3.イデカロ・レスデン
城内で食人を犯し王位継承の座を奪われた男、イデカロは城で監視をしながら暮らしていた。そのイデカロに興味を持ち始めた王子が毎回遊びに来るのだが、カニバリズムへの欲望と闘いながらも日常を過す。
[ササ様]2011/02/12
サングレット・サティエル 第三皇子Sanglet Satiel 7
アルグレッド・サティエル 第一皇子 14
イデカロ・レスデン(嗄らし声) 皇室刺客Idecalo Lesden 46
グラデルシ・ヴァッサーラ 27
ダイマ・ルジク 貴族 41
ダイマ・ルジクの息子 24
麗しいのローザ 17
ダイマ・ルジクの孫 2
一、
皇室城内の庭園。そこは城の中心からは左翼側。皇子、皇女達が暮らす場所だ。
城壁に囲まれ、監視塔への高架橋が、黄緑の低木と芝が蒸す庭中央を貫いていた。
アーチを描く間口が高く開き、その上にも小規模の監視塔があり、頂上に目印の皇室の旗が三角に揺れている。
そこから風を受け片膝を立て見下ろしていると、高い泣き声が響いて来た。
白黒の縫いぐるみがいきなり、黄緑の庭に置かれた縞馬の縫いぐるみや、バッファローの縫いぐるみの群の中から転がって、その縫いぐるみが泣き喚きながら走って行ったのだ。
その泣き声で、低木の下で眩しい中を頬を白く光らせる皇子の一人が、そちらを見た。
その白黒の縫いぐるみは動いていて、長身の優雅な紳士、イタリア貴族のダイマ・ルジク氏の長い脚にしがみつくと、わんわん泣き出した。
俺はそれを見下ろしたまま、逆側の庭を見た。泣き声に、颯爽と他の皇子が白樺の木の間を進んできている。
あの縫いぐるみかと思った美味しそうな幼子は、あの冷徹な男に黒髪を撫でられていて、丸く真っ白な手で仕立ての良い生地を掴んでいた。
それをずっと眩しそうに光る目で見ている皇子が、兄皇子がアーチを潜り走って行った為に、顔を戻し兄が来た方向へ歩いて行った。
見えなくなり、しばらくして白樺が草花と共に樹立する側へ歩いて行き、そこにいた他の貴族令嬢を見ると微笑み話し掛けに行った。
ダイマ・ルジクは自己の孫を見ている俺に気付き、高架橋上の俺をあの水色の鋭い目だけで見て来た。
その幼い孫はまだ若い紳士である自己の祖父にしがみつき、何かを言っている。イタリア語とスパニッシュが入り乱れていた。人形だけスパニッシュだった。
「蛇が、蛇の人形あった」
顔を上げて真赤な頬で泣いていて、漆黒の巨大な瞳から涙をぼろぼろ流している。ああやってみると親子にしか見え無い年齢差にも思える。
麗しいローザ・ヴィッタリオが駆けつけ、第一皇子のアルグレッドが頬を紅く彼女を見た。あの第一皇子はあの令嬢を好いているからな。
ローザは幼い息子を抱き上げ、薔薇の微笑みで頬を撫でてから降ろした。
どちらにしろ、俺には眩しすぎる奴等だ。
顔を遥か先の丘や山に戻す。胴の黒シルクに水色の空が映り、温めた。
「ササ様」
なにやらせっせとこしらえている美味そうな第三皇子の横に横這いになり、上体を片肘で支えた。
背を上にクッションに細い肘を掛け、皇子が必死に人の部屋で何かを作っている。
「それは何を作っている」
俺の部屋は高架橋の塔の下部にある石に囲われた部屋で、鎧戸を抜ければ窓も何も無く円形の個室があり、螺旋階段を上がっていき塔の上に出る。
皇子は一度詰襟の黒シルク下に揺れる、首輪のような物に近い王家護衛隊ペンダントが揺れる俺の喉を見ると、ちらりと視線だけでランタン明りの中見て来た。
「ダイマ・ルジク氏の孫」
そう顔を戻すと、またそのシルクで出来た白黒の何かの中に真綿を銀の棒で詰め始めている。
薄手の白いシャツの背にキャンドルの火がうつり火影と共に揺れていて、ベージュの膝丈コットンパンツの小さなケツにはいつでも白い皮のポーチをつけていた。
細い足を曲げ白い布に包まれるふくらはぎをなぞると靴から、針を刺している細い指元を見た。
美味しそうになって来ている。食べごろは近いだろう。肉も柔らかそうで、子供ながらに良い香りがする。品はあるが、性格上のものが肉体にも溢れている。
「それは食べれ無さそうだ」
目を伏せ気味に手を止め見て来て、胴当てに当てる手の甲に針を思い切り刺してきた。
「………」
「ふん」
また向き直り、どうやらこれはあの美味そうな縫いぐるみに惚れたようだ。
「ハハハハ!」
声を出し笑っていて、腹を上に手をおき、その俺を皇子が真赤になって怒り針山や糸きり鋏を投げつけてきて、首をやれやれ振り言った。
「あの坊はダイマ・ルジク氏の孫息子ですよ」
「え?!」
膝立ちのまま白黒のシルク人形を手にする皇子は、まだ白の糸と銀の針を吊るしたまま、口を開け瞬きし、硬直していた。
「ハハハハハ!」
立ち上がり首を振りながら石台の寝台に上がり、黒いベルベットに転がると膝に足首を掛け、眼鏡を掛け、ランタンをつけるとくりぬいた場の本を手に読み始めた。
「嘘! あんなに可愛い女の子が」
「また紹介時にでもぼうっとしてたんだろう。あのチビはしっかり孫息子だと紹介されていた」
下の床で勝手に持ち込んでいる巨大な黒ビロードのクッションに倒れこんで、人の黒いクッションや胴当てクッションを蹴ったり投げたりしていて放っておいた。
ランタンをそれで引っ繰り返しそちらが暗くなり、いじけて影の中をビロードクッションに丸まって眠り始めたから放っておいた。
大体は、自己の皇子用の巨大で陽が降り注ぎ絢爛な部屋よりも、わざわざ三歳の頃から俺を見つけて興味を持ち始めるとここにいるようになった。
庭で遊んでいる兄弟達は誰一人そして看視者や兵隊などを見てこないものだというものを。
「ササ様」
「何」
「こちらにいらっしゃい」
手招くと、ぐずぐず泣いているのを歩いてきて、胴の上に乗って泣きついて頭を撫でてあげた。体温があがり、若い肉の美味しそうな子供の香りに充たされている。まだ食べられない為に頬に手を包ませ柔らかい舌を嘗めつづけた。甘い味がする。転んで手を切ってくれば血を吸い何度も味を確かめてきた。恐ろしい程に美味い巡っている血液を。
柔らかく骨も柔らかい喉元に噛み付く前に、頬を胴に乗せさせた。
本を読む。
視線を落とすと、皇子は巨大なクッションの上にある白黒のシルク人形を見て泣いていた。目を綴じ瞳が見えなくなった。
人は眠ると香りが変る。
ランタンを絞り、闇の中壁の掘り込んだ小さな棚に本をおき、目を綴じた。
「イデカロ」
「はい」
「明日あの白黒人形、鎖で繋ぐんだ」
「………」
闇の中、胴に喋る振動が柔らかに伝わり、心音がちいさな胸部からとくん、とくんと脈打っていた。
「そうしたくて?」
とくとくと鳴り頬の方向を変え、一度頷いた。
背に手を当て、早めに眠らせた。徐々に眠りの香りが広がり、眠って行った。
目を覚ますと、片脚を曲げ肌掛けが胴に落ち、何かをしている皇子を見た。
首でもつるつもりか、壁際にあった木椅子を中央に、鉄製で小振りのシャンデリアが掛かっている下部に縄を引っ掛けている。
頬杖をつきしばらくその背を見ていた。
片腕に持っていた白黒のシルク人形は、完成していて睫も生えていた。
それは既に鎖で雁字搦めに巻かれていて、背のところの鎖に縄を通すと、それを引いてシャンデリアからぶら下げた。
椅子から降りる部屋隅に走って行き、俺はそれを見上げた。ゆらゆら揺れて、あのチビ小僧にすぐに入れ替わった。頬を紅く泣いていて、食欲がそそり、また皇子を見た。
棒の上にランタンの火を当て灯すと、腕を上げて鉄シャンデリアの六本の蝋燭に回り見上げながら点して行き、空間が明るく灯され全ての影が大きく揺れた。
嬉しそうに棒の先の火を吹き消し嬉しそうに見上げ、暖色の明りが小さな無垢に微笑む頬を照らし充たしている。
俺に気付くと驚いたように、まだ熱いのだろう棒を抱えて即刻胴から離し、また俺を見た。
「起きてたなんて、驚くじゃないか」
そう怒っていて、壁の棒嵌めに棒をまた嵌めに行っている。
懐中時計を見ると、慌てたように取り乱していた。
「もう起床の時間だ。父王にみんなで挨拶しにいかなきゃ」
知られる前にそう言い、俺に手を振って鎧戸から出て行った。
「………」
そちらからまた人形を見上げた。
ベルベット下のライフルを手に脚を外し立ち上がり、シャンデリアを揺らした。
影と共に揺れ溶けた蝋が空間と白黒人形に落ち、揺れている。
その内、揺れが勝手に大きくなり人形が翻って火がついて、ぼうっと一気に燃え始めた。バチバチと真綿とシルクを溶かし、縄を燃やし緋色の火が揺れて火花を散らし、しばらくはそれを浴びつづけた。
あの白黒のチビは確かに美味そうだ。あのダイマ・ルジクの孫でなければ、浚って食べたい程だ。
壁上部に彫刻されている王家の紋章がその揺れる影に炎の先に揺れている……。
サティエル公から呼ばれ、貴族グラデルシ氏の宴を手伝うよう言われた。
グラデルシ氏はこの城で代々出た裏の遺体を始末する任を受けて来た貴族ヴァッサーラで、俺の場合は、その手伝いや、城内で家臣達の拷問、王家を狙う暗殺者始末、皇子皇女を監視している役や、何でもかんでもサティエルは俺に言って来る。
頷き、颯爽と身を返したが呼び止められ戻った。
「ロドレンが怪しい動きをしている。様子を見次第報告し、もしも下手をしているようなら。カジノに嵌っているどうしようも無い裏で抜けられない麻薬にでも手をつけているようだからな。その関係者だ」
