<8>
土の日の午後、いつものように子供たちがやってきた。王都からここまで馬車でやってくる、この子供たちが何者なのかは未だに謎だ。
着いてそうそう子供たちはヒューに隼を作って欲しいと要求してくる。一度折り紙で作った隼がいたく気に入ったらしい。
そんな子供たちに、喜んで隼を作ってあげる事にしていた。
子供たちの空を飛ぶ紙の鳥に対する純粋な興味を見ていると、子供の頃のことを思い出して心が弾む。
例え相手が子供であっても、空を飛ぶという共通の興味を持ってくれることが嬉しいのだ。
もしかしたらヒューは、子供の頃からずっと心が成長していないのかも知れない。
競争に明け暮れる兄弟に付き合って、一緒に隼飛ばしをするのも楽しみの一つだ。
一人で飛ばしていると、そんなにアイディアが浮かぶ物ではないが、何も知らない子供たちが思いついて口にする事に面白い事が多い。
「ヒュー兄さん! みて!」
エディの手から放たれた隼が、真っ直ぐと空を切り裂いて飛んでいく。後れを取ったシャスも、手にしていた隼を空に放つ。
二つの隼は綺麗な放物線を描いて、草原の中に落ちていった。
「シャス! 競争だ!」
エディが隼が落ちた草原の方に真っ先に走り出すと、シャスが慌てて後を追った。
「狡いよエディ!」
「狡くないさ、先に取った方が勝ち!」
「それが狡いんだってば!」
草原を元気に駆ける二人の後ろ姿を、ヒューは笑顔で見送った。
昨夜、図らずも夫婦の寝室を覗き見たせいで、寝不足なヒューに駆け回る元気はない。
ため息をつきながら、納屋の外に置かれている古ぼけたベンチに座る。落ちつくと眠くなってしまった。
うつらうつらしながらも、この兄弟が色々と話してくれたことを思い出す。子供は玩具を与えると饒舌になることを、この子供たちを通して初めて知った。
エディとシャスは本当はエドワードとシャスタという名だそうだ。当然ながら英雄王エドワードと、例のフォーサイス宰相の前任であるシャスタ・セロシア宰相にちなんだ名だ。
この兄弟には、もう一人弟がいて、名前はアルスターというらしい。
てっきり、英雄たちの中で二番目の人気を誇るリッツだと思ったのだが、なぜか一番下の弟は、英雄王の片腕の名前ではなく名字の方を貰ったらしい。
英雄王の片腕のフルネームはリッツ・アルスターというのである。
今のシアーズにリッツという名は本当にありふれているが、アルスターという姓はあまりないから、親が姓の方を名前にしたのかも知れない。
もしかしたら身内にあのリッツがいるから、こうなったら困ると、英雄の名字を貰ったのだろうか。
ちなみに呼び名はアルだそうだ。
その子だけ来ないのは、年が離れていて一人で泊まれないかららしい。エディは十歳、シャスは七歳だが、アルは三歳だと言うことだ。
本来は二歳差だという兄弟は、まるで双子のように仲がいい。
思い切り草原の中に飛び込んでいった二人は、草の中から隼を発見して、自慢げにヒューにそれを見せる。最初に隼を見つけたのは、あとにスタートしたシャスの方だった。
悔しがるエディがリベンジを申し入れている。ここからはよく聞こえないけれど、どうやら再戦で決まったらしい。
二人は草原を駆け下りてくると、目の前に並んだ。
「ヒュー兄さん、まだ借りてていい?」
「もちろんいいよ。それは君たちにあげたんだから」
「本当!」
二人は嬉しそうに顔をほころばせた。
「本当さ」
「ありがとう、ヒュー兄さん!」
大喜びの二人に交互に笑いかけると、子供たちはもう一度草原に向かって隼を構えた。
再び隼は二人の手から真っ直ぐに空に飛び立っていった。
「競争だ、シャス!」
「うん」
「今度は負けないからな!」
「僕だって負けないよ!」
兄弟はまた笑顔を真っ直ぐに駆けていく。なんて無邪気なんだろう。
子供の頃のヒューもこんな風だっただろうかと思ったものの、自分の事を思い出して苦笑する。
