1.グラデルシ・ヴァッサーラ
国の謀反者などを暗殺した後に敵の肉を食う文化が裏で根付いていたことから、ヴァッサーラという石の砦が作られた。食人の癖のあった妖しげな少年グラデルシもまた、そのヴァッサーラの食人の儀式を執り行う者として連れてこられることに。
[ヴァッサーラ]2011/02/23
ヴァッサーラの称号者
サリディルボ卿 六十二
エルザイ 四十六
グラデルシ 五
ベルレドン一族
サルファリヨン卿 五十四
リモルショーラ 二十一
ヴァッサーラ城内。石で出来上がった城だ。
灰色の切り出した石の空間は、塔の中。
五歳のグラデルシは、ぼうっとした中を背を下に転がっていた。
「サルファリヨン様……」
入って来たベルレドンの頭領を見上げ、灰色の透き通る目で彼を見た。
サルファリヨンは癖つく黒髪に指を差し入れてやり、グラデルシは濃い睫の目を閉ざした。
アルゼンチンの裕福な家族は、グラデルシを古の時代からの軍事に関わる血族だったスペイン人の友人、ベルレドン一族の元へ預けた。
食人をした事で。
ベルレドンはグラデルシをヴァッサーラ城へと容れさせる為に、ヴァッサーラの頭領であるサリディルボ・ヴァッサーラの元へ連れて来ていたのだ。
「これから、称号の儀式がある。立ち上がりなさい」
「はい」
ぼうっとした目のまま起き上がり、グラデルシはサルファリヨンの背後にいて塔内を見ていた二十一の青年、リモルショーラの長い脚に駆けより抱きついて目を綴じた。
「グラディー」
そう社交名でリモルショーラが言うと、フィンランド人の母と同じ水色の瞳でグラデルシを見てその黒髪を撫でた。愛らしい。
「さあ。行こう」
古めかしい鎧戸から出ては、ヴァッサーラの城を進んで行く。
塀に囲まれ、緑の草が生い茂る横、殺伐とした中、高台の回廊を進んでいき、本棟から、儀式の為の塔へ進んで行く。
その先に、エルザイが冷徹な顔で背後で手を組み立っていて、グラデルシはびくっと上目になり、鋭い顔のスペイン人を見てサルファリヨンの手を強く握った。
「大丈夫だ。いきなり食って掛かる男では無い。冷静な男だよ」
サルファリヨンがそう言い、歩いて行かせ、視線の先のエルザイは冷たくグラデルシを見たまま身体を儀式の塔への入り口の闇へ向け、そのまま鋭い伏せ目を反らし歩いて行った。
グラデルシは不安げにリモルショーラの顔を見上げ、彼は男らしく微笑み、黒髪を撫でては進んで行かせた。
儀式の塔へ入って行き、暗がりを進んで行く。
まるで悪魔のようなエルザイの背を見上げて歩いていたグラデルシは、サルファリヨンから離れて黒ビロードの背を追った。
その長い脚の横に来て見上げながら歩き、エルザイの袖を掴んで見上げ歩いた。
歩きながらエルザイはグラデルシを横目だけで見下ろし、立ち止まり身体を向けしゃがんだ。
「……可愛い顔立ちの子だ」
そう波のような温かな声でエルザイが言い、グラデルシは一気に包まれたかのようにぼうっとして、その腕の中にころりと倒れ込んだ。閉ざされた瞼の中、鳶色の色香のある目許が揺れる事無く直の眼力として見据えられ。
サルファリヨンが気絶したグラデルシの背後に来てはリモルショーラが抱き上げ、エルザイに渡しては歩いて行った。
エルザイのビロードと金袷の間の肩に柔らかく白い頬を乗せ、進んで行く。
鎧戸を開け、円形の儀式の間へ進んだ。
鉄の鎧と黒マントの兵士二人が剣を手に彼等を認めた。
キャンドルが揺れる間の石台は、その先に王家の紋章と国の紋章、それにヴァッサーラの称号の紋章をかかげさせている。
一人の男、落ち着き払った穏やかな目許のサリディルボがいた。
彼は彼等を見ると、運ばれてきたグラデルシを見て、エルザイが台に横たえさせた為に、兵士が気付け薬を渡した。
刺激的な香りにグラデルシが目を醒ました。
台に頬を寄せたまま、曲げられた細い足と、自己の丸い手腕と、それに黒い毛皮のマントガウンの自身の狭い肩を見て、体を起してサルファリヨンとエルザイを見た。リモルショーラは向こうに立っていた。扉横で、その横には兵士がいる。
白い詰襟シャツの首に嵌められた蝶ネクタイと、黒の膝丈ズボンに、白の長いソックス。黒のローファーに、それに愛らしい顔つきの巨大な灰色の目がうねる黒髪から覗いては、台の上に座って見まわしていて、いきなり背後にいたサリディルボに驚いた。
「今から儀式だ」
彼はそう言い、グラデルシは頷いた。
エルザイに台の上から抱え降ろされた。
ヴァッサーラの命名式である。
「グラデルシ・ラスバ・ロサイデン」
「はい……」
優しげなサリディルボにグラデルシは大きな上目で震えながら見ては、両手を握らせていた。
「これより、お前はアルゼンチンの良家で生きて来た五年間の全てを、これよりスペインのこの地、ヴァッサーラの内に生きることを定める」
グラデルシは上目のままこくりと頷き、その小さなグラデルシの背後両端には、ベルレドンの頭領サルファリヨンと、ヴァッサーラの男、エルザイがいた。
「お前の名をヴァッサーラの称号を与えられたグラデルシ・ヴァッサーラと定め、これより様々の掟やしきたりを習得させ、サティエル公に仕える任を担ってもらう」
グラデルシは上目で王家の紋章を見ては、震える目で再びサリディルボを見た。
兵士が壁の石蓋を開くと、グラデルシは兵士を見た。腕に厚手の黒革グローブを嵌め、鉄の細い棒を持っている。焼印だ。
グラデルシは驚き皆を見て、エルザイが台に乗せ背を上に、シャツを捲り上げ背を出させた。サルファリヨンが押さえさせ、リモルショーラが肩を押さえた。
サリディルボがヴァッサーラの紋章の焼印を兵士に持ってこさせ、そして腰の部分を見ては頷いた。
叫び声が響き渡りリモルショーラが頭を抱え、暴れるグラデルシが腕で背後の太い兵士の手首を掴み、厚い手袋をはがした。
そして、皮膚の手首を掴み鋭い灰色の目で睨み見ては歯を剥き唸り、そしてその兵士の逞しい腕に噛み付いた。即刻血が溢れ、赤くなる。
恐ろしい力で肉を噛み千切り、兵士が腕を押さえて三角の甲冑の中、凶暴な目を見て、サリディルボがグラデルシの肩に手を置いた。
グラデルシが気絶し、意識を失った。
リモルショーラが抱き上げ、眠れる食人種を静かに連れて行く。
目を覚ますとリモルショーラの腕の中で、大好きなのでしがみついて目を綴じた。
毛皮の小さなマントガウン(ケープ)が台の上に置かれ、白い詰襟シャツの背を撫でていた。抱きしめ、包帯の巻かれている部分は避けて抱き寄せた。
「目覚めたのか?」
「はい」
「痛くはないか」
「ぼやけてる」
「薬だ」
「はい」
グラデルシは目を開け、灰色の瞳でリモルショーラの軍服ではない白のシャツを見つめていた。
リモルショーラ自身は駐屯の関係でアイスランドに向かっている。セレモニーや社交などの時には、国のスペインに帰っていた。社交ではグラデルシも彼に懐いては、よくタンゴを共に習ってくれていたのだが。
「もう僕タンゴ踊れないの?」
「踊れる。仕事さえ覚えれば良いんだ」
「何を?」
リモルショーラは起き上がるとグラデルシの脇を抱き上げ床に下ろした。
「理性を失わないように。それが鉄則だ。それ以外には言えないが、サリディルボ卿とエルザイからすべてを学べ。彼等がお前の新しい家族だ。彼等とともに社交にもよく出て、顔をヴァッサーラとして広めるように」
「はい。父上と母上にはもう会えないの?」
「お前はもうロサイデンの人間では無い」
そうしゃがんで腕を持ち、灰色の瞳を見てそう言った。
捨てられた。そうグラデルシは分かり、黒髪の整えられる中の水色の瞳を見た。
「僕が人の肉を食べて男の人が好きだから?」
「え?」
「だから父上も母上も捨てたんだね。この恐い城に。僕はそれならリモルショーラみたいに一緒に軍人になりたい」
まさか食人以外に男の子までとは思いも寄らなかった為に、リモルショーラは困って腕に手を当てたまま、見回して立ち上がった。
「ここは何も捨てられた子の場所ではない。由緒ある場だ」
「人食いの城なのに、今に僕の事もあの二人が食べるんだ」
「そうならないように、成長するんだ。きっと両親にも会えるようになるだろうから」
「本当?」
「確証は出来ないし、約束は出来ない」
グラデルシは手を繋がれ廊下を歩きながら、自分の歩いているローファーを見ながら頷いた。
本殿の通路を歩いていき、処理場や食堂のある方向とは逆へ進んで行った。居住の場になっている方向だ。
居住の方向といえども、それらしい風はやはり極めて薄いのだが。
殺伐そして、そしてアーチの尖った鎧戸が大きい物も小さい物も石の空間の要所ごとにあり、建物自体の構造が各所、緩いアーチドームやカーブを描いている。秩序だってはいない。
開けた場に来て、尖ったドーム空間は、壁に沿い階段があり、そして左側には大きな尖ったアーチトップの鎧戸、そして右側上部には明り取りが開けられ、鉄のシャンデリアが極装飾性も無く、そしてその空間から、リモルショーラを見上げた。
「この扉が、これからのお前の教育者になるエルザイの部屋だ。サリディルボ卿の部屋は、階段を上がっていった鎧戸を進んだ通路先、別塔にある」
そう言い、リモルショーラが進んで行った。
鉄の輪を引き、グラデルシはリモルショーラから顔を覗かせた。
白い漆喰で覆われた壁に、張り出す石は灰色で、作りつけられた台や寝台、テーブルなどは統一された落ち着くデザインだ。アンティークもので、空間に馴染むようにある。
格子窓から灰色の陽の射す書斎机に向かうエルザイが、古いラム革の本を置くと、切り出された黒牛革の掛けられるハイバックから脚を解き立ち上がり、硬いベンチにグラデルシを促した。
あの怜悧なままの目で、グラデルシはベンチに座って上目になった。
「十歳の年齢までは、王宮へ挨拶へ向かう以外ではこの城から滅多に出ることは許されなくなるが、中庭で馬やフェンシング、剣術などは教えよう。グラデルシ。それ以外では厳しいしきたりの中に生きてもらう。十歳からは様々な肉の料理法を学んでもらう」
エルザイがそう言い、グラデルシは上目で頷いた。
「真っ直ぐ前を見ろ。堂々としていなければ、明日にサリディルボ卿と向かう王宮でも恥じを掻くぞ」
「はい」
「タンゴを好んでいるそうだ」
「団子」
「タンゴ」
グラデルシがそう言い、団子などエルザイは畑違いなので、首を振った。
「我々は社交的なダンス以外は踊らない」
「駄目なの? ずっと三歳の頃からタンゴを街角やダンスホールで踊って習ってるんだ。宴でも披露して踊るし、友達とも」
エルザイが目を細め立ち上がり見下ろし、グラデルシは口をつぐんで恐いエルザイを見上げた。
「タンゴを踊りたければ、自分の部屋で踊れ。レコードは許されない」
「え!」
「私もサリディルボ卿も音には敏感でね。分かったな」
グラデルシは唇を突き出し、エルザイが向けた背を見上げた。均一にウェーブ掛かる上品に流した黒髪は肩を越すほど長く切りそろえられ、長い脚でバランス良くたっていて、その腰で手を組んでいる。その指の、グラデルシが大好きな黄金も、指輪として重厚に光ってはそれをぼうっと見つめていた。
あの腰にも、ヴァッサーラの焼印が捺されているのだろうか。
そう、野性的な目で見つめていた。上目になって柔らかな唇を嘗め。
エルザイが手を解き、金縁で締められたタイトな黒ビロードの腕を伸ばし、書斎机上のペンダントを取った。
それを持ち、向き直り、思いも寄らないほどのグラデルシの瞳を見て、その興奮して頬を桃色に染めている顔を見てから、牛革紐のペンダントを持ったまま、リモルショーラを見た。
リモルショーラは背後のベンチで長い足を組み座り、腰に手を添え渋い香りのシガリロを目を細めくゆっていた。
そのシャープな横顔が、水色の目でエルザイを見ては、手信号で短く送り肩をすくめさせてはまた顔を戻した。
どうやら同性好きのようで、それは困った事になった。すでに儀式を終えれば、つき返す事も不可能だ。
グラデルシは可愛らしい顔で俯きもじもじしていて、細い指を交差させていた。
