石の街
恋人を殺されたことで自棄になり、自殺を止められた男を守るために殺し屋となり、検挙されて刑務所に入ったあと、釈放されて地元に戻ってきていたアラディス。(pegasus名義投稿した「ALLシリーズ 美しき悪魔」の続編です)
石の街 2011/01/22
ダイマ・ルジク 61 (イタリア貴族ルジク一族と、アイスランドのラスタシアーラ一族のハーフ)
チェレステーオ 44
ローザ 37
アラディス 22
ハルバン・ラスタシアーラ 29
カイン・オルニーニ 27
レミルダ・ラッセー 22
デスタント 58
回想(イルダレッゾの誕生会)
■イタリア 黒髪+焦げ茶の瞳
ダイマ・ルジク(三十四) 本名イルダレッゾ/恐れられているが、冗談は通じる人/水色瞳
ザッレイロ・ヴィッシ・ルジク(五十八) イルダレッゾの父
レビシア・ルジク(三十二) 没32/イルダレッゾの嫁
チェレステーオ・ルジク(十七) イルダレッゾの次男
■アメリカ 金髪+緑の目
JDL (二十九) 没32/頭領/リカーを寵愛/ジル
リカー・ミカエル・レガント(十五) JDLの姪/ガルシアの次女
ライ・ローガル・レガント(五) 10歳で行方不明に/社交名JDLの息子/JDLの弟の息子
■フランス
シーヴァズ・ラジル・セラーヌ(二十八) ネルランの兄
ネルラン・セラーヌ(二十五) レリッゾの母
マテルダ・セラーヌ(二十三) シーヴァス・ラジルの嫁
■フランス(灰色がちの瞳)女性統治
ラーシェルヌ・レスベダルダ(三十五) リモルショーラの妻
ラディエンダ・レスベダルダ(三十四) 没65/リモルショーラと不倫
ラディルシア・レスベダルダ(十四) 社交名ラーシア/ラーシェルヌの長女
ラムール・レスベダルダ(十二) ラーシェルヌの次女/MMの母(ラムールの父はロシア人なので、ラーシアとは異父姉妹)
■ベルギー
ラスーン
■?未定
フェニックス(ニ十ニ) リモルショーラ崇拝
■アイスランド 金髪+青い目
シェライダール・ラスタシアーラ(六十) 社交名シェラー/イルダレッゾの母方の伯父
ソライレン・ラスタシアーラ(五十七) イルダレッゾの母
ラゾルフ・ラスタシアーラ(二十五) シェラーの長男
ルカ・ラスタシアーラ(二十一) ラゾルフの嫁/グルジア人?
キルレボー・ラスタシアーラ(五) 黒髪/ラゾルフの長女
ハルジバンダル・ラスタシアーラ(三) 社交名ハルバン/黒髪/ラゾルフの息子
■イギリス
ブラディス・オルイノ・デスタント(三十二) JDLの友人
■スペイン
サルファリヨン・ベルレドン(六十八) リモルショーラの父
レネィアン・ベルレドン(六十五) サルファリヨンの嫁/フィンランド人
オスカル・ベルレドン(三十五) リモルショーラの兄
リモルショーラ・ベルレドン(三十三) 没37/ダイマ・ルジクの友人
■スペイン 黒髪+焦げ茶の瞳
サティエル二世(七十八)
ラオナス・サティエル(四十三) サティエル二世の長姉
ロスカル・サティエル(四十一) ラオナスの弟/後のサティエル三世
アルグレッド・サティエル(五) ロスカルの長男
■スペイン
ルベラ・エメルジア(四十) ザイーダルの父
ザイーダル・エメルジア(十六) レダンの父
■スペイン
サリディルボ・ヴァッサーラ(七十六)
ルジク屋敷の裏手に屋敷を構える一族の子息、カイン・オルニーニは、石畳の上で背を上にいた。
「………」
一方、ルジク一族の子息、二十ニ歳のアラディスは、オルニーニ一族のあのゲパルドghepardoを見て、その道を通るのはやめようと考えていた。
あの二十七歳の青年カインは魔物で、苦手だ。
アラディスが愛していたカイン・ロブイーノとは似つくところも無い。
仲間内でも魔王といわれている様なビルボーネだ。
形のいい臀部をこちらに、光沢の黒絹の幅広パンタロンを腰で留め履き、美丈夫な筋肉の黒く日に焼ける腕を伸ばす上腕に編まれた黒帯を巻き、黒レイヨンで袖なしのカミーチャcamiciaに身を包ませている。
毛足の長いゲパルドのような黒髪をして、あの野性的な色っぽい目許を閉じ、まただ。また石畳に涼んでいる。
黒睫に囲まれた鳶色の目をして、その上黒で目の際に線を入れているものだから余計にそうだ。百九十もある長身なので、目立つ。恐ろしく無表情できつい。
tamburoタンブーロで、貴族仲間でバンドを組んでいる。静寂の欠片も無く、一瞬にして悪魔的に打ち鳴らして闇銀を席捲、折檻する。麻薬ドローガdroga好きでいつでも自分の女とどこでも交わり、天に甘い声を出して交尾しているから、視野的にもアラディスは無理で、裏ではビセッシュアーレbisessuare男なので避けている。
カインはあの独特の綺麗な香りで目を開けた。石畳が頬横に広がり、熱を奪い去っていく。馬車から父親に蹴り出されて五時間。
石造りの屋敷軍が続き、視線を落とした。
肩越しに麗しいアラディスの背が、モートmotoを引き進んでいる。しかも綺麗な水色の背を背後に。音も立てずに。
「ルジク一族の人間は冷淡だぜ相変わらず」
「………」
肩越しに目を伏せさせ見ると、あの状態のままだった。
アラディスはモートを引き走って逃げ、後々叫んだ。背を両足で飛び蹴りされ、石畳に転がった。酷い年上だ。
「キャハハハハ! 白黒の人形みてえ!」
そう腹を抱えて笑っていて、歯を剥き睨んでから立ち上がった。
「またクラブに来るんだろう? 可愛いアラディス」
日に黒く焼けた長い腕を肩に回してきて、横目で目を睨み見上げた。
「今夜、演るから来い」
皮パンの腹に挟んできてしかもついでに撫でて来て色っぽくファーレ ロッキオリーノfare l'occhiolinoし、ちゅっと唇に黒ピアスの嵌る唇で軽くバーチョbacioしてきて歩いて行った。腹部を見下ろして、黒い券四枚を見て、憮然と去って行く黒い背を見た。あいつは相手がどっかの老人でも少女でもおばちゃんでも初対面でも嫌いな相手だろうと関係無くしてくるバーチョ魔で、ほとほと家族も恥かしがっている。
実はあいつは大の人間嫌いで、他人嫌いで、男も女も実は大ッ嫌いな奴だ。危険なので、また危険な非社会的仲間殺し的な言葉を吹き込まれる前に去って行くに限る。あいつは洗脳してこようとして、悉く人間を嫌いなものにさせて来る曲者で、貴族の貴公子あるまじき黒い奴だった。
しかも、あいつは問題のあることにアラディスに鞭打たれたがって来る。甘い目で一気に媚態ある眼差しになって悩ましげに言って来る変わり者だ。そして、大体は何も考えていない。相手があんなに魅力的な相手なので、いつでもアラディスは逃げた。あいつは侮ると恐い。鞭打ってくれなければ上目になって恐い目で自分の手首を切ってアラディスを真っ赤にしてくるし、仲間に火を乗り移らせてキャハハハ狂った様に笑うし、ちょっと頭がイカレてしまっているのかもしれない。
なので、あのルジク一族の裏手のカインは何か、魔物だった。
煙草の紫煙の先に、闇を貫き広がる銀が光り、黒艶のバッテリーアbatteriaが銀の鋭い金具で光っている。その先に、眉を潜め煙草の煙を避けては長い足を伸ばし座って棒を手に、カンタンテと話しているカインがいて、そのカンタンテと深くバーチョして鋭く微笑し、話し続けていた。
アラディスは酒を片手に、友人のウォズラとベリーノ、サフの三人と話していて、サフォンの場合はこのバンド、あるまじき事にジュスティッツィアgiustiziaという完全に世間様に喧嘩売った[正義]という名称の、どこを探しても邪い物しか無い皮肉たっぷりの、そんな言葉を聞けばこちらの身が蕩けてしまいそうなほど、やはり人をこいつらは溶かす為にいるというようなバンドのアッパッショナートappassionatoだ。
「avviare」
乱雑で深い闇に、上品な青紫の光が駆け巡り、カインはその中に横目にアラディスを見つけ、ゆったりと流れる紫煙の向こう、黒のカミーチャから出る真っ白の腕も、首筋も、鷹顔の顔立ちも青紫に染めている姿を見つめた。射抜くように。
あの漆黒の瞳は艶めかしい紫に光りを受け、そして煙草の煙を染める青紫はその色で闇に登っていき、アラディス自身の首動きで流れていく。
あいつは初恋の相手だ。可愛くて、恐ろしい程愛らしくて、全てを捧げたくなるほど、惑わしたくなるほど、いつでも魅了されてきた。それでも、あいつは年上の自分の事など目にも触れずに避けてくる。どんなに自分が魅力的になっても、絶対に振り向かなかった。蹴りつけられてもいい。ずっと抱きしめていたい。自分が好きなのはあいつだけだ。ずっとそうだ。
目を反らし、銀の舞台光に充たされ闇を背に棒を鋭く操った。
アラディスはあちらから横目であの美しい手並みを見つめ、そして顔を向け見た。汗がディアマンテdiamanteの様に舞い、微かに開き閉じる瞳に艶の光が射し瞼に閉ざされ、あのしなやかな長い腕で操り、そして長い足先で打ち鳴らし、組み込んだ音を聞かせてくる。腹に据えさせて来る。いつでも。悪戯に魅了してこようとする。
目を閉じ俯き、闇の中に音だけ流れ込む。カンタンテの鋭い声も。
目を覚ますと、柔らかい何かの上だった。黒い布に白い月光が差している。重い。
肩越しに見ると、またカインだった。眠っている。背に頬と軽く握られた手を乗せて。また頬が涙で塗れている。いつでもそうだ……。よく分からない奴だ。
別に襲って来ることも無く、いつでも浚って来て目覚めると背に乗って眠っている。人の事がレットlettoにしか見え無いんだ。こいつは。
それでも居心地が良くて、目覚めていなければ危険じゃ無いために目を閉ざしていた。
このカインと来れば、人の母ローザにまでこうやってしがみつきに来るし、ローザははにかんで髪を撫でてやっているし、父チェレステーオにまでちゅっちゅとキスをしまくってきて青筋立てられるし、ダイマ・ルジクには近づく前にいつでも杖でドガッと激烈に腹を突かれ転がされている。
だが、憎めない奴というわけでは無く、恐ろしい程に時に小憎たらしい奴だった。だが、どうも完全には放っておけない。
狸根入りしているカインは、アラディスが目覚めている事が呼吸で分かり、引き寄せて優しく項にキスを寄せた。目を閉じ息をつき、一瞬でまるで悪魔でも目覚めたかのように柔らかな肌が緊迫し、カインは目を開き、壁を見つめた。
アラディスは重いカインを乗せながら、顔の方向を変えて心臓が早鐘をうた無いようにしていた。
カインの閉じた目から涙が透明に流れ続けて、長い足が絡まってくる。アラディスは安堵して、目を閉じた。
「アラディス……」
「……なに」
「好きだ」
「嫌いだ」
「アラディス」
背後でカインがうっうと身を丸めて泣いて、肩に目許を埋めてきた。
「この前お前の祖父さんにお前をくれって言ったら、飛び蹴りされた」
「ええっ」
アラディスは大驚きして出所時に会った以外に会っていないしルジク屋敷のある区域にも近づいていないので、ダイマ・ルジクがまさかの飛び蹴りなどしたという言葉に肩越しに見た。出所二日後に父チェレステーオに勘当され、アラディスは一人暮らしをしている。
「あの祖父さん、ぜってえビセッシュアーレ差別してやがる。絶対そういう性的少数者差別連盟あって加盟してやがるんだ。それで俺を撃退して来たんだ。アラディスを嫁にくれって言った瞬間恐ろしい顔になって飛んで蹴られた」
「分かる……お前に輿入れする女の父親も従姉妹までもお前を同じ目に遭わせるだろう」
カインの場合は、誰にでもそうする。人の妻のローザにまでそうしてチェレステーオに口に生ジャガイモを突っ込まれ、金ほしさだろう、ダイマ・ルジクにまで後妻にしてくれと言って来ては青筋立てたダイマ・ルジクに五日間暖炉に閉じ込められ、青銅の重いcaminoカミーノで出られなくされていた。
この前は、お手製と言っても角の惣菜屋で買って来たコトレッタ アッラ ミラネーゼcotoletta alla milanese(ミラノ風カツレツ)を持ち寄って求愛して来て、断ればアラディスのモートで追い掛け回してきてしまいには突っ込まれ飛ばされて泣いた。そしてそのままカインは人のモートで煙草の紫煙を引き口笛を吹き去っていったのだ。どちらにしろ肉物など見る事も出来なかったので、とっとと正式な婚約者を作ってなんなら他州に婿養子に行ってもらいたかった。
