<9>
その時、遠くから子供たちの悲鳴が響いた。
突然のことに動きが止まったヒューとは反対に、ルイーズはきびすを返して風のように一気に納屋を飛び出していく。
「ルイーズ!」
「ヒューは来るな! 君を狙っている奴かもしれない」
ルイーズの姿はすぐに納屋の外に消えた。
「ルイーズ!」
「じっとしてろ、ヒュー!」
ルイーズの声が遠くなっていく。彼女は一瞬たりとも動じない。
立ち尽くしていると視界が微かに揺れているのに気がついた。
膝ががくがくと震えている。そんな自分が情けなく、唇を噛む。
今まで発明家として、普通に生きてきたから、こんな状況に陥ったことはない。
命を狙われているのは、ただでさえ怖くて、リッツやアンナも疑ってきた。出来ることならば安全なところで好きなことだけをしていたい。
でも、それでいいのか?
ヒューは顔を上げた。納屋の入り口からは、いつも通り切り取ったような青空が見えている。
その青空の下で、子供たちがヒューに笑顔を向けて隼を飛ばしていた姿が重なる。
死ぬのは嫌だ。
でもあの子たちやルイーズに何かあったらもっと怖い。
どうする、どうしよう、どうしたら……。
葛藤していたヒューはギュッと拳を握りしめた。何が出来るか分からないけれど、とにかくルイーズを追いかけよう。
出来ることを出来る限りやるしか、自分が後悔しない道がない。
ヒューは棚を見て、一番大きな工具を取り出した。翼の組み木を打ち込むために使っていた、柄が一メートル以上ある、大きな木槌だ。
重さによろめきながらも、ヒューは木槌を半ば引きずるような形で納屋を飛び出す。
すると目の前の光景に言葉を失った。
子供たちはかなり離れた場所で、数人の男たちの手によって馬車に押し込まれている。そしてその馬車は既に子供を引きずるように走り出していた。
「止まれ! 誘拐犯!」
ルイーズはその馬車に向かって、必死で駆けてゆく。でも馬車は速度を徐々に増し始めていて、ルイーズの足でも到底間に合いそうにない。
「エディ! シャス!」
大声で二人を呼ぶルイーズに子供たちが気がついた。弟のシャスがルイーズに向かって、叫び声を上げた。
「助けて、姉様ぁ!」
「シャス! 待っていろ!」
ルイーズの必死の言葉に、エディが身を乗り出した。
「駄目だ! 姉様は来ないで!」
「エディ!」
「姉様は来ちゃ駄目だ!」
エディはそう叫ぶと、シャスだけは逃がそうと、数人の大人たちに取り押さえられながらも、必死の抵抗をしている。
「シャス! お前だけでも……っ!」
渾身の力を込めたエディの蹴りも、男たちには通用しないようだった。屈強な男たちは、暴れ回るエディの腹を殴った。エディが、ぐったりと馬車に引き込まれる。
「エディ!」
「うわぁぁぁ、兄さん!」
叫んだシャスも、次の瞬間にはぐったりと男の腕に崩れ落ちた。
「シャス!」
馬車がどんどん速度を上げていく。このまま追っても絶対に追いつかない。
「……エディっ! シャスっ!」
ルイーズの叫び声をあざ笑うかのように二人を運び込んだ馬車は、視界から消え去りつつあった。
「待て! 二人を返せ!」
叫ぶルイーズの声も空しく、馬車は遠ざかる。人の足では追いつくことなど出来ない。
ヒューの足は完全に止まっていた。今までの生活からは想像のつかない恐ろしい光景に、動くことも出来ない。立ち尽くすだけのヒューの元に、ルイーズが駆け戻ってきた。
「ヒュー、しっかりしろ、ヒュー」
肩を掴んで揺すられて、ヒューは我に返る。
「ルイーズ……子供たちは……」
「取り返すさ!」
力強くルイーズは断言した。
「え?」
相手はあんな風に屈強そうな男たちだったのに?