成長していけばそれもなくなるだろう。そうエルザイは思い、相槌を打ってからしゃがみ、灰色の瞳を上げたグラデルシを見た。
「このペンダントは、我々ヴァッサーラの証でもある。王家に仕える者として。この私の指輪もそうだ。頭領は、このペンダントを渡される」
「あのサリディルボが頭領でしょう?」
「ああ。そうだ。今現在も、しばらくはこれからも。このペンダントはその後継者が譲り受ける同じものだ。今までは私が下げていたが、若いお前に譲られる事になる」
そう、ペンダントを見てから、グラデルシはエルザイの指に嵌められた証の黄金の指輪を見つめた。
その金に魅せられていて、灰色の瞳は光っていた。
その首からネックレスを掛け、蝶ネクタイを調えさせた。
グラデルシがエルザイの頬にちゅっとキスをし、そのまま走って部屋から出て行った。
「………」
エルザイは多い睫の目で瞬きをしたまま、口を噤みドア先を見ていた。
リモルショーラが可笑しそうに笑い、首をやれやれ振ってから言った。
「あれは、また変った子が来たな。規律がどうなるやら」
「崩れない」
「それでは、心して」
そうウインクし、リモルショーラは背を伸ばしたエルザイを見てから、エルザイは呆れて首を振った。
「これからどうなるやら」
「タンゴでそこらへんを舞いまわるかもしれないな」
グラデルシはしっかり見知っているサティエル公に、再び改めた名で挨拶をする事になり、サリディルボの横で緊張していた。
何故なら、食人を知られたという事だからだった。
サティエル公以外には王妃も今はいなく、正式な場でサリディルボが自分の姓名が変更したことや様々な事を伝えている。
恐ろしい程恐い顔をしているサティエル公は、六十四の年齢で、次期王位継承者は現在二十八歳のロスカル皇子だ。
「殿下。曲を聴いてはだめだと言われたんだ」
いきなり割り込んだグラデルシを見て、サリディルボは目を回した。
「堂に入らば堂に従う。それが紳士たる物だ。グラデルシ。嗜みは、自立してから幾らでも出来る事」
「二人が音に敏感だからだよ。そうじゃなかったら聴いていいって事なんだ」
「ハハハ。坊や。これはタンゴが踊りたくて仕方が無いんだなグラデルシ。今は二歳になったそうだが、エメルジア一族の長子もアルゼンチン人ダンサーの父を持っていてね。いいかい。いずれ、共に練習でもしたくなれば、正式な場でするといい。それを楽しみにしきたりや掟を今の内は学んでいるんだ」
「本当?! はい!」
グラデルシがぴょんぴょん喜んで、単純なのでサリディルボも可笑しそうに笑い、歓んでいるが日常はこれからそうも行かなくなる為に、陽気な気分の彼を連れ、彼等は食堂へ向かった。
ヴァッサーラは、暗殺された者などの遺体が挙がった場合、それを闇で揉み消す為に用意された城だった。
前皇帝の時代からサティエル王朝と名を変えて二代目に入るが、その古いしきたりだけは残され古より続いていた。
遺体を調理し、そしてヴァッサーラの者が食べる。
サリディルボは元々、スペインのとある貴族の末息子だった。それが前ヴァッサーラ頭領に指名され、四歳の頃につれてこられ、そして食人と掟、しきたりや王家への忠誠を叩き込まれてきた。そしてエルザイも、とある貴族内で双子として生まれ、その一族のしきたりで双子の片方が生まれた時に葬られる事になっていたのだが、サリディルボがその片割れだった赤子を引き取り、後継者にし育てて来た。
グラデルシのように、自然的な食人への深い欲求から、修道院や精神病院へ容れられたり、幽閉される事も無く、そしてヴァッサーラに来る事は類稀な事だ。特に、スペイン人で構成されつづけてきたヴァッサーラが他の国から連れて来られる事は。
ロサイデンの名をこれからは口に出来ないと聴いていたので、これから社交で今までの友人に会っても、それまでの社交名グラディーで呼ばれる事は無くなると聴いた。グラデルシの名で正式に呼ばれるのだと。
絢爛な中を進み、そして食堂に来た。
進んで行くと、煌びやかで巨大な黄金枠で四角く区切られ絵画の嵌るドーム天井は、黄金の巨大シャンデリアが掲げられている。壁は細長い金枠の黒石艶の部分や、白に金ドットの壁、それらが花瓶が並ぶ豪華な花の先にあり、シャンデリアや空間を黒石は写していた。
象嵌の床を進み、広い象嵌の楕円をした卓上は、センターに花が豪華に誂えられ、そして金の塔が左右に立っては煌びやかで、そして食器などもカトラリーも美しい金と陶器だ。左右には壁に王宮の兵士が立っていて、そして黒詰襟シルクと黒いスラックスの眉なしスキンヘッドの男が、前で手を組み壁に立っている。初めて王宮で見た。
その無表情の男を見て、一瞬で飲み込まれるほどに同じ物を感じた。
それは、食人の相だ。
「あのおっかないお兄さん、ヴァッサーラの人?」
三十一のラオナス皇女が、その黒い影を見ると、グラデルシの手を引いて椅子に座らせた。背凭れの高い肩越しに見ると、ラオナス皇女が手でさっとまるで何か厄を払うかのように手で払っていた。グラデルシは彼女の群青ビロードと、それに毛皮のラインが交差された紅絹リボンとともにステッチされているゆったり広がるスカートから、牛革で締めて括れた腰と、そしてその上の豊かな黒髪を銀で纏め上げ除いた白い鎖骨を見上げて、豊満な胸部を見上げてから、表情も無く衝立の向こうへ歩いて行く黒いスレンダーな背を見た。颯爽と歩いていき、くるっと身のこなしもよく踵を返すと、美しい花の花瓶の先に入り、あまり見えなくなってしまった。
「………」
グラデルシは豪華な花の先に見えるその黒いシルクと、まるで蛇のような、だが感情も覗えない目許の深いスキンの男から、また美しい化粧を施されたグレーシャドウの皇女の瞼を見て、その深い色味のルージュが閉ざされたままで、美しい顔をグラデルシに下げた。
「さあ。今はお食事の時間を楽しむのです」
そう美しく微笑み、彼女は白シルクで覆われる胸部を反るように背を伸ばし、歩いて行った。
どうやらまだ二十代の男らしく、自棄に気になっていたグラデルシはもう一度その彼を肩越しに見た。
その彼がまるで食堂に住み着いている悪魔のように、美しい花の間からこちらを見て、ニヤリ、と、不気味に微笑んだ。
グラデルシは凄い顔をして肩を竦め、慌てて向き直って金のカトラリーを見た。
「ハハハハ!」
驚いてスキンの男を見ると、もう笑っていずに、可笑しそうに首を振っているだけだった。
「全く。お前も来なさい」
サティエル公が、姉皇女に隅へ追い遣られている彼を手招きし、その男はすっと進んで来ると、花など食べる気もおき無い程甘い香りをさせていたので、進んできて席に座った。
横のロスカル皇子が一度横目で視線だけで諌めてから、前に笑顔で向き直り、皇子がグラデルシを見た。
グラデルシはにっこり微笑んだ。
いちど細身で彫りの深い顔の黒いシルク服の眉なしスキンヘッドを見ると、横に座っているエルザイと、逆側のリモルショーラを見上げた。どちらも横顔はいつもの風で、どちらも黄金が顔に跳ね返っている。
エルザイの向こうに、ヴァッサーラの頭領が座り、サティエル公の長姉ラオナス皇女の向こうに、ベルレドンの頭領が座っていた。
そしてそのベルレドンとヴァッサーラの両頭領のテーブル先に、王家の紋章と絵画を背にしたサティエル公が座っていた。
ロスカル皇子はがっしりした体格で、どこかしら強面なので、時々笑うと本当に愛嬌があるものの、父王が鋭く恐い顔で、笑っても恐い顔のままなので、どちらかというとスキンヘッドの男の方がサティエル公に似ていると思った。
「ねえ。第二皇子なの?」
グラデルシがその男に聞いた。
「………」
なにやら、手元の黒いシルクで潔癖なのか、カトラリーを自己が触れる前に拭いていた男は無視していて、グラデルシは犬の様な顔になって頬をふくらめた。
リモルショーラはグラデルシに可笑しそうに微笑み、グラデルシは懐いているリモルショーラににっこり微笑み、顔を戻した。
料理が運ばれて来る。
王族は鶏とラム肉を交差させた上にワインソースと、それに香草の乗ったものだった。マッシュポテトもその中心に円柱になっている。
自分達の所に来た肉料理はムースの中にその肉が収まっていて円柱で、そしてソースの味がついたキャラメル色の飴細工が黄金に掛かっている。
グラデルシは一歳の頃から習っていたマナー通りに綺麗に食べ始めた。
「グラデルシ」
「はい」
リモルショーラと手を繋ぎ、王宮の廊下を歩いて行くと、エルザイの呼びかけに背後を振り返った。
エルザイは王宮での装い、黒いビロードで足許まで長い裾の衣裳の身で来ては、いつもの様に手を腰で組んで横目で見下ろして来ていて、そしてその衣裳なので黒ビロードの袖の金の刺繍の裾を伸ばし、しゃがんで、グラデルシの腕を持った。
「王宮内でも、社交の場でも余計な口を出す事は誰の教育かは不明だが、下手なことを言えば子供だろうが罰を与える」
「はい……。ごめんなさい。父上も母上もそんな教育はしませんでした」
「そうだな。自己で責任の持てる会話だけをするように、日々心掛けるように」
「あの人は誰? 僕と同じ、人の肉を食べるんでしょう?」
そうグラデルシは小さな声で言い、エルザイが親指を柔らかな赤い唇に当てた。
エルザイは首を横に振っただけで、立ち上がり歩いて行った。
「ドン・サリ」
あちらから進んできたサリディルボを見上げてグラデルシは言い、彼は柔和に微笑んだだけで、前に顔を戻し歩いて行った。
リモルショーラに手を繋がれたまま、「さあ。行こう」と、歩いて行った。
同じ。自分と同じ……。
狭い肩越しに背後の廊下を振り返り見ながら、グラデルシは歩いて行き、その灰色の瞳が前を向きとことこと歩いて行った。
ヴァッサーラの称号のネックレスを首に掛け。
音楽室に招かれ、古い王宮楽器を奏でる王宮楽団達が、皆に曲を聞かせていた。
それをグラデルシも絨毯の上に置かれたアーム椅子に座り、大人しく聴いていた。時々大人達はひそひそと会話をしてはグラスを傾け、そこには王妃もいた。グラデルシはあまり夜に飲むと、夜に起き上がってお手洗いに行きたくなるので少し温めた山羊のミルクを飲んだだけだった。
山羊のミルクは初めてだったのだが。
エメルジアやベルレドンのお屋敷に家族で行っていた時もそうだ。ハニーレモンを出されてきた。
楽団の曲を乱すものがいた。
「?」
グラデルシは脚をぶらぶらさせていたのを、アームに手を掛けて肩越しに見た。
あのスキンヘッドの眉なしが、椅子に脚を組んで浅く座り背もたれに背をあずけ、目に黒いシルクを乗せて全く演奏も無視したしかも悪魔的排他な歌をのんびり唄っていて、限りない不調和音を生み出していた。呆気羅漢とした声で、カラカラの声だ。まるで森の中で警戒を促す蛇や、砂漠のガラガラ蛇のように。
ランダムに置かれてある椅子の、その男の横に今座っているラオナス皇女が、肘でその黒シルクの腕をついて止めさせていた。
レスデンという名の皇子だった時代もある男だった。最も、幼皇子時代に侍女を、王家から追い出された養子先でも少年時代に猟奇的に殺人食人をし、再び王宮に戻され勝手をしないように見張られている。現在年齢は二十五という若さで、髪も眉も生えていれば男前で色香のあるサティエル公によく似ているが、それも今は全く分からなかった。
グラデルシは先ほどの全てを排他させるような口ずさみに、顔を前に向け、それでも耳にずっと残りつづけていた。
楽団の曲とをれが徐々に混ざっていき、巡るかのように。まるで星の渦巻く宇宙かのようだった。薄暗い中の天上を渦巻く様な……。
「あの皇子って変り者なの?」
エルザイが目をくるりと回し呆れて天井を見て歯を剥いてから、その横顔にグラデルシは凄い顔をして腕から手を離し、大人しくなった。
足を組み腹部で手を組んでいたエルザイは首をやれやれ振り、これは教育もきっとしがいがあるやらと思い、楽団の曲を聴いた。
あの皇子と決め付けたグラデルシは、一度また肩越しに見た。