カインは今泣きくれていて、答えてくれないアラディスの腕を引き寄せ手の甲にバーチョし、その自分の大きな手に軽く握られる真っ白の手はただ力を抜かしているから丸まっているだけなのが泣けてきた。また泣いて、既に黒い線も溶けていても色っぽい目は変わらなかった。
アラディスは身体を向け、上目で見つめると胸部に手を頬を寄せた。カインは頭を抱き寄せて、髪に唇を寄せて抱きしめた。ずっと、大きな黒いクシーノcuscinoに沈んで抱きしめていた。
暗い中、アラディスは重さと腕に包まれながら目を閉じた。カインが可愛くて、虐げたくなる。それでもそうしない。
カインはしっかり抱き寄せ、安堵の息を漏らした。
「六年間、どこの修道院にいたんだ。チェーロのフェラーリで酔っ払って壁に突っ込むなんて、この白黒人形がとんだ優等生だな」
「そうだな……」
優しく黒髪を撫でながら、カインは目を閉じていた。
アラディスは一気に恐怖に陥り、震えそうになる全身を緊張させて目を閉じた。闇に恐怖だけが浮き彫りに去れる前に、目を開けてカインがふと開いた目を震え見つめた。
カインは漆黒の、光も返さない目を見た。
アラディスは顔を反らし肩を退かして離れていき、カインはその背を見上げた。ドアから出ていき、カインは一人残された。
カインは今日もルジク屋敷に、しかも忙しいってのに朝っぱらからやってきて一族の邪魔をしてくるつもりだろう、朝食の席に既に加わっていた。
ダイマ・ルジクはすでにあきれることも通り越していた。
人の肉とも知らずにカインはダイマ・ルジクと同じ物を食べたがってその人の肉を美味しそうに食べている。
「最高だなこの肉、なんの肉だよいじわる爺さん」
「うるさい」
ザパッと言葉で切られてカインは食べ続け、赤のワインを朝っぱらから既に二本も空けていて、チェレステーオは飽きれていた。
「カイン。あなた、話では音楽をまた昨日やったそうね。あの子の事も見に来る様にと誘ったんでしょう? どうだったの? あの子の様子」
「嫌われた。俺を最大限に嫌ってるんだよアラディスは。可愛い顔しやがって最終的にビンタしてきそうな顔で俺から逃げた」
「あまりよく分からないけれど……元気そうだったの?」
「ああ。もうぴんぴんしてて、俺がいじわる爺さんの真似して飛び蹴りして地べたに転がしても何とも無かったからな」
チェレステーオは首をやれやれ振って天を仰ぎ、ジャガイモを切り分けバジルチーズソースをからめて口に運んだ。
「そうだ。チェーロ」
チェレステーオをチェーロと呼ぶカインはチェレステーオを見た。
「今度、モン・サン・ミッチェンで挙式挙げようぜ」
鋭くフォークがカイン真横に飛びその向こうにいた眼帯の使用人が片目を見開き口を引きつらせ顔横で指で留めた。
「suoceroスオーチェロ(義父さん)」
「うるさい」
ダイマ・ルジクは鋭い目を伏せ気味にフォークを口に運んだ。
カインがチェレステーオの方に来てまた人の項を取ってきて肉を食った口で深く舌を絡めて来て、ドスッと手刀してカインはターヴォラtavola(ターヴォロtavolo(作業用テーブル))に崩れた。ダイマ・ルジクは目許をビキビキさせ、眼帯使用人に屋敷外に蹴り出させに行かせた。
カインは追い出され、舌を出してから、セッソsessoは一度も無いといえども、人のいない社長室ではバーチョに何時間でも答えてくれるっていうのに冷たくされた為に、自己の屋敷へ道を歩き帰っていった。
屋上の部屋に進み、祖父が螺旋階段下で声を掛けた。
「用意をしなさい。これから品評会だ」
「はい」
カインは部屋へ上がり、鎧戸のドアを開けた。
三メートルという高さの斜めになる室内は壁は黒ビロードに埋め尽くされ、そして三角の天井天辺から黒シルクがまとめられ綺麗に下がり、丸い寝台は六個の三角を重ねたもので、その上には彼女が眠っていた。
服を放って全裸になり、全裸にまた下着無しでcalzoneカルゾーネを履き、abito da cerimoniaを身につけた。というか、カインはボクサーboxer(下着)と言う物を一着も持って無い。
髪を櫛で撫で付け流し、社交用の香水をふりかけ、彼女を放って出て行った。
祖父、父と共に馬車に乗り込み、向かう。
「ああ、そうそう」
「何だ」
「結婚しよう」
バシッ
頭を叩かれ、馬車は進んで行った。
アラディスは何ともつかずに、即刻写真を綴じた。
「へえ。シエナの美貌と呼ばれるカレン・イッシーエじゃねえか」
婚約しろと、そういう写真がルジク連盟の人間から送られてくる。
恐ろしい程に美しい女が写っていて、美しくゲルモッジャーレgermogliare(目ん玉飛び出る)するかと思った。
「シエナからの輿入れか。シエナ出身第二号のルジクの妻を母とともに優しくしてやれ」
「何歳だと思ってんだよ。二十六だぜ。年上なんて」
「一度離婚してんだ。十七で結婚して二人子供がいるが二人とも息子だ」
「………」
「この前の女は確か、アイスランド人の超絶美法な女だったよな」
「イタリアの血を薄れさせるわけには……既に曾祖母がアイスランド人だ」
「ああ、ルジウ自体が血が弱いからなあ。多くても二人までしか子供できねえし、殆ど一人っ子だし、一度アイスランドの血入っただけで根負けしてイタリア人にあまり見えねえもんな」
「うるせえな……」
「お前なあ、六年間も修道院に閉じ込められてたから、女にそこまで疎くなったのか。こんなに美人な女、そうそうあっちから顔出して罰二ですなんて言って来てくれないもんだぜ。家族は隠したがるしな」
「じゃあ、あの女はどうだよ。王宮シャンデリア社の末娘もいたじゃねえか。十八歳で、ちょっと高飛車そうなのは気になったが」
「無理だ。あの子には十二歳の時に女の子みたいな顔だって大笑いされて五歳も年上なのにトラウマが」
「しかたねえな。女顔だもんな」
アラディスは憮然として頬杖を付いた。
「六年間も俺はセッソ無しは無理だな。普通出られたら即刻良い女掴まされたら許婚にするってのに、まさかお前、黒皮被った僧侶なんじゃねえだろうな」
「僧侶でも婚姻結ぶもんだぜ」
「お前の元だからだぜルジクの貴公子。こんなに恐ろしい程美貌の軍団写真が普通集まる? しかも社交違いで現れねえ幻級美女まで勢ぞろいでお前に蹴られてんだぜ。今に襲うぞお前の事」
「僧侶の俺相手に発情してんじゃねえ」
アラディスは伏せ目で写真を見て、溜息を付いた。
「分かった。お前、美人ばかり見すぎたな。少しは美人の婚礼写真から離れてから再び見ろ」
モーブランもエスロも適当を言って来るもので、自分達は可愛い彼女がいて、モーブランは今度結婚するからって。
エスロの部屋で、藤色と黒のみの部屋で、まるで女みたいだ。銀の小さなquadriクアードリ(ダイヤ)模様がアクセントだった。
電話が鳴り、受話器を耳にした。
「おいモーブラン。女から」
「マジ? もう会いたくなったのかあいつ。二時間しか離れてねえってのに」
そう言うと、モーブランは大喜びで帰って行った。
「結婚間近か。見せ付けやがって。二時間後には喧嘩して帰って来るな」
「一時間後には子供できてるかもしれねえじゃねえか」
アラディスは写真をながめながら言い、エスロはホワイトシルバーに抜かれている髪の下の目で見た。顔を美人の女達の写真に戻し、相槌を打った。
アラディスは横顔を見て、いつでもエスロは二人になると一気にそっけなくなる為に放っておいた。アラディスは写っているどの女より可愛い美人だ。酔った振りして押し倒した時は、こいつまさか軍隊にでも身を投じさせられてたんじゃねえだろうなという程腸を蹴られて半日腹が下った。小学校時代から可愛いと言うと怒り始めて、父に車の免許は許されていない為にエスロのキャディラックを運転する事は無いが、将来はやはり漆黒のフェラーリでも欲しいようだ。
爆睡した隙にこの前麻薬に酔って襲った時は最高だったが、爆睡していたし、それを言えばアラディスにぶっ殺されるだろう。そして漠然とルジクの古城の柱一部にされるのだと思った。だが止められずに尽きずにその夜何度も立て続けにしていたのは確かだ。きっと腹が完全に全て純白にうめつくされたんじゃないだろうかという程だったのだが。そうか。アノから体内までもが純白にか。エスロはそ知らぬ顔で写真を眺めて行った。
「そういえば、前ランディアっていたよな。元気か? 今はどこの彫刻修復工事に向かってるんだ?」
写真が一気にレットに散らばり、アラディスの横顔を見た。
「? 何だよ。喧嘩か? もう確か三十一位だろ。子供とかいるのか? それともルジク連盟の仕事から離れたのか?」
いきなりアラディスが立ち上がり、顔を反らし出て行ってしまった。
何かまずったことを言ってしまったのだろうか。また腹いたくしたのだろうか。ここにペローナがいればそう言っていただろう。金のピアスをボブ髪から覗かせて首を傾げて。
桃色掛かる薄い紫の夕暮時、アラディスはエスロの部屋に戻って来た。
エスロは美人の写真に囲まれ、うたた寝の先に藤色のlenzuoroレンズオーロ(シーツ)を引き寄せ眠っていた。
横に座り、曲げて天井を向く足裏を倒してまたもとの場所に戻った為に、黒革ボタンダウンの頭側に背をつけ、窓から桃藤色の空を見つめた。白金色の星が一つ。
藤色の影は一部、透明な桃色に染まっていた。藤色の壁の銀模様は滑らかな銀に、一部桃色に鋭く光っている。黒い家具にも優しい桃色の陽が刺し、小さい頃からの彼等の写真がある。幼稚舎からの友人だ。
目を綴じる。
白くする。全て。
夜。目覚めたエスロは顔を上げ、アラディスを見つけた。革に背をつけ、藤色の枕を抱え座り眠っている。
室内は闇で、立ち上がってから黒革の垂れ幕を窓に垂らし、戻った。
枕を抱え眠るのを背を向けさせ、自己も抱えて動いた。クーロculoを掴み痺れるほどの至福で息を吐き何度も終らせると、離れていき衣服を正した。まだ眠っていて、ランプに手を伸ばして点けた。恐ろしく無頓着に寝てて可愛い。
腹が減り、一度バンニョに行ってから出て行き食事を持って来た。
料理の香りで目を覚ますと、エスロが食べていた。
「バンニョ入れよ。エルバ アロマーティケerba aromatiche浮かべた」
「本気で女みてえだよなお前」
アラディスはそう欠伸をしながら言い、歩いて行った。
水を浴びながら天然石鹸で身体を洗い流してから湯船に入って目を綴じた。
エスロが入って来て、歯を磨きながらアラディスの綺麗な裸体を見た。まるでぐったりとして壊れた操り人形のようだった。
「なあアラディス」
「なに」
「将来どうするんだ? お前、勘当されたままで許されるわけがねえ」
「未来が見え無い……」
「修道院、楽しかったか?」
「バンニョ ディ エルバアロマーティケは無かった」
胸部と下腕に気味の悪い蛇とコブラの入墨が入り、鷹鼻梁の顔立ちを見て、服を脱いで立てられる脚の間に入った。
アラディスは目を開け、ホワイトシルバーから覗く上目のエスロを見た。微かに温い湯で唇は薔薇のようになるアラディスの顔を見ていて、腰を降ろすと縁に下腕を掛け、抜いていて眉の無い下の目はあちらを見た。腕を伸ばしラジオをつけ、そのエスロの横顔からアラディスは目を反らし、目を綴じ項を背後のタイル上の枕に戻した。
エスロはずっと見ていた。綺麗な身体の隅々まで美術鑑賞するように。呼吸して、時々こめかみから汗が透明に流れていく。美しい輪郭をそい。見ていて飽きない。全く。
人の体内から発されるオペラ声楽を聴くときに一番良い音響劇場は、人の体内だ。同じ人肌という質感に囲まれて聴く音楽が。
なので、今、ダイマ・ルジクがいるのは、その人間が覆い尽くす劇場内だった。
ドーム型の広い壁全て、防腐剤を打たれた柔らかな女の肌をした死体で隙間なく埋め尽されていた。
舞台では、美しい美声を轟かせ歌っては、そしてどこまでも柔らかに、懐を包み込むように崇高に、どこまでも奥深く響いている。奇跡の歌声にする。どこにも角などなく潤い流れる声は豊かで、澄みわたっている。既に人にあらさりき完璧の美の体現だ。美以上のものがそこにはあり、そして包まれる至福……。
ダイマ・ルジクは、目を綴じ悦として息をつき、顔を戻し目を開いた。