俺は頷き、暗殺の為の指令でサティエル公の小指に嵌る赤蛇エナメルの指輪に口付けし、引いて行った。
「………」
間口から出ると皇子を見下ろし、皇子は俺を咄嗟に見上げると、口を噤み王の部屋から走って行った。緑と青空が蒸す外気は眩しく、立ち並ぶアーチ柱に細い影を走らせて行き、小さな背は消えて行った。
「………」
ロドレンはサティエルの二離れた姉の夫だ。ギャンブルにはまり、その上麻薬にまで手を染めれば公室にもいられなくなる。
部屋に戻り、ベルベットを剥がしマットを立てかけると武器の点検に入った。拳銃五丁。サイレンサー六セット。ライフル銃二丁。大振りのジャックナイフ十本。短剣三本。サーベル二本。
腰の拳銃を抜きそれを変えると、手を止めた。
「………」
皇子が背後にしゃがみ、頬杖をつき俺を見上げた。
「よくこんなものの上で眠れるな」
「………。安全装置も掛かり、鞘に収まっているので」
「ふうん。白黒人形燃やしただろ」
「燃えたんです」
「燃えるわけ無いじゃないか」
「シャンデリアを揺らしたら燃えた。人形の燃えは計算外だ」
「それでよく父上に任されたな」
皇子は立ち上がって憮然と歩いて行き、部屋中央で振り返った。
「俺がここにぶら下がっていても同じ事した?」
「………」
見上げて来て走って来た。まるで甘えにいけない自分の父親に一度もしたことが無いために、父親代わりに俺の腹に抱きついて来る。
天然物のハーブのシャンプーで洗われた髪はよくブラッシングされ、それは調合師がいてわざわざ練っている。それは調理で使用する時のものでは無い種類のものだ。
それでも黒髪を撫でてやり続けた。黒シルクの腹部に頬をつけて、その白い頬はいつでも薔薇色だ。
多い睫が閉ざされて真っ赤な唇が締まり、愛らしさを感じないわけではない。ササ様はそれでも美味しそうだ。俺が食人者だと知らずに、こうやって来ている。勉強もつけてやり、難しい数学も文学も、俺の場合は許されない皇族直々への剣修行も、見つからない場所へローブの中に包ませ乗馬で連れて行き、林の小広い場でつけてやっていた。
まだ七歳にしては素質がある。ただ、城で行なわれる正式な修行でまだ十四の兄皇子のアルグレッド皇子には転がり負けているのだが。
子供達は揃って馬車に連れられ、城を離れて行った。女集共も共に向かい、なにやら王、王妃と共に宴らしい。
ヴァッサーラの称号は血族では無い。実質的には、繁栄では無く与えられるものだ。意図して人肉の遺伝を作らない為でもあるらしい。
二十七歳の貴公子、グラデルシ・ヴァッサーラは元々アルゼンチンの富豪の所の人間だったが、六歳の頃にスペインのヴァッサーラ城に来た。一貴族の称号でもあるその城を将来任される為に、というよりは、良家の両親が次男坊の食人の事実を知り、まさか子供を捨てるわけにも行かずに預けた。
元々は、城の主になる人間は貴族達の中から王か城の主が選んだ人間を代々当てて来た為に、子供時代からそれを慣れさせる為にヴァッサーラに入らせなければならなかった。
それを、グラデルシの場合は元の気質がそうだった。
良家出のボンボンの為に品がある男で、今は実家の家督を継いでいる主でもあるが、スペインのヴァッサーラでの称号で職務がある為にそれで名乗りつづけ定着しているものの、その任も無い時は彼自身の取り扱う貴金属関係の事をしている。
食卓。
物心ついた頃から食人者であるダイマ・ルジクが血のワイングラスを置くと、食卓の端に立つ俺を樹氷の様な横目であちらから見て来た。
「お前は昼に、我が孫を食いたそうに見ていたな」
「………」
ダイマ・ルジクの綺麗に流される黒髪が艶を走らせ一度見て来ると、その水色の瞳が冷たく見据えてきている。
前で手を組んだまま前を見ていた。
他の貴族主人五名と、ヴァッサーラがこちらを見ると顔を戻した。
「私からはどの子供も美味しそうに見えますが」
そう一人が言い、ダイマ・ルジクが言った。
「子供などすぐに食べる部分が無くなるだけだ。柔らかすぎて食べた気も起きない」
そう言うと綺麗に切り分けた人間の肉を口に運んだ。
「席に着け。レスデン」
グラデルシが言い、俺も席についた。
シャンデリアで灯される以外はヴァッサーラ城の食卓は窓も無く、灰色で、スライスされた巨大なグレーの輝石テーブルは、黒の蝋燭は点灯されずに銀の燭台にある。
クリスタルグラスの中の血で喉を潤し、胸部に挿したシルクを一度出すと銀器のナイフを持ち、持ち手を拭った。フォークも拭う。
食指を進める。
「アルグレッド皇子も十四の年齢か。そろそろ、称号を与えられる年齢になりますね」
貴族の一人がそう言い、一人が言った。
「ローザ嬢以外に、良い女性を見初めれば良いんだが」
「久し振りに会った昨日は息子の嫁にまだ頬を染めていたものだが、まだまだ子供だ。ローザも」
未だにダイマ・ルジクは自己の次男坊がいきなりローザ嬢を連れて子供が出来ている事を言って婚姻の許しを請いに来た事を許していないそうだが、あの白黒人形の様な孫を見るとそうは嫌う素振りでも無かった。
アルグレッド皇子はずっとローザを幼い頃から王妃にする事を決めていたようだが、相手は年下を相手に思わなかったようで、逆にダイマ・ルジクの息子と結婚し、あんなに愛らしい物を出した物だから、アルグレッドと来れば紹介された時の落胆顔は今でも覚えている。
あの孫はどう成長するやら。
肉を食べない主義の父親と、ラヴァンゾ一族のローザが母親で生まれたことで、食人の遺伝は一度なりを潜めるかもしれない。
だが、あのチビがもしも成長し、そして人肉を欲する性質を受け継いでいるとすれば、どんなに芳しい事か……。
あのチビ自体の肉も最上に素晴らしい事は分かっている。皇子ともまた全く異なった、花の様な味だと。
昨日の白黒が甦った。実際焼くなどでは駄目だ。生肉がいい。あのチビの場合。柔らかな首に食らいつけば、ピクピク痙攣するだろう。
うとうとと目をこすった皇子が入って来ると、俺をベッドに上がって来て眠り始めた。
手には自己の部屋から引っ張って来た枕を持っていて、それが眠ったとともに石床に落ちた。
肌掛けを引き上げ、目を閉じた。
だが深夜、目を覚ますと、狩りに行く事にした。
女の肉が食べたい。
皇子を抱き上げ、螺旋階段を上がっていき、普段皇族がとおる事など決して無い高架橋を城へ進んで行く。
夜の風は柔らかく、星は城の形を押し迫るものにする程煌いている。
欄干から覗く緑は夜に染まり梟が鳴いている。
見渡す丘や山は明るい夜の空の下に、豊かに広がっている。
城内へ入り、絢爛な中を進み、皇子や皇女が其々一匹ずつ詰まっているこちらの左翼側を進む。階段を下がり、第三皇子の部屋の観音扉を開け、静かに締め、進んで行き巨大なベッドに横たえさせた。
既に眠っていて、窓から伸びる光りで頬を青く染めている。
喉が鳴り、布団を掛けると颯爽と黒トラウザーズの脚を返させ離れて行った。
扉を閉め、進む。
自己の部屋に戻ると、マット下から短刀を出し、鞘から一度確かめ、進んだ。
鎧戸を閉め、進む。闇に紛れ、城の地下の厩へ来ると自己の馬に飛び乗り、裏手から進めさせる。その裏手に流れる河は月光で光り青く煌いては、緑の草木を従えずっと向こうまで続いている。
石を撫でる滑らかな水は蒸す苔を萌えさせ、月光で幻想的な黄緑に染め鮮やかにしていた。
軽やかな音は女への食欲を増幅させた。
馬を静かに進めさせ、城を離れると、一気に森を走らせて行った。
掛け声を上げ鞭払い、激しい蹄の音を立て馬を走らせる。
森を進み、夜も酒で酔って林や森を出歩く人間の影が所々にある。中には馬まで酔ったように乗馬して酒を傾ける物もいて酒臭い。
乞食が道で倒れてはごろごろ邪魔していて、他の場所では金をばら撒いて転がり歌を唄っている。
女を探す。
離れて歩き、香りを一陣嗅ぎ取った。
森を進み、辿る。男の匂いはしない。女の香りだけだ。
木々を間を進み、徐々に月明りも掠めなくなる。
馬を降り手綱を枝に繋ぎ、歩いて行った。
深い森の暗がりを進む。
近付いている。
いた。
目を悦と開き、微笑し、短刀を手に進んだ。
黒髪を下ろしていて、香水が香っているが、酒の香りと共に熱で上がって香ってくる。
あの女を狩ろう。
歩き進みゆっくり来て、酔った女が目を開き幹に背を着けたままこちらを見た。
香水はスパイシーな香りではあるが、女自体は花のようだ。
鞘に納めた短刀を腰に刺したまま進み、頬に手を寄せた。
顔をあげて来て、見て来る。
綺麗な女だ。
金の繊細なネックレスが掛かるブラウスから覗く肌に指を添え、首に手をしべら背柔らかさを確認した。滑らかで、質はいい。
紋章の入る指輪を嵌めていて、悪態を付きかけた。
貴族の紋章の婚約指輪で、何でこんな場末になどうらぶれてのみにきているのか、オーストリッチの皮のベージュパンツの腿を見下ろし、ブーツの足先から、また腿を見た。美味しそうだ。ボリュームもある。
括れたブラウスの腰を引き寄せ、舌の味を確かめた。頬に手を添え喉奥まで舌を突っ込み、幸せになって来て背を撫で引き寄せた。
首筋の香りは邪魔な香水がつき、胸ポケットからシルクを抜き首筋を拭った。首を嘗め香水の味を落とし、目を開いた。
駄目だ。食欲が稀に体に結びつく。