肩を震わせクスクス口を押さえて笑いを堪えグラデルシは向き直り、既に長い両足も放って項を背凭れにかけ、目に黒シルクを乗せイビキを掻きながら爆睡している男に、横の皇女は恥かしそうに額を抑え歯を剥いていた。
楽団の素晴らしかった演奏も聴き終え、その頃には既に子守唄になりグラデルシは椅子の中で足を折り曲げ眠っていた。
そして次に目覚めた時には、黒いマントの中だった。馬の駆ける振動で、腕に抱えられ、一瞬、あの男なのだと思って咄嗟に夜の森の香りの中、グラデルシは顔を上げた。
違ったので安心した。
リモルショーラだった。
群青の夜、黒い木々の影が重なり、そして自分の乗る馬の前には、あの髪を月光になびかせた黒マントのエルザイが黒馬で走らせていて、その馬も、リモルショーラの馬も艶を受けていた。筋肉が動く毎にしっとりと。
リモルショーラは一瞬グラデルシを見ると、また顔を戻し落ち葉を舞わせながら水も暗色のクリスタルの様に弾かせつづけ走って行く。
徐々に、木々の間から、あの灰色の城壁を月光に艶めき光らせ浮き上がらせたヴァッサーラ城が見えて来た。
そこで白髪で髪を背後に綺麗に整えさせたサリディルボの巨大な馬が背後から、あの金のペンダントを光らせ一気に駆けて行っては、それをグラデルシは目で追った。
白髪は銀に光り過ぎ去っていき、そして古城の向こう、高い笛の音が森にしんと響き渡り、城の方では徐々に城門が開かれ降りていく。
ガタガタと鈍い鎖の音を城に響かせて闇の中。
そして、彼等の三頭の馬が桟橋を進んでは、監視塔の城門を潜っていた。
あの銀三角甲冑の兵士達の横を通っていき、その銀の剣が月光に光っては、そして三頭の後を進み闇に溶け込んでいく。
城壁に囲まれる城門から離れ、芝に左右を囲まれる私道を歩き、本殿へ入って行くサリディルボを見て、グラデルシはゆっくり私道を馬で進んで行くリモルショーラの顔を見上げた。
白い顎が綺麗に月夜と星空に浮き、水色の瞳が静かに光っては、そして黒髪が艶掛かっている。ハンサムな顔をしていて、その正式な場に出た為の軍服の勲章のつく胸部にもう一度頬を寄せ、目を綴じた。星が目を綴じた視界に渦巻く。あの排他的なメロディーと声が流れて、そしてその中心に、リモルショーラの水色の瞳が美しく光っていた。
「降りるぞ」
「はい」
目を開けてそう言い、磨かれた石床のエントランスホールで、エルザイに抱え上げられ馬から下ろされた。
今は鉄のシャンデリアの蝋燭に火は灯されておらず、天窓と間口の月光だけだ。
兵士が大きな間口に、鉄の重々しく装飾された格子戸を両側から下ろしていき、馬の美しく立つホールに格子の影を月光と共に降ろしては、その間から出て来た霧がもやもやと流れて来る。
そして外側左右から扉が閉ざされていった。
兵士達が三頭の巨大な黒馬を引き、連れて行った。
マントを返し彼等が進んでいき、グラデルシも月光の差す明り取りを見上げながら、急いで進んで行って顔を戻しかけて行った。
自分の部屋は、円形と四角を合わせたような構造の狭い個室で、石造りだった。
白いシーツと大きな白い枕と白い肌掛けのベッドが置かれ、そして尖ったアーチ型の窓の前に石の台。それにその下には黒牛革の張られた背無しの低い椅子。尖ったアーチ型のワードローブの中は、彼の服が入って掛けられていた。
エルザイが黒い薄手のグラデルシのマントを掛けてから、グラデルシはベッドに座ってから手元を見ていた。
ペンダントを見ている。
「………」
エルザイはそこまで行き、その前にしゃがんだ。
「不安か」
グラデルシは頷き、窓を見た。窓からは芝と、それに先に暗い中を城壁角と塔が見える。塔の間口は暗い。
「あの皇子が僕を食べに来るかも。この窓から」
「彼はイデカロという名の青年だ。王宮の塔の上で監視をしている役の」
「本当?」
「ああ。このヴァッサーラの城には、彼は言われた時でなければ来れない」
「そうなんだ……」
「半ば、会いたいと思っているのか」
「分からないよ」
「そうだろう。だが、お前はヴァッサーラの人間だ。迂闊には近付かないように」
「はい」
黒髪を撫で、初めてエルザイが優しく微笑んだ。
巨大な灰色の瞳に月光が射してグラデルシは包み込むような声と微笑みに、一気にその肩に抱きついた。
その背を撫でてやり、自己の場合は生まれてすぐにこの城に連れて来られていてここが普通だったが、この子の場合は家族にこれから長く会えない事も、友人達とも頻繁に会えない事も、今までの様にお屋敷の自分の部屋で好き勝手をする事も出来なくなった寂しさを思い髪をなでてあげた。
「僕はここでなら生きていけるの?」
そう囁く様に言う声に、白いシーツを見てエルザイは背をなでながら頷いた。
「誰もがその特権ともいうべき物があるわけでは無い。食人種が一般の国の中から生まれれば、こうやって闇に入らせる前に、処置を取られる。利口に生きるんだ。分かったな」
「はい」
離れていき、エルザイは立ち上がると颯爽と出て行った。
グラデルシは細い足を見ていて、そのまま枕に頬と手腕を乗せて目を綴じた。
起き上がって寝台上の蝋燭を鉄の蓋で消し、闇に白く立ち昇る煙が一筋、月光に幽玄に照らされている。消えていき、灯の消えた蝋燭の香りだけが残った。
グラデルシは背後の窓を見てから、月光だけが差す暗がりの中を走って行き、石台に乗ってから外を見た。
静かだ。
左右の鉤で引っ掛けとめられている鎧戸の窓を片方ずつ締めていき、それ毎にその分の闇が占め、そして片側の月光から、また静内を照らす光がグラデルシの影も伴い射しては、あのイデカロが闇に潜んで背後にするりと光の中に紛れて蛇の様に入って来る前に、もう片方も締めて、闇に閉ざされた中を手探りで両扉の鉄金具を引っ掛けてから、足を彷徨わせながら足をぶたないように下り、手探りで寝台に来て柔らかな上に転がって包まれた。
肌掛けを引き上げ、目を閉じた。
タンゴの曲だけが、渋く、色気を醸し、そして脳裏に流れた。大人達の色香あるあのタンゴも、足並みも、渋い一時毎のポーズも。
いつでも大人の男達のタンゴを見つめて来た。幸せだった。素晴らしかった。
タンゴの名士達の姿を見てずっと来た。
エメルジアの若が、自分達と同じ国の父親だと、サティエル公が教えてくれた。いつか成長したら、見てみたい……踊るエメルジアの若を。
森の梟が鳴いている。
素晴らしい名士達が女性と踊るその姿の中に、バンドネオンや掻き均されるチェロ共に、梟の声がホウホウと落ち着き払ってまざる……。
朝起き上がり、真っ暗なので夜かと思ったものの、また手探りで進んでいき、足をぶたないように進むと、金具を手元で回し外してから、鎧戸を開けた。
眩しいだろうから目を閉ざしながら開け、瞼をすかす光に、目を開いた。
城壁で遮断されていたものの、深夜には忍び込んで霧が下りたのだろう、朝露がキラキラと芝を光らせて綺麗だった。
目を細める灰色の瞳にもキラキラと光り、そして柔らかな唇が微かに開かれていて、寝癖でボーボーの黒髪だが、艶かかっていた。
驚いて悲鳴をあげ、グラデルシは台から尻餅をついて落ちて、城壁と朝の空を見た。
また起き上がって顔を覗かせた。
サリディルボが馬で掛けて、それで何か細い紐と錘のついたそれで、振り何かをシュッと取っていき、そしてまたその先の芝の方へ馬で駆けて行った。
なにやら、儀式の塔へ向かう並ぶ柱先の回廊が見えては、その各所やこちらの方にも、赤い物が置かれている。
それを錘つきの紐のような物で絡めとっていっているのだ。馬の背に当てられたヴァッサーラの称号が入る黒の背当ては、今は朝陽で銀の縁取りや紋章の枠の部分が光っては、サリディルボの足の向こうに見えている。
「元気なお爺さん」
そう言い、しばらく見ていた。腰に剣鞘を下げていて、黄金の渦巻く蛇がついていた。それを見ていて、自分は金が好きなので見え隠れし振動ごとに揺れている剣のその部分を見ていた。
トントン
鎧戸につけられている鉄蛇のノックが鳴らされ、グラデルシは肩越しに向き直って台から下りて走って行き、ドアを開けた。
「おはようございます。エルザイ」
「ああ。おはよう。朝の支度を」
「はい」
ワードローブから着替えを持ち、支度のための水場へ案内され進んで行く。
顔を洗い、ボーボーの髪を櫛で整え、服を着替えてから古めかしくて銀の蛇枠の姿見で確認した。
「髪を綺麗に整えた方がいいな。明日、ヨーロッパ社交の大物達との挨拶の為に、スペインを経つ事になる。その前に、髪を整える」
「はい。どこの国に?」
「フランスだ。行った事は?」
「ありません。スペインの社交と、ベルギーの社交だけ」
「そうか。多くの人間に会わせるために、しっかりとした挨拶で失礼の決して無いように。名も確実に顔と共に覚えてもらう」
「はい」
「既に一資産家の息子では無く、幼かろうが貴族の称号を与えられた者だ。それをしっかり心得るように」
グラデルシは頷いた。
「ねえ。エルザイ」
「何だ」
歩いて行く背を見ながら言った。
「エルザイも起きると、髪すっごいボーボーに逆立ってるの?」
「全くお前は、口の減らない」
「キャハハハハ!」
グラデルシは飛び走って行き、エルザイはやれやれ笑ってからその背を見て歩いて行った。
食堂、白い髭を整えさせている白髪のサリディルボは、すでに先ほどまでの熱気も気配も無く優雅に戻っていた。
「しっかり」が口癖らしいエルザイと、それに品のある頭領との、静かな朝食は会話が無かった。城の朝陽が間口からも明り取りからも射している。頭領の背後から白銀に照らし、影と共に食卓に差していた。
朝は、豆スープと、パンと、サラダと、ミルクだった。パンに大量の溶けていてバジルの入るバターをつけて浸し食べているのは、エルザイで、あんなにバター塗れの麦パンを食べているので、グラデルシはその冷静で鋭い目の顔を目を丸く見て食べていた。
食事を終えると、フルーツが出て来てそれを食べていて、半分のオレンジを丸まる齧って食べているのが穏やかなサリディルボだった。グラデルシは目を丸く横目で見ていて、皮まで食べている無言のドン・サリを見て、あれも今に錘のついた紐で絡め浚われて行く様が浮かんで、顔を戻し大人しく食べ進めた。
朝食も終えると、グラデルシはこの城での格好、白の詰襟シャツに、上から黒ビロードのタイトで膝丈のカーディガンを着ていて、金刺繍の帯で締められ、そして黒の細身の長いズボンを履き、フラットなビロードの靴をはいていて、首からは金のペンダントを下げていた。
促されていき、髪を整える為に連れて来られた。
個室の椅子に座ると、卓上の銀で華麗な装飾の使い込まれた鋏や櫛などが置かれている。
「カーディガンを置いてケープを纏いなさい」
「はい」
そうしていき、一度肩越しに鋏や櫛を手に取って確認しているエルザイの横顔を見てから、カーディガンを置く。
黒いケープをまとってから首下でリボンを結んだ。椅子に座ると、金物製のスプレーで髪に水を吹きかけられ目を綴じた。
髪がしゃりしゃり切られていく音と振動が響いていた。ずっと。刷毛で払われていき、冷たい手が触れて頬の切った黒髪を抓み払われ、冷たさに驚いて大きな目を開けた。
既に背を向け鋏を置いていて、その横顔と姿を見ていた。
「こちらへ」
「はい」
その背の後を歩き、綺麗にそろう黒のウェーブ髪を見上げていた。
台に乗るようにいわれて、乗ると髪が手で払われて行った。乾いたタオルで残りの細かい毛が払われていくと、既に髪はスッキリしていた。巨大な目も鼻立ちもしっかり引き立ち、癖毛もセットし易い短さだ。
椅子に座るように言われ、黒のケープを外して服も刷毛で綺麗に払われ、櫛で整えられてから、鏡を持たされた。
「すっきりしたね」
「ああ。しっかりな」
グラデルシは笑いエルザイを見上げた。
「どうもありがとうございます」
「どういたしまして」
また自分の髪型を見ていて、グラデルシはにこにこしていた。