いつも横を見下ろすが、ついつい妻がいない事をまた忘れていて、顔を目を伏せさせ前に戻した。何年も前にあの自殺した長男に食べられたのだった。
青筋立てて目許をビキビキさせ、舞台を見た。
背後から友人が肩に手を掛け言った。
「やはりサタニーズモsatanismoなこの演目はこの劇場でこそですな」
「ああ。他のものなど排除すべき物だ」
オペラの鑑賞も終えると、劇場の地下へ来た。
現在四十四の年齢の次男チェレステーオは逆に淡白で、肉所か魚さえ食べない。
ダイマ・ルジクは顔を上げ、ラスタシアーラ一族の貴公子を見た。
また戻し食指を進める。
ダイマ・ルジクの美しかった母は、アイルランド貴族ラスタシアーラの令嬢だった。その母の兄夫婦の孫息子であるハルバン・ラスタシアーラは、現在軍用施設に身を投じる青年で、冷静沈着な性格をしていた。
こうやって稀にイタリアにやってくると、よくアラディスを連れて動物園に行っていた。
アラディスは公園でソプラノサックスを吹き鳴らしていた。
たまに気が向くと、こうやって公園に出て来て吹き鳴らして気分転換している。
「アラディス」
「………」
顔を上げると、アラディスは笑顔になってハルバンを見上げた。
「久し振りだ。あの頃は十三歳だったな。十年ぶりぐらいだ」
「はい」
「最近、お前の祖父に会ったがお前が修道院を出た後に自立したと聞いていた」
アラディスはソプラノサックスをベンチにおき、自己の膝に降りるサックスの影を目を眩しく細め見ながら頷いた。
ハルバンは二十九の男で、ダイマ・ルジクの伯母の孫であって、アイスランド人だ。ダイマ・ルジクの若い頃と顔立ちや雰囲気が似ているのは血族だからだ。やはり、ルジク一族もラスタシアーラ一族も共に冷静揃いの性格で、ラスタシアーラは加えて長身揃いだった。
アラディスにはアイスランド人の血も入っている。
「ソプラノサックスを?」
「はい」
銀の珠が四つ並ぶカフスと、白の詰襟シャツにスカーフを巻き、端に金ステッチの入るストレッチの利いた黒ビロードパンツと、ロングブーツで凛と立つハルバンを見上げ、嬉しくて彼に横に早く座ってもらいたかった。黒髪をいつもどこか色っぽく流し前髪を片方下げていて、シャープな顔立ちがハンサムだ。やはり真っ白い肌はアラディスと同じだった。
軍人のために、普段もしっかりした装いが多い。そういう気質なのだろう。
「久し振りにどこか、出掛けようか」
そう言い、そこでアラディスの黒いタイトなTシャツから伸びる下腕の黒蛇を見て、手に取った。
「貴族が世俗の趣向を持って、墨など入れて」
アラディスは水色の瞳を見上げ、桃色の口を閉ざして視線を落とした。
「さあ。行こうアラディス」
頷き、顔を上げると黒のとうらくの馬がいて、ハルバンが颯爽と飛び乗りアラディスの手を引っ張った。
ソプラノのケースを手にその前に乗り、肩越しに嬉しくてハルバンを見上げ、彼も男らしく薄い唇の片端を引き上げ、馬を進めさせた。
「あらアラディス!」
「レミルダ」
二ヶ月前まで付き合っていたという噂のアラディスのレミルダで、きっとアラディスの部屋から起き上がって、また友人か新しい噂の恋人の所にでも行こうと歩いていたのだろう。確かにこの公園を越えた向こうに、そのレミルダの新しい恋人、サンセンの屋敷がある。早く出て行けばいいのに、ずっとレミルダは可愛いアラディスの部屋にいた。なので、女性とずっと共にいれずにアラディスは友人の部屋で長居をしたりする。
「ソプラノサックスが無いから、また公園だと思ったわ。スィニョーレラスタシアーラ。ご機嫌麗しく。昨夜はどうもありがとう」
「どういたしまして」
「レミルダ。これからどこに?」
「サンセンの部屋よ。今、ミナリカとマーシャが、ラジアンとケインと共にいるというから」
「そうか。いってらしゃい」
「スィニョーレと出かけるの?」
「ああ」
「鍵、持って行っていい?」
「どうぞ」
「いってらっしゃい!」
「ああ」
彼女は意気揚揚と走って行き、彼はハルバンに微笑んで、馬は進んでいた。
「レミルダの屋敷に昨日はいて?」
「ああ。一時」
「そうなんだ」
ハルバンはまるで山猫のような髪型のアラディスを見ていて、喉が鳴った。真っ直ぐの猫のようなカーブする光沢ある素材の背も、白に黒斑の革パンツに包まれる腿も、可愛い。
「今日、俺の部屋に来るか? 郊外に借りているんだが」
「はい。久し振りに」
アラディスが嬉しそうに微笑んで白い歯を覗かせ笑った顔で見て来て、ハルバンは微笑みそのままアラディスを誘拐して行った。
馬を走らせて行き、思い切り進めさせた。
一度、ホテルの部屋に上がるとアラディスはソプラノサックスを置き、出ることにした。
馬に飛び乗り、もう一頭をホテルで借り、進んで行く。
農場が広大に広がる方へ進みずっと景色を眺めながら馬で歩いていかせた。
馬から降り、木に乗り沿い座ると横にハルバンが座り、アラディスは腕に手を回してこめかみを肩に乗せ、上目で見てから景色を見渡した。
腰を引き寄せ、ハルバンは目を綴じた。
目を覚ますと、夕陽時だった。
赤の雄大な夕陽が、天を優しく染めている。どこかそれは赤の部分だけは乱暴さもあり、そして、眩く切り抜かれた光を染み付かせている。
覆い被さるような木の枝葉もルビーのように輝き染まり、そして夕陽の赤を繊細に透かしている。
ゆるやかな何かの記憶の中で、熱い熱と微熱が入り混じり、夕陽の時間の中を赤に肌も染まりきり、アラディスの瞳はキラキラと眩く輝いては、唇は光り潤っていた。アラディスは闇と灰色の熱い記憶を夕陽の先の陽炎のように見つめては、目を細めていた。
ハルバンは木の幹に黒髪の頭を預け、甘い香りのシガリロの緩やかな煙の先、立ち昇る影と、煙をも光を赤いヴェールに変える夕景を見つめていた。
夜になり、部屋に戻ると背後でソプラノを出しているアラディスを見た。
「酒は飲むか」
「はい」
そう顔を向けて来て、ハルバンは微笑し、群青の夜の窓際に設置される台に並ぶ酒の瓶を手に取っていった。
カーテンを閉ざし、奥へ進んで行きグラスに氷を入れ粉を振り、酒を注いだ。
身を返し、ソファー背凭れに座るアラディスのサックスを手に取り、グラスを持たせた。
「ありがとう」
アラディスが微笑んで、そして甘い酒のグラスに口をつけた。
「………」
酔いが強い事に気付いて、シガリロの煙がゆったりする先の、ハルバンの横顔を見た。こちらを向き、微笑する水色の瞳を。
修道院にいたにしては出てきてからグレたのか、野生猫の様にクールだが、やはり可愛いままだ。
連絡に、ハルバンは顔を上げた。
受話器を見て、テーブル横の椅子に足を組み座り受話器を手にした。
「ラスタシアーラ様。先ほど、フェニックス様よりご連絡を承りました」
「そうか。こちらで掛けなおす」
昨日の深夜、劇場と宴でも会ったというのにまた顔を見たくなったのだろう。
「ハル」
「フェニックス」
「今はルジク一族の古城だが、お前が話を蹴ったそうだな」
「蹴ったわけじゃ無いよ。俺は行動が自由なだけだ」
「そうか。ラディエンダがどうもご立腹で、手も着けられない有様だ。軍人のお前に押さえてもらおうと思ったんだが」
「全く。自分達でどうにかしてくれないか」
「お前に会いたいだけだ」
「今は……そんなに遠くまでは行けない」
「国の軍に戻る前にもう一度会おう」
「分かった」
連絡が切れ、ハルバンは溜息をついて膝に乗せる足首に受話器を置き壁に黒髪をつけ、目許を押さえて溜息をついた。
視線に気付き、ハルバンは可愛いアラディスを見ると微笑んだ。
「あら。お孫さん」
ぼうっとする目で顔を上げ、馬車の中の貴婦人を見上げた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「郊外にいるなんて珍しいのね。乗って行かれるかしら。ミラノに戻るんだけれど」
「ありがとうございます」
「お屋敷まで?」
「お部屋まで」
「どちらかしら」
「教会近くで構いません」
「分かったわ」
彼女は微笑み、ベルを鳴らした。
馬車は進んでく。風で髪がそよそよと揺れていて可愛かった。
「それ、楽器?」
「はい。ソプラノサックスです」
「珍しいわね。ヴァイオリンを習っていたのに」
「趣味で」
実は刑務所にいた時に習ったのだったのだが、言えるわけも無い。
これは出所して、新しく自分の物が欲しくて公園の鑿の市で見つけたアンティークものだ。マウスピースが無かったので、それは買ったのだが。
「吹いていただける?」
「はい。でも、音がとても大きいので馬車の中だと、馬が驚くかも」
「それじゃあ、あたくしのお屋敷についてからおきかせ願えないかしら」
「はい」
彼女は微笑み、馬車を進めさせて行った。
うたた寝に入っていたダイマ・ルジクは、理事会の部下に起こされて黒革の柔らかなハイバックに沈んでいたが目を開いた。
とはいえ、スティックに手を置き目を綴じているだけなので、考え事でもしているかのようにしか見え無いのだが。
会議中に居眠りするのは多少昔からあるが、部下達は揃って顔をむけ、また説明をしなければならなくなったとまた思った。
目を綴じ聞いているのか、眠っているのか、不明なので毎回間違えると杖でぶったたかれる。
殆ど、夢で見るとすれば闇とダイヤモンドの中に佇む妻とその愛馬だった銀掛かる白馬の寄り添い立つ背の姿だけなのだが、時に旋律まで流れると、その崇高な音さえも煩わしく思えるほど、他者の存在を夢に感じたくも無く目を覚ます。
水色の目で部下を見ると、視線を戻し説明をする部下の話を聞き目を綴じ聞いていた。
また眠ってしまうんじゃないだろうなと危惧しながらも、ちらちら見ながら説明を続けていた。
大方は前夜に毎回書斎で内容確認をすませる質なので、それに付け加え内容を細かく各地から集まって来た部下が説明する。
会議も終了すると、一時サロンに移った。
執事が来ると極薄めにされているコーヒーを出し、壁に戻った。
プラチナの獅子顔の懐中時計を内ポケットから出し、時間を確認すると妻と馬の並び立つ白黒写真を見ては、また癖の様に親指の手元で無意識に釦を回し針をグルグルに回し時間をめちゃくちゃにさせていて、奇跡的に稀に同じ時間に戻っていて、そのまま閉ざされるが、五時だとか有り得ない時間になっていると気付いて柱時計を見て戻している。
いつでも執事はそれを見ているのだが、大旦那様本人がまるっきり問題も無さそうなので、毎回見ているだけに留めている。静かな横顔はやはり鋭く、組んだ長い足も、アームに立てられるスティックも、置かれる手も、その真っ白の細い指に嵌められるアクアマリンも、時々光を受ける事で動いているらしいと分かるぐらいで、ずっと亡くなられた奥方の写真を見始めると、大体はいつも五分ぐらいで顔を前に戻し既に温くなるコーヒーを傾けた。
そしてとんでもない時間になっている事も気付かずにまた閉ざす。きっと、ふと時間を他の場で確認するとあの水色の目をまた開いて時間合わせをするのだろう姿は浮かぶ。何度か、大旦那様が馬車から降り石畳を颯爽と進んでは、執事を引き連れ時間を確認しあけると、恐ろしい時間になっているので鋭いつくりの目を静かに見開き時間を調整している所を何度見たことか。そして何くわぬ顔で獅子顔の蓋をシンと閉ざし、内ポケットに仕舞い段差を上がっては、光の漏れる柱の間をとおり建物へ進んで行くのだ。
プラチナのチェーンが光っては、その頃には他の事で既に頭が働き回っている。
サロンを出ると、一時学校から離れて屋敷へ帰る事になる。その後に午後は連盟の建物へ向かう。
既に執事には、時計は合っているのか合っていないのかは不明だ。今日は。
馬車に学校の理事会に見送られ乗り込み、進ませていく。
屋敷に到着し、若い使用人がエントランスに走って来て急いで羽根の刷毛で大旦那様の外気のチリを払って行った。
ガッ
使用人は目を固まらせ刷毛を落とし、首から血をしばらく吸われ続け、そのまま気絶しエントランスに崩れた。
ダイマ・ルジクは顔を前に向け歩いて行った。
他の使用人が窓を吹いていた布を持ち歩いて来ると、倒れている、きっと血を昼時に大旦那様に吸われたのだろう、駆けつけて引き起こし頬をバシバシ叩いて目覚めさせた。高いコルカッセの首に巻かれる黒いシルクから噛まれた歯の鋭い痕が残っていて、唸って目覚めた。