脚を片方曲げさせた。背を抱きながら項の髪を退かし嘗め、女の腕が背に回り、邪魔な女の声を塞ぐ為に口に舌を突っ込んだ。
徐々に女の舌を噛み血がにじみ女が震え痙攣し首を振り、髪を鷲掴んで首を反らせ歯に力を入れ血を余す事無く飲みつづけた。
女が気絶し脱力すると、自然にこちらも脱力し身だしなみを整えた。
キスをしながら腰を支え、短剣を抜いた。
刃先を腹部に当てる。
涼しい穴倉の中に運び、白骨が転がる地面に横たえさせた。
刃で着る物を全て切って行き、腿を見た。
美味しそうだ。
喉を鳴らし、血抜きのための壷に運ぶと横たえさせ、腹を刺し血を出させた。
手首と足首を上からつる下がる鍵の枷に掛け死体を追ってから、血を壷に溜めさせる。
明日の昼には食べられるだろう。
洞穴を離れて行った。
馬で森を進み、そして城へ帰って行く。
監視をしていると、皇子と皇女達が朝、庭に出て来た。
アルグレッドは食べる気が起きない。その弟は病弱だ。皇女は十の年でませてきて香水など着けたりして、その種類の香水の匂いが好きじゃ無かった。甘い。
皇子が一度俺を見上げると、また顔を戻し庭を進んだ。
今は兎が放たれていて、城の鹿は白樺の方にいる。アルグレッドは祖母から譲られたとか言う難しい本を手に白樺の方へ歩いて行った。
芝と低木のある方は皇女が兎の世話を始め、侍女達が籠に餌を持ち歩いてきていた。
明日は一日中鍛錬を積まなければならない。暗殺仕事の前はいつでもそうだ。
王家の人間に麻薬を卸している男など、殺しても食べる気にもならないだろう。
第二皇子のイングレッドは木陰の下に座っている。
皇子は芝の上でサッカーボールでリフティングをし始めていて、汗でまた香る事を思うと、昼が待ちきれなかった。
青空は雲が純白で、同じく純白の皇子皇女共の肌が美味しそうに光っている。兎が何匹も跳ねていて、空を駆ける鷲を見ると見上げていて、警戒している。
あの鷲達は城には近づかない。上空を飛ぶだけだ。
風が吹き、昼へと時間を運ぶ。
昼に城を離れ、馬で洞穴のある、森の先の山の麓へ進む。
林を進み、河の横を歩き、緑蒸す中を洞穴に来ると入って行った。
女を見て、かみそりを手に出すと長い髪を持ちながら、髪を反って行った。黒く長ったらしい髪を髪の壷に捨て、眉も睫も体毛も全て反ると、刷毛で叩いた。
下に下ろし、奥の台へ運ぶ。
ここまで引いた河の水で腸を先洗いながら内臓を全て取り出し、横に置く。
殻になった中身を洗うと、腿を見下ろした。
美味しそうだ。
手に触れ、短刀を手に納め、鞘を台に置いた。口を寄せ歯を立ててから、弾力のある肌に悦と微笑し、歯を離し、短刀で切り始めていった。
切り分けて行き、腿の部分だけを別にして、全ての女の肉を剥離して行くと、くぼみの中の湯船に肉を放って行った。壷を持って来て、血を流し込む。
浸かるには足りない分の水を足し、服を畳み置いて行き、血肉の湯船に浸かった。
銀の皿に乗る腿の肉を口に、食べる。湯船の掘り込んだ壁から棚の塩を手に、振りかけてから食べ進めた。肉と血で水が肌にまとわり付き、その切れ身が肌に浮遊し触れてくる。
五百グラムは食べ進めると、人肉で腹も満たされて息を付き、湯船縁に腕を掛け項を預け目を綴じた。
曲げたてる膝は血が流れ引き切れ身の肉を漂わせ、目を開き、視野の端に洞穴外の黄緑が輝き風に揺れている。小鳥が鳴いている。河のせせらぎも聞こえる。
むせ返る血の香りが鼻腔を充たす。
リラックスする……目を綴じる。
くつろぐと、湯船から上がり水で体を洗い流し、服を着ると、出て行った。
まや深夜に来て、十匹の犬達を連れて来てから残りの肉を食べさせ、その夜の闇に紛れる内の血水を洗い流す事になる。
肉を剥がした骨はいつでもしばらく肉がついているために犬達がそれで飽きずに遊ぶ。
白骨を一本持ち帰ると、部屋に戻り、口を噤んだ。
「ササ様」
既に勉強をしている。
「イデカロ」
進んでは、白骨の入る黒布を持ったまま寝台に座った。
それは短刀や笛などが入って帯で縛られている様なものだ。
それを枕下に置き、皇子の所へ来ると木の椅子を引き背を降り組んだ膝に肘を乗せた。
寝ころがりクッションを肘に当て勉強をしている背を見る。
息を飲み、見ていた。
使い古された教科書を慎重にめくって行き、羽根を唇に当てている。
早くその味を食べたい。だがまだだ。八歳になってからが良い。
分からないという部分を教えてやり、また同じ場所を三回目で、そろそろ覚えるはずだ。
覚えても無駄だという物を。
皇子は三時には戻って行き、帰って行った。
部屋に残り、着替えを済ませると偵察へ向かう事になる。
ロドレンの裏と繋がる人間を探る。
街を探る内にも、いくつか酒屋に入り、裏がよく麻薬と取引になる教会を回り、ギャンブル会場を回る。
その内にも、行方不明の貴族令嬢の苗字が二回ほど耳に掠めた。
派手にギャングルをするロドレンが視野端にいては、キセルを吸う女を両手に声を上げチップを寄せるバーを奪ってはバーを並べている。キセルを吸う女はまずくて仕方が無い。
歓声が各所であがっては、一気に調子でも出て来たのか、奥のVIP室へ女を引き連れ酒グラスを揺らし傾け歩いて行った。
自己の管理する場所から入って来る金ですぐにああだ。
いくつかの会場を梯子する為に、全ての顔を覚えると裏に忍び込んで行く。
目星をつけると確実な手を掴むまで探って行く。忍び込みメモでも帳簿でも掴めば確実だ。麻薬をロドレンに法外に卸している事が分かれば脅迫し、聴かなければ手に掛けるまで。
今日の所は戻る事にする。
部屋に戻ると、後始末の為に洞穴へ向かった。
犬達を指笛で集め、月光の下に集まって来た。
洞穴に来させ、肉を網ですくっていき、犬達が尻尾を振り待っていてうろうろ歩き、許しを出し食べさせて行った。
栓を抜き血水を下に繋ぐ石の細い水路で河に流していき、そして湯船も水で流して行く。
肉を食べて行くと、犬達は合図で再び山の麓辺りへ散って行った。
剣修行をさせる小広い開けた場所に来ると中心で寝ころがり、空を見た。幾つも流れ星が銀色に駆けて行く。
草や夜気に蕾を綴じた花は夜の香りで、家族を食らった夜をいつでも思い出させた。十四で、一家を殺害し、リビングで絨毯を赤くし食べ、そして黒髪も埋めるほど血に塗れて腸を、かち割った脳を、肉を食べ散らかすと庭に出て、草の香りが鼻腔にむせ返り、幸せで笑み泣いていた。
目を開けると、同じ星座の配置される夜空が高く、そのまま草の上で丸くなり眠った。幼い妹が遊んでいた庭のシャベルや、ブランコやボールがある中を、母が菜園で咲かせた庭に薔薇が咲いた時期だった。
あの幸せな時間が甦る毎に飢餓感を巡らせる。
城へ帰る。
まだ味の残る女の肉をくわえながら眠りに就いた。
いきなり忍び込まれ、背を伸ばし同じく刺客を睨み見下ろした。
まだ訓練をつけている最中で、十九の少女に過ぎない。
皇子がいない時で良かった。
「ドン・レスデン。刃物の研ぎ方を教わらないとと思って」
そう言い、勝手に人のベッドのマットを引き上げた。
「………」
白骨が転がり、リブレーライが足元に転がったそれを見ては、横顔が微笑してこちらを見上げて来た。マットを持ったまま。
手を離し乱暴にマットが落ちた為に武器がばらかまれる中を押し倒され、煙草を吸うリブレーライのキスに吐き気がして頬を手の甲で払った。
横の壁に突っ込んでも打たれ強い為に猫の様に笑って、血肉がつくと不衛生で面倒な為にスキンヘッドの眉無しにしている頭を抱え込んできて、狂った目を上げて見下ろして来た。
「止めろ。帰れ」
鞘から抜けた刃物や皮布からばら撒かれたジャックナイフ、拳銃などが転がり、リブレーライが顔を黒髪に囲わせ微笑み、頭上に転がる白骨を手にした。
放って置き、ランタンをつけ眼鏡を嵌め本の続きを読み進めた。
女が横にいると気が散る。一度視線で見ると目を戻し文字の羅列がバラバラになり始めても集中して読み進めた。
「もう! 本当に乾燥してるんですね!」
そんなものガキ相手に誘惑されても何も感じるものか。
まだ肩に抱き着いて来て本を覗き見て来た。
「え? 何語ですか? 古い本。ラム皮だわ。王室の図書室のものですね」
「ああ」
「内容はなんですか?」
「単なる歴史だ」
「あ。苦手!」
そう言い覗く白い額を手の平で叩き離れていき向こうの壁に背を付け片脚を伸ばした。腕を枕に口笛を吹いている。
「刃物研ぎはいいのか」
「つっけんどんに冷たくされたから今日はいいです。それに、部屋暗いし」
「そうか。出て行け」
「んもう!」
怒って出て行き、放っておいた。香水の香りだけが残り、大人のませた香りにふと視線を消えて行ったドアへ向け誘惑され、首をやれやれ振りランタンを絞って消し眼鏡と本を置き眠りに入った。
明日の朝白骨を砕き、裏手の河に流す事にする。
「………」
王宮の広い廊下に白黒の縫いぐるみが丸く置かれていた。
また皇子が作ったようだが、あんな場所に転がしておいて忘れて走ってでも行ったのだろう。なくした本人が探してここで見つからなくても、またいきなり仕事中に来られても困る。放っておいておけばまた見つけて持って行くだろう。
横を颯爽と歩き、香りに革靴を止め、見下ろした。
甘い香りは子供特有の香りで、粉雪と白花の香りがする。これは、あのダイマ・ルジクの孫だ。