よくよく考えて見れば、今も昔も考えていることややっていることは変わらない。
二人の兄弟がとばした隼が、真っ直ぐ風に乗ったようで、ぐんぐんと距離が伸びていく。
あんな風に実物大のハヤブサも、上手く風に乗れたら心地がいいだろう。
「早く飛びたいなぁ……」
飛んでいくミニチュアの隼を見つめてうっとりと呟ていた。
実物大のハヤブサは、もう既に完成を間近に控えている。問題はここ数日、風のない日が続いていて、テスト飛行に恵まれた条件が整わないことなのだ。
初飛行では、その草原の最も高い丘から滑り降りる事になる。
そのために馬車の車輪を拝借して、軽くするために削りに削った車輪を胴体の下に四つ取り付けた。
必要なのは、向かい風だ。後ろからの風では、翼が大きすぎて反転してしまう可能性が高い。
前から吹く風が大きな翼をふんわりと持ち上げてくれれば、ハヤブサは宙を舞う可能性が出てくる。
ふと実物大を作る前に聞いたリッツの言葉を思い出した。
紙の隼と同じように、誰か飛ばしてくれる人さえいたら、ハヤブサは空を舞うだろう。
だがどう考えても、人の手で隼を飛ばす時に加えるのと同じ力を、実物大のハヤブサに加えるならば莫大な力が必要だ。
その力を得るためには、リッツが言ったように、ハヤブサを飛ばすことの出来る巨人が必要になってしまう。
「そんなの無理だ……」
小さく呟いて天を仰いだ。実物大のハヤブサを掴んで投げてくれる巨人なんていない。
もう少し現実的に、ハヤブサを飛ばす方法を考えねばならないのだが、それが一番難しい。
だからヒューはこうして現実逃避して、子供たちと隼を飛ばして時間を潰すしかないのである。
ため息混じりに元気な子供たちの姿を見ていると、不意に視線を感じて振り返った。
そこに立っていたのはルイーズだった。今日のルイーズは、ヒューと変わらない格好をしている。動きやすそうで涼しげなふくらはぎまでの長さのパンツに、同じく動きやすそうな白シャツだけだ。
金の髪は一つに束ねて三つ編みに結い、腰にはいつものようにレイピアを下げている。
「やあルイーズ。今日は珍しい格好だね」
思わずそう言ってしまった。いつもふんわりと少女趣味なドレスを着ているからその格好が意外だったのだ。
「今日からは自分の服だ。この方が洗濯しやすいだろう?」
「まあ、そうだね。って、自分の服じゃなかったの?」
「ああ。あれはお祖母様の趣味だ。お祖母様はずっと娘が欲しかったのに恵まれなくてな。そこに私が生まれたから、私で夢を叶えてるのさ」
「夢を?」
「ああ。可愛らしく着付けることさ。まあ、それ以外は何をやってもそんなに口出ししない祖母だからありがたいけどな」
「そうなんだ」
可愛らしいと思うのだが。
口には出さなかったが、そう考えたことが顔に出ていたらしく、ルイーズに苦笑されてしまった。
「まあ私も嫌いではないが、何しろ長丁場だし、今日はリッツと姉様がいないからちゃんと護衛をしなければならないだろう? それにはあの動きにくいドレスは邪魔なんだ」
「そうか……そうだよね」
護衛の任務はやはり重いのだ。何しろ人の命がかかっているのだし。
何となく申し訳ない気がしてルイーズを見ると、こちらを見ていたルイーズと目があった。そのアメジストの瞳に見つめられると、未だどぎまぎする。
毎日一緒にいるというのに、まだまだ恥ずかしいのは、彼女が綺麗すぎるからだ。
だがなぜかその目が生彩を欠いている。何だかいつもと違ってどんよりと曇っている気がするのだ。
「どうしたのルイーズ?」
それでも平静を装って尋ねると、ルイーズは穏やかに笑った。
「君の護衛だから君の側にいないと意味がないと、マルティナに言われた」
「そうなの?」
「ああ」
それは嬉しい。ルイーズに側にいて貰えると心強いし、なによりも幸せだ。まるでそこに、まばゆくて暖かな太陽があるような気がする。
でもだとしたらなぜこんな顔をしているのだろう。まじまじと見つめていると、ルイーズはため息をついた。