「今から社交前の手ほどきだ。さあ。サリディルボ卿の元へ向かうので、カーディガンを身につけて」
「はい」
「先に行っていなさい。私は片付けを済ませてから行くので、朝食用の扉前の部屋に」
「はい。分かりました」
グラデルシは駆けるように通路を走って行った。
フランス社交の貴族主達、ボードローラ夫妻と、セラーヌ夫妻と、レスベダルダ夫妻を紹介された。
レスベダルダに婿養子に入ったリモルショーラはまだ若く、普段はフランスにもいずに軍の為にアイスランドにいる。名の出、この場には頭領夫婦達しかいずに、彼等若い夫妻はいなかった。
レスベダルダの頭領夫妻に会ったのはグラデルシは初めてだ。夫人はレスベダルダの聞きしに勝る怜悧な美麗さだ。
ボードローラ夫妻はどこかどんとした貫禄があり、セラーヌ夫妻はとても優雅な整った顔立ちをしている。
「アルゼンチンの地に生まれたそうね。可愛らしい目鼻立ちをしたお子様で」
「ええ。この年齢でヴァッサーラに入る事は珍しいが、飲み込みは早くさせるつもりです」
「そうね。グラデルシ。しっかりと自覚を持ち、生活するのですよ」
「はい」
セラーヌ夫人がそう優しい声で言い、グラデルシは女性に緊張して顔を引き締めていた。そこまで初対面の女性に対してまだ子供の点もあって緊張は解けるわけでも無いのだが、彼女の声は子供をリラックスさせるものがあった。
「セラーヌ夫人はボードローラ夫人と共にスイスに渡っている。貴族の子女達にマナーを教えている躾長達でね」
サリディルボがそう説明した。
「娘達も、わたくしもその中で少女時代を生きて来ました。あなたも振る舞いをしっかりと習得するようにね」
「はい」
レスベダルダ夫人を見上げてそう言い、優雅な女性達と、しっかりした貴族主達の笑顔を見た。
誰もがインパクトがあるので、顔はすぐに覚えられそうだった。声の含みも独特だ。
移動中に話は聴いていたのだが、どうやらヴァッサーラは女性との婚姻は結ばなくてもいいというので、本気でグラデルシは安心していた。
女性は別に好きじゃ無いし、古城には女性がいないから嬉しかった。
それに、再びヴァッサーラの人間は選別をされるという事で、スペイン貴族達とも関りを密にする役割があった。
だが新しいヴァッサーラは今の所は選ばれない。既に三人揃っている。
殆どを頭領一人で半生をヴァッサーラ古城で一人過ごすが、三名この時期に揃っている事は異例でもある。
また日を改め、フランスから移動し、他のヨーロッパの国の社交の者達にも挨拶に回るそうだ。
今回の社交巡りは、貴族主達夫妻との挨拶に済ませられることになっている。
徐々にその家族や、合同の宴などにも出させてならされて行き、顔を覚えさせる事になるのだが。
子供がいなく大人達ばかりだったので、相手は皆巣ペン後を話してくれていたのだが、グラデルシは熱を出して寝込んでしまった。
ボードローラ夫人はぐっすりと眠っている額を撫でてあげていた。
エルザイは来ていた上着を掛けてしまうと、スツールに腰を下ろした。
「環境が変わって、まだ体も強張っているのね。でも目には強い光がある子だから、きっと今に大丈夫。慣れていくわ」
「ええ」
エルザイも一度黒髪を撫で、ふと夫人と金の指輪の嵌められた指がふれあい視線を上げ、へーゼルかかる緑の目を見た。一瞬で鳶色の瞳にからめとられた熱に、夫人はふと視線を反らし、彼も顔を戻した。
手の熱に目を覚ましたグラデルシは、ぼうっとしながら大人二人のぼやける視野を見た。
「母上」
ボードローラ夫人と思いきや、ウェーブ掛かる黒髪が同じだったエルザイの方を見て言い、そこまで言われたかと、エルザイは額を押さえ、夫人はくすくすと微笑んでからグラデルシを見た。
「目を覚ましたようね」
「はい……」
灰色の瞳を見ていると、レスベダルダの者達も想起させる為にどこかしらその点もあり、他人とも思えない子供だ。アルゼンチンの血に変りは無いのだが。
「おなかが空いた」
「そうか。食事を用意する」
ここはボードローラの屋敷である。宴の会場からうつり、大人達は今会話を楽しんでいた。
「ドン・サリは?」
「今は屋敷を離れている」
「僕が目覚める薬でも探しに行ってたりして」
「ふふ。坊やったら」
「幻想的な森の中に! 僕、夢見てたんだ。ずっと」
「それはおきかせ願いたいわね。ほら、食堂へ向かいましょう」
グラデルシはボードローラ夫人の横を歩きながら、エルザイにも言った。
「凄い巨大な蛇が出たんだ。この紋章と同じで、それでヴァッサーラの兵隊達が剣で戦っていて、それで暗いのに月は僕と同じ灰色で」
「退治できたのか」
「出来たのかな。森の先に消えて行ったから分からない。蛇も兵隊も、誰もいなくなったんだ」
ボードローラは立ち止まり、グラデルシの前にしゃがんで見上げた。
「今あなたには多くの味方がこれからつく事でしょう」
「おいてけぼりになったら、僕アルゼンチンに帰る!」
手を払ってグラデルシが走って行き、エルザイが追いかけた。
その肩を返して来た腹部にしがみつき泣き付いた。
「怖いよ。エルザイ」
エルザイは髪を撫で、優しく微笑んだボードローラ夫人を肩越しに見た。
「あたくしは先に食堂へ」
そう彼の肩に細い手を添え囁き、彼も頷いてから視線で謝り、彼女は微笑んでから静かに歩いて行った。
「しばらく、どこかで休もうか」
「……はい」
ぐすぐす泣きながら歩いていき、その向こうにある廊下先のソファーセットに座った。
もうソファーから顔を上げずに、ずっと泣き付いていた。エルザイはその背後に座って鳴きついている背凭れに腕を掛け、視線を上げた。
ボードローラの令嬢が歩いてきて、泣いている少年を見た。子供からはエルザイやヴァッサーラは怖がられるので、彼女は上目になってじっとエルザイをみていたものの、一度スカートの裾を引き上げ、小さく微笑んでから歩いて来た。
「グラディー、何故泣いているの?」
「友人かい?」
「いいえ。スペインのお友達のお写真を、見せてもらったの。二ヶ月前のものよ」
「そうか」
ジーナ・ルメイ嬢は同い年のグラデルシの髪を撫でて上げた。
「御ばあ様が、この子とお友達になってさしあげなさいって」
喋れないフランス語の会話で、グラデルシは顔を上げて少女を見た。男の子なのに自分が泣いていたので、すぐに頬を手の平で拭った。
「あたし、ジーナよ。よろしく」
「ごきげんよう。ジーナ。僕はグラデルシです」
「ごきげんよう。グラデルシ。お友達になりましょう?」
「うん。いいよ」
意外にグラデルシがニッコリ微笑み、ジーナ・ルメイと手を取りともに走って行った。
一応は鳴いていた鴉が笑ったので、エルザイは足を解いてから立ち上がり、二人の背の後ろを歩いて行った。
「僕おなか空いちゃった」
「御ばあ様がお食事の用意してくれているわ。ジーナも一緒に食べてあげる」
そう言い食堂へ来た。
ボードローラ夫人が、仲良く入って来た二人に微笑んでから向き直り、エルザイに微笑み、彼も微笑んでから颯爽と進んだ。
しっかりとグラデルシがジーナ・ルメイの椅子を引き、彼女が微笑んで椅子の前にスカートの裾をつかんで入ると、グラデルシも微笑んで椅子を中へ入らせた。
食事が始まる。もちろん人肉では無いのだが。ヴァッサーラでも、もちろんおいそれと出て来る事は無い。
グラデルシは大驚きで息をつめ凄い顔をし、エルザイの泊まっていた部屋の扉を隙間も閉め、サービスヤードを走って行く途中で絨毯上に転がり、うなって起き上がってもう一つ扉を開けてから、廊下を走って行った。
信じられない事にエルザイは女性好きで、それでともにソファーに座り背を向けて酒を手に、キスをしていたのはボードローラ夫人だった。
グラデルシは「あーあ」と溜息を吐き出して歩いていき、頬を膨らめてずかずか歩いて行った。
「?」
自分のずん胴で丸い胴を見下ろし、背後腰を両方とも見下ろし、腕を掲げて脇を見回してから叫んだ。
「キャー!」
頬に両手を当て目を丸く走って行き、あの大事な後継者のネックレスが無かったので、足の裏を見回して飛び跳ねてどこにも無く、その場をグルグル走り回って頬を押さえていて、エルザイの泊まる部屋へ慌てて走って行った。
扉前に来てあけると、サービスヤードを見た。赤い壁に金ドットがグラデルシの頬を染め、絵画や、左右に台の上の壷がある間にあった。
黄金が魅惑的に輝いている。
転んだ時に首から落ちたのだろう。
ドン・サルが転んで落としたとエルザイに思われる前に、拾おう。そっと歩いていき、首に掛けた。
もうキスなんか女なんかにして無いだろうと、グラデルシは思って絨毯を歩いて行った。
扉前に来て、開けてがっかりした。ソファーのアームから今しがた細い足からハイヒールが落ち、革靴の足が揃ったからだ。
グラデルシは頬を膨らめ目を伏せさせ、ネックレスを取ってからサービスヤードから廊下に出てずかずか歩いて行った。
絶対に城であのエルザイを自分の事を大好きにさせてやるとグラデルシは思いながら、ネックレスの紐を持ってぶんぶん振り回しながらずんずん歩き、それを帰って来たドン・サリに見つかってしまって飛び上がり、ネックレスの紐を手に掴んだまま肩を縮めた。
サリディルボは可笑しそうに笑いそうになったものの、表情を引き締めたままグラデルシの前まで来るとしゃがんだ。
「振り回してごめんなさい」
そう言って首から下げた。
「もうしません」
逆さに下げていたので、サリディルボはしっかり返させて掛けると、肩に手を置いた。
「熱は下がったようだな」
「はい」
「そうか。良かった」
そういつもの様に穏やかに微笑み、背を伸ばしグラデルシの部屋まで歩いて行かせた。見上げながら歩いて言った。
「今日はたくさんの人を紹介してくれてありがとう。友達も出来たんだ」
「そのようだな。聞いたよ。ジーナ嬢と」
「はい」
「まだ話は早いとは思うが」
サリディルボは足を止め、グラデルシの前にしゃがんで言った。
「もしも将来女性と結婚したくなった時は、話した通りそれは出来ない。ヴァッサーラは自己一代毎に途絶えさせなければならないからだ。もしも、お前が独立をして後に王に許された場合、父の家業を継ぎたい場合は、その後継ぎを欲することだろう。その場合は、既にこちらの口の出せる範囲ではなくなる」
「いいよ。僕、女嫌いだから」
「嫌い?そうか。子供だとまだそうだな」
「そうなのかな。大きくなれば変るのかな」
「多くの男の子はそうさ。女の子を女の子として好きになるまでには、男の子によったら時間がかかる。男の子同士との遊びの方が楽しいと思ってしまうものだからな。それに、女の子らしさを照れてどうしても避けてしまうんだ。それも、思春期も過ぎたら変る」
「変らないよ。だって僕」
そこからは咄嗟に口をつぐむ為に目を丸くして口に手の平を当てた。
サリディルボは笑い、髪を撫でてからゆっくり背を伸ばし立ち上がり、ドアへ入っていかせた。
リモルショーラに言ったら、瞬きをされた。男の人と女の人がタンゴを情熱的に踊る事と同じで、愛情もそうなんだろう。ただ、自分はちょっとそこらへん違うだけだ。
言わないで置こう。グラデルシはそう思った。
「おやすみなさい。ドン・サリ」
「ああ。ぐっすり眠りなさい」
「はい」
サリディルボは出て行き、グラデルシは一度部屋の中のお手洗いに行ってから欠伸を吐き出し、銀の櫛で髪をとかしてから、ベッドに入って眠った。
時間は夜の八時で、今日は目が冴えて遅くまで起きてしまっていた。すぐに眠りへと落ちて行く。
フランスから横のイタリアに来ていた。
今度は古城だ。古城暮らしの一族だった。
グラデルシは今度はうきうき大喜びしていて、ニコニコしていた。もう大はしゃぎもいい所だ。
「ヴァッサーラの称号を五歳で? 変っているんだね」
イタリア人には全く見え無い十四歳の貴族御曹司がそう言い、グラデルシはこくこく頷いた。
ルジク一族の御曹司と呼ばれていた。
「一緒だ。人が肉にしか見え無いんだ」
小鳥が石の欄干にやって来て、とまった。そこは古城の広いテラスで、その欄干から空や広大な森を見渡していた。あちらには原も広がっている。