辺りを見ると、あの冷徹な男が現れる前に連れて行くことにした。きっと、あの長身の男がチビの孫がチビ過ぎて見えずに進んで行き、ここに忘れてどんどん歩いて行ったのだろう。スペインには半月滞在するようだ。今頃サティエルとでも話している筈。
名士JDLがどこかに出ていて四年も経ち、そろそろ彼も何らかの仕事でも終えて現れるだろうと社交では言われている。その為にもその場造りという物を彼等連盟で集まり王家も交えて進めているらしく、俺にはあまり分からないが巨大な宴を開くそうだ。
その事を話してでもいるのだろう。そのダイマ・ルジクがこのチビを探してここで見つけて浚って行く前に、部屋に持って行く事にする。きっと気付かずにイタリアに帰るだろう。
首根っこを引き上げると腕に乗せた。男児だけあって重量はしっかりある。女赤子は恐ろしい程綿のような軽さで、食べた事は無いがきっと食った気も起きないという例の種類だろう。
「………」
恐ろしく愛らしい産物だ。これまでに見た事は無い程だが、味も格別に最高だろう。華やかで清い香りがする。
まだ二才児のボンボンだけあって、どこから見ても寵児だ。
廊下を引き返す。
黒シルクの腕を手で握って眠っていた。純白と漆黒の他、今色味は唇の薔薇色だけで、瞳も漆黒だった事を覚えているが、今は長く多い睫に閉ざされている。
高架橋の中央塔まで来て鎧戸を開けた。
「………」
皇子がベッドに丸まり眠っていた。
進んで行き、鍵をしめ、片腕にダイマ・ルジクの弟を抱き上げたままベッドに座り腕を立て、皇子を見た。
皇子はいつもの服で背をこちらに向け横顔は眠っていた。耳に掛ける黒髪は長い前髪がラフなボブで、この所、鼻梁が高くなって唇がふっくらしてきている。しっかりと瞼も丸く弧を描き深くなり始め、眉は子供らしくすっと整っていた。きっと成長していれば男前か美形かのどちらかは免れなかっただろう。皇子の白い肌が赤く挿している頬を指で撫で、ベッドから離れて行った。
壁際の木椅子を持って来ると、それにクッションを乗せ、ダイマ・ルジクの孫を乗せた。
小さな革靴が嵌っている白いソックスの丸い脚と、黒の半ズボンとサスペンダー。白いシャツの首には、黒のファーが掛けられベストのようになっている。ネクタイが丸い顔の下にあった。王宮で迷子になっても誰なのか分かるように、首からはルジク一族の紋章の大振りなペンダントが鎖から掛かっていて、黒樹脂のその立ち獅子を中心とする紋章の裏には、プラチナの印字で社交名が記されている。腕時計は丸く柔らかい手首に、プラチナの獅子顔の大振りの蓋がついたもので、この獅子顔もルジク一族の印でもあった。漆黒の髪が綺麗に切りそろえられさらさらだ。
食べよう。
皇子がいるベッドのマットを少し傾けさせ短剣を出し、皇子が寝ている為に身を返した。
クッションの上で丸くなり、指をくわえている。
「なにやってるんだ?」
振り返り、皇子が伸びをして半開きの目で見ている。
「何でもございません」
「シャンデリアに何か下げるのか?」
ベッドから肌掛けを落としながら目を擦り歩いてきて、とたんに口をつぐんだ。
そして、嬉しそうに顔を俺に笑い上げた。
「連れて来たのか? 迷い込んだのか?」
また見下ろし、下の巨大なビロードクッションに膝を置き見つめている。
失敗した。そのまま洞窟まで連れて行けば確実だった。
「可愛いな。こいつ。何で動いてるんだろう。息している」
そう言い、小さな鼻に子供の手を当てた。
しばらくして、ダイマ・ルジクの孫が顔をもちゃっとさせ、頬を真赤にして泣き出しそうになった為に手を離させた。
巨大な目を開いて涙をぽろぽろ流し、指をくわえてまた目を閉ざし、漆黒の睫から透明な涙が真赤になる頬に落ちていた。
皇子は真赤になり、立ち上がって、そのまま鎧戸から飛び出していってしまった。
ダイマ・ルジクの孫を見てから抱き上げ、皇子に発見された為に食べるのは諦め、ベッドに運んだ。
俺をあまり年も変らないあのダイマ・ルジクと間違えてでもいるのだろう。抱き着いて来て添い寝してやった。
髪を撫でてやり、目を綴じる。
そのまま美味しそうな花の香りにみたされ、うとうとと眠り始めてしまっていた。
目を覚ますと、気配にギクッとし肩越しに体を向けた。
「………」
ダイマ・ルジクが部屋を見回し、黒いジャケットのスマートな背から、こちらを向き直り上品な形態の固定された彼としての数種類の紳士衣裳の一着はエレガントなままだ。
「ここがお前の塒か」
水色の鋭い瞳の横目で見ると、いつでもプラチナのチップがつく襟や、その横のプラチナ獅子顔を中心とする帯を交差させ、ジャケットはプラチナチェーンで懐中時計が見えずに、黒革の細長い手には結婚指輪で淡いアクアマリンの指輪が嵌められている。
裾の長いジャケットから長いトラウザーズの脚が伸び、革靴が鋭く石床を踏み、そして腰にアクアマリンの嵌る手を当て、横目で俺を冷たく見下ろした。
「孫が迷子に? 大方、食べるつもりで連れ出したのだろう」
いつでも携帯している黒いステッキは、銀のトップが付き、中にはいつでも武器が仕込まれている剣だ。それをステッキのようにいつでも持ち、時々食欲にそそられればステッキとなる鞘を抜き、刺しては血を呑み、肉を調理させる男だ。
胴を上にする横に座り、腰を挟み腕を立て自己の孫の眠る頬を黒革の指で撫でると、陰の中から水色の瞳だけを光らせ、俺を静かに見下ろした。
「恵まれずに哀れな奴だ。レスデン。場も違って生まれれば、得られたものも多かったものを」
腕で肩を退かしベッドを離れ、横にいた人物を失った二歳児がねぐずった声を出していた。振り向くと、手を彷徨わせていてダイマ・ルジクの恐ろしくハンサムな横顔は静かに孫を見つめていて、そして長い腕を伸ばしジャケットから覗いている白の袖はプラチナのカフスが光り、孫を抱き上げた。
肩にしがみつき丸い頬を寄せ眠っていて、ダイマ・ルジクの孫は安眠していた。一切自己の祖父も食人種だとも知らずにいる。
俺より若い割に昔から多少独特の癖のある口調が静かで、声も明解ながらも優雅なために、何故か何かでも合うのか、ダイマ・ルジクの周りは小鳥がよく二、三羽集まる。ああやって抱き上げられているだけでも孫は安眠でも出来るようだ。小鳥声だというわけでも無いのだが、何か朝や陽でも予感させる心地良い声に小鳥共には聞こえるのだろう。
「失礼する」
そう言い立ち上がり、孫を抱えたままステッキを腰にスッと差し、鎧戸を潜った。
「下手をすると、刺客に格下げにされた刑罰も厳罰を加えられると思え」
「………」
閉ざされ、その鎧戸を見つづけ、花の香りの残るベッドに頬釣りし目を綴じた。
知った事か。元がこの王宮に生まれ王位継承権が元はあった身分だとしても、今の生活の方が俺にはいい。どうせサティエルは引き戻さなければイカレた弟がこれ以上何をしでかすか分からないとでも思っているのだろう。
花の清らかな香りの芯に、子供らしい甘さがある。皇子の香りもする。美味しそうだ。動物の子供のような香りで、子供が全て香水かのようだ……。幸せな気分のまま、眠りに落ちる。
夢で見た風景は、眠る前に思い出し想起された記憶の断片から、ゆるやかに確実な過去へとなだれ込んでは灰色の光と闇がゆらゆらと揺れた。
皇子の部屋で、元は俺がチビ時代にいた部屋の宵の窓際。石床の上。
青い夜の光りと共に、射す陽が灰色で、闇と灰銀の世界を作り出していた。
血に塗れ、侍女が痙攣し靴は脱げ、首筋の牙の跡も血でドクドクと見えずに床に黒く広がり、黒いレースの裾から出る真っ白の片足も、腿の黒いガーターベルトも、擦り切れた鋭い足のストッキングも、白と灰色と黒の世界だった。
腿肉をサーベルで切り落とし食べ続け、流れる血を嘗めては、幸せで肉の剥れた腿に噛み付いた。白い骨はまた味が滲み、肉は柔らかかった。
名で一度震え呼ばれ、侍女が動かなくなった。
それでも食べつづけていた。黒い膝丈のニッカポッカも、白のソックスも、白のブラウスも、首に掛かる黒に紐リボンも、頬も視野横の黒髪も、目の前の侍女の赤い肉と、白い肌と、黒い血の脚も、興奮との境目で心臓が脈打ち血の香りに充たされ、幸せすぎて微笑んでいた。ずっと。
小さな指に嵌められた紋章の指輪も全て血にうめつくされ、肉と骨の間に指を入れ剥れさせようとしていて、力が及ばずにいた。
罠で窓際のシャンデリアから吊るしてあった獣の歯を取り付けた鼠捕りは、既に侍女の首から離れた場所に鎖を長く引き転がっている。
出てきた白い月が強い光を放ち、血に濡れるそれを光らせた。
高い声で叫んだ声が耳に入った。おぼろげに顔を上げると、兄上が来て、この前十歳の祝儀を上げたロスカルと、姉上で十二のラオナスが立ち尽くしていた。
「レスデン、何をして……?」
ロスカルが駆け寄ってくると、ラオナスが叫んで走って行った。
幽閉された場所を見回し、これからもう肉を食べれないその事実に愕然としたが、銀色に冷たく光る月を見上げた天窓の格子は、記憶の中同様血みどろになった。それを見上げ、悦と微笑していた。
噂が流れ人食い王子の名をつけられる前に、サティエル二世は自分を王宮から追い出した。まだ六歳で、十二歳になっていずに第三皇子の顔は公にされていない時代だった。