ベストとジャケットを正させて起き上がらせ、だいたい何も覚えていない者が多いので、羽根の刷毛を持たせとっとと仕事に向かわせた。
ダイマ・ルジクは食堂に来ると、腹を空かせて眼帯男に引かれた椅子に座り、男は壁際に離れて行った。
意気揚揚と次男坊の嫁、ローザがやってきて席につき、食事が運ばれ始めた。
大体は彼等二人での昼食が殆どだ。他の貴婦人や貴族仲間が加わる事もあるが、毎日というわけにもいかない。息子も仕事で屋敷には戻らない。
「嬉しそうだな」
「ええ」
薔薇色の頬をしている時は大方、アラディスの事で、半ば聞いた自身をのろう事もあるが、相手がああも愉しそうにしていられると、食べている人肉の味も変る。
「先ほど、マルレーノさんがおっしゃっていたんです。お屋敷にあの子が来て、楽器を吹いてくれたのだと」
すぐにあのマルレーノの美しい嫁が浮かんだが、ダイマ・ルジクは相槌を打っただけだった。何しろローザが途切れる事も無く話し続けている。
「内容はジャジーな曲だったらしのですけれど、とても素晴らしかったと。是非ともに聴いてみたかったわ」
彼女はニコニコとして食事を始めた。
ローザも次男坊のチェレステーオも、ともにダイマ・ルジクが人肉を食卓で食べている事など知らないので、使用人達が血を吸われていることさえ知らなかった。
チェレステーオが十七の時の事だった。その兄であり、ダイマ・ルジクの長子が食人をしたのは。
その日は不気味なほど暗澹とした空気の日だった。
自身の三十四という年齢の生誕の宴を催されていたダイマ・ルジク、イルダレッゾ・ルマンド・ルジクは、多くの友人達や連盟の人間、様々な機関の人間や家族達と宴を進めていた。
夜気がどんなに混沌とした空気をはらんでいても、その煌びやかな会場までには届かなかった。
人々は笑い、酒を傾け、愉しげに会話をし、そして美しい妻レビシアの頬を指で撫で微笑み、グラスを手にしては、彼女は彼の水色の瞳を微笑み見つめていた。
レビシアはその時代、人前に出る時は顔にレースを掛けていた。あまりにも美しい為に、男達の目を虜にするからだ。ダイマ・ルジクの目も盗んで貴公子や貴族旦那達は彼女を影で連れて行き、悪戯に戯れてきてはその次の夜にはその彼等は世から姿を消していた。イルダレッゾが古城地下で、愛剣で切り殺し調理させ食べる為だ。
彼女はそれを知っていないでもないが、それでも悪戯な熱を求める浮気を止める事は無かった。彼女自身も、自己の一時的だろうが愛した男の肉を次回の食事に出て食することなど、何も厭う事も無い性格だった。
イルダレッゾが、妻だろうが人を夜に愛さない性質だということは分かっていた。恐ろしい程のいい男の顔立ちで微笑み、彼女を夜に愛してくれた事は人生に二度のみで、結婚して十九年間、二人の息子達が出来てからは体を愛してはくれない。イルダレッゾ自身が全くと言っていいほどその欲求などが一切無いのだ。
それでも、確実に深い部分でイルダレッゾはレビシアを愛している。それをレビシアも分かっていて、彼女もイルダレッゾを深く愛していた。体の関係の方は確かに結べないのだが。何故なら、彼は人肉を食べ物としてしか見ていない。赤子の時代は息子達さえ食べられないだろうかと危惧していたのだが。
夜に放蕩をする以外は、実に冷静で才女で出来る女性のレビシアは、その時代は三十二の年齢だった。
次男チェレステーオが恋人にしているレスベダルダの美しい令嬢とともに、貴族主達と共に来た貴公子達と会話をしていて、会場には長男がいなかった。
チェレステーオが若い父親の所まで来ると、すでに酒に酔って笑っていて言って来たものだ。
「ラーシアが結婚の許しをと」
「馬鹿者。酒に酔った言葉など無いも同然だ」
レビシアはくすりと微笑み、チェレステーオの肩に細い手を置いた。
「お母様が鑑定してさしあげます。長姉のラーシア嬢とあなたが婚姻を結んだら、レスベダルダはすっころんでルジク一族に殴りこみに来るでしょうね」
「母上」
チェレステーオが頬を膨らめ、それでもまた嬉しそうに肩越しにラーシア・レスベダルダを見ると戻って行った。普段は冷静な息子なのだが、白ワインに酔うとああだった。稀に息子の冗談がきつい部分はレビシアに似て成長して行く。
そう思いながらも、また貴族主達との会話に戻って行ったイルダレッゾは、レビシアに高い位置の腰に手をそっと回され、こめかみを腕に沿い微笑んだ。
そういう時は、絶対にその先に貴族主の誰がしかがいる。赤のロッセットで微笑しているのだ。
その若い貴族主、JDLは姪のリカーが、フェニックスと会話を進めていたエメラルドの双眼を、ふとレビシアに向けた。
ダイマ・ルジクのお怒りの視線が飛び前に、彼は微笑んで彼を見て来て、イルダレッゾは眉を上げて首を傾げさせた。JDLはおかしそうに笑い、ダイマ・ルジクの次男坊の背を見てから顔を戻した。
「あの子も随分とませて来た」
「ああ。そろそろ結婚させるつもりだが、相手はイタリア人でなければ」
「うちの子が申しわけ無いわね。ふ、本気と豪語しているけど、若い者は愛情だけ」
そう、リモルショーラの妻、レスベダルダ夫人が言った。
「あたしはそれが一番だと思うわ。だって、それ以外に血族なんて重んじてたら、何にも出来ないわ!」
リカー嬢がそうキラリと光る黄緑の目で括れた腰に手の甲を当てた。
JDLが優しく微笑み、その背を一度撫でてから、イルダレッゾ自身は二人の事を知っている為に目玉を回しては首を振った。
レビシアが、イルダレッゾの黒髪の綺麗に掛かる白い耳元に一度囁いた。
「また長男がどこかで悲観にくれているかもしれないわ」
「使用人に任せておけばいい」
「行ってまいります」
彼女が彼等に微笑んで皆に挨拶をし、歩いて行った。
その背を一度視線で追っていたシーヴァス・ラジル・セラーヌが、イルダレッゾを見上げた。
「ダイマ・ルジク氏。明日、奥方と共にサティエル公との乗馬だと覗ったが」
「ああ。二ヶ月ぶりに思い切り走らせて来るつもりだ」
そのサティエル公は現在、ラスタシアーラの長達とベルレドンの長達の面々と会話をしていた。
「それは良い。今の時期、とても心地良いだろう。あの若い二人も?」
「あの通り、次男坊はまだまだ可憐なラーシアに夢中で、スペインまで足を伸ばす暇も無いようでね」
「あたしには見向きもしないのにチェレステーオったら」
「気質の問題さリカー嬢」
「フェニックス! あたしは美しいわ」
「そうだな」
「ねえ。リモルショーラもそう思うでしょう?」
「ああ」
その時だった。
切り裂く叫び声が聞こえ、イルダレッゾは眉を潜め走って行った。
JDLが颯爽と進み扉を開け、見回して使用人達が古城を走って行き、声の在りかを鋭い目で探している。
「イルダレッゾ!! イルダレッゾ!!」
叫び声が呼んでいる。徐々に断末魔へと変わって行きながら……。
酔いが一気に覚めたチェレステーオは母親の声に走り、JDLがその肩を押さえて停めさせた。
「離してください!!」
「行くな」
チェレステーオが目を見上げ、一度怒鳴って柱を蹴りつけJDLの胴に泣きついた。
断末魔の様な叫び声が止み、扉を使用人が斧で開けた先の闇を見た。他の貴族主達や、駆けつけたリカーが短く叫んで口許を押さえた。
コレクションされていた五機のギロチンが石床と共に血に濡れ、足、腕、胴、首、手が転がっている。
長男が胴を抱え込んで腸の内臓を、顔を真赤にしながら食べていた。
「レビシア」
イルダレッゾが進み、血を跳ねさせ歩き長男の真っ赤な項の首を掴み、思い切り壁に叩きつけた。死刑器具がそれでドシンと恐ろしい音を立て倒れ、貴族主達は彼の背を見た。
「修道院へ閉じ込めろ」
使用人達が真っ青になりながら気絶したぼっちゃんを連れて行き、他の使用人達に押さえられていたチェレステーオは扉の閉ざされた中、宴の会場でずっと恋人の母親、レスベダルダ夫人に泣きついていた。
イルダレッゾは颯爽と進み彼等をそれだけで下がらせ扉を閉ざし、扉を背に血の跳ねた頬で床を見ていたが、顔を上げた。
「宴を」
「………」
「………」
そう颯爽と血の足跡で進んで行き、彼等を会場に戻らせると一人古城内の自己の部屋へ入って行った。
血に濡れた妻の細い手を持ち、いつの間にか出ている月光に照らされ、指に嵌められていたアクアマリンの結婚指輪だけが赤黒い中をみす色に光っていた。
トントン
顔を向け、開かれ閉ざされたドアを見ると、円卓に手を置いた。
「ジル」
「ダイマ・ルジク氏」
イルダレッゾは向き直り、手から指輪を外し、自己のアクアマリンの嵌る指の横の小指に嵌めた。
「会場に戻って宴を楽しめ。チェレステーオも不審がっているだろう」
「ええ。今はあなたを気遣って」
「私は何とも無い」
月光の輪郭で浮き上がる背がそう言い、奥の方へ進んで行き寝室の扉が閉ざされた。
JDLは美しい真っ赤な手を見つめ、青銀の月光が繊細な手の影を落す黒を見つめ、視線を落とし部屋を後にした。
JDLの弟の息子、五歳のライ・ローガルと、サティエル公の息子アルグレッド皇子と、ラスタシアーラ一族のキルレボー嬢と弟で三歳のハルバンは、皆がより固まって大人しく眠っていた。
使用人達は、あの巨大な音で目覚めたライ・ローガル坊ちゃんを抱き上げ、ホワイトブロンドの髪を撫でてあげた。すやすや眠って行き、そのままキルレボー嬢の丸い腕にしがみついて眠りについた。
JDLがルカ・ラスタシアーラと共に子供達の眠る部屋へ来た。子供達は巨大なビロードの上、窓からの青い月光に照らされて安眠していた。皆、可愛らしい顔をしている。
髪を撫でて行き、使用人を見た。
「子供達が起きても、会場の方へは今は来させ無いように。両親に会いたがっていたら、ここまで来させるので」
静かにそう言い、使用人は頷いた。
「若様はご無事で?」
「ああ」
若様というのは、イルダレッゾの事だ。使用人の腕を撫で小さく微笑んだ。
「明日に話が渡るだろう。今はこの子達をよろしく」
「はい。かしこまりました」
ルカも子供達の髪を撫でてから顔を上げた。
「あたくしは、こちらにおります」
「ああ。よろしく」
JDLは子供達の眠る部屋を出て行き、視野先にサティエル公を見た。彼はシェラー・ラスタシアーラと、イルダレッゾの母ソライレンと共に颯爽と進んで来ると、ザッレイロが卒倒し運ばれていく方向を見て、彼等も進んで行った。
「あなた」
「大旦那様は気を失っております」
使用人達が寝室へとイルダレッゾの父を運んで行った。
「あの子の様子は」
「今はそっとしておきましょう……」
ソライレンが頷き、彼女の兄シェラーの腕に手を乗せた。
「何故こんな事に。まさかあの子の長男まで食人を。ラスタシアーラの血で食人の血が消えて行くと思っていたのに」
サティエル公が彼女達の背を撫で、今は歩いて行かせた。
「あたくしは夫の看病を。あなた方はもう宴も終わりよ。各部屋で。それか、そうね。やはり不安でしょうからともにサロンルームでも構わないわ。子供達は静かに寝ていた?」
「はい」
「良かったわ。絶対に子供達にはこの事は口外しないように」
ソライレンは運ばれていく夫の後を歩いて行った。
宴の会場で、サルファリヨンとレネィアンのベルレドン夫妻が来ると、JDLの所にその息子のリモルショーラが来た。
「会場の者達には、夫人の死はお伝えしたが、目前にした主達以外には内容は話さない事にした」
サルファリヨンが小さくそう言い、サティエル公が小さく言った。
「ああ。長子の食人の事実も伏せるように」
「ええ」
JDLはリモルショーラと共にその妻のラーシェル・レスベダルダに慰められているチェレステーオの横に向かい、その背を恋人のラーシア嬢が撫でていた。
真っ青になったザイーダルが、状況も分からずにいて、その父のルベラ・エメルジアは、イルダレッゾの従兄弟ラゾルフ、サリディルボ・ヴァッサーラと共に遺体の処理に向かっている。
叫び声が聞こえた時に気絶したラムール嬢は、サティエル公の長女ラオナスが冷たいタオルを額に乗せていた。
「ダイマ・ルジク氏は」
ロスカル皇子が父、サティエル公に聞くと、その顔を扉へ向けた。
「皆様方。場所を設けましたので、こちらへどうぞ」
使用人がそう言い、物々しい宴の会場から彼等を落ち着き払ったサロンへ移動させた。JDLは一度、ルカ達にサロンへ移った事を言い、彼女もうなづいた。