「え?」
驚いてグラデルシはルジク一族の御曹司を見て、水色の瞳は柔らかい黒髪から覗いていた。黒ビロードのジョッパーズパンツに、白シルクのフリルがシンプルなシャツに、それに水色のスカーフを首に巻いていて、それでサファイアのピンで留めている。黒髪も、長い首も優雅で、十四歳というものの背が二十歳のようにすらっとしているし、少年は見栄えも良かった。
「ルジクくんも?」
「ハハハ! ダイマでいいよ。そう呼ばれているんだ。名前が長ったらしくて」
「ハハ」
グラデルシは微笑んで、膝下で金の丸い釦が止まっていて、白と黒のダイヤ格子のソックスをはいては、フラットな靴をはきそれを揺らしているダイマを見た。
「本当の名前、ディアマンテ?」
「忘れたよもう」
「うっそだー!」
そうこづいて笑い合っていると、ルジク夫人が来た。
一度、ルジク夫人は遠くから歩いてきながら、息子イルダレッゾの様子を見ながら進んでいて、どうやら使用人達や見張っている男達も、問題なさそうだったので微笑み進んで行った。
「ごきげんうるわしく。ルジク夫人」
「ごきげんよう。息子と仲良くしていたのね」
「はい。気が合いそうで、ダイマもにく」
手をつねられて驚いてダイマの横顔を見上げたグラデルシは、びえーんと泣き出した。痛かったからだ。
慌てて使用人達が来て、手の甲で目許を押さえ泣いているヴァッサーラの新しい後継者の所に来て、ルジク夫人が重い体を一度抱き上げてから下ろした。
「大丈夫?」
「うう、はい」
これで絶対にこの怖いお兄さんにはそんなに何かしようとは思わなくなった。
イルダレッゾに少年が食べられる前に、使用人に目配せし、グラデルシを連れて行かせた。
イルダレッゾは石の柵に座っていて、ふいと顔を景色にそらし青空と水色の瞳が重なった。
どこでも泣かされてばかりな気がするので、グラデルシはずっとエルザイの横にいた。
そうばかりさせているわけにもいかないので、しっかり離れさせてしゃきっとさせたのだが。
それでも、自分も同じ、という言葉はずっと残っていた。深く脳裏に。
古城の周りを馬で走ることになった。ダイマは白馬に乗っていて格好良かった。グラデルシはちっちゃいちっちゃいポニーだった。
「年下の友達でジルっているんだ。アメリカ人。いつか紹介されると思うよ。元々イギリス人貴族だった末裔。優しいから、すぐ親しくなれると思う。いろいろ何でも思いつくし」
「ジル?」
ぱかぱかとポニーを歩かせながら見上げて、ダイマは白馬でその周りを大きく回らせ進ませながら進んでいた。それをグラデルシは何度も左側に来る毎に顔を向け見上げていた。
「でも今ペスト流行ってるから、そんなに会えないけど。一生グラデルシは会えないかもね」
「意地悪だなもう!」
「怒るなよ。事実はいくつもあるんだ。どれがそうなるかなんて分からない。いい方向に行くのは生き方次第さ」
「僕絶対長生きしてそのアメリカ人に会おう」
「そうだな。頑張れよ」
そう言い、黒髪をなびかせとっととポニーを置いて白馬で走って行ってしまった。
「もう!」
ポニーの鬣に手をあてながらグラデルシは頬をふくらめた。
「ルジク夫人。ダイマって変ってるね」
「昔からそうねえ」
そう肩をすくめてルジク夫人が言い、可笑しそうに最後に笑った。
「でも格好良いね。すごくもてるでしょ」
「昔からね。でもあの子、付き合った事無いの。変わった考えが固まってるから、何か哲学的なことだとか、論理的に考えているみたいだわ」
誰かを好きにならないのかな。そうグラデルシは思って首をかしげ傾げしながら、ポニーをとことこ進めさせて行った。
人が肉にしか見え無い。友人や家族もそうなのだろうか。あの分だと、そうだろうと思った。
サリディルボの話に驚いて、見た。
古城の中で三人で泊まっている空間は、天井が高くて鉄の枠が尖ったドームを区切っていて、そして灰色だが研がれている石材の空間は、今は大きな蝋燭が寝台上にともっていた。
毛皮の掛け布団の上に座っていて、薄い金属で出来た大きな箱だとかがあり、シャンデリアも明り取りも無い。
「ルジク一族が食人の一族?」
「その為に、ヴァッサーラの城には時にスペインでの社交や王家への挨拶の折に立ち寄る事もあるだろう。覚えておきなさい」
「ええ……」
「食人をする貴族は影ではいてね。その彼等もくる事がある。今のルジク一族頭領と夫人はその食人の気は無いが、一族が食人者を引き継いできた歴史は古い。彼等の場合は、王家から任されている多くの美術品を管理し続けなければならない貴族の為に、血を途絶えさせるわけには行かなくてね。その為に、我々のように食人種を遺伝子として残す事の無いように断ち切らせながら城を守る事は出来ない。既に彼等の血には、人肉を猟奇的に求めてしまうその本能が、遺伝子に深く根付いてしまっている」
エルザイが続けた。
「ペンダントの意味を考えてみる事もいいだろう。蛇は人間への戒めだ。食人が何の為に人や民族の中に生まれたのかは自然摂理そのものだ。自然から見れば、人間というものは変った奇妙な存在でしか無い。人間を減らせるのは、災害と人間自体だ。増えるべきで無いものが人間だ」
グラデルシはペンダントの黄金の蛇を見つめた。
グラデルシは頷き、大きな灰色の瞳をした目を綴じた。
あの少年がどうやって食べるのだろう。そう目を綴じる中に想像も出来ずに、揺れる灯は空気が動く中を、小さな頬と瞼を灯していた。
きっと、迂闊に会うと狩られて食べられるかもしれない。そう思った。好意を持つなどとはもってのほかなのだと。
あの白馬。そしてサリディルボが黒馬からシュッとからめとった技。刃物。サーベル。剣。刃付きの鞭……首を狩って、白馬に血が赤く飛び、あの美しいほどハンサムな白い頬に飛び、その血を黒髪が優しく撫で……水色の瞳が月光に光るんだ。
鞭。サーベル。剣……。
血の香りとともにそそられる食欲に微笑んで、きっと遺体を馬の背に乗せて、古城へ走り戻って行くんだろう。グラデルシはあの草原で容易に想像が付き、その美しさにうっとりした。影になるルジクの大きな古城も、感情もなく遺体を受け入れる。
いつのまにか、眠りに落ちていた。
ロッキングチェアに座り、ルジク美術書に目を通していたサリディルボは顔を向け、エルザイが抱き上げ布団に入らせてから毛皮を掛けた。
ダイマがルジク夫人と共に、北欧への社交へ着いて来てくれることになった。やはり長旅になる。
フランスを越えてベルギーへ渡る。スイスへは今回の社交挨拶巡りでは行かないらしい。
ルジク夫人の故郷であるアイスランドにも向かうので、船に乗る事になる。為だ。
「ラスーン一族は僕もレシャヒルと遊ぶよ。ベルギーにいく時、いつもチョコレートを用意してくれるんだ。食べ過ぎると駄目だよっていわれてたけどはっきり言ってそんなの子供には無駄な言葉だよね。だって口に入れちゃえば遅いし大きなのに噛み付いちゃえばもう自分で食べなきゃならないって言って食べられるんだ。でも太るとタンゴ踊ってて恐ろしいだろうって言われて、小さいのにかじりついてやるんだけど、どれも美味しくて止まらなくなるもんね」
「僕は甘い物は嫌い」
「びえーんドン・サリー」
サリディルボは頭を苦笑して撫でてやり、ダイマはストレッチの聞いた黒の膝丈を銀の釦で留め、白ビロードのソックスにフラットシューズを座面に乗せ長い両足を曲げていて、腰にかける銀のレリーフ獅子のつく装飾に手を掛け、伏せ気味の水色の目で前を見ていた。黒髪を長めに中わけでゆったりさせていて、袖がふわっとする白いブラウスの首下はルジク一族の紋章が銀で下げられている。
「甘い物なんかの変りにイタリア語教えてあげるよ」
「じゃあ甘い食べ物ってなんていうの?」
「甘い物は教えないって言ったじゃないか」
「意地悪だよエルザイー」
「ドルチェだよ。甘いは」
「教えてくれた」
そうエルザイにニッコリ笑って見上げ、エルザイも可笑しそうに笑った。
「泣いたから教えたわけじゃないよ。ビービー泣く奴が目の前にいると耳障りだし」
「びえええん!」
「この子ったら、五歳の子に」
「厳しさを教えているんです母上」
「う、それはどうだろう」
「アメリカの社交には行かないの?」
「リーデルライズンという街の事だね。今は疫病が蔓延しているから向かう事はで気無いんだ。時々非難しに貴族達はヨーロッパには来るんだが」
「何で流行ったの?」
「現在、無理な試みで森林を他の場所に移していてね。それを輸送船で他の国々に移植樹しているんだ。その事でその場所が変わって、加えてヨーロッパや南アメリカからの労働者が持ち込んだ疫病が蔓延した」
「ジルはこれ以上森を変えるのは反対しているんだ。街を造るために平地にしようとジルのお爺さんが始めたことなんだけれど、その事でジルいわく、天罰が下ったんだって。滅多にそんな事いえることじゃないけど、引き継いだジルの父上は床についていて」
「しっかり他の国に植えるのに?」
「それで新しくその国に森林や林が形成されたとしても、リーデルライズンにはそうじゃないだろう?」
「そうだよね。恐いね。僕が森の神に生まれてたらきっと叩き起こされた気がして、嵐起こすかも」
「森はその森のままが一番なんだって、全部ジルがそう言ってたよ」
「女の子? ジルって名前だけど」
「ジルは御曹司さ。九歳の。ジェーディーエルだけど」
「ジェーディーエルっていう名前なんだ!」
「JDLは社交名です」
「ジルが名前なんだ。ジルの父上、様態は大丈夫なのかな」
「ソルマンデというサナトリウムにいるらしいよ」
グラデルシは外の景色を眺め、水色の空と、遠くに続く森を見た。それはどこまでも続いている。
そしてラスーン一族の屋敷まで来た。
「レシャヒルだ」
「グラディー元気? 久し振り」
「元気だよ。久し振りレシャヒル」
「ダイマがいる!」
レシャヒルが走り逃げていき、ダイマは憮然と目を白い瞼に半分伏せさせ、そのまま母と共に歩いて行った。きっと、処々の理由で恐がられているのだろうと容易に想像できグラデルシは歩いて行く横顔を見上げた。銀紋章の上にしっかり黒ビロードの紐がチョウチョ結びで結ばれていてる上の顔は表情もなく進んで行った。
「ヴァッサーラって、スペインの石の城? 馬車で近くだけ通った事あったけど、何の貴族なの?」
「王家に仕えてるんだ」
「それは分かってるよ。サリディルボ卿優しいだろう」
「うん」
「エルザイは恐いだろう」
「うん」
「グラデルシって難しい名前だったんだねグラディー」
「うん」
「ダイマはもっと恐いんだ。だって何か考え方が子じゃないもん」
「もう十四は大人だ」
あちらからダイマが言い、グラデルシは言った。
「ダイマは排他主義なんだ」
「そうかもな」
そうココアを飲んでダイマがカップをおき、甘い物が嫌いなのでビターなココアだった。
「ああいうダイマに限って子供生まれたらすっごい可愛がるんだ。巨大なリボンもつけたりなんかし」
「ない」
「………」
グラデルシは肩を竦めさせて、おどけた。
「タンゴ踊っていいですか?」
サリディルボを見上げて、彼は頷いた。
グラデルシはソファーから開けた場に踊り出た。
楽しそうに踊りだす。背を伸ばし、まだたどたどしさもあるもののしっかりとした足取りで。レシャヒルも嬉しそうに加わって、グラデルシに足並みだとかを習っている。
「一緒に踊ろうよ」
ダイマは顔を反らした。
「開放的な気分じゃないんだって!」
「そうだよ」
初めて憮然としてダイマの横顔が頬を膨らめ、しばらくして加わった。
「何だよ社交ダンスとか以外でもすぐ何でも出来るんだね」
「五歳に出来て大人の僕に何が出来ないんだ」
「そんなの一杯あるよー」
「あーそー」
「アハハ! いじけた!」
何だかんだいっていつでもダイマは口で言い負かしてくる相手には不貞腐れるので、ルジク夫人もラスーン夫人も可笑しそうに微笑んだ。