チャンブラーダ家で養母のイデールと養父のカロビスから名を取られ、イデカロと名付けられ可愛がられた。今まで広い王宮での寂しさから来るものだと勘違いされたが、ずっと我慢し続けた。妹となるナディアーラが生まれるともう無理だった。二年耐えて、家族を手にかけた夜の夢がきらきらと光り流れて、うっとりと目を覚ましていた。
夜からの偵察の行動に向かう為に王宮を離れた。
ロドレンの背が目星をつけたカジノの奥へ消え、進んだ。
扉を超えて行き、裏口に出ると背後につけられた馬車に乗り込んだ。ローブで頭目許を隠し、馬に飛び乗り後を追う。
郊外の酒屋で帽子を被ったロドレンが進み、影の小道を進んで行った。
馬を置き、進もうとするとこういう日に限ってこいつは駄々を捏ねる女の様に服を噛んで引き止めてくる。大人しくさせシャツをトラウザーズに仕舞い頬を叩き進んで行った。
手を駆け、飛び乗り壁を伝う。屋上まで来ると進み、腹ばいに見た。
ロドレンがドアに消えた。
飛び降りると見回し、窓の中を見て無人の暗がりを進んだ。ドアを開け廊下を進む。ドア一つ一つに耳を傾ける。
「あなた誰」
女のルージュの唇を抑え、鳶色の目が見て来て、引きずって行った。
「あたし一回安いわよ。身なりもいいし、生地もいいし、三回くらいでどう?」
黙らせて先ほどの部屋に押し込んだ。
「他の女に値段でも聞いてくる」
「一番安いわよ。お酒飲んで待ってる……」
そうソファー背凭れに座り円卓上のボトルからグラスに注ぎ女が傾け微笑んだ。冗談じゃ無い。こんな安い香水と煙草の匂いが染み付く女なんかまずくて食えた物じゃ無い。
ドアを出ると、一番奥のドアに耳を当てた。
「ならあるんでしょう。お高い王室馬車でも馬でも今季分でも我慢すりゃあ、相当最高級の物に変えられる」
「そうだな。二位の馬を一位と見立てて出品させれば管理の面でも資金が浮く」
「そっちの王室にでも適当に渡しちまえば、浮いた分で物こっちが買い占めるんで、貴族共に高嶺で卸してもらう分の浮きを資金に、貴金属の方も掻き集めて闇に流す」
「ああ」
耳を離し、物音で部屋に戻った。
「おかえりなさい。あたしが安いでしょう?」
「ルージュを拭け」
背後のドアで足音が響き、建物を出て行った。女が渡されたシルクを見た瞬間、ソファに崩れた。髪を整えさせてから窓から覗き、黒い背が男と共に歩いて行く。
離れ、馬に飛び乗り王宮へ向かい報告する前に巷の噂も耳に入れる。何かそういう流れを前触れで流すやからもいる。その方が奴等同士で網を張りやすく、誰もが国の目を警戒して知られない様に隠れるからだ。
ある程度張ってから、戻って行った。
女の、それだけ物も品も良かったルージュがついた手を拭った黒シルクを出し、部屋から出た。
サティエルが寝床に来た俺に目を覚まし、上げられている天蓋の白い枕横に座り耳元に報告した。
「王室名馬達をだと?」
眠そうに眉を寄せ起き上がり、相槌を打つと白髪の混じる黒髪を掻き上げサティエルが棚の電話に手を掛けた。
「私だが。ロドレンが管理と視察に来る前に全ての血統書を整えてもって来る様に。ああ。品評会前に。頼んだ」
俺は台に合ったナイフの刃を出し爪を整え飛ばしていて、受話器を置いて手元から奪い返された。
「いいか。他の手からも不正をして既に麻薬の金に変えている可能性もある。あの男から買っている貴族を調べ、既に蔓延しているようならば、品評会でロドレンが倶楽部での二位馬を連れて来た時点で売人の始末に向かえ」
頷き、出て行った。
これから夜に出て、カジノ内で貴族のボンボン共の様子伺いだ。
シャンパンにでも粉を入れて飲み下す様な輩はどこから手にするか、指輪に仕込ませる輩がどこからか、葉巻入れの筒に詰めるのがどこのやからからか、黄金のシャンデリアに溶け込む中で、光の中を笑いが乱舞する先に、目を鋭く影から影へ走らせている輩は密接に信号を贈りあっている。麻薬に溺れる豚共の間を。綺麗に整えさせた髪飾りの羽裏に隠しても、扇子にふりかけ煽いでも、すぐに目を悦とさせギャンブルに戻り、金ピアス加工アイマスクの目許は艶めき、そして悪戯にルージュは微笑する。金の導き出す浅はかな陶酔など、全てを剣で切り裂きたくなってくる。黄金の会場など血に塗れさせ、そして装飾や内装の全てなど剥ぎ落とし灰色の空間になればいい。ガランドウの中に、血と肉塊だけが、血の匂いだけが渦巻いて、生前つけていた香水の香りだけが微かに血を混ぜさせる……。
カードが舞い、目を開き刃を納めマントを返し、会場を後にする。
進んで行き、炎の手が上がり、観音扉を出た瞬間馬に飛び乗り、走らせた。
ドウンッ
叫び声と悲鳴が巻き起こり、悦として笑い、馬で走らせ夜を圧巻させる爆炎が渦を巻き、馬を走らせ森を駆け抜け声に出し笑った。血の滴る刃物で木と木に張り巡る縄をきり付け進み片手に掴む髪が絡まる顔から虚ろな目と首から血が滴り馬は疾走し、灰色の光と影の中を進んだ。
岩に転がり腹をつけ生首の髪を掴んだまま頬を岩肌につけ、目を開き河のせせらぎを聞いた。月が滑らかに映っている。風が渦巻き、草を揺らして行く。さやさやとし、目を閉ざした。
指に絡む髪から手を引き上げ、上体を起こし手に持ち逆さにし切り口の肉を噛んだ。至福で噛み食べながら頬を岩につけ目を綴じる。肉を引き剥ぐ音と、血脈の流れる音のような音。風の音……。
岩を血が流れ、腕を下げ指に髪の絡みつくまま、地面に首が落ちた。
馬が一度いななき水を飲んでいる音が聞こえる。水を跳ねる音も。
しばらく涼んでいた。
「………」
目を開け、肩に置かれた手を肩越しに見た。
「………」
黒い影は進み、岩に足を組み座ると、背は河の流れを見つめていた。
グラデルシだ。
上体を起こし、髪の絡まりを落とし首を落とした。マントから刃物を取られ、月に翳している。
グラデルシは上体を倒し水に浸し、血を流させた。水の滑らかな流れと、刃物に押し寄せる透明な水と銀にも射す明りが幻想的に音も作った。
横顔の灰色の瞳に銀の月光が射し、滑らかな光として発される艶が地面の土に絡む血の流れを見ていた。アルゼンチン人特有のスパニッシュよりも濃い顔つきがラテンの熱を孕み、肩越しにこちらを見た。
「あなたは、全く……。見境も無いようですね。会場から離れる馬を見て、すぐにあなたのマントの影だろうとは思っていたが」
怪しい光を静かな表情の無い目許から発するグラデルシは、顔を戻した。
こいつは全く、JDLが公の場から姿を消して四年間、笑顔が無い。何をしていてもつまらなそうだ。大富豪連盟若年層で五年前から純金関係の手を広める為に動いているが、その伝をJDLにも持ってもらった点もありよくしてもらった恩をとっとと返したいのだろう。今はこの青年はその方面で進んでいる。
「僕は滅多な事は言いませんが、サティエル公にはお見通しでしょうね」
河に背を向け俺は座り森を見た。
「勝手にすればいい。どうせ食わずには渇望して正気も保てなくなる」
「ダイマ・ルジク氏が妙な事を言っていたが、皇子の香りを濃密に塔下の部屋から嗅ぎ取ったと」
「………」
「もしも息子さんに手を出されたとも分かれば、サティエル公も容赦はしないでしょう」
グラデルシはそう言うと、立ち上がり青の夜空の月光を背にし歩いては、馬の頬を撫で、自己の馬のいる方へ歩いて行った。
木の横にいるその黒馬に飛び乗り、森を帰って行った。
俺は生首の転がる影を見ては岩の上に置かれた剣を鞘に収めた。
進んで行き、馬を並べた。
「首は」
「河に流した」
グラデルシは首をやれやれ振り、その横顔に飢餓感に襲われた。喫煙を一切しない。噛み付いて血を吸い飲んだ。黒のネクタイから手を離し馬を進めさせた。
厳罰を他の刺客の男に与えられ、ぐったり首をうな垂れさせるまで続けるつもりでもあるのか、背も痣塗れに腫れて来ると棍棒を置き、首を諦め振った。
サティエルはアームチェアに足を組みステッキに手を置き座り、溜息をついている。
「昨夜の被害者の中に、ボデレンバ氏の奥方もいてな。随分な落胆を見せている。麻薬の線は確実だったようだが、何故お前は毎回私の信号を無視して事を進めるんだ。今回などはカジノ屋敷を爆破などして死人が二百五十三名出た。男一人の遺体の首が鋭利な刃物で斬られていたようだ。お前しかしでかす人間もいないな」
応えずにいた。
「しばらく一週間はここにいろ。品評会とロドレンに繋がる男はこちらが連れて行かせる」
鉄のドアが鎖され、格子窓の先、横顔が消えて行った。鎖で両腕を広げ拘束されたまま、石の空間でその後は棍棒で背肉を打つ鈍い音だけが響きつづけた。
何時かは知らないが、拷問に取り掛かっていた刺客の男は出て行った。目を綴じた。
「という事で、マルモスはさっそく教会から離れ、その団体について行く事にした」
声に顔を上げ、開かれた鉄のドアを見た。わざわざ笑いものにでも来たのか、本を読みながら皇子が入ってくると、子供は絶対に入る事は許されないものを地下に来て、顔を上げた。
「その黒い衣裳の団体は、どうやら何某かの王家の兵士達のようだ。何番隊のなにだれだとか、どこそこの姫や王だけにつく親衛隊なのか、不明ではあるが面白そうだと直感した」
図書室からもって来た物だろう。俺の周りを歩き回りながら聞かせ眠らせる魂胆か、何の小噺にもならずに子供の高い声で話して聞かせていた。
「今は丁度、朝食も終えて勉強の時間には入らない時間なんだ。おはよう」
「おはよう」