女子供達はドローイングルームに。
彼女達は、夫人が亡くなった事を聞いているものの、どうやって亡くなり、その場に誰かがいたのか、何処でなのかは知らされていない。もちろん、原因がその場にいたイルダレッゾの長子であって、その彼が処刑台で体を切り刻み、肉を食べていた事など知るよりも無かった。
「兄上はどこに?」
去って行こうとするJDLと、その友人のリモルショーラの背を見てチェレステーオが言った。彼等は顔を見合わせ、チェレステーオの前に来た。
「今、気絶しているので、運んで行かせた」
チェレステーオは相槌を打ち、恋人を抱き寄せた。
「私が彼等といるので」
JDLがそう言い、リモルショーラは頷いてから「後程」と言い、部屋を後にした。
しばらくして女子供達が部屋へ引き寝静まって行った。
貴族主達はシガールームへ来ていて、JDLも加わった。
誰もが顔を上げ、颯爽と入って来たイルダレッゾを見上げると、彼はJDLの横の一人掛けに座り、彼等を見た。
「宴の席で迷惑をお掛けした」
「いいや」
「君のご両親は床に」
「ああ。先ほど顔を出して来たので」
「そうか」
サティエル公が彼の手に一度手を当て、叩いた。
「女の子供達には内密にすることになった。この事実は闇に葬った方がいいだろう」
「ああ」
「本当に修道院へ?」
「目覚めた後に再び決める。正気が無いようなら、精神病院へ入らせる事になる」
「元が神経の細かい子だ」
ラスーン一族の貴族主がそう言い、イルダレッゾは薄い唇を撫で、組んだ膝に視線を落とし頷いた。
「今から出かける。遺体は何処に」
「ヴァッサーラに」
「そうか」
彼等は進んで行った。
黒毛皮のマントを羽織りイルダレッゾは古城を馬に飛び乗り後にした。他三名も銀月が雲を射す中を黒のローブで進む。深い森が続く横を。
他の者達は其々の家族の部屋へ引いて行った。
彼はJDL、リモルショーラ、シーヴァス・ラジルと共に、ルベラ、ラゾルフ、サリディルボの元へ向かった。
古城からはなれた別荘へ来ると、その石の中で、サリディルボが糸で遺体をつなぎ合わせていた。
イルダレッゾが黒い絹からまだ真っ赤な片手を出した。
美しい顔立ちが今は目を閉ざしていて、髪を台に広げていた。
「……調理を」
誰もがギクッとして、イルダレッゾが台に座り彼女の髪を撫でる静かな横顔を見た。
それだけをグラデルシに言い、彼はその空間を出て行った。鉄のシャンデリアから炎が揺れる下で、彼等は顔を見合わせ、鉄のドアを見た。
サリディルボは相槌を打ち、その処置の為に彼等を外へ出した。
息子の幽閉されている塔へ来ると、鉄の扉を開けた。
「………」
水色の目が血の中に光り、胴を上に石に転がっていた。
イルダレッゾは進むと、その彼を水色の目で見て、襟足の長い髪が血でより固まり、繊細は顔つきの目が閉ざされた。背を上に目を綴じ、顔が見えなくなった。
「母上は」
「もう息は無い」
「………」
声が震え言った。
「何故……何があって」
「覚えていないのか」
「覚えています……不気味なほど靄かかった視野で、銀の刃物だけ光って、綺麗だった……」
「ラシル」
横にしゃがみ血に濡れる黒髪を撫で、その長い髪が白い指に絡まっては、イルダレッゾの指に嵌められたアクアマリンが血に滲んだ。
「父上」
彼の黒い毛皮のガウンの胸部に頬をつけ震える赤い手が腕を掴み、恐怖したその水色の目が乱雑になる黒髪の間から覗いた。
「僕は、僕は、母を殺し食べてしまったのですか」
かすれることも無い声でそう震え小さく言い、ショックを受ける息子の背に手を当てた。
黒の毛皮に頬をうずめ額をうずめ震え、嗚咽をもらし泣いている。
「何故人を食べたいのかなんて、そんな事、分かりません。それが気が付いたら母上を……でも」
美味しかった。
そう消え入る声が言い、そして頬が白く現れ、至福の微笑みが白い瞼を純白にさせ、深い息を漏らした。
「幸せでした……そんな事、有り得ないというのに、あの歯に噛んだ腸の感触、あの心臓の血が溢れ出す味、その温かさ、舌を刺激する滑らかなその触感も、何もかも最高だった」
その完全に食人で快感へと結びついた清らかにさえ移る頬は、至福の涙できらきら光り、光沢ある黒の毛皮へと落ちて行った。
そのまま、手が力を失い石の地面に落ち、眠りについたようだった。
また目覚めれば、狂いだすかもしれない事だ。危ういほどの美を感じ、手を出して食い殺す前にイルダレッゾは長い足を颯爽と立たせ、身を返し鉄ドアを出た。
「イルダレッゾ」
「精神病院へ入らせる。人格はあるようだが、様子を見ても正気を取り戻すかどうか。跡取の面でも問題が出るからな」
革グローブを嵌めながら颯爽と歩いて行き言い、いつでも歩き足が早すぎるので、あまり運動はしない貴公子ラゾルフはその後を走り追いかけた。
「ラゾルフ」
ラゾルフは顔を上げ横顔を見た。
「………」
金髪の整う首筋に頬が当てられ、黒革のグローブの手がラゾルフの背に添えられた。
泣いてはいない様だが、すぐに来た痛みにラゾルフは顔を歪め、こめかみに汗が流れた。
きっと、息子を食べそうになったのだろう。苦し紛れに息を吐き、視線を落としイルダレッゾの閉ざされ斜めになる瞼を見た。整う黒髪が綺麗に流され、下唇を血で赤くして首からの吸う血を嘗めている。最後に冷たい舌で嘗められラゾルフは背筋を震わせ、息をついた。
水色の瞳がすうっと開かれ、イルダレッゾが離れ颯爽と歩いて行った。手の中のアクアマリンの指輪を皮手袋の指に嵌めながら。
「………」
ラゾルフは何も言えずに食べられる事への感情を無視し、その後を走るように歩いて行った。
別荘の石造りの食堂へつくと、イルダレッゾは視線を向けた。
JDLの横にリカー嬢が腕に手を回している。
「何故女がいるんだ」
リカー嬢が絶対に殆どをこのJDLと離れたがらない事は分かっている。金糸のような髪をさせていて、黒のローブに美しく掛かっている。JDLは彼女をまた見てから、顔を向けた。
「ダイマ・ルジク氏。彼女と共に古城にいるので……」
「そうか」
彼は頷き、JDLは聞分けの無いリカー嬢を連れて別荘を去っていった。
間口から見ると、巨大なJDLの馬に飛び乗った彼等が、金糸のような髪と、それに黒のローブを波の様にはためかせ走らせて行った。
「リカー嬢も、物心つくと途端にあれでは、大変だな」
リカーの命名式の時にいたシーヴァス・ラジルがそう言い、引いて行った。
「まあ、それでもあの美しさは鏡のようだ」
そう続けもしては椅子に座った。
イルダレッゾは何も言わずに椅子に座り、ふと顔を上げた。
「………」
「坊や」
驚いたラゾルフは、小さな息子のハルバンを見て石の四角い柱まで来た。アーチの先、暗い通路を見てから三才という幼いハルバンを見た。
「リカー嬢がともに浚って来たのかもしれないな。忘れて帰って行って、ライ・ローガルと間違えて引っ張って来たんだろう」
ハルバンはルカがスペイン人なので、髪が黒かった。水色の大きな目で見て来ていて、ラゾルフは仕方無しに席に戻り膝に乗せた。
「お食事?」
あどけない声で横のリモルショーラに笑ってハルバンが言い、リモルショーラは頷いた。
「ああ。そうだよハルバン」
「ハルも。ハルも」
サリディルボが料理を運び、小さなハルバンを見ると、その父親でイルダレッゾの従兄弟の青年、ラゾルフを見た。
「何も分からないだろう」
そう言い、サリディルボは相槌を打ち、美しく並べて行った。ワイングラスにワインを注ぎ、そしてサリディルボも席についた。
「いただきまーす!」
ハルバンがそう言い、うきうきして肉が切り分けられるのを待っていた。ラゾルフが切り分けていくが、その手がカタカタ震えていて、リモルショーラが綺麗に小さく切り分けた肉を、ハルバンに食べさせた。
ハルバンは小さな口の中で食べていて、リモルショーラを見てかみながら微笑んだ。彼も薄い唇の片方を引き上げ、食べ進めた。
高い場所にある月が、冷静な色味をしては窓から強い光を投げかけていた。石を感情の無い物ではなく、美しい情景にしていた。
時々、鉄のシャンデリアからジジ、と、蝋燭の燃え揺れる音が響く……。
二歳の頃、柔らかな記憶はイルダレッゾの中で手につかめるものとして時に甦った。
そんな小さな頃の想い出など、それ以外には殆どは、両親と共に音楽鑑賞や美術鑑賞、楽器演奏、美術歴史の勉強ばかりで、二歳といえど、イルダレッゾは利発ではきはきした言葉を操って大人とも話していた。
だがそんな中で、柔らかな記憶は、一つのみだ。それは生まれたばかりの弟の柔らかな頭にかみついた事だった。美味しそうに真っ白で、柔らかくて、温かく、生まれて二ヶ月で、ミルクの香りがして、古城の乳母部屋で鈴を流していた二歳のイルダレッゾは、それを落として美味しそうなその赤子に噛み付いた。頭は毛髪が生えていたので、頬を噛み付き、口を噛み付き血が出て来て、まだ生え揃っていない小さな歯で血を滲ませた。そして、鈴を叩きつけていた。鈴は土鈴で、それが徐々に割れて、柔らかな白い肌が傷つき、そしてそこから指で皮膚を捲り、食べ始めた。
その柔らかな記憶は、昼の白い陽が満遍なく注がれる中を、ずっときらきらと光っていた。
ダイマ・ルジクは馬車から降りると、時間を確認した。
「………」
口をつぐんだまま目を丸く見開き、そのプラチナの獅子面に隠されていたとんでもない時間を見ると、午後の太陽の位置を確認し調節しながら颯爽とステッキを持ち歩いて行った。
そして連盟の建物へ入って行く。
連盟の者達が扉を開け、ダイマ・ルジクに挨拶をし、彼はプラチナチェーンから繋がる懐中時計を内ポケットに仕舞い、シャンデリアの下を進んで行った。
チェレステーオが母の死後、その事で兄も精神的に困憊してしまったと聞いて、古城にはいられなくなった為に、ダイマ・ルジクは三十五の年に、ルシク一族の本拠地をミラノへ移していた。古城へはそこまで頻繁に行く事は無くなっている。
ダイマ・ルジクの長男が二十二の年齢で、ついには狂い死んだ知らせも、チェレステーオには詳細は伝えなかった。
連盟の回廊を歩いて行き、豪華絢爛な太陽の陽が射している。美しく。
ダイマ・ルジクが短く溜息をつくと、中庭にいた小鳥達が囀り、姿を現して木枝に停まる……。
アラディスは熟睡していて、それを髪を手でぐちゃぐちゃにしながら撫でまわし見ているのがレミルダだった。
新しい恋人と付き合っててもつまんないし、こうやって美人な自分が同棲してあげているのに、付き合おうだとか結婚しようと言って来てもくれない。
アラディスが作り置いてあったパスタとごたごたに混ざっている蕩けたチーズリゾットを温めに行き、それが混ざったものを何で食べるのが食べられるって、スプーンとフォークのダブル使いだった。フォークだけじゃあリゾットが食べれないし、スプーンで麺を食べ様なんて、魔女にしか出来ない高等技術だ。自身は魔女ではなく、魔女級美人なので、二つを使い食べた。
なんと、アラディスは魔女なので、これをスプーンで食べると言う暴挙を行い、マナーもへったくれもなく食っているのだが。
欠伸をしてアラディスが目を覚まし、またレミルダの狭い背を見た。
「あれ。サンセンは?」
つれてこられても、可愛すぎて襲ってしまいそうになる気持ちと闘わなければならないのでいなくていいのだが。
「だってあいつ、へたなんだもん」
「へー」
横に来てから座り、アラディスも横にあるスプーンを手にして食べ始めた。
「………」
レミルダが目を丸くかみながらそれを見て、魔女のアラディスの横顔を見た。真っ白くて草を食む子山羊みたいに可愛い。
「魔女級に美しいくせに……それに加えて尚且つ魔女の高等芸当まで」
「え?」
「何でもないわ。スィニョーレは?」
「ハルバンの事?」
「そう」
「乗馬の時の話では、ベルレドンの霊廟に行った後に国に帰るって行ってたけど」
「そうなんだ」
ハルバンが懐いていたリモルショーラ・ベルレドンの棺が安置されているからだ。リモルショーラは軍の元将校で、そしてダイマ・ルジクの友人だった男だ。
「まさか惚れているんじゃないだろうな」
「スィニョーレに? とんでもない! とっても素敵な方だけれど、軍の人間は怖いわ。帰ってこなくなっちゃうかも」
「そっか」