それでも目許まで微笑んで楽しそうに踊っていて、複雑なステップで三人共仲良くしていた。
レシャヒルが転びかければダイマが腕を持ってそのままダイマにわざと足にグラデルシが突っ込み三人で転がったりして絨毯上でもみくちゃになって結局五歳児が元から三人いるように遊んでたりした。
「これからの旅路はこうだ。北海、ノルウェー海を行きアイスランドに行きラスタシアーラ一族に会い、後にノルウェー海からスカンジナビア半島に上がりノルウェーに来てソルドン家と。スウェーデンを渡り、その後はボスニア湾を越えてフィンランド社交に入る。
その後モスクワのに渡り軍人ムソン一族と会い、バルト海を行きポーランドで過ごし、ドイツに渡ると、北海からイギリスのデスタント一族に会い、それでフランスに戻りレスベダルダとセラーヌ一族にもてなされた後、スペインに戻る。サティエル公に旅の報告を会えた後に、ヴァッサーラ城だ」
エルザイに頷き、グラデルシは巨大な暗赤紫クッションに肘を乗せて地図を見てから、クリスタルの中の包囲磁石がキャンドルとランタンの灯を受け地図に光る影を落としていた。ダイマは青紫の巨大クッションに腕を枕に膝に足首を乗せていて、眠っているのか肉を考えているのか分からなかった。紅に金の打たれた天蓋のタッセルを揺らしながらグラデルシは蛇の様に両手で捻っていて、絨毯の上に置かれる小型の箱の中の寝台に、横這いになるエルザイは黄金の嵌る指でその上から指し示している。グラデルシの転がる足横に大きな地球儀が置かれていて、上には模型がピアノ線で吊るされていた。すぐ背後にあるボリュームある赤と金ビロードの一人掛けにはドン・サリが明日を組み座っていて丸い眼鏡を嵌め暗がりになる部分の顔は眠っている。その首からはネックレスの蛇が明りを受け、こげ茶に黒模様のカシミア織物を首から交差させていた。
グラデルシは、上目でエルザイを見つめた。
「………」
エルザイの白の詰襟下の灰色のスカーフの滑らかな光沢や、真珠の釦、黄金の指輪をなぞって、波打つ黒髪は腕に掛かり、そして鳶色の瞳をする顔立ちを見つめた。
エルザイはその今は黄金掛かる暖色を受ける頬の上の灰色の瞳を見て、その瞳は野性的に光っている。
「………」
自己の組む手の黄金に視線を落とし、エルザイは視線を無視するように背を預け白い枕に頭を預けた。
「もう眠りなさい」
それだけを言い、ナイトテーブル向こうの皮ボックスの上に腕を伸ばし本を置き、そして天蓋を下ろしてしまった。
グラデルシは甘えに行こうと地図を照らしていたキャンドルを消し、ヴェールをまくってから胴の上に頬を乗せ目を綴じた。暗闇の中エルザイは黒髪を撫で、目を綴じた。
「クシュン!」
目を開けてグラデルシがヴェールを捲くると、ダイマがグラデルシがいたクッションを片腕に抱えて背を上に自分のいる巨大クッションに埋もれて頬を乗せ黒髪を柔らかく眠っていて、くしゃみで目覚めたサリディルボが背にアンゴラを乗せてあげ、また背凭れに沈んで目を綴じ動かなくなった。
菜種油のランタンは徐々に銅支柱と硝子の中を消えて生き、グラデルシは薄れていく間際のエルザイの方を見た。濃密な影と灰色の色味と消え行く暖色の中見える銅を見ては、手の甲で上げていたヴェールを下ろした。
闇の中エルザイは目を開き、猟奇的な空気感を感じる。将来は、このグラデルシに食べられているのかもしれない……そうおぼろげに、頬に頬釣りして来る黒髪を撫でた。
理性を無くすな。そのリモルショーラの言葉が、グラデルシの中に回っていた。
食人に関するヴァッサーラの事をリモルショーラは分かっていて、連れて来られた自分がこれから食人をしていく場に来たと分かっていて、そういった言葉が、それだけじゃ無く魅了させられる全てもだろうかと思いながら、目を開いた。
波打つ黒髪を避け首筋に唇を埋めて、目を綴じた。
脳裏に甦る。
夜の覚醒は、時々ある事だった。
いつでも冷静だった。その時は自分は五歳じゃなかった。人の感覚でもない。ただただ、父の短刀を手に歩き、屋敷から出て歩き、美しい者を見上げると若者は微笑んで来た。
夜は酔っているものが多かった。微笑んで手を引き連れて行き、大体は金髪の若い男だった。いつでも特殊なお酒を屋敷の庭を来た離れの中で飲ませて、酔った所を短剣で切った。庭師が昔使ってた離れで、調理できた。頬の肉を切って、焼いて食べていた。ふくらはぎや、腕の肉。
三回あって、三度目に離れに来た人間に見つかった。
厚手の牛革カーテンで窓は明りを遮断していたが、フランパンで焼いていた時に煙が上がっていたからだ。
その日も食べながら、男の口にも焼いた肉を食べさせていた。美味しい? と微笑んで聴きながら。男は既に出血の関係で意識は朦朧として、金髪から覗く目でグラデルシをぼやけ見ていた。
金髪の若く美しい男は朦朧とし、意識は失われて行った。グラデルシはうねる黒髪から覗く灰色の巨大な横目で立ち上がりドアを開けた使用人を見て、ランタンの中、手から短剣を落とした。
妖児と叫び言われて、使用人が去っていき、そして両親はグラデルシを他所へ預けた。
暗闇の中で目を開き、エルザイの手を引き寄せて指を噛んだ。そのまま目を綴じる。
それでもエルザイに対して思う事は食人では無かった。
猟奇性のあるもっと他の感情だった。精神を狩りたい、と思うものだ。鋭い目線も、その態も、冷静な部分も。
船は時々音を響かせる。
厚手のビロードの垂れ幕で、外は見えなかった。静かに進んで行く。夜の凪のなかを。
エルザイは起き上がり、眠るグラデルシを抱き上げたまま個室を静かに出た。
ルジク夫人は隣りの部屋で眠っている。
歩いていき、チェンバロが置かれたリビングに来た。ドアを締め、鍵を掛けると歩いていき、壁際に来てそのソファーベンチに座り、厚い垂れ幕を引き上げ、夜の海と船体を見た。サイドの甲板通路は今は誰もいずに縄が巻かれる中を、月光が下りている。ランタンは灯っては揺れていた。幽玄に。
丸い窓の中、ぼやけた月光だが、星は鮮明だ。凪ぎを進んで行く船は一定の波を飛沫として与えている。
スコープを覗く水平が旗で問題の無い信号をあちらへ送る姿が向こうに見え、彼はカーテンを戻し、アームに背を預け空間を見た。
抱き上げているグラデルシは曲げたてる長い足の間に座り眠っていた。
寝言と共に目を覚まし、グラデルシはぼやけて顔を上げエルザイの横顔を見上げた。S字の支柱でクッションになるアームに背を預け、ルジク夫人が弾いてくれていたチェンバロを横顔は見ていた。
「女好きなんだね。浮気してばっかり」
そうグラデルシは言い、確かに社交後は貴婦人達と不倫ばかり影でするエルザイはグラデルシを見た。
「さあ。もう一人の私が、そうさせているのかな」
「もう一人のエルザイ?」
「どこかで同じ人間がいて、夜は同じ事をしているような、昼の私とは違うものがシンクロして、そうさせるのさ」
「言い訳でしょ」
「そう。言い訳だ。卿には内緒にな」
実際、双子のエルザイは兄がスペイン貴族の一人で、その彼のほうと来たらエルザイ知らぬ内にもギャンブルと女好きで、何度も結婚をしているとんだドンファン男だった。
エルザイは普段冷静で、厳しさもある。社交では夜、何かの魔が差しなるようになっているだけだ。
チェンバロの横にある黒と金枠の円卓セットをグラデルシは見ていて、頬を胸部に乗せていた視線を上げた。
「夜は魔物なんだ。昼では予想もしない心が目を醒ます。抑えられずに自分はしたがって、それで自己奴隷になって何処からか自分に操られて充たそうとするんだ。それでも罰を受けるのは僕だけ。エルザイも、罰を受けるときに僕で罰してあげる」
灰色の目を見て、猟奇的な光りが滑らかで、愛らしい頬を撫でた。そっと口付けし、離して瞳を見た。
「お前が大人になったらな」
包み込むような波の温かな声で、グラデルシは徐々に眠りに落ちて行った。
徐々に多くの氷山が見え始める。美しく真っ白の氷が、見上げるほど高い。一部を、月光に青く光らせて。
その間を慎重に進んで行った。
悠久から続く、氷の世界を。
「遠方よりわざわざお越し頂いて光栄にございます。さあ皆様」
アイスランドに来て、ラスタシアーラ一族に迎えられた。
「ソライレン様」
「お久し振りね。お元気だった?」
「はい。それはもうこの通り。船の長旅が無事に着いて何より」
ルジク夫人はラスタシアーラ一族から、イタリアのルジク一族に輿入れした女性だった。
「まあ! 大きくなってダイマ!」
そうソライレンの兄シェライダールの嫁が甥のダイマに微笑んだ。
「お久し振りです。夫人」
「本当、立派になったわね。嬉しいわ」
青い目に金髪のルジク夫人は白い狐の様な女性で美しい。スレンダーな身体に沿いグレーの美しい裾を広げるドレスの右腕に、黒ミンクのマフ、その縁筒の帽子を被り、そして首から銀の雪の結晶の大振りなペンダントを下げていた。黒いジェットのルジク紋章のブローチを左胸部につけている。人の目を盗んで、食後の船の廊下で海図の横、キスをしていたルジク夫人とエルザイをグラデルシは見ていて、彼女が微笑んでグラデルシを前に来させた。
「ごきげんよう。サリディルボ卿、エルザイ。先のスペインので宴では楽しい時を」
「ええ。こちらも」
「この子は我がヴァッサーラに入った子で、名はグラデルシ・ヴァッサーラという。グラデルシ、夫人に挨拶を」
「まあまあ可愛らしい。これからを宜しくグラデルシ」
「宜しくお願いします」
彼女は微笑み、彼等を促した。
「旦那は昼に帰って参りますのよ」
進んでいき、グラデルシは金髪の少年を見つけた。
「息子のラゾルフよ」
「僕はグラデルシです」
「こんにちは」
「十歳なの。お兄ちゃんだから優しくしてあげてね。ヴァッサーラの子よ」
「はい。母上」
青い目でラゾルフはグラデルシを見て、握手の手を離してから従兄弟でまた背が高くなっているダイマを見上げた。
「こんにちは。ダイマ」
「こんにちは」
なにやら一切表情の無い子で、グラデルシは、大丈夫だろうかと思いながら金髪少年を見ていた。感情の無いお利巧な人形のようだ。
母は上機嫌な人なのだが。ルジク夫人も朗らかな人だ。彼女の兄で、ラゾフルの夫であるラスタシアーラがそういう冷静な性格なのだろうか。ダイマもそうだし。
きっと二人でいたら会話が無いもしくは何かに互いに熱中していてその横でラゾルフは人形の様に椅子に座っているのかもしれない。
やはりラゾルフは口を開かなかった。
ラゾルフは金髪がふわふわしていてカールしていて、そして首下でシャツにネクタイを嵌めていた。水紫色だ。そのネクタイの下部に黒い星で止めていて、それから銀の細いチェーンがポケットに続き、黒いプレートだろう、それと繋がっている。黒い細身の膝丈で、素足が出ていて真っ白だ。ボワのついたシューズを履いている。横には毛皮のコートを持っていて、それは黒だった。夫人は白い。ダイマは内側が羊毛で外側は灰色のラム皮のロング外套を今も着て黒のとめ具だ。、首にぐるぐるに黒の毛皮を巻いて、横で銀の獅子顔で留めていた。グラデルシは厚手で綿が中身に入っている群青ビロードの外套で、黒い羊毛ボワがついていた。金糸のとめ具も。
馬車の中、気になって見ていた。夫人の横に座っていて、今はダイマがグラデルシの横にいて、四名で馬車を進んでいる。
昼食を外で食べるという事で、そこに旦那も来る。
「アイスランドは初めて?」
「はい。静かな街並で綺麗」
「ふふ。そうでしょう。あなたはスペインのどちらの出身?」
「南アメリカです。アルゼンチン人」
「まあ。アルゼンチンからいらしたの。ヴァッサーラはもう慣れたの?」
「これから少しずつ慣れていきます。二週間前にお城に入りました」
「それは忙しいあいさつ回りね。よくお顔は覚えたわよ可愛い坊や」
褒められたのでグラデルシはニコッと笑い、可笑しそうに横のダイマが笑い、小鳥がピーピーと車窓を掛けて行った。
窓の景色から顔を向けたダイマを見て、グラデルシが言った。
「ダイマもよく景色が馴染んでるよ」