「馬に飛び乗り、最後尾の白馬の尾を追い進んで行く。黒のローブを着る黒頭巾達は、一様に同じ金のドラゴンペンダントを下げ、それが教会から出た間際には、太陽に照らされ鋭く光っていたものだ。ドラゴンの紋章を脳裏に巡らせようにも、マルモスにはどうも思い当たらない。十七年しか人生を謳歌していない自分にとっては、まだ知識に及ばない団体はなんと多いことだろう?」
「さあ」
「そして考えた。これからその一つの事実を手に出来ることを。それはこの後の人生を変えるに値するかもしれないし、これまでの人生を馬鹿げたものにしてくれるほどに、魅惑に充ちた誘いの白い尾に見えて来た。ゆらゆら揺れて、そしてまるで白い蛇かのように深い森へと誘って来る」
馬のケツを追いかけるよりも、俺は皇子の足並みを追っていて、その細い脚に噛み付く欲望を抑えていた。
「ササ様」
「何?」
肩越しに顔を向け、本からこちらを見た。
「こちらへ」
「………」
本を閉じ、床に置いては進んできた。目の前まで来て見下ろして来て、いきなり顔を自己の腰元に落とした。
白い革のポーチから何かを出した。
「剃刀、持って来てやったよ」
そう言い、それを床に置いた。今にスキンヘッドも拘束されて行く内に、どうせボーズになったり眉が生えたり髭が生え始めると思っているのだろう。実際そうなのだが、血肉さえ貪らなければ関係無い。皇子はよく手伝いをしたがって来る。始めは人を傷塗れにする事を面白がって来ていると思っていたが、この半年でそれも無くなりうまく行っていた。子供の手など元々いらないのだが。
「二年前さあ、妹いるって言ってたよね」
「ナディアーラですか」
「僕、ナディカロって呼ばれたい」
二種類の刃物を床に置いた顔を向けて来た。
「………」
「イデカロの子供だよ。そう呼ばれたいんだ……」
「私は皇子の親ではない」
「いいじゃない」
そう言いながらまた白革のポーチから今度は石鹸を出した。クリームも。
並べて行き、そんな物食えた物でも無い為に、朝食も無しで膝の前に並べられてあるそれを見ては、顔を上げ甥に変わりは無い皇子の黒く多い睫を見た。白い肌に赤が差し、そして睫がカーブを描き彩っている。黒髪がゆったりしていて、耳に片方掛けられている。
手元の水が入る瓶を置くと、コルクを締めたままでゴトリと置いた。
見回してくる。
「まだ問題無いよね。また隅のあの箱の中にでも隠しておくよ。暇を見て来てあげる」
きっと、こちらが身動きでいない事をいい事に、眉をジグザグに剃るだ、髭を整えるだ、徐々にモヒカンだ何だして来るつもりだろう。子供というのはいつでも大人で遊びたがる生き物だ。今は格好のおもちゃというわけだ。そんな事をされていても、拷問係が気付かなければいいのだが。
「ササ様」
「ナディカロでいいよ」
「それは名前ではない」
「愛称でいいよ」
「そういうわけにはいかない」
「じゃあ、イデカロの事僕、親父って呼ぶから。決めたんだ」
そう言い、物資を持って走って行き、箱の中に入る鎖や鉄球の中にそれらを入れて行き、本を脇に抱えて鉄ドアから出て行った。
「………」
そんな事冗談じゃ無い。食べ辛くなるではないか。
一週間も拘束されると筋肉が落ちる。それは避けたかった。
鉄枷に繋がる鎖を手に回し掴み、全身の筋肉を使い体を浮かせた。背の腫れた痣が邪魔でビキビキ音を立てる。鎖が不気味に音を発し、ギシギシと鳴る。足を揃え腕を広げ綴じ、脚を天上に上げ、片腕を伸ばし片方の肩を縮め、逆をやり、足を広げ綴じ、前に振り上げ戻しを繰り返し、運動を続けた。
二、
瞑想に耽っていた。
禅の姿勢を取り、灰色の個室を宇宙にする。
十代の頃、養い家族を殺害し食べ精神鑑別所へ容れられた後に、二十歳を前にインドに渡った事があった。
精神統一と瞑想と座禅を習いスペインへ帰った。
耽るべき瞑想の中にだけは、食人は無かった。
部屋中央のクッションの上、シャンデリアの下で続けると、宇宙の巡りだけに脳を虜にさせられる。
二時間すると目を開く。
禅を解き、身体を慣らしてから立ち上がった。
恐ろしい程に皇子を食べてしまいたい願望が渦巻いていた。この一ヶ月間、部屋に来ても鎧戸前で追い返しているのだが。
今も鍵の掛けられた向こうから、鉄でノックしてくる音が響いていた。この石の狭い部屋に。
俺の事を親父と呼び、懐いてきていただけならまだしもこの一年、可愛らしさまで感じ始めている自分がいる。
九歳になって三ヶ月、背も伸びて来て剣術もどんどん力を付けて行っては学校でもトーナメントに勝ち進んで言っていると言って来ては、一回り大きな馬にも乗れるようになって褒められたと言って来る。
それも全て親父の特訓の成果が現れているんだと笑顔で言って来る度に、その頬の肉も、首も共、そんな事を言って来る唇も舌も血まみれに噛み付いて、留めなくなせたくなる嫌悪と、見つめてくる鳶色の瞳の真摯さの煩わしさと、引き換え、何故か心の中だけでは冷静さを保ち、もっと成長をさせて行きたくなってくる皇子自身の、以前までにあった魅力以外の、人肉として以外の個人としての無垢なまでの俺への純朴さに、混乱を来し始める。
「開けてよ。どうしたんだ? 頭、いたいのか?」
健気にノックし続けていた。
「………」
座っていたベッドに転がり声を無視した。
「うう、う、」
また泣き出した。
だいたいは泣きながら歩き帰って行く。
「………」
立ち上がり、鎧戸を開けた。
途端に胴に抱き着いて来て、背に腕を回し髪を撫でた。
「どうした。こんなに泣いてここまでして来て」
「ずっとここにいたんだ」
「皇子」
「ナディカロだってば!!」
くしゃくしゃに目を潤ませ泣いて、声が響く前に中へ入らせた。
この所もう敬語も自然に使わなくなって来ていた。極自然に。
「兄弟といるんだ。いずれ自立する」
「嫌だよ。いろいろな事を学びたい」
「駄目だ。帰れ。ここは子供の来る所じゃ無い」
「!」
立ち上がった俺を見上げ、ナディカロが驚き俺を見上げ、陽に焼ける小さな頬に新しく涙が流れ光った。
「何で? そんなことなんで言うの?」
「もう今までのように遊び場にされるいわれは無い」
「遊び場? 親父と俺との場所だよ」
「ササ様……そうじゃ無い」
大声で泣き始め、俺は全ての欲求が食からそこはかとない愛情へと向かいかけて、抱きしめる前に自己の手を握り顔を背けた。
開けられた鎧戸の向こうからガチャガチャという音が響き、俺は顔を上げた。
泣き続ける声とその押し迫って来る音に、肩を引き寄せ鎧戸を閉ざした。
間際に角に見えた兵士達が険しい顔をしていたが、見えなくなり小さな頭を抱き撫で続けドアを見ていた。
「王に報告を」
兵士の一人が鎧戸向こうでそう言い、俺の袖を掴む小さな手を離させ、ガシャガシャと音が去って行く反響で頭を浸蝕され痛くし、そして泣きつくその黒髪を見つめ、愛情なのか、食人なのか、宇宙のうずまきなのか音の成す混乱なのか、胴を包みその体温の上がった芳しい香りに包まれ頬を頭に当てていた。
目を開くと、目を見開き離し、サティエルを見た。
真っ青な顔をし、食人者の俺を見ている。
サティエルの子供まで食べようと勘違いしているあいつが。
「この気違いの食人者が!!」
兵士の持つ鉄の棒で頬を叩き払われ温かい血が目に飛び裂け、ベッドに転がり真赤になる肌掛けを見た。
「そうじゃない、食べようとなどして無い!!」
「サングレットを連れて行け」
「はい、」
「嫌だよ! 離せ!! 違うんだ父上! 僕は」
小さな身体が引っ張られていき、兵士が俺の両脇を掴み引き腕を伸ばした。
「イデカロ!」
必至に連れて行かれることを抵抗し激しく泣く姿がいじらしく、完全に崩れ去った。彼への食人が。
「イデカロ!」
見えなくなっていく。もう、二度と……
「……ササ様!」
ガシャンと閉ざされ、音が浸蝕し、轟きつづけた。
脱力感が取って代わり崩れ、地面を見た。
「幽閉しろ」
「………」
サティエルの冷たい声音が響く事も無く、そして足元が踵を返し去っていった。
ダイマ・ルジクの声が近づいて来ている。
小鳥がさえずっていた。
「そうか。その処置は仕様も無い」
そう言っている。
「ああ。まさかサングレットを連れ込んでいたとは」
幽閉される中を、顔を上げた。
頬の傷は引きつり、既に血も固まり張っていた。一部内部頬肉を食べていて、噛みながらおぼろげに鉄のドアを見た。
「王位継承権はどうするんだ」
「完全剥奪だ。王家からも追放する」
そういう声で、サングレットが鉄ドアを開けた。
兵士達に名画入り、サングレット、ダイマ・ルジクが来た。
ダイマ・ルジクがここまで進み、その背後からグラデルシが来た。
「レスデン。どうやら、遊びが過ぎたようだな」
「………」
スティックの先で傷跡を撫でて来ては、その真っ白でハンサムな頬に味の無くなった肉の一部を吹いた。
「………」
水色の瞳を片方閉じ、冷静なままの横目で見下ろして来ては顔を向けて来た。
残った肉を飲み下し、じろりと見ていた。
きっと俺の肉でも食うつもりか、刺して海にでも捨てるつもりだろう。
「グラデルシ」
「ええ」
ダイマ・ルジク横のグラデルシが進み、俺を一度上目で見ると、顔を反らし兵士に手を振った。
黒いクッションの上に、紋章入りの短剣。もう一人は、舌挟み器。
「………」
眉を寄せ、ダイマ・ルジクと、サティエルを見た。
「やれ」
