回転させ、彼の方へと向き直る。その顔には好奇のほかに嫌みがにじんでいた。
休み時間は十五分。友人の詰問には充分な時間だった。
「どこ行ってたんだ?」
「特別棟のほう」
「何しに?」
「飯食いに。あっち静かだろ」
淡々と答える彼の態度を、友人は全く気にしない。二人は中等部からの仲であるため、大人しい彼と快活な友人は互いの性格を熟知していた。会話は軸になる側のペースに合わせ、彼が話すときは緩やかに、友人が話すときは華やかになるのが常だった。
友人が質問をし、彼が答える今、問いは緩やかに投げられる。
「なんで遅刻したんだよ。珍しい」
「それがさ、転入生に会ったんだ」
「えっ?」
友人の目が丸くなり、次には細くなった。表情が豊かだと彼は思う。顔を突き出した友人はそれでそれでと続きを急かす。
「びっくりした。お前が言ってた通り、大きい声で話しかけられて」
「だよなあ! ようやく俺の言いたいことが伝わったわ」
「ああ、でも」
「なに?」
かねてから転入生に興味を示さなかった彼が、とうとうその煩わしさに気付いたのかと友人の声が弾む。友人の言うとおり、彼があの場面で思い出していたのは友人の繰り言で、友人が言いたかったことを理解した彼だったが、全てがその通りだとは思わなかった。彼は素直にそれを伝えることにする。
「なんか、拍子抜けした。もっとずけずけくると思ってさ」
「どんな話したんだ?」
「どんな……」
彼は掻い摘みながら、転入生との会話を再現してみた。肩を掴まれ、どうして泣いてるかと問われた。あくびをしていたからと答えたら、言葉をなくしてどこかに行った。生徒会役員たちの登場は話の腰を折るので削いだが、本筋は歪んでいない。
友人は話を聞くと、確かにあっけないな、と頷いた。どうやら彼が抱いた印象はそう間違っていなかったらしい。
そういえば、と彼は付け加える。
「俺のこと、クラスメイトだって気付いてなかったな」
「まじかよ」
「……俺もすぐに転入生だって気付かなかったけど」
「お互い様じゃねえか」
肩を揺らして笑う友人に、彼も釣られて自嘲したところで、鐘が鳴った。今日最後の授業がまもなく始まる。かたかたとクラスメイトたちが席に着く音が耳を包む中、がらり、と荒々しく教室後方の扉が開いた。
遅刻だ、遅刻だ、と怒声に近い音が発せられる。振り向かずともそれが誰なのかは安易に想像できた。授業が始まる倦怠感は巻き上げられていく。クラスメイトたちの刺々しい視線。友人もまた一瞥したが、彼が黒板を見上げている姿勢に気付くと、倣って椅子を正した。転入生が参加する授業は、いつも通りとはいかない。この日も例に漏れず、教室は苛立ちを膨らませて教師を迎えることとなった。
放課後。廊下にはすでに帰宅や部活に向かう生徒であふれていた。一年B組のホームルームでは十月末に控えた文化祭の話題に触れ、言わずもがな、転入生が一騒ぎした。とはいえ、転入生でなくとも多くの生徒が心待ちにしている行事の一つであるため、騒ぎが大きくなり、ほかのクラスより時間がかかったのは仕方がなかったのかもしれない。彼はただ静かにすべてが終わるのを待っていた。
委員長の号令で教師が退室し、各が次の行動へ移る。中でも転入生の動きは激しく、なにやら不満げな声を上げていた。見ずともわかる動静。転入生の矛先は、苛立ちや敵意を向けるクラスメイト群ではなく、隣の席。
彼は帰り支度をするため友人と共に後方のロッカーへと歩きながら、その様子を眺めた。転入生の席は窓際の最後列。彼と友人のロッカーは廊下側のため、衝突はない。
「ほら、行こうぜ! みんな待ってるからさ!」
「いいよ、俺が行ったって何もないよ」
「そんなことないから!」
相変わらず大きな声を保ちながら、転入生は何かを訴えている。見れば、困惑の表情を浮かべて拒絶の意を示す隣席の生徒は、転入生の同室者だった。二人は同室となった当初から行動を共にし、ある時には親友になったのだと転入生が公言していた記憶がある。彼は同室者と特別仲が良いわけではないが、ノートの貸し借りなら抵抗なく引き受けるくらいではあった。人当たりがよく、優しい人間だと理解している。
よほど放課後を親友と過ごしたいのか、転入生は渋る同室者の腕を取った。無理矢理と言うほどではないが、同室者は促されて起立する。転入生の不満げだった声が次第に嬉々に満ちていき、とうとうにかっと笑みを漏らした。同室者の頬も、呆れたように緩んでいた。
彼はそこまで観察し、足早に教室を後にした。