「リッツたちが帰ってくるまで待った方が……」
おずおずと提案したが、ルイーズは即座に却下した。
「駄目だ」
「どうして?」
「決まっているだろ。子供たちに怖い思いをさせておけない」
「だけど危険だ!」
「危険でも何でも、やらなくてはならない時がある!」
決意に満ちたルイーズの顔を見ても、ヒューは彼女のように毅然としていられない。
ただただ親しくしていた子供たちが攫われたという現実に、怯えているだけだ。
ルイーズのような勇気と決断力はヒューの中にはない。
押し黙り俯いたヒューは、再びルイーズに肩を揺すられた。その指の力強さに、ルイーズの決意が表れていた。
「ルイーズ?」
「呆けている場合か! 馬を貸せ!」
「馬?」
「そうだ。いるのだろう?」
ヒューはぼんやりと思い出しながら頷く。確かランドルフの馬とヘルマンの馬車、それから連絡用に予備の馬がいたはずだ。
「……厩舎に数頭……」
「借りた!」
一言叫ぶと、ルイーズは疾風のごとく駆けだしていき、ほんの一時で、馬に跨がって戻ってきた。金の髪をなびかせた、馬上のルイーズは気高く美しい。
「ヒュー! リッツと姉様に何があったか伝えてくれ」
命じられて呆然とルイーズを見上げた。
「え?」
「私は奴らを追う」
「一人で?」
「ああ時間がない、見失っては元も子もないからな」
ルイーズは馬車が消えた方向へと目をやった。もう既に馬車の姿は視界にない。
だがこの街道はシアーズへ抜ける一本道だ。シアーズの大門の前で、三方向に道が分かれるから、それまでに追いつけば後を追える。
だが後を追えたからどうだというのだ。彼らにルイーズ一人で戦いを挑むというのか?
そんなの絶対に無理だ。ルイーズは剣を使うようだが、女の子じゃないか。
「ルイーズ! 無茶だ!」
「無茶だろうが何だろうが、彼らは私の友達だ。私はどんなことがあっても友を見捨てない!」
真っ直ぐにヒューを見据えたアメジストの瞳は、怒りの炎で燃え上がり、ぎらぎらと輝いている。
まるで敵を見据えた猛禽類のように鋭い眼差しだ。
「だけどエディは来るなって言ってたじゃないか!」
「友が私の危険を案じるからと、私はのうのうとここにとどまるのか? そんなのは可笑しいだろう? 私も奴らの危険を案じているのだからな!」
分かったような分からないような理屈だ。
ヒューはどう言ったら彼女を止められるのか分からずに、馬上のルイーズを見つめた。
「せめてアンナたちが帰るのを待てないの?」
「待てない。見失うと言っているだろう」
「だけど危険だ。子供たちも心配だけど、君に何かあったら絶対に嫌だ!」
ルイーズの瞳に気後れしつつも真っ直ぐに見つめ返すと、ルイーズは唇を緩めた。
「心配してくれるのか、私を?」
「当たり前だ!」
「どうして?」
「どうしてって……友達だからだ!」
まさか好きだからとも言えない。きっぱりとそう言うと、ルイーズは嬉しそうに笑った。
「そうか。友達か」
「そうだよ!」
「ならば私を止めるな」
「え……?」
きっぱりと制されて、ヒューは言葉を失う。
「私は絶対に友を見捨てないといったろう? 最善の手段は、私が後を追い、あの子たちに危害を加えられないように時間稼ぎをする事だ。その間に、リッツと姉様に乗り込んで貰う」
「どうやって?」
「私には奥の手がある」
そういうとルイーズは少年のようにいたずらな笑みを浮かべて、片目を閉じた。
戸惑うヒューの前でルイーズは再び表情を引き締める。
「子供を誘拐するのは相手が焦れているってことだ。事件はきっと大詰めなんだ。リッツたちはそれを分かっているはずだ。助けに来るのにそう時間もかからないさ」
「だけどルイーズ!」
「私自身を心配してくれてありがとう、ヒュー」
謎の言葉残して、ルイーズは最高に綺麗な笑顔を浮かべた。