サティエルがそう首をしゃくり、兵士が動いた。
完全に拘束され動けない中を、鎖をぎしぎし言わせ兵士を睨んだ。
「あまり顔に近付くな。食いつかれるぞ」
背後に来て抑えられ、グラデルシが前に来た。鉄の手袋で歯を押し開けられ固定器具をつけられ、引っ込める舌を引っ張るために鉤付きの棒をグラデルシが手にし、それで舌を引っ掻き出そうとして仰け反り睨み付け唸った。
グラデルシが横目で俺を見ては、棒を横へ持って行き、逆側の頬に手を当てて来た。灰色の目が閉ざされ、舌が嘗められ、その最も人間らしい味を味わっていた。
「………」
鉄の音が響き、目を開けた瞬間口が離れ鉤に舌を引っ掛けられた。
一気にぐんと引かれ、瞬時に舌の根元が棒に挟まれ両側のネジを回された。口を固定する器具に嵌められ、サティエルを見た。
ダイマ・ルジクの持っていた短刀を、兵士が受け取り背後から離れて行った。
視線を落とす。舌が半円に覗き、鉄で挟まれる金属が白い鼻下に黒くあった。
兵士がグリップをしっかり持ち、ジンジンする舌の下にもう一人が台を置いた。
短剣を持つ兵士を見ては、兵士はこめかみに汗を流し行動に移さなかった。
「貸せ」
ダイマ・ルジクの黒革グローブの手が伸び、それにはまるアクアマリンの指輪をサティエルに預け、こちらを見た。
短剣を受け取った水色の瞳を見た。
峰にそっと手を当て、銀に光るその刃を俺は見下ろした。
鼻。黒い鉄の棒、器具、桃色の舌。
音が響き、脂汗が流れ冷静なままの静かな水色の双眼を見た。そのまま、意識が消えた。
波の音がした。
頬に砂砂利。手にも。胴にも手にも腕にも頬にも地熱が伝わっていた。
意識が揺れて背がジリジリと痛く、息を吐き目を開いた。
歯の全体に来る鈍痛と、奥歯向こうの肉の筋肉か何かのつっぱりと、無気力感に目を開いた。
波の音が続き、遠くまで続いている。
湿度のある砂が粒子かかり、向こうに茶色で濡れたカニが歩いている。
視線を上げ、頬についた砂もそのままに手をつき白い胴についた土を見ながらトラウザーズの膝を付き、向こうには海が白い波を立たせ横に続いていた。眩しさと、加えて何処に下りても色が一定の陰の色が浜に落ち、バックルだけが鋭く光っている。横に顔を向けた。
延々と砂浜と、緑の木が続いている。
風は音も無く吹いているが、肌に感じる程度だ。
頬に手を当てた。舌を固定する鉄の棒が口内内側から突き出て両側をネジで硬く留められている。それを無意識に強く噛んでいて歯をいためていたようだ。
鉄の存在が今更ながら唾液に溶け込み胃にまで充たしていると分かり、吐き気がして赤い血の混じる透明な唾液が胃から押し迫り流れ出た。
立ち上がり、遠くに転がる黒い物体、片方の革靴を見つけ、そこまで熱い砂の上をよろめき歩いた。
広い、手に持ち背を伸ばした。
ここはどこだ。
見渡しても見覚えは無い。
今更ながら、何かに気付き、口に手を突っ込んだ。
歯に沿うようにU字の鉄線が掛かり、指を切って視線を落とした。
勝手に終えろというわけか。刃が喉側に向かってU字にはついていた。
両端のネジを外そうとしたが、きっと溶接でもしたのだろう。ネジは螺旋の機能を内側で失っていた。
歩いていき、靴を落とし浜から上がった。
木々の間を歩いていき、足裏に刺さるいろいろなものもそのままに進んだ。
納屋のようなものを見つけ、その石を積み立てて作られた小屋に入った。
道具が入っているのみだ。長靴やカッパを見つけたが、他人の物など身につけたくは無い。
腹が減った。
誰か見つければ通報でもして警察が飯でも出しただろうが、どちらにしろこれでは警官すら食べれないままだ。
あの舌が恋しい。目覚めて食べられるように口にでも放って来れば良かったものを。
歯を噛み切れないまま神経がいかれ、頭蓋骨まで緊張していた。
味も無い鉄を空腹の足しに、ガターと一応灯の出るガスライター、他人の物だがカッパ、マスクは無い。
なにやら両頬に昆虫でもついて歩き回ってるとでも思うだろう。
埃を被った鏡があった。鉤に掛けられた灰色の布を手に拭き、顔を見た。
「………」
俺の男前の顔が恐ろしいことになっている。
これじゃあおおよそ顔に蛾が停まっているとは済ます人間もいない程頬が抉れ裂けた状態でかさぶたになっていた。
この手なら後から整えられる。
鏡を手刀で割り、いろいろカンバス製のものに物を詰め、小屋を出た。
グラデルシの小僧のことはあのまま食べておけばよかった。あの舌の味が懐かしい。これではもう味わえなくなったわけだ。
鉄の味まで分からないのはいいが、潮の香りまで不明だ。小屋に何か匂いが充満していたのかも不明だ。清潔とはいえない場だった。
唾液など垂れ流しながら歩き回りたくも無い。口の中の刃物はどちらにしろ何にも当らなかった。
まあ、誰かが夜にでも俺を見かけて驚いて手持ちの鉄ハンマーか何かででも驚きついでに顔に激烈に打ち込んでくれば、そのままお陀仏にでもなるのだろうが、そうも手持ちの鉄ハンマーを肩に担ぎ歩く人間もいないだろう。小屋に戻り持参でハンマーでも肩に担ぎ、鉄杭も何本かベルトに挟み進んで行った。見つければ手振りで顔を打ってくれと親切に言うためでもない。誰かがいれば鉄杭で両側の留め具を打ちつけさせ外す為だ。
いきなり後頭部を攻撃されたのだと分かった。
そのまま倒れた。
「………」
ゆったり木漏れ日が濃い影を作る中、革靴が見えた。
キャップを被った男二人がサングラス顔でしゃがみ覗き見て来た。
「違う。怪我人だ」
「じゃあ連続殺人犯では?」
「不明だ」
警棒を腰に戻したその黒髭の整う男が胴を伸ばすと、膝で隠れていた胸部の警官だろう勲章が見えた。
「手持ちの中はガターと、縄、毛布、マント? カッパか。これは何だ? 腰の。鉄の杭だ!」
「お前、犯人か」
何の事やら知らないが、首を振った。うんざりする事にでも巻き込まれる前に、刺してその場を離れたかったが空腹で体力もそうは無い。
鉄の杭でも刺されて何人かやられてでもいるのだろう。この近辺で。知った事か。
だが俺は連れて行かれた。
馬車に乗せられ、これで望むとおりには飯を出されるだろう場へ行くだろうものの、警官が俺の顔をかゆを潜め見て来て、もう一人は御者として馬車を動かしていた。
「あんた、その頬の傷はどうした」
俺は応えずに顔を前に戻した。
「ピアスとかいう装飾品か」
俺は警官の方を見て、一気に口を大きく開けた喉奥から唸り声を吐き出した。
警官は両眉を上げ、気絶した。
御者が馬車を止め、扉を開けると気絶した警官に俺を見た。
連れて行かれ、檻に突っ込まれた。
空腹で暴れていた。
既に台に括り付けられ手も足も拘束され、歯を剥き喉を嗄らし唸り続けていた。
唾液が流れ続け項を濡らし、医者が入ってくると俺を見た。
美人な看護婦をつれていて、俺は目をその美人に向けた。
医者が近付こうとすると、警官がそれを危ないからと、マントからグローブの手腕を出し留め、またマントが揺れて引っ込んで行った。
「麻酔薬を用意しなさい」
「分かりました」
美人が頷き、黒い鞄からいろいろだし始めている。
「行程を話すので、一先ず一通り聞いてもらいたい。第一に、口の器具をこちらで外す。その後に舌の治療を済ませる。方法としては、器具を外した瞬間に筋肉の関係で残りの舌がのどを塞ぐように縮まってしまう為に、舌半分の神経を抜きます。その後に舌両端の皮膚と喉奥の皮膚を縫い合わせて奥へは引っ込まないようにします。そして、頬の傷を出来るだけ綺麗な状態に整える。口内の肉が消えているが、それは周りの肉を引っ張ってつなぐ為に多少傷のある側は口角が自然に上がってしまうが、時間も経ってくれば自由に動いて来る様になるでしょう」
「あんた、これをした人間は誰だ」
警官が言って来るが、声など出ない。親切にも刃の裏に王家の紋章など刻印されてなどいないのだろうから書き記した所で、目を伏せ気味に睨まれるだけだろう。別に今更こちらも言う気も無い。肩の赤蛇と旗の入墨は王家の紋章の中の一部だとそうは結びつかない。
「この状態では声は出ない」
医者がそう言い、俺は看護婦の構えた注射を見た。
腕に刺され、目を何か黒い物で覆われた。徐々に意識が薄れていく。
目を覚ますと、顔が鈍かった。
看護婦のあの美人な女がいて、点滴を見ていた。顔を向けてくると俺を見た。
手首を引き、女の腕に指先で鏡と記した。
「鏡、ね……わかったわ」
多少おびえながら歩いて行くと、棚の上の鏡をもって来た。
包帯が頬と頭に巻かれ、このまま全体の頭部か巻かれていれば脳までいじって食人の気でも抜けさせたのかとも思ったが、ボーズになっていただけだった。
鏡を置き、俺がポリシーのスキンでなくなったから気落ちでもしているとでも思ったのだろう。口はただゴム製の口枷をかまされていた。
「大丈夫です。手術は無事に成功したので、頬もきっと傷も塞がるでしょうね」
そう肩に手を置いて来て、出て行った。
空腹で腹が減り、目を綴じてから、すぐに医者が来た。
「目覚めていないじゃないか」
俺は目を開けた。
「目覚めて? 手術は終ったが、舌と舌周り、左口内の抜糸は傷の様子を見ながらです。口の中なので早めに繋がるでしょう。食事の方は様子見で、しばらく点滴なので」
俺は落ち込み、目を綴じた。
目を開き腕を引き白衣の腕に「治療費」と記した。