「それはどうも」
馬車は進んでいき、ラゾルフはやはり喋らなかった。
「この子、まだスペイン語は挨拶と聞き取りだけしか出来ないの。普段は普通に喋る子よ。言葉を教えてやってね」
「はい」
ラゾルフにニッコリ笑い、ラゾルフもようやくニコッと笑った。
「僕が会話の通訳をしてあげるよ。イタリア語経由で」
「凄いね。何ヶ国語喋れるのダイマ」
「十」
「十?! 何と何と何と何と何と何と何と何と何と何と何と何が喋れるの?」
「十ヶ国語だって言ったじゃないか。十二ヶ国語も喋れるような怪物じゃないよ」
「律儀な……」
ずっと「何と」を狂った様に繰り返しつづけていたのでその横顔を見てラゾルフは口を抑えくすくす笑い、何かをぺらぺらぺらっと喋った。
「グラデルシは口が紐で繋がれてバネがついたカラクリ人形みたいだねって言ってるよ」
「グラデルシは歩く時の足並みも猫の様に軽快だけれどお口の方もそなのねと言っているの」
「僕ダイマを信じられない病に冒されそうだよ」
「口はboccaだよ。紐はcorda。バネはmollaで、操り人形はmarionetta。名詞は分かった? 繋がるがlegarsiだよ。legarsi a bocca e corba、それと、anche molla! 何て言ったかもう分かっただろう? 復唱してみるんだグラデルシ」
「うん。legarsi a bocca e corda anche molla。口が紐とバネにまで繋がっている」
「じゃあグラデルシは?」
「操り人形……」
「頭が偉いな。グラデルシは」
「そんな事言ってると、ダイマこそに人形みたいな子孫がころころたっくさん生まれて来るんだ。この一連の事を略していいよ夫人」
「ふ、この子達は」
それをまたラゾルフに訳していて、自分の子供や孫に人形が産まれて来るという所の「人形」だけを声を大にしてダイマが「類稀なる秀才」と言っていた。
「え? 何て言ったの?」
「秀才だよ。persona d'ingegno」
「あ。僕のことが? やっぱり分かる?」
「グラデルシのことならお調子者っていうスペイン語がしっかりあるじゃないか」
訳す母の言葉でラゾルフがくすくす笑っていて、グラデルシが言った。
「僕はお調子者だけど、確かに秀才でもあるよ」
ラゾルフが笑っていて、グラデルシは良かったと思った。きっとずっと通じなくて口を閉じたままの人形のようだったら、ラゾルフは夜におなかをうんうん痛めていたかもしれないと思ったからだ。
誰もが小さな自分にスペイン語で話してくれるので、自分も大人になるまでに何ヶ国語も話せる様に日々練習しようと思ったのだった。
「十ヶ国語の内容って?」
「忘れた」
「まただ!」
グラデルシは頭を抱え、倒れ込んだ。
実際、母の母国語と自己の母国語以外の十ヶ国語で、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、ドイツ語、ノルウェー語、スウェーデン語、フィンランド語、ポーランド語、ロシア語、英語だった。社交の関係でもその国に向かうことがあるので、語学に掛けても勉強をしていて、恐ろしい程の習得悩をしているダイマは、いきなりイディッシュ語にも興味を持ちはじめていて数学的で目の仇にされ易いユダヤ人の考え方というものを理解してみようかなとしていたりもする。
第一、ダイマはいつもこんなに打ち解けた会話もしなければそうは冗談も言わない性格だ。移動を繰り返すグラデルシを混乱させようと目論んでいる、ように思えるが、こういうほうが頭の回転が移動と共に回って人の顔もどんどん覚えていくものだ。
社交巡りから帰り、サティエル公への挨拶を終えると、ようやくヴァッサーラ城へ帰った。
その時には三ヶ月経過していて、六歳の年齢になっていた。
レスベダルダとセラーヌの両一族がその宴を催してくれたのだった。
二センチほど背が伸びているグラデルシは、姿鏡で烙印の捺された腰を見て、唇を突き出した。既に焼印がスタンドカラーの黒シルクとパンツに、ビロードの膝丈を着て、急いで城内を走って行った。
エルザイの部屋の扉を上げた。
「不躾な」
驚いたエルザイがざっと振り返りグラデルシを見て、グラデルシは肩をすくめながら、それでも旅着から着替えていたパンツ上の腰に、何も無かったから唇を突き出し歩いて行った。唇を突き出したまま言うので鳥のようだった。
「僕だけ焼印」
「消えただけだ。お前も、今に成長と共に痕も消えるだろう」
そう履いていたパンツを椅子の背に置き、黒くビロードのパンツを手にした。グラデルシは今は髪を縛っている背を見て、ソファーに座った。
「凄い鍛えてるんだね」
「剣術もフェンシングも護身術も、覚えなければならないからな。サリディルボ卿と来たら……」
「え。もうムッキムキなの?」
「どうだろうな」
「僕もムッキムキになるのかな」
「体質で出て来るだけだ。個人差はある」
着替えを済ませると、髪を下ろし整えてから指にあの黄金を嵌めた。
渋いのでその態に見惚れていたグラデルシは、頬杖をついていた背を伸ばした。
「いきなり開けてしまってごめんなさい」
「次回からはしっかりメリハリを付けるように」
「はい」
「それで、どうしたんだ。駆け込み寺では無いんだが」
「色々な言語はいつから習えるの?」
「今からでもいい。躾やルール、しきたり、教養を午前中に。午後には護身術や剣術だ。その後に勉強をつける」
「はい」
「地下の書籍所に多くが揃っている。古い本なので、どれも大事に扱うんだ」
「はい」
「今日は旅も終えて落ち着きたいだろう。ゆっくりしなさい」
「わかりました」
グラデルシは出て行き、エルザイは書斎机に置かれていた懐中時計を手にしてから、ポケットに仕舞い、横から顔を向け扉を見た。
「………」
袷から手を離し、ドアに背を向け書斎机側に向き、ビリジアンビロードで金トリミングのカーテンがサイドと上部に金のタッセルでねじりまとめられている先の窓の先を見た。
暗がりの石で囲われた通路が続き、下の暗い間口は少しの気配をさせ、そして兵士が来ては歩いて行く。奥の方へと。
突き当たりのぽっかり開いた間口へ進み、銀のすね当ても見えなくなり、黒のマントも闇に飲み込まれていった。
その上の角張る棟は屋上の上にヴァッサーラの旗が白水色の空にはためいている。黒に、金で三匹が尾を追う形で尻尾を加え渦を巻き、胴を中ほどに幾何学に渦巻かせている蛇の旗だ。
「………」
身を颯爽と返し、歩いて行った。
本殿を進んでいき、通路を歩き、ドア前に来た。
トントン
「はい。いいです」
鎧戸を開けると、グラデルシが鼻歌で背筋良く軽快に足並みをステップさせ腰を捻ったり、回転したり、移動したりをしていた。
楽しそうに笑顔で足先を見て。
エルザイは俯いていた顔立ちが目を開きながら顔を上げ、その強烈な鳶色の瞳に、灰色の瞳を震わせ頭痛がしてきた。
指輪の嵌る手で逆側の髪を耳に掛け、その手でグラデルシの金のペンダントを手にして、既にグラデルシは震えていた。その睫の多い鳶色の視線を落としている瞼をずっと見ていた。
頭領の座を奪われるという感情、それを感じ取った。
「僕を殺すの?」
「……そうじゃない。不躾に失礼」
エルザイは体ごと顔をそらし、出て行った。
グラデルシは窓を見て台に足を掛け、窓を開けてからそのまま外に出た。四角い芝の中心で、抱える膝に額を付け目を綴じて、座りつづけていた。ずっと。
その黒い服の彼を空を流れる雲が、影で撫でて行った。
すぐの事で、掛け声に顔を上げ、その声と激しく石を音弾き立て続けに響いた蹄の音に、見回してから本殿の屋上に立っている兵士を目を眩しさに細め見上げ手を翳した。その影の中の灰色の目は光っている。
「さっきのはエルザイ? そこから見える?」
「エルザイ様は今しがた東の方向へ向かわれた」
そう低い声が言い、微かに空を映す甲冑を見ていてグラデルシは頷き、またその場に座ろうと思ったものの、寝ころがって目を綴じた。
エルザイは馬を鞭払い走らせながら、ようやく森の中の河川まで来ると水飛沫を上げ越えていき走らせ進み、種類の違う木々が立ち始めては歩かせ進んでいき、ステップに来ると馬を下りた。首を撫でてから離れ、木を見上げると手と足を掛け太い枝に飛び乗った。
葉に隠れ立てた片膝に肘を掛けては溜息を付き、ベルレドンの次男が意地悪にも微笑み言ってきた、心して、という言葉に、首をやれやれ振り目を綴じた。
「何をしている?」
濃い葉の連なるカーテン先を見下ろし、自己の馬に他の馬が挨拶を交わしながら並び、その上に乗るイデカロを見た。
「別に楽しい事では無い」
猟奇的食人者のイデカロが鋭く微笑むと馬を大人しくさせ、葉陰の先で波打つ黒髪に今も艶を打たせ、顔を反らした横顔を見ては笑った。
「子供のようだ」
イデカロがそう言い、腰に下げる剣の方向を変えてから馬を一度回らせて肩越しに言った。
「あの小僧は」
そして向き直り、そちらをエルザイは見た。
「食人種に加えて妖児のようだが」
「ああ」
「どう成長するやら」
「さあ。心して教育していくさ」
「それはそれは心して打ち込むように」
「しっかりとな」
イデカロは低く笑いながら背を向け、馬を歩かせ去って行った。
エルザイは腕を枕に目を綴じた。
始めの二ヶ月は厳しい中を頑張っていたのだが、グラデルシは四つん這いになりながら頭に荷物をくくりつけ、身を屈めながら逃げて行く真っ最中だった。
石の不気味な夜の通路に、先を兵士が進んで行く。
顔を引っ込め、しばらく待っていた。
「………」
サリディルボは地下からラム皮の巻物を三本、牛革と紐でまとめ腕にして進んでいては、怪しい姿を見かけた。
鉄の棒に脂を灯してあるL字角の壁側に、四つん這いで頭に何か丸い物体を乗せている子供がいて、様子をちらちら窺っている背だ。
その子供は何やら横顔の灰色の瞳を灯に光らせていて、奥の様子を見ている。
あれは自己も子供時代にしていたような、城の幽霊を探そうとしているまじないの格好なのか、それとも兵士を四足で駆けて思い切り転がそうと心見て来た日々の幻なのか、それとも自己を飼育されているペットに見立てては動物的身体能力を身につけようと躍起になっていたのだと激しく言いきかせて聞かせてきていた今や冷静一徹なエルザイの子供時代を自然的にあのエルザイから読み取り自己もしてみている真っ最中のグラデルシなのか、それとも、まさかこの城からしめしめ逃げ出そうとしている未来のタンゴダンサーの名士の姿なのか……。
真後ろまでそう思いながらも歩き進めていたサリディルボ卿は、その背を見下ろし、ゆらゆらと二人の影が並び背後の通路に伸びていた。
「誰もいない……」
そうグラデルシは呟き、そしてわざわざ膝に痣も作りたく無いのだろう、膝も上げて手の平とつま先だけで腰を突き上げ手で足で、こちらも目を丸くするほどの格好で進んで行き、そのすぐ背後をサリディルボも歩いて行っていた。
そしてこの通路中ほどにあるT字の部分まで、まるでカラクリ人形かのようにその四足で不気味にバタバタとしかも高速に進んで行き、サリディルボは眉を笑わせ潜め堪えながら見ては、そして角でまた険しい顔で顔を覗かせているグラデルシの背後まで来た。
頭の中の径路は一体どうなっているのか、しっかりとこの二ヶ月間で組みでもして何度も頭で訓練しているのか、何はともあれ頭の上の荷が進んだ内にグラグラ揺れたおかげで、グルンと顎の方まで落ちぶら下がって行き、それでもまるで子猫をくわえる猫の様に顎下に釣る下げたまま、しばらくはそのT字の先にある間口や、その上のエルザイの部屋窓でも覗っているようだった。
サリディルボもその上から顔を覗かせ覗ってやり、エルザイの部屋は黄色くキャンドルの明りが付いていた。書斎に向かっているわけでもなく窓際には見えずに、影が伸び移動していては、視線を落とすとグラデルシは頭を引っ込めたり出したりをしていて、真っ直ぐにこのまま進んできっとこの塔の中の兵士達の部屋がある方向の突き当たりにある小さな明り取りから夜の森にでも逃げ出そうと考えているのだろう。