「アラディスだっていきなり勉強疲れか、暴走したりなんかして修道院に突っ込まれて、貴公子だろうと安心出来ないわね」
「そうだな。サンセンの可愛い子ちゃんを大事にしてやれ」
「んもう! あのエスロと同じ事言って!」
フォークとスプーンで食べていて、レミルダは冷凍庫を開けに行った。
「ティラミス作ったんだ。食べる?」
スペイン人のレミルダは、比較的なんでも食文化を取り入れようとするので、イタリアの料理以外でも、いろいろな国のドルチェを作ることもあって、この前はザッハトルテを作っていた。酒が入りすぎて即刻酔ったのだが。チョコレートも蕩けていたので、白い頬をチョコレートで黒くしながら食べていた。
「あたしを妻につけると、引き立つわよ? だって、子供産ませたら絶対超絶美男美女を作り出してみせるから」
「そうだろうな。お前可愛いもんな」
「そうなの! だから結婚しましょうよ!」
「イタリアの血を薄れさせるわけには……」
「んもう! 誰にでもそればっかり! 今にココア塗れにして冷凍庫に放ってやるんだから」
そう怒ってから、微笑んでティラミスをアイス用カッターでより分けて行った。
「今回は、お酒入れられないから大丈夫よ」
「うん」
アラディスは食べ始め、レミルダも食べ始めた。
「猫くん猫くん」
「何」
「あんた、あたしがいながらお見合い写真手元に集めまくってコレクションしてるって本当?」
「まさか! お前がいながら!」
「そうよね!」
抱きついてキスで倒され、アラディスはもみくちゃにされながら逃れた。
「あら? もう! すぐに逃げるんだから!」
レミルダはティラミスをバー毎腕に抱えてスプーンで食べ始めた。
「ギャ!!」
背を飛び蹴りされたのだと気付いたのはすぐの事で、あのゲバルトを倒れた肩越しに探した。
カインが飛んでいったアラディスのモートの鍵を手に拾っていて、石畳にスッとした背を伸ばして、アラディスを見た。
レミルダは魔物のカインを見てから、起き上がったアラディスの横に来てから言った。
「警察と通謀するわよこの脅迫貴公子!」
「してみればいいじゃねえか。そんなこと言う女には可愛い赤子授けさせるぞ」
「脅迫するな。って、お前も頬を染めてるな! この魔物との子供を産みたいのか」
「どこに行くんだ?」
「今から教会向こうの広場よ。鑿の市やっているから、果物を買うお金の為にこれらの服のコレクションを出しに行くの。銀細工もこいつが造ったから」
「へー。暇になったら連絡しろよ」
「どうせ俺達の売上金を持って行くつもりだろう」
「ああ」
「素直よね……。本当素直ないい子よね」
カインがニッと口許だけで目を伏せさせ笑い、歩いて行った。
「あれ。鍵!」
追いかけ、走って行くカインを追って角でぶつかった。
腕を引かれ、キスをされかけて咄嗟に顔を反らし目を綴じた。
「………、何で」
「………」
悲しそうな声に、アラディスは目を開け、陽の射す石畳とその丸い影を見てからカインから離れて行った。
「………」
手の中から鍵を奪い取り、胴をどついて走って行った。
カインは壁に背をつけたまま、うつむき目許を手で覆った。光が斜めに射す中を。
「またカインの奴がか」
まさかもう懲りて男など作らないだろうと、一応様子を影から窺わせている眼帯男が帰って来ると、ダイマ・ルジクに報告した。
「しかし、アラディスぼっちゃんは邪険に振り払い、レミルダ嬢と共に去って行きました」
「そうか。それはいい事だ」
横目でそう言い視線を流しそらし歩いて行きながら、シエスタの時間の為に美術書を読みながらうたた寝に入る部屋へ向かう。
うたた寝ばかりと思われてもそう言うわけでももちろん無いのだが。
「様子を見ても何ら怪しい行動も無いものの、ぼっちゃんが日々何を思い過ごされているのかは不明です」
ダイマ・ルジクは相槌を打ち、ドアが眼帯男の目の前で閉ざされた。眼帯男は踵を返し、廊下を戻って行った。
硬めのソファーに進むと、スティックを円卓に立てかけ座り、ローテーブル上の美術書を手に取った。
読み進めて行き、半年後のコレクションで出品する為の物を選んでいく。
これは素晴らしいと、感嘆の声を上げ絵画を見上げた友人がいた。
JDLだ。
あの男は心が深く優しい男だった。影ではレガントの古城で闇の悪魔崇拝を進めていた男ではあったのだが……。それでも慈悲深く、あの巨大な権力を持ってしてでも懐があった。自分とは全く違う性質であって、いつでも黄金のオーラを存分に身につけていた特異な雰囲気の男だった。
何かを始める為に公から姿を隠した、と囁かれていたものが、徐々に十年経ち行方不明という恐ろしい噂が流れはじめ、そして、ついには、彼は実は亡くなっていたのではないか。そんな噂が流れ始めている。あの男が姿を消して、もう二十数年。
この十五年間を、ずっとダイマ・ルジクはJDLを探し出す団体に投資していたが、何の足取りも掴めないままだ。
その貴族間で立ち上げた団体に加盟しているのはヨーロッパ貴族の中では、ルジク、エメルジア、ヴァッサーラ、レスベダルダ、セラーヌ、ボードローラ、ベルレドン、ラスーン、デスタント、ラスタシアーラ、ラヴァンゾなどで、アメリカではレナーザ、シマシア、ギャラディカ、ベルモア、ヴィッタリオ、ジェーンなどだ。王家や他の機関、連盟などはまた他の方法で団体を組んで捜索しているそうだが、何の足取りもやはり、掴めていない。
JDLと共に、アルグレッドやキルレボー、ハルバンとも仲の良かったライ・ローガル・レガントまで姿を消していた。そのライ・ローガル坊やの足取りもずっと探っているのだが、共に消えているままだ。二十年以上も前に。
まさか、共に親子二人で旅行中に、まさかどこかの古城裏や、崖から誤って落ちてしまったとか、セスナで海に落ちてしまったとか、そんな噂などを稀に言う者までいた。
権力が為に暗殺されたのでは……後継者のあのライ・ローガルと共に二人で。
最近、そんな事を口をつき言ったのは、JDLの親友でもあったブラディス・オルイノ・デスタントだった。あの鋭い鷲のような顔つきの、薄い唇で指を撫で、何処をみているのか不明な水色の目でそう視線を落とし言い、複雑な海図を見てはその目が閉ざされた。
一番それは彼自身信じたくも無い事だろう。
JDLもデスタントも実に性格も好みも趣向も似通っていた。どちらも不敵に微笑み、おちゃめで、明解で、そして実に打ち解け易い性格をしていた。実に気がよく合っていた事だろうが、女性の好みまで同じだったからいけなかった。ブラディスがJDLの寵愛するリカー嬢と婚姻を結んだことで、少なからず親友仲に亀裂を生じたらしい。原因は、二人が結婚をして一年後、JDLが二人を離婚させた為だ。その事でずっとイギリスとリーデルライズンを行き来して生活していたブラディスは、リーデルライズンから怒って出て行き、そしてイギリスと、今度は中東の問題の起きていた時代のイギリス植民地委託時代後もエルサレムに屋敷を構え、ずっとそこで生活していた。
だが、一年目からデスタントは再びリーデルライズンに来て以前使っていた彼の別荘で生活している。理由はいくつかあるようで、エルサレムでの内戦を避けて家族を連れてアメリカへやって来た事と、JDLの足取りを探るにはリーデルライズンが一番だろうと思った事と、そして以前愛し合ったリカーがいる事。それに、崇拝関係があるからだった。
JDLはあの性格で、女性の独占欲だけは強かった。いつでも何ごとにも余裕で怒る事の無い男だったが、それだけは相手が親友だろうが譲らない頑固な性格をしていた。
思い出す。一度だけリモルショーラと共にレガントの古城へ来ていた折に見かけた情景だ。
リカー嬢は本堂のホールで、ハイヒールを脱ぎそれに月光が灰色の差し込み、ヴェールを広げ引き寄せ美しい裸体で踊っていた。闇の迫り浸蝕するその石のひんやりとするホールは、空気をまるで水のようにさせていた。
金糸のウェーブ掛かる髪も、滑らかに広げ翻させ、豊満な若々しい体つきで妖艶にというよりは、崇高な舞いを見せ、美しい声で唄っていた。
楽団も無く、彼女の歌だけで繊細な足並みで踊り、美しい姿だった。
よく磨かれる石のソファーには、ジルがあのいつも項上でまとめている金髪を下ろし、腰元に黒シルクだけを掛け背を上にしては、あの巨大なエメラルドの双眼で、火影の揺れる中を見つめていた。あのいつでも強く微笑む表情も無く、恐ろしい程の能面の様に動かない顔で。
何かステップでもリカー嬢が間違えでもした時、どこから出したのかビシッといきなり長い鞭が床に冷たく響き、リカー嬢は肩を縮め髪を美しい裸体に引き寄せ、ヴェールは風を含ませ床に音も無く滑り降りていく美しい人魚の尾びれかのようだった。
「初めから」
そう彼が言い、リカー嬢が頬を染め、そして初めから舞い始めた。
リカー嬢の目が、どんなに彼に対し心酔し、崇拝し崇め、心より敬愛しているのかが分かる。彼女がよろけて短く叫び、咄嗟に立ち上がり引き上げたその素晴らしいジルの優雅な身体に、あの時は食人の相では無くまるで壊れ易い黄金の美術品を見る感覚で、抱き合う二人の姿を見ていた。月光は清らかに射し、そして火影が揺れる中を、あの広い肩に深みのあるジルの金髪が掛かり、そしてその背にリカー嬢の柔らかな白い手腕が添えられ包括しあっていた。あの長く真っ直ぐな脚。腕に手と幸せに微笑む頬を寄せるリカー嬢の、その時だけは優しい瞼。闇の迫る中……。
それは、愛だった。
リモルショーラの肩を軽く叩き、邪魔をする前に本堂の巨大な扉前からイルダレッゾは引いて行った。静かに。
だが、リカー自身は彼を探す連盟には名を連ねていなかった。唯一、不思議な点だ。
彼女がまさかのJDLを暗殺させるわけも無い。
あの時は、まさかその一年後に彼が行方を晦ますなど、思っても見ないほどだった。確かに、火影と月光が闇を揺れる中、彼等の心は乱舞していたのだが。生きたその身で。
妥協を許さない男だ。始めはどうしても完成しないうちには姿を現さないつもりかと思われていた。それか、あのおちゃめな性格だからきっといきなり出て来て驚かせるつもりだろうと。
第一、デスタント自身が当初絶対に信じていなかった。まさか亡くなっているのではと言った数名の貴族主を鋭い目で睨み見て、彼等は普段一切怒る事も無いデスタントの視線で口を閉ざしていた。
殺されてもまさか死ぬような男では無い。きっと一生死なないだろう。それはJDLという人物に当て嵌められていた言葉だった。社交界でもたびたびそういわれていて、JDL自身も軽く笑い返していた。ダイマ・ルジク自身もそう思っていた。
それでも、彼が姿を消し、その数名の貴族達から囁かれた物は、なにも彼等だけが思っている事でも無かった。それほど、JDLは最大の力を有していた。
今でもそのJDLの膨大な権力の記録を打ち破れている者はいない。各国の国王や公族貴族だろうがそれは同じだ。
ダイマ・ルジクは午後のハーブティーのカップを置くと、美術書を円卓に置いた。
考えごとをしていたら、また美術品を目で追うだけで出典品の選別をしていなかった。
なので、やはり実物を見て決める為に夜、馬車を走らせ遥々遠方の美術所蔵の建物まで向う事にした。
若い頃のイルダレッゾ・ルマンド・ルジクが三十四で奥方を亡くし、その事で何人もの貴婦人達が彼にアプローチを掛けた。
というのもやはり、イルダレッゾはえらい二枚目で、元々少年時代からレディー達の憧れの的だった。それも十七で結婚し子供が出来、レビシア嬢がルジクの新しい妻になり、そしてイルダレッゾの両親も彼女の性格を気に入っていた。
イルダレッゾは痩身の長身。細面で上品な顔立ちをしていた。目許は二重がくっきちとしていて鼻が鋭く整い、鋭い瞼が綺麗に流れる。
気品のある口許は微かに色づき、肌はやはり類稀なく白い。冷静な顔立ちの眸は淡い水色で、黒髪を綺麗に整えていた。
いつも、黒の上品で裾の長い形態の紳士服に、黒のグローブと長い指に銀とアクアマリンのリング、プラチナの獅子顔懐中時計、それと、黒革や黒ハラコのマント付き外套を着ていて、黒革でも内側は黒の毛皮で打たれていた。
カフスとバックルと黒クロスタイの中央ピンは、純銀のライオンフェイスで統一していた。銀のカラーチップも襟に填めていた。