「ああ、治療費。今回、実験的に手術したので後々の研究内容で学会で発表することになる。研究には機関が金を出すので」
実験台か。
目を伏せ気味にして、医者は俺の肩を叩き看護婦と共に出て行った。
今夜中に出られるはずだ。あの看護婦の女にでも誘いを掛けて出ようか。
女を誘拐し、気絶した女はぐったりしていた。肩に担ぎ進んでいた。
夜闇は真っ暗で、夜気は冷たい。外套マントに包まり、女の山羊外套と山羊皮の帽子の頭が背に当る。
女が目覚めたようだった。
女は短く叫び、俺はそれを下ろした。
「あなた、抜け出したりなどして」
俺は手に下げていたバッグを置いた。糸を切る挟みや、点滴、抗生物質や化膿止め、包帯、ガーゼ、軟膏などが入ったものだ。
肩を引き寄せ腕を回し、女の長い髪が渦巻く肩に目許を当てた。
「………」
女が何も言わなくなり、俺の背にムートンの手袋の手を当てた。
ササ様に会いたい……。
そんな馬鹿げた事実がどこかには確実にあった。
一度も懐いてきて寂しがっているササ様をナディカロと呼んでやる事も無かったが、それで良かっただけだ。
馴れ合いなど続けて、結局は兄にも捨てられて自由にもなったというわけだ。
女をそのまま連れて行くことにした。
腕をつかみ、外套の腕に書き記した。
「……でも」
黒シルク留め具の並ぶ上、漂白されてない毛色のボワが裏に打たれた長い立ち襟に囲まれる顔をみた。
「………」
女が頬を染め、俯いた。
「決められないわ。まだ。抜糸なら出来るし、経過も見れるけれどその後は」
俺は首を横に振り、肩を腕に引き寄せ歩いて行った。
俺を見上げて歩きながら俯き、胸部に頬を寄せてきて進んだ。
リベナが身篭ってしまい、俺は闇市に入り殺し屋をして金を得ていたが、また金が必要になり、どこかに身を売って確実な生活金をもらおと、人権売却所に来ては契約を済ませ、俺の実力を買う団体を見つけることにした。元から刺客仕込みの技を持っている。
電報で生活費はこれからは仕送る事を伝えた。
電話が来て、交代したリベナが言った。
「まさか、帰らないの?」
一度真鍮の電話口を爪で叩いた。
「そんな、嫌よ」
二度叩くと、駄々を捏ねて「嫌よ」と言いその美人な顔が浮かんだ。
「これから何をするつもりかは分からないけれど、会って理解するべきよ」
一度叩いた。
「また連絡をちょうだい。お願いよ」
リベナが静かに切り、俺も受話器を掛けた。
振り返り踵を返し歩くと、オークションの会場へ進んだ。
俺を買ったのは外人だった。
シチリアの人間で、マフィアの人間だ。どう殺しが必要かも不明だが、いい金で買われた。
イタリア語は得意だが実際にイタリアに行った事は無い。ダイマ・ルジクはミラノで今家族ともに生活している。
噂は出ないだろう。
「名はイデカロか」
契約書を見てランタンや蝋燭の明かりが締める赤い調度の中、一人掛けに座るイタリア人の男が頬に指を当てたまま視線を向けた。
肩を超える黒髪を四角く後ろに撫で付け流した男で、深い中に据わった目の上の真っ直ぐの眉がぴくりとも動く事無く見て来る。
年齢は五十も後半だろう。
立ち上がるとここまで来て一回りして見回すと、前に来た。
男はニッと咲くほどまでのフォーカーフェイスも浮かばないほど愛嬌良く一度微笑み、俺の背後へ歩いて行った。その背が言う。既にもう笑顔も無いだろう。
「ついて来い。出発自体は五日後になるが、手始めに前金を渡そう」
そう言い、契約の部屋から出た。
男の泊まる部屋まで来ると、その前にイタリア人が二人廊下に立っていた。
「部下だ」
それだけをいい、シガーを指に挟み口から外しながらその手でノブを回し、入って行った。
今度は群青が中心の色合いの部屋に進み、金の模様とトリミングのソファーに座った男が灰皿に置き、俺を見た。
「クローダだ」
指輪の手を見下ろし、握手を交わした。
「これから領土から入る金以外に、他の線でも商売を始めようと思っていてな。それらの点で陰で支えてもらう事になる」
そう言い、ローテーブル上の箱の蓋を横に置き、俺に束を渡した。
「家族はいるのか。両親や兄弟は」
小指を出した。
「女がいるのか」
頷き、男も上目で俺を見ながら相槌をうち目を反らし蓋をしめた。
指輪を煙が掠めていき、立ち昇っては、嗅覚が及ぼすその香りの葉巻を見ていた。
舌がいかれてすぐの時は嗅覚が無くなっていたが、徐々にそれが戻り始めると、今は物の香りが鋭くかぎ取れる程になっていた。
この男の肉は食べる気は起きない種類だ。葉巻、火薬、焦げた香り、薬品の香り、癖にある何かの薬剤。それらがする。きっと、武器関係や麻薬関係の蒸留をしているのだろう。
だが、それさえしなければ実に肉自体がうまそうだ。味もしっかりしているだろう。がっしりした体格は筋肉も整っている。腿を切って肉たたきで柔らかくすれば弾力もあるはずだ。
「何だ? 俺を食いたい目で見て」
そう一目の目が真っ直ぐ見て来た。俺は目許まで笑っていた。
「ふ」
男は大きく笑い、ソファーの背を叩くと首を振った。
「食人でも問題になって舌でも切られたようだな。まあ、いい。女の事はお前がどうするかは勝手だが、屋敷には俺の妻以外の女は寄せ付けない。スペインに置くのか、シチリアの市街地に連れて行くのか、それはお前達で決めろ」
俺は頷き、男は背後を首をそり肩越し見ては手を振った。
半掛かりの垂れ幕先から老人が出て来ると、若い男も揃って出て来た。
「忠誠の墨を彫ってもらう。支度をしろ」
「はい」
俺は老人と若い男を見て、据わるよう言われた。
「酒は飲んだのか」
首を横に振った。
「そうか。それならいいんだが。シャツを脱いでくれ。右上腕に彫る」
「………」
「どうした?」
クローダが俺を見た。
俺は首を横に振り、シャツを脱いだ。
赤蛇を見るとクローダが俺に言った。
「どこかに今まで所属していた経歴があるのか。流れだとは聞いていたが」
俺は頷いただけだった。若い男が消毒液を一度塗り、拭き取ってから老人が墨と鑿を用意していて、目の片方に丸いレンズを挟ませると直に彫り始めた。
しばらく彫り進めて行く内に、クローダが背後に来て肩から腕を下ろし、その腕に視線を落とし唇を見た。美味しそうな香りがする。味は食っても分かる事は無いのだが。
逆側から手を口に伸ばして来て、口を肩越しに開けさせてきて口中を覗き見て来た。伏せ気味の目で見ながら相槌を打って来て、肩に回される腕に視線を落とした。
色香のある目が俺を見て、葉巻の煙が指から立ち昇り首筋に噛み付きたくなってくる。クローダは離れていき、ソファーに座った。
「別に食人は勝手だが、家族に手を出されても困る。もしも下手な被害が出れば普段は鉄の口枷を嵌めさせて行動させる。分かったな」
俺は頷き、下腕を見た。何を彫っているのかは不明だ。
リベナが移住支度をしながら、またつわりで走って行った。地中海を進む内にも腹がでかくなるだろう。俺達の船とは別便で来させる事になっている。クローダが女子供の為の部屋を市街地に用意させてくれた。
とはいえ、俺自身は生まれても子供には会わないつもりだ。食いたくなるだろう。
戻って来たリベナがソファーに座り、俺を見た。
「子供が生まれる頃にはあなたも四十八の年齢だわね。その頃にはあたしもイタリア語喋れるようになってるといいんだけれど」
賢いんだ。すぐに習得できるだろう。
リベナは二十七で、まだ若い。俺が滅多に帰らなくなれば、新しい男を作るかもしれない。不明だ。
普通の状態で見つかったわけでも無いために、俺が今まで何を何処でして生活金を得てきていたのかは、リベナが聞いてくることも、今回の雇い主の事を聞いてくる事も無かったものの、薄々何かを感づいてはいるのかもしれない。だが、俺自身は家族に仕事の事を言うつもりは無い。
不思議と、リベナを食そうと思った事は一度も無い。薬品の香りが職業柄身に着いているからだろう。イタリアに移ってからも落ち着けば語学も順応し、その頃には看護婦の仕事をするようだ。
俺は先にスペインを離れる事になった。
妻を置き、港への馬車に乗り込んだ。
これから、クローダと落ち合い向う事になる。
建物の間を進んで行く。一度不安を覚え、部屋のある場所を振り返った。
まさかあのクローダは後々火をつけて家族は捨てさせる気じゃないだろうな。
青空は灰色の雲が落ち着き払い、灰色と白の石の街を進んで行く。
顔を戻し、進んで行く方向を見た。
港につきクローダと落ち合うと、部下も揃い船に乗り込んだ。出港の汽笛が鳴り、街を見ていた。
「不安かい」
俺は肩越しに老人を見て、首を横に振った。
「ボスは身内だけは大切にさせる男だ。それはその息子にも教え込んでいる人間としての流儀ねで。手は出さないさ」
俺は相槌を打ち、甲板を進んで行った。
壁に背を付け足を放って空を見た。
船員達の声が各所で響いては走り回っている。空は城の塔から眺めて来た空より濃い色だ。雲も無い。
最後に見た水色の瞳が水色の空に溶け込んで行った。目を綴じると、小鳥の声だけが蘇った。
しばらくして、混ざるように庭で遊ぶ美味そうな皇子皇女達四匹の声や、それにダイマ・ルジクの孫の鳴き声も。
汽笛に掻き消され、風が巻き起こり始めた……。
ナディカロ。
口許が象っていた。無意識に。
無意識に浮かんで来た皇子の泣き顔が目を綴じる闇に、遠くなって行く。海を進めさせる船の上から。
<完>