「!!」
グラデルシはハッと険しく肩越しに顔を上げ、サリディルボも視線を落とした。
「ドドド、」
グラデルシは顎に重い荷をつけたままよろめき立ち上がり、サリディルボは口を震える前に引き締めグラデルシを見た。冷静な目を装い。
今回はどう言って来るのやら。
「これはドン・サリ。ごきげんよう。今日の星はまるで卿の為に輝いているような美しさで」
社交言葉で切り出してきた。これはまた新しい。
「それで僕は、あまりに美しいから、城に梯子でもかけて」
と、胴を向け一歩一歩逃げ腰になりながら言っている。
「それでデネブあたりの星を採って来たら、妹にでも上げてこようかなーと……」
妹はグラデルシにはいないのだが。
「思っているんだけれど……、……もう逃げまーす!!」
そう言い、一気に走り逃げて行った。
「衛兵!!」
手をザッと広げ、兵士が置くから走って来てはキャーと叫ぶグラデルシが手に荷を持ち星の下の通路を走っていて、エルザイが浴室から出て着替えていた顔を窓からのぞかせ、一気に窓を開け放ちグラデルシの前に飛び降り立ち、兵士が黒いマントを引き上げてからエルザイを見て、下がって行った。
グラデルシは逃げ場を探していて、エルザイは一度歩いてくるサリディルボを見てから、グラデルシを見た。
「グラデルシ」
「は、あはい」
声が裏返っていて、グラデルシは足並みをうろうろとそれでも滑らかな動きで動かしうろたえていた。
エルザイは可笑しそうに笑いかけて、手に掴んでいた黒のローブを、黒のスラックスにブーツだが上半身は裸の装いに腕を通してから、この所はずっときびしくしっかりと当っているので、自分もした様に逃げ出そうとでも目論んでいるのだろう、灰色の目を見た。
「もう出て行きたいのか。それならば、出て行けばいい」
そういうときに限って、森の獣が吠えていて元気に走り回っているのだろう、忙しなく行き来している声が夜空に響いている。
「いいえ! 逃げません!」
そう裏返ったままの声で言い、グラデルシは荷をエルザイに預け、きびきびと兵士の間を進んで行った。
「おやすみなさいサリディルボ卿エルザイ。いい夢を」
角できびきびと進み、兵士がついて行く姿が見えなくなると、残った兵士が噴出し笑い、すぐに戻って見え無い顔のまま敬礼し歩いて行った。
サリディルボは可笑しそうにやれやれ笑い、エルザイも可笑しくてグラデルシの荷を持ったまま角を見ていた。
「明日には息抜きをさせます」
「ああ。それか、今からスコープでももって屋上に上がり、二人で天体観測でもしてきなさい」
「はい。八時の時間になるまでは」
全く、八時半には眠りにつく子供の年齢で、この時間に出て行ってどこで寝床を構える前に眠り倒れるつもりでいたのやら。
エルザイはしっかり装いも身につけると、落ち込んでいるグラデルシを連れて歩いて行った。
屋上への道は初めて上がらせるので、グラデルシは階段を見回し始めていた。
間口からは満天の星空が覗き始めていて、美しく四角い闇の切り抜きに、白い光を伸ばしている。鮮明にくっきりと。
黒の陰と白い星光の中をゆらゆらと陰が進んで行き、屋上に出た。
四角い屋上は、兵士達が二名、旗を中心にして角に立ち様子を見ている。
エルザイは兵士達を下がらせ、彼等も階段を下りて行った。
見渡すと、その夜の景色の水源の様な美しさに、グラデルシは満面に笑んでいた。
流れる河は鮮やかに星光りと月光に黄緑に照らされたエメラルドのような原に囲まれ、深い色味のサファイアかのように静かに、だが魅惑的に煌き輝きゆるやかに流れて行っては向こうの明るい葉色の林へとキラキラと飲み込まれていく。その広大な林の先に、深く濃い色の森が遠くまで広がっていては、そして河を越えた向こうには延々と森が続いている。果てしなく。
それらが星光りに撫でられるように光っていて、そしてまるで地上でも葉色の数多の星のようにさせている。
林の先には場末の地帯があり、そちらは多少暖色のキャンドルの明りが灯っている様が微かにのぞめた。
背後を見渡すと、はるか森と原の向こう、河が流れて来ている先に、巨大な城が遠くにあった。山々にもっと遥か遠方をのぞませ、星光りをその稜線の際で強くして、そしてその王家の城の陰は、今は月光に城壁を光らせていた。
夜は風がどうやらあちらのほうでは吹き流れているようで、旗の陰は光沢を月光に受けゆったりとはためいていて、そしてゆったりと月光は光の細波を受け草原を豊かに風で撫でられ光らせていた。
夜空の星を見上げた。
圧巻させられる程に美しかった。
「凄い! 綺麗」
グラデルシはうっとりとし、灰色の目で見渡した。
そして星座の形で星と星が線で連なって行き、そして星座の古い本で友人達みんなと見た繊細な神話の華麗なる者達や生き物が、夜空に銀色色に星と群青を透かし現れては、光沢を受けヴェールや髪をはためかせ、頬を光らせたり、毛並みを美しく艶めかせたり筋肉を隆々とさせたりしては夜空を舞台に優美に、猛々しく、翼を持つ者はゆったりとはばたき動いている。瞳を艶めかせ。全ては魅惑の幻想の中で、そしてきらきらと強い星たちの光で遥か先まで続いていた四次元にも繋がる幻の者達は夜空の群青に溶け込んで行き、そして銀や金、様々な色の星星に輝きを崇高な光りとして秘めて、夜空を限りなく満天の星で美装している。
美しい。とても美しい。
エルザイは外套の袂からスコープを出し、グラデルシは自分のこの小さな頭でもハンマーでかち割ってこようとでもしているのかと思い目を丸く見上げたが、アンティークな古めかしいスコープだった。
「驚いた。脳味噌食べられると思った」
「ハハ。まあ、見て見なさい」
そう言い、スコープを手渡しながら石の地面に座らせた。
「星座を観測しよう」
エルザイはそう微笑み、この所は笑顔も無く冷徹で恐かったので、安堵としてグラデルシも笑った。
外套を広げ肩を引き寄せ包み、髪に一度頬を乗せてから、立てた長い足の間に入らせ据わらせた。
グラデルシは肩越しに笑って見上げてからマントと長い腕に包まれ、スコープを覗いて夜空を見上げた。
エルザイは黒髪を微笑み見て撫でながら、自分も夜空を見上げた。
どうやら、サリディルボ卿自身はというと、エルザイの聞いた話では逃げ出すたびに前の頭領にとっ捕まってこの屋上のポールに括り付けられその上凶暴な犬まで放られ恐い目に遭わせられて来たものだと打ち明けられた話もあったので、その時は軽く言ってきていて苦笑して聞いていたが、自分の場合はよく気分を落ち着かせたいときや寂しい時にしょっちゅう少年時代は膝を抱えてここから星を見上げていた。
サリディルボ卿の場合は、先代は前王朝時代のヴァッサーラ頭領の教えを得てきた代の頭領が教えをサリディルボに叩き込んできていた為に、どうやら何度も精神を壊して狂わされてきた想い出がいっぱい城には詰まっているそうだ。あの穏やかな風の性格の卿なので、今では遠い昔の思い出のように軽く話しているのだが。
エルザイの場合は、その前王朝時代のヴァッサーラの恐ろしいまでのしきたりは厳しく叩きつけられる事は無かったから助かったものだ。刃向かえば体の一部も失っていた程の厳罰を処される事もあったという。サリディルボの場合はそれは無かったようだ。
前頭領は長い黒髪の女性だったそうで、それもサリディルボが助かっていた要因だったのだろう。
それでも、やはり恐ろしい程冷酷だったことには変わりなかった。サリディルボは雁字搦めの中を石のように生きて来たのだった。
とはいえ、やはり年齢は重ねる物で、彼の落ち着き払った穏やかさは内に冷静な厳しさも秘め、沈着な者とさせていた。
歴代の頭領達は王宮の画家が代々カンバスに描いてきていた。うら若き時分の前女頭領の油絵は、ミステリアスなその美貌にエルザイも少年時代は一目惚れしていた。黒ビロードと黒毛皮のドレスを纏った魅惑の女性は、暗褐色の闇の背景を下方を明りで白くさせ、黒髪は光沢があり、額上の髪に飾りをつけていて、首からは滑らかに光る蛇のペンダントを。そして、ゆったりと白く滑らかな手腕を沿わせ膝に美しい手を添えおき、丸い腰元には金縁の黒い何段にもなるリボンをつけさせていた。
透き通る白の肌は、頬も薔薇色で、唇は赤がさし、そして愛らしささえ根強い目許は細面の顔立ちに均等の美を与えていたが、やはりそこはかとない怜悧な妖艶さが彼女にはあった。耳からかける薄い金ピアス加工の大振りの耳飾も、髪のゆったりする角度も、美しかった。
その彼女が歩き進む姿はそれは美しかったと言うものの、それが無ければ、自分はきっと短剣で喉を刺して部屋で自害していただろうともサリディルボは言っていた。
ヴァッサーラの代替は、代々は新しい頭領がその前頭領の身体を儀式のうちに食してきた。
だが、それをサリディルボはしなかった。
美しく長い白髪を銀の櫛で整えさせ、そして美しい光沢の黒のビロードドレスを纏わせ、ヴァッサーラの霊廟の石棺の中に並べさせ納めさせた。
もしもエルザイが、もしくはグラデルシが頭領になる時に、自己の身体を食するか、どうするのかは彼等の意志に任せることをエルザイには伝えていた。
満天の星に様々な思いをエルザイはめぐらせていて、ふと顔を下げた。
グラデルシはマントの中で肩を預けてきて胴に腕を回してきて、横顔は目を閉ざしていた。
「眠くなったのか」
グラデルシは頷き、夜の風が冷たいものに変わり始めた中を、遥か向こうの城の方では、左翼側塔から、こちらの兵士に伝える八時の時間を示す明りと、異常の無い信号を明りで送って来ては、また明りが消えて行った。
「グラデルシ」
すでにうとうとしているグラデルシは、横顔を頷かせていた。
「そろそろ眠ろう」
グラデルシは頷き、ゆっくりエルザイは立ち上がらせた。今日は逃亡し様と頭をめぐらせていて疲れたのだろう。うとうとするグラデルシを促しながら屋上を歩きすすめさせ、目をしっかり開かせ階段を下りさせて行った。
兵士達に、王宮からの異常の無かった信号を伝えてから、再び上に上がらせ歩いて行った。
あの鎧は冬季には内側が毛皮で覆われている。今の時期はそうでは無いのだが。動物真似をして突っ込んで行った時にそれは分かっていた事だった。兵士に子供時代のエルザイはこっぴどく叱られたのだが。
グラデルシを部屋まで送り届け、ベッドに入らせた。
胴に抱き着いて来て、そのまま眠りに落ちたグラデルシの指を背後の腰で解かせていき、しっかり横たえさせてから布団を掛け、髪を撫でてからキャンドルを消した。
その時だ。その暗がりになった事で、もう一人のエルザイが目を覚ましかけたのは。月光が開けられた鎧戸の窓から伸び照らし、まるで星さえ映すかのような鮮明さの中、頬を手の甲で撫でていた表情の無い色香の目許が、眠る横顔を見ていた。
だが、そのまま組んでいた脚を解き、鎧戸も閉め暗闇の部屋を出て行った。
静かに締め、廊下を帰って行く。
グラデルシは夢にも引き込んで美しい星の夢を見ていた。
星星に彼は取り囲まれ、そして白馬の背に自分はのり満天の星の中を駆けていた。周りにも、下方にも、星が浮いている。
ダイヤモンドの如く光っている。一粒一粒が。
そして、柔らかな黄金の月が遥か頭上の星の群生の上のほうに挙っていた。
滑らかな光をうけて、黄金は満月に光り、そしてダイヤモンドの星星を黄金の光へと変えていった。
闇のシルクの夜の中を。
グラデルシは幸せになり、蛇座がうねっては弧を描いたりしながら黄金色に空でヴァッサーラの蛇の形態を成し、そして解かれうねり鱗を黄金に光らせ滑って行き、遥か下方の黄緑を目を細め見つめた。
大人になれば落ち着くだろう。いまはそれまでの足がかりの時期だ。身につければ、物事は落ち着きを取り始め常識化される時間が来る。今はしきたりを学ぶ中に生きる時期だ。乗り越えよう……。
深い眠りへと、黄金の粒子がさらさらと流れ落ちて行く中を、徐々に夢の無い帳へと意識は落ちて行った。