颯爽と歩きが早く、時々人と話し始めたり物に興味を持ったりとより道の多かったジルも振り向いた時にはイルダレッゾはとっくにはるか遠くに歩き去っていてジルが探しながら追い歩いて行った位に歩き足が早かったが、ジルの方が背が高かった。ジルはどんと構えていて朗らかな性格であり、冷静一徹のイルダレッゾは逆の性質のオーラがあった。
若い時分のイルダレッゾに怜悧さが表立って覗くことは無いが、食人時に関しても人らしい感情は元から欠落しており、他の動物の肉と同じ様に日常的に食している。ふと昼の空腹時、ニ歳時に生まれたばかりの弟の柔らかい頭に噛み付きそのまま皮膚を食べはじめ血を飲んだ時から始まり、罪悪の観念は何も無い。
鋭い細面で冷静に黒クリスタルの縁を鋼鉄で銀刃に光り鋭くし、黒鉄の柄のクロス部にプラチナライオンフェイスの付いた剣が彼の愛剣であり、それで肉になる人間を見つけると斬り捨て料理させ食している。
人イコール肉なので、何ら感情変化も無かった。旨い肉、不味い肉の嗅覚には鋭く、男も女も基本的に食すが、滅多に女の肉は食べない。
そういう裏の性質を知らない貴婦人もいれば、その食人を分かっている貴婦人もいて、それでもどんなに彼女達が三十代の頃の彼を、共に乗馬だとか、美術館めぐり、ワインを飲みにシャトーに誘ったり、豪華客船の旅に誘ったとしても、一切彼は傾いても来なかった。乗馬などときたら、絶対にその誘いさえ受けようともしなかった。
それも、チェレステーオに孫が生まれて、彼がその孫を自己の後継ぎにするべく美術教育をさせ始めると、女達はお誘いすら掛け辛くなって行ったのだが。孫が真横にいては、それは自己の屋敷に訪問しに来てくれても、どんなに素晴らしい絵画や調度品、美術品があり、そして美しさに磨きをかけつづける自身がいたとしても、彼自身は孫に鑑賞させる為に来ては、貴族主達との会話や孫もつれたお出かけを楽しみに来ているので、誘いを掛ける暇さえ無かったわけだ。
彼は年齢を増すごとに目許の鋭さと怜悧さが表立ち出て来る様になった。
だが、その孫は現在ワイルドキャットで、そして、最近もそのクールで可愛い孫をお屋敷へ招待したマルレーノ夫人も、若い頃はやはりイルダレッゾにアプローチを掛け続けていた貴婦人達の中の一人だった。
そのマルレーノ夫人が、連盟の建物を馬車で横切っていく時に、窓からダイマ・ルジクの横顔を認めて嬉しくなってぴょんぴょん飛び跳ねというのはまあ言いすぎだが馬車を止めさせ降りた。
リンリンと鈴を鳴らす。
ダイマ・ルジクはこれからこの部屋を離れようとしていた顔を窓の外に向け、目を眩しさに細めた。
馬車の中に、丁度ローザが昼に話していたマルレーノがいてはレースのハンカチを振って来ている。
一度手を上げ、中へ引いて行った。
きっとあの性格だ。連盟の建物まで入って来ては美術品の選別の話をきっかけに何か言ってくるだろう。
回廊を進んで行くと、やはり跳ぶように回りながらは言いすぎだが彼女が軽やかにやってきた。
「ごきげんよう」
「ああ」
「お孫さんをこの前誘拐しましてね。ソプラノサックスを吹けと脅迫したんですの」
「ハハ」
「フフ。ガタガタ震えながらは言いすぎですけれど、とても素晴らしくお吹きになったことよ。お孫さんは本当、多彩な美術的観点をお持ちの方で、表現の豊かな子。楽しそうに吹いていて、こちらまで心飛び跳ねましたのよ」
「そのようだな。頬まで上気して」
「それはあなた様の御前なんですもの!」
「そうか」
「本当軽く素っ気無い所も素敵な方。あたくしもそんなスィニョーレと共に、素晴らしき芸術の数々の中から、豊かな心を生み出すべく美術点出典品目をこの目に収めたいと思いますのよ」
「いや。それは夜に選別に向かうので結」
「ま! お恥ずかしい」
美しい頬を染めてレースグローブの手を当て、相手は先ほどから角柱の間を手を掛けまわったり、木々の葉を撫で上目で微笑んできたり、緑の光を斜め受けたりしながら言っていて、ダイマ・ルジクはいつもこの調子の彼女に、心中とっとと帰りたいんだがと思いながらも、それを察したマルレーノ夫人がここまで来た。
「実は、先ほども見たでしょうけれど、馬車がございますわ。偶然にも!」
「そうだったな」
「忘れておいででしょう。興味の無い事には」
「いや。美しい馬を連れていた」
「ええ。美貌のあたくしも乗せて。なので、共に参りません? お供してもよろしいかしら……」
そう、飛び切りに美しく媚態のある目許で腕に手を添え見上げ言って来る。
「結構。選別は神経をつかう事だ。女性がその場にいては、空気が張り詰めすぎてその陶器の肌に影響もでては申しわけ無いので」
「気になさらないで。この陶器、強いんですの」
「夜はゆっくりしていなさい。では」
颯爽と歩いていき、マルレーノ夫人は「ああもう」と今回も失敗して、柱にこめかみをつけてロッセットの唇を突き出した。
もう既に歩き足の早い、陽の差していた背は回廊から見えなくなっていた。
アラディスが小さい頃は、そうとう遅く歩いてやりチビのアラディスに合わせていたのだが。
マルレーノはこのままこのお庭の妖精さんにでもなろうと、緑の蒸す中をしばらく過ごす事にした。
ダイマ・ルジクがエントランスホールを歩いていき、棟の右翼側へ向かおうとした。
「ダイマ・ルジク氏」
「デスタント」
彼は微笑し、そこまで進み・ブラディス・オルイノデスタントの腕を叩いた。
「半年振りか。リーデルライズンには落ち着いたのか」
「ええ。今にともに挨拶をさせに来たいんだが」
「そうか。孫達も七歳になれば、自我で進んで行く事を覚えていくだろう。さっさと危険な住まいからはしりぞかせた方がいい」
そう言い、ともに右翼側の当て物へ進んで行った。
ブラディスの家族は、考えられない事には好んでスラムの土地に暮らしていた。ブラディスの息子がイギリス人の父親に反発しエルサレムの屋敷を出て、魔的な崇拝に溺れながらも排他的に生き、ユダヤ人達が住む地帯の小屋にいて布や香辛料などをカブで市場へ運ぶ仕事をしていた。その息子アジャシンが船乗り相手の娼婦をしていた女と麻薬に溺れ子供が出来、共にスラムで育っていて、六年して争いが一時収束を見せた時にアメリカのリーデルライズンに幼い孫や、すでに前後不覚の息子、娼婦を続けるその嫁を連れてやってきたら、今度はその四人はリーデルライズン自体に生まれてしまっているスラム地区にいついてしまって、ブラディスの別荘で暮らしたがらない。
「リーデルライズンの様子は?」
「実感することは、ジルがもしも今もいて地主なら、街の様子は違っただろう事だ。スラムなどは生まれずにいただろう」
「問題の解決や危険予測、予防にも長けた男だ」
「ええ。今も現れればたちどころに変化を促させただろう。もしも、リカーの許しがあれば連盟を募ってジルの街を元通りにさせたい程だが、彼女が何しろ手を出させない」
「悲観に暮れているのか。リカーの奴は街まで野放しにして」
「考えが読めないよ」
「もしもその許しが出るかも不明だが、お前が言って来ることがあればジルの生まれ育ってきて愛した街だ。協力をする」
「どうもありがとうダイマ・ルジク氏」
「お前も人が良い。イギリス人だというものを」
「私もあの街が好きなので、特にそうなんでしょうね。元々彼等の先祖もイギリスの地で生きて来た者達だ」
そうウインクし口星を引き上げ、扉を潜って行った。
室内を進み、客人に紅茶を出させた。使用人は微笑んで彼等に礼をし、引いて行った。
「アラディス坊やは目立つね。地区が随分と違う遠い教会前の広間で、何やらバク転していたよ」
「バク転……」
「声を掛けたら白黒人形の様に飛び跳ねてやってきて、既に興奮して何を言っているのか分からなかった」
「そうか。お恥ずかしい」
「ハハ! いや、本当に可愛かった。恋人の女の子を連れていて嬉しそうだったが、レミルダ嬢とは将来結婚を?」
「いや。交際停まりにさせる。イタリア人の血を薄れさせるわけには……」
全く同じ事を言い、それ自体はやはりダイマ・ルジクの毎回の口癖のように言う言葉なので、十代のチェレステーオの時もそうだった。
「うちの孫達もユダヤ系の顔つきが根強いからね。アジャシンに似て、イギリス人には見え無いが可愛い物だ」
「利発な子達だとよくお前の親族達から聞いている。頭の回転も速いそうだな」
「とてもね。悪巧みまで激しいんだから、ほとほと困らされているよ」
「機転の利く子は将来成長すれば劇的に変化する。楽しみにしていると、どうなっていくのか」
「立派になってもらいたいものだ。今はあの子達も優しいから、両親を放って自分達だけが屋敷暮らしなどしたがらないんだ。アジャシンもカミーラもスラム暮らしがいたに付いてしまっていてね」
「一時幽閉でもさせればいものを」
だが、分かっていた。
「手荒な事が出来ない」
そういう男だ。
紅茶を傾けると、それを横の円卓に置いた。
「あの子達もいい兆しを迎えられるように、森林管理に出ようとおもってね」
「レガントの森が各国に運ばれて移植された事以外にか」
「ああ」
ブラディスはそう言いながら、ニコッと一度笑うと筒から地図を出し、それを広げた。
「年に一度の割合になるんだが、苗や低木、植林の木を一気に我がデスタントの輸送船で運び込む事になる。植林と森林再生の為にね。森の形成にはいずれ、船舶の方も合わせて将来もディアンに任せるつもりだ。ディアンは海が大好きな子でね。それに心も優しくて生き物も好きだ。きっと、森林の仕事も合わせて将来はさせられるだろう。弟のデイズの方は会社と連盟の管理をさせるつもりでいる。頭の回転が速いから、いい統治者になれるだろう」
その弟の方が小さいながらも悪巧みに長けているのだが。
「輸送には手間がかかるから、一部は通常の物資を運ぶ傍らで毎回合わせて乗せてもらう事になる」
「森林か。その話を種にどこからともなく芽のようにジルも出て来てくれるといいんだがな」
「そう思うよ。彼はとても知己に富んでいる」
「リカーとは?」
「ああ……」
その海図に径路のピンを置きながらそう返事をしたブラディスの鋭いつくりの瞼を見て、顔を上げた。
「彼女も俺もやもめものだからね」
「そうか」
ダイマ・ルジクは軽く眉を上げ、ブラディスが憎めない顔で微笑んでから言った。
「危険性こそは排除させたが、闇の悪魔崇拝もともに進めているが、その事には彼女も投資をするから、それでスラムの住民達に時々こちらで食料や物資を与えている。それに、スラム人口が増え無いように女性達や男性達にも声を掛けているんだが」
「それはいい方法だ」
「ジルを見習ってみたのさ」
ダイマ・ルジクも可笑しそうに笑い頷き、紅茶を口つけた。
「とても親切な協力者家族が数家族いてね。スラムに住んでいる家族達なんだが、一人はアイルランド系じゃないかな。俺達ぐらいの年齢のバーテンダーで、そこのアメリカ人の息子さんや孫息子君が以前からずっと住人たちの助けになってきているそうで、こちらもいろいろと教えてもらっているんだ。援助の方法だとかに長けている先輩さ。孫達のその同年の子と仲がいい。それに、他のバーでオーナーをしている若いラテン系夫婦も、先ほどのバーテンダーの男と共に皆から信頼されていてね。スカッとして気持ちのいい者達さ」
「その場ではやはり、やり方もあるからな。そういう者達がいるならばなおの事手を加えやすいだろう」
「その通り。助け合いの機能が強い事も見られるんだが、それもきっと影ながらに彼の今までの存在があったからなのかもしれない。今は、もしも亡くなっていたんだろうがね」
全てのピンを置くと、箱を置いてブラディスが顔を上げた。
「悔しい事に、彼の生きている影がレガントの古城にも無い。既に彼の塔もリカーの地主としての塔になっていて、一部に面影が残る程度だ。本当にいつどこで何があったのか、リカーも何も分からないと口を硬くするばかりだ。あまり言うと、彼女も街では彼の名を封印したんだ。俺を睨んで来るよ。悲しい事に、いい部分でも悪い部分でも彼女の中にもずっと彼の幻影があるんだろう。いなくなった事実を受け止める事には、ああも懐いていたからまだ辛いんだろう」
ダイマ・ルジクは相槌を打ち、目を細めた。
「ほら。どうかな。紅茶で気分が落ち着いて?」
「ハハハ、お前もまったく、ジルと同じ事を言う」