「ルイーズ!」
「後の説明は頼んだぞ!」
馬は瞬間的に速度を上げ、馬車が消えた方角へと走り去っていく。ものすごい早さだ。これならば追いつくかも知れない。
でも相手は多勢で、ルイーズは一人だ。
助けに行きたい。
でもヒューは足手まといにしかならない。剣どころか武器を持ったことすらない。馬にだって乗れないし、ルイーズの助けになることは何一つ出来ない。
発明家はこんな時に無力だ。
「くそっ……」
ハヤブサが自在に空を飛べれば、彼女を追いかけることが出来るのに。
「うわああああああああっ!」
腹立ちを声に変えて、ヒューは空に向かって叫んだ。
何も出来ない。
いや、何も出来なかった。
「どうしたの、ヒュー?」
優しい声に振り返ると、前掛けで手を拭きながらマルティナが現れた。何一つ異変に気がついている様子はない。
マルティナはヒューの顔を見て、驚いたように目を見張った。
「ヒュー? 泣いてるの、ヒュー?」
「マルティナ……」
悔し涙で事情を説明すると、上品な老婦人のマルティナは、一瞬にして表情を引き締めた。
「了解したわ。さあ、食事にいらっしゃい」
「え……?」
「いいから」
マルティナに力強く手首を掴まれ、抗うことも出来ず、手を引かれて食堂に連れて行かれる。
そこにはランドルフ、ヘルマン、メグが座っている。
「遅いじゃないかマルティナ。昼食が冷めるぞ」
ヘルマンが笑みを浮かべていったが、マルティナは表情を引き締めて彼らを見つめた。
「緊急事態よ。クレイトン兄弟が攫われたわ。ルイーズ様はそれを追って行かれたそうよ」
全員の顔色が変わった。ヒューは戸惑うばかりだ。
「あの兄弟って一体……?」
おずおずと尋ねると、マルティナが微笑んだ。
「フォーサイス様の部下の、ルシナ宰相参与の子よ」
「え……?」
でも今、クレイトン兄弟と言わなかっただろうか。ヒューの疑問はそのまま顔に出ていたらしく、マルティナが困ったように笑う。
「色々あるの」
「はあ……」
頷きかけて気がついた。つまりヒューは今まで、あの子たちと世界が違うのだと気付きもしないで、子供たちと遊んでいたのだ。
なるほど、馬車を仕立ててやってくるわけだ。
青ざめるヒューには目もくれず、ランドルフが立ち上がった。
「この状況だ仕方あるまい。メグ」
ランドルフは今まで見たことがないような口調でメイド長を呼ぶ。
「はっ!」
メグは今までの愚痴の多い老メイド長からは想像も付かない姿でまっすぐに立ち、ランドルフに向かい合った。
「すぐに王都へ向かい、ヴァインの二人と閣下に状況をお伝えしろ」
「了解いたしました」
颯爽とメグは食堂を出て行った。素早い動きにヒューは開いた口がふさがらない。
「ヘルマンはここに待機、ボルドウィン様をお守りしろ」
「かしこまりました」
「マルティナ、ヘルマンを助けてくれ。君がいれば安心だ」
「分かったわ。あなたはどうなさるの?」
「ルイーズ様を追う」
てきぱきと物事が決まっていく様を、ヒューは呆然と見ていた。あまりに意外な状況に、戸惑うばかりだ。
「あの……」
この場で一番偉いように見えるランドルフに呼びかけると、ランドルフはいつも通りに穏やかに微笑む。
「なんです、ボルドウィン様」
「大丈夫なんですか? ルイーズを追うなんて危険じゃありませんか?」
「お気にされますな。我々はこれが仕事です故」
話しながらランドルフは暖炉の近くにあった大量の薪の裏から、一振りの剣を取り出して腰に帯びた。
「ランドルフさん?」
「我らは、フォーサイス卿の護衛をしている軍の人間です」
思い切りよろめく。あの夜アンナが言っていたことを思い出したのだ。もしもフォーサイスがヒューの援助をしていることが軍に知られたら、大変なことになりかねないのではなかっただろうか?