「そうなのか」
「活発なイタリア人のコーヒー好きは抜かせないものさ。イギリス人のように優雅にしているよりも、たまに飛び跳ねている位が丁度いい」
「ハハハ! アラディスと共にいたカインが言っていたよ。今からあの意地悪爺さんに会いに行くのか。シエスタ後の飛び蹴りには注意した方がいいしそろそろ俺の魅力に気付いて結構しようブラディス。とね」
「全く。あの小僧は相も変らず」
「そろそろ連盟にも加わらせるそうだね。オルニーニとはまた夜に話をしに行く」
「そうか。あいつも忙しい男だ。私は夜は出るんだが」
「どこに? 冷えるだろうに」
「美術品の出典をするためにな」
「それはいい。共に行きたいぐらいだが、張り詰めた空気に身体を切られたくないからな」
「そうだろうな。物分りのいい」
「ああ」
「長生きの秘訣だ」
そうダイマ・ルジクが顎鬚を撫でながら言うと、顔を向けた。
「お前まで狙われないように注意しなさい。ジルも、リモルショーラも、何があるか分からないものだったんだ」
ブラディスが頷きながらはにかんだ。
「あの二人に会いたくなると、共に若い頃にした航海を思い出すよ。十人で行った航海は忘れられないな」
「そうだな。あの頃は何もかもが光の中だった」
「今も、同じ様に輝く青の海や空を見ていると、記憶は駆け巡るものだな」
アラディスは夜のクラブにいて、レミルダがサンセンの顔にバシャッと激辛の酒をぶっかけたのを見た。真緑をしたその液体がどろりとアイシーなので冷たく掛かり、そして辛い酒でミントのように顔をさめざめとさせているサンセンが、途端に可愛い顔を切れさせた。
「こいつ!!」
背の高いサンセンはレミルダの首根っこを掴む前に立ちはだかり、アラディスは飛んで行ってサンセンが怒って友人と共に階段を上がり出て行った。壁を殴る憎い音がその先からして、レミルダがアラディスの横に来て引き上げた。
「あたしの事好きになった? ほっとけなくなった?」
「いやどうだろう……」
ベルトを正しながら、黒いタイトなTシャツの背についた埃を払ってから今日は黒髪を押さえさせている前髪の間から、漆黒の目でレミルダと走って来た友人達を見た。
「大丈夫かよ。サンセンはああみえて、いつのまにかお前のいぬ間にボクシング始めてるからな」
「あの可愛い顔で?」
それは初耳だった。
「お前もな」
その通り、アラディスがクールないでたちだか顔が可愛く、それで酔えば時に乱闘になり、体格もワイルドキャットのようなので、喧嘩は誰も敵わなかった。酔っていると言えど、まさか叩き込まれた殺人術などが手をつくような事など決して無いのだが。マフィア殺し屋時代の過去がある貴公子というのも、まさか友人達にも知られてもいない。ダイマ・ルジク氏のお孫さん、以前殺し屋だったらしわよ。あらそれはまた特異なわけね。などと、冗談にもならないものだが。
「お前等、また付き合えよ。似あうぜ」
「そうしましょうよアラディス! あたし、強い男が好きなの。強くて、喧嘩に強くて、それで格好いい人。サンセンは筋肉の話ばっかなんだもの!」
「う、」
というわけで、付き合うといってもいないのにまた付き合い始めたという事になっていた。
気が付くとまた麻薬に酔っていて、レミルダの胴を黒い壁に付けさせていた。甘い髪と首筋にキスをし、酔えば男も女も関係無くなり、ただただ酔いに任せて身体に向き合っていた。
カインがその背を上目で見つめ微笑し、そのセクシーな背まで来て壁に手を掛け、黒いしなやかなTシャツの背から、革パンの腰を見て微笑んだ。
ワイルドキャットのような黒髪が押さえられ純白の腕がレミルダの身体に添えられ、可愛い。
いきなり腰が寒くなり、驚いてずらされた皮パンを腰まで手で戻しながら肩越しに見た。途端にキスされ、カインの舌を噛んだ。
チャックとホックも締めて向き直り、レミルダはスカートを下ろしてケツを隠し、上目でアラディスの背を見た。
「何するんだよ」
「邪魔だて? サンセンに言われたの?」
「俺の判断だが」
舌が噛まれて突き出しているのでまともに言えていないのだが。一気に酔いも醒めて、アラディスはカインを睨んでから歩いて行った。レミルダがカインに手首を引かれ、腕に抱えられて彼女に微笑んだ。
アラディスは顔を向け、顎を取りキスをしている二人を見て、口をつぐんでカインの瞼を見つめてから走って行った。
パアンとビンタされたカインは唇を嘗めながら、野性的な狙う目を伏せ気味にその背を視線だけで追った。
「もう。あいつさっさと美人な女とでも結婚してればいいのに。年下好きでもないのに意地悪だわ」
「あいつが結婚したいのは男だろ」
「性転換しちゃえばいいのに」
「跡取の問題が」
「硝子と結婚しちゃえばいいのよ。あんなに色男が困った子ね!」
そう年下に言われていて、アラディスは首をやれやれ振りながら歩いていき地下から地上に上がった。
その瞬間、ギクッとして咄嗟に間口の闇の中に入った。
「………」
「……どうしたの?」
「………」
闇から目を外気に向け、既にルジク一族の馬車は石畳を過ぎ去って行った。背を向けて。
だが、一瞬をあのレミルダ嬢の腰を抱き寄せながらドアから出て来た孫の姿を一瞬で鋭く目に入れていたダイマ・ルジクは、そのまま青く照らされていた中にいた彼等から目を戻し、馬車は進んで行った。
アラディスはまだ心臓がギクギクとし続けていた。冷や汗をかき、目を凝固とさせて闇の中いるが、それは闇の中でレミルダには分からなかった。
「行きましょうよ」
レミルダがそう言い、アラディスは頷いた。
「そうだな」
ダイマ・ルジク自身の姿は暗がりで見えはしなかった。なので、それがダイマ・ルジクが屋敷から客人を送り届けさせていた貴族達の乗る馬車なのか、それとも両親がどこかへデートに向かう馬車だったのか、それとも連盟へ戻って行く屋敷で夕食を招待されていた部下達だったのか、不明だ。
まさか楽しむ気にもなれずにアラディスは心臓部を押さえていて、レミルダは回転して声を上げ笑いながらヒールで進んで行く。
「コレクションの時期になるわね! 去年の服を作り変えたりアンティーク調にしたりして売って新しく揃えるの」
彼女は楽しげに喋りながら歩いて行った。
きっと彼女と結婚すれば子供も夫も洒落た手作りのものに囲まれて心豊かに育つだろう。そうアラディスは思いながら、夜の石畳を歩いて夜気につつまれた。
自分は? カインが誰彼構わず言っているように、自分だって同性と結婚したい。だが、冷たくその願望を跳ね返されて、叩きつけられて、現実を分からせて来て、そんな幸せとは縁はなれた事実を叩き込まれ、そして地面に転がるんだ。
正直に愛に生きることは、何が罪深いことだというのか、修道院にけりこんで、檻に閉じ込めて、塔に幽閉して、罰を与えて、通常が自分達の通常じゃないのは、自分達にもそうだ。一生相容れないなんて地獄でしかない。男に産まれても女を愛せない心を持っていること。女に生まれても男しか愛せない生物学上では通常のこと。互いがその他は受け入れられずに、その場から排除をただただしようなんて、愛情を剥奪し様なんて、ずっと相されつづけるなんて、地獄でしか無い。この綺麗な街並に囲まれてでさえ、心がそうだなんて。認められたい……。
誰もが男女の恋愛では修道院も、檻も、塔も知らずに愛し合いつづけて生きていけるなんて。それでも、自分が愛してきた者達の素晴らしさを、一番に分かって理解してもらいたいのはダイマ・ルジク自身にだ。
同性と自分が結婚出来る世の中だとしても、それでもしないだろう。自分は恋人達が殺害された後に、その肉を食べさせられている。もしも結婚を同性とするなんて事があれば、一生消えない闇が増すだけだ。
ダイマ・ルジクを討って、彼等の仇を討たなければ……。
アラディスはいつの間にか立ち止まり、石畳の地面を見つめていた。
俯き、その目だけは鈍く闇色を湛え、黒髪から覗いて影の中、闇はゆらゆら揺れていた。
殺意がアラディスを心底から奮わせ、共に恐怖にも震わせた。そんな事はできない。
目を綴じ、風が耳を撫で、声の様に聞こえ、行き場を無くさせても、闇が受け入れてくれて、包んでくれる。ひっそりと。
人といても充たされない愛情のつながりも、心だけ通わせたくても本気になるまえに留めて、自分らしく生きていない。
レミルダがニッコリ微笑んで腰を折り膝に手を当て覗き見て来た。
闇だった心にきらきら光る巨大なこげ茶色の瞳の上目で。
「………」
アラディスは微笑み、そのときふと涙を流しそうになって颯爽と彼女の腰を引き寄せ歩いて行った。
彼女がどんなに自分の事を求めて来てくれていても、自分は性的な面で彼女を愛して上げられないし、いつまでも彼女に対しては友達異常の気持ちが生まれないままだ。こうやってともにいてくれて、自分が男として彼女を大切にしてあげられることが出来ればどんなにいいかは何度も考える。
それを思い悩みすぎて突き放したのは、まだ頼りない自分であって、男なのに自分のことだけに精一杯になっていて、申しわけ無い。
守れる強さを手にしなければならない。
ただ、今は俺じゃなく他の男のところにいた方がレミルダは幸せになれるはずだ。女を愛せなくて結婚も躊躇している自分よりも、世の中には多くの男がいて、今の二十二歳という女性としても魅力の時期を、自分といさせるよりも他の男に巡り会った方が幸せに結婚して、そして心から愛し合えて、そして子供を二人で愛せる。
肩を抱き寄せる彼女の髪を見て、レミルダは鼻歌を歌いながら石畳を歩いていた。多くの人間には軽快に進んで行く石の街。
今レミルダは自分といて幸せそうで、微笑んでいる。自分が女が駄目だと知らずに。
きっと、いずれ別々の道を歩く事になるだろう。自分は女性を幸せに出来る自信がまだ無い。
もしいずれ結婚するとして、恋人達の肉を食べさせられた男の自分が、女性との間に子供なんて作ってしまって許されるわけが無い。跡取の為だとか、多くの芸術の喜びのためだとかに、食人をした男でも子供を作らせる?
アラディスは建築物の軒を連ねる石の街を、その道の奥先を延々と闇が続く中を見た。
風は流れていき、まるで目に見えるかのように艶を受けて、石の街を通り過ぎている。感情が今に天の青い空の至高まで登る日を、迎えられるように生きたいのに、心は闇に落ちるばかりだ。
塞がれる前にはしゃいで、道に転がって、そしてカインまで傷つけて、レミルダには自分は応えられずに、家族とも会いにいける心境でも無く、自堕落に歩いては、ダイマ・ルジクへの恐怖に震えている日々が、全て石畳に跳ね返って心に帰って来る。
ゆったりする石の街並の美しさを愛しては、それでもどんなに心が寂しくて、愛を共有できない辛さを抱えて行くのだろう。
打開するには、問題や仇が大きすぎて、そしてまた心が闇に閉ざされる。
堂々巡りばかりだ。本当に堂々巡りばかり……。
人の声が聞こえ始め、レミルダがドアの方向を見ては、他の倶楽部へ進んで行く。
カインが男としてどんなに自分に結婚したいと言って来ていても、許されない事実だ。レミルダがどんなに女性として男の自分に結婚を申し込んできていても、愛せないままだ。
何故なんだろう。男と男でも、女と女でも、それならそれでいい。子供が出来ないだけだ。人口もそれは減って誰もが人間は少なくなって自然に徐々に返っていけばいい。
アラディスは漆黒の目を伏せさせ、そして闇色に開き歩いて行った。
[石の街] テーマを固めるなら
い 同性愛者としての気持ち
内訳 男性から告白される男性A
女性から告白される男性A
Aは男性との結婚を許されない
背景 Aは女性との結婚に躊躇
どちらとも時代背景上、幸せになれないまま。
ろ 食人種と食人恐
内訳 食人を恐れる人種A
食人を好む人種B
背景 同性愛者の恋人を食べさせられた苦を持つA
それをした食人種で権力のある存在B
食人の事実を心に刻まれ苦しんでいるまま。
は 過去の交差(回想)
内訳 愛する者を食人で失った事実
友人失踪への打撃
背景 食人自体に関しては心が浮遊、悲しむ心さえ結びつかすにいる
暗殺されたらしいが事実はつかめない
過去はそのままに生きている
に 実際問題
食人をさせてきたBへの仇を討ちたいA
家督の為の女性と結婚し世継ぎを生まなければならないA