「といいましても、我らは皆、退役軍人でしてな。フォーサイス卿という、財務以外にはとんと向かない卿を心底愛しておるのです。ですから卿の依頼であなたの側に仕えておりました」
「そんな……でも別荘では……」
本当に彼らが護衛なら、火事に巻かれる状況に陥らずに済んだのではないだろうか。ヒューの疑問が顔に出ていたらしく、ランドルフは穏やかに笑った。
「別荘のことでお疑いですな? 仕方ありません。我らはあなたを試しておったのです。我らの主、フォーサイス卿が信頼するに値するのかと」
「……そんな……」
「あなたはあの日、我々を本気で心配してくださった。心底我々を案じ、申し訳ないと頭を下げてくださった。そんな方がフォーサイス様の財産を狙う、発明家崩れの詐欺師であるはずがない。我々はあなたへの疑いを完全に解いたのです」
「ということは……」
「ええ。今まで幾度か発明家と名乗る輩にフォーサイス様は欺されております。彼らを追い出したのは我々です。ですがあなたは信用に値する」
最初リッツに言われた、フォーサイスの側にいれば安全と言う言葉は、つまりはこういう意味だったのだ。
「あなたを狙っていたのは、誰か分かりません。ですがあの家で直接あなたにいたずらしたのは、若いメイドたちでした。彼女たちはみな巧みに口車に乗せられ、フォーサイス様のためを思ってあなたを追い出そうとしていたのですよ。私はそんな彼女らを言い含めて親元に帰していました」
だからメイドたちがどんどん減っていったのだ。それは総て彼女たちが気味悪がったのではなく、ヒューを守るためだった。
でも心底信じられなかったランドルフは、ヒューがどんな行動を取るかずっと見守っていたのだろう。
「ですが、彼女たちの中には、それを恨みに思う者もいたようで、ああいったていたらくになりました。まさか自然に発火する石があるなんて知りませんでしたよ」
「自然発火する石?」
「ええ。それは今、軍の研究所に預けて調査して貰っています」
ランドルフは苦笑した。護衛なのにしてやられた心境なのだろう。だがすぐにランドルフは表情を改める。
「別荘の件であなたが信頼に値すると、我々とマイヤース事務所は判断し、あなたを護衛することに決めました。ですがルイーズ様とクレイトン兄弟までが絡んでくるとは予想外でした」
ヒューは俯いた。偶然とはいえ職人街でルイーズと会い、彼女をここに連れてきたのはヒューだ。それにルイーズとアンナが揃っているからこそ、子供たちが週末にはこちらに遊びに来ていたのだ。
遠からずヒューの責任だろう。
「落ち込みなさるな。あの子たちが事件に首を突っ込むのはいつものことなのでな。まあ、これも生まれ持っての性分という奴でしょう」
そういうと、ランドルフはきびすを返した。
「ランドルフ?」
「話はここまでです。これ以上時間を過ごすのは惜しい」
ランドルフは扉を押し開けた。
「後は頼むぞ、二人とも」
「了解!」
「お気を付けになってね、あなた」
ランドルフは小さく頷いて家を出て行った。ヒューは押し黙ったまま俯く。
「とりあえず食事をしましょう。食べられる時に食べないと、敵は待ってくれませんからね」
きっぱりとマルティナがそう告げて席を立つ。ヘルマンもそれに続いた。退役軍人だとしても、今はヘルマンは料理人だ。
食事の支度をするために出て行く二人を見送ってから、ヒューはため息をついて膝を抱えた。
体が泥沼に沈み込みそうに重い。いや、重いのは自分の心だ。自分のわけが分からないうちに、何だか知らない方向に押し流されていく。
どうしたらいいのかさっぱり分からない。
パトロンのバーンスタインはフォーサイス宰相。エディとシャスは宰相参与の子供。ルイーズは貴族のようなもので、リッツは救国の英雄だ。
今までヒューが歩んできた道とは全く違った世界を生きる人々が、いつの間にやら周りにひしめき合っている。
しかもそのほとんどが、ヒューの護衛という形で巻き込まれているのだ。
パトロンが宰相だからこの布陣は仕方ないのかも知れない。でもヒューはもう、何が何だか本当に分からなくなってきてしまった。
狙われていたのはヒューじゃなかったのか?
子供たちを誘拐した犯人と今までヒューを狙った犯人は同一なのか?
ヒューはため息をついた。常識では同じところを狙う犯罪者がそうそう周りに転がっているはずがない。
もしも犯人がリッツが想像したようにヒューと同じ発明家で、子供たちを返して貰うその条件が、ハヤブサと交換だったら……ヒューはどうしたらいいんだろう。
ヒューは納屋に置かれたハヤブサの堂々たる姿を思い出す。
これはヒューの夢の翼だ。失えるわけがない。
でも子供たちの命も失えるわけがない。
ヒューは頭を抱えた。自分では選ぶことが出来ない。
もし子供たちの命を犠牲にし、手元にヒューの翼が残ったとしても、心の翼は手折れてしまい二度と空を飛ぶことなど、出来はしないだろう。
これが覚悟がないと言うことなのだろうか。
でも子供たちと引き替えにしても自分の研究を守ることが、覚悟だとは思えない。
自分の選ぶべき道は何か、答えが出ずにヒューは唇を噛んだ。