「まあ調理場に張り付いている私が邪魔だったのかもしれないけど……」
「え?」
「もうすぐ昼食だそうだ」
きっぱりとそれを告げたルイーズの腹が、何とも情けない音をたてた。きっちりとしているルイーズの、あまりにも可愛らしい状況に、ヒューは口元が緩んだ。
どうやらルイーズは護衛を忘れて、食堂の昼食作りに張り付いてみていたようだ。
「ご飯、好きなんだ?」
尋ねると、先ほどの腹の虫にも恥ずかしがることもなく、ルイーズはきっぱりと答える。
「好きだ。食べないと体が作れないし、万が一の時にも戦えないじゃないか。一日三食なんて不合理じゃないか。私は五食は食べたいぞ」
力強く言い切ったルイーズの腹が再び大きく苦情を申し立てる。
「ううっ……朝食のパンケーキをもっと余分に食べとけばよかった……」
ルイーズの言葉から力が抜けた。相当に空腹らしい。まばゆいほどの光彩を放つルイーズのそんな姿は、筆舌にしがたいぐらい可愛い。
普段と違ったことをされるのは、なかなかに楽しいし、心が弾む。
「ご飯にしようか?」
「そうしてくれるとありがたい」
最もらしく頷いたルイーズは、納屋を足早に出て子供たちの元へと向かった。
「エディ! シャス! 飯だぞ!」
ルイーズのよく通る声は、透き通った風に乗って草原に響き渡る。
「エディ! シャス!」
大声で呼んだルイーズに答えて、草原の深い草むらから二つの頭が覗いた。
「まだお腹空いてないよ!」
「もう少し遊んでからじゃ駄目?」
二人の言葉に、ルイーズは顔をしかめた。
「私の空腹は限界だ!」
堂々と情けないことを言い返したルイーズに、子供たちが明るく笑って答える。
「ルイーズ姉様の食いしん坊!」
「なにおぅ? 消化がいいだけだぞ!」
ルイーズも冗談で明るく返した。
「僕らは空いてないってば!」
「先に食べてて!」
「いいんだな! 全部喰うかもしれないぞ!」
大人げないルイーズに、吹き出した。
不毛な言い合いをしていて本当に空腹で倒れられたら大変だ。
「君たちの分は取っておくから、ちゃんと食べに来るんだよ!」
ルイーズと子供たちに負けない声で、子供たちに向かって言葉をかけると、子供たちは喜んで、大声で返事をしてから再び草むらに姿を消した。
こんなに夢中になって隼で遊んで貰えると、作ったかいがある。ヒューはそれがちょっと嬉しいのだ。
「というわけだから、行こうルイーズ」
「だがなぁ……」
「街の子はこういう環境に慣れてないから、楽しくて仕方ないんだよ。本当にお腹が空いたら来るよ」
「そうかな?」
子供たちを心配するような素振りをしているルイーズだったが、再び腹が鳴る。
「駄目だ。私が限界だ」
「何でそんなにお腹が減るの?」
思わず聞くと、ルイーズは当たり前のように答えてくれた。
「常に剣の稽古をしているからだ。今日は特に、君の護衛を頼まれたから念入りに体を動かした」
どうやら朝からハヤブサの前に立って、微調整をしていただけのヒューとは運動量が違うようだ。
それに空腹がヒューの護衛のためだとしたら、何だか申し訳がない。
「御飯にしよう。すぐ片付けてくるから」
ヒューは急いで散らばっていた工具をまとめた。
「ヒューは何をしていたんだ?」
「翼の微調整と胴体の重さの調節。それからしっぽを扇状に広げる修正だよ」
「しっぽ?」
「うん。猛禽類って向きを変える時にしっぽを利用するんだ。向きを変えるために広げて、右と左に動かす。同じ事をしてハヤブサが曲がれるよう、紐を引いて交互に扇状に広げられるようにしたんだ」
「へぇ……」
「胴体に乗って向きを調節できる仕組みにしたんだ。こうすることで飛んだ時、障害物を避けられる。実験していないから、計算上はね」
「すごいな。私にはさっぱり分からん」
「そ、そうかな」
「ああ。ヒューなら本当に飛べそうな気がしてきたぞ」
「そうだといいけど」
ヒューは抱えた荷物を棚に戻した。色々な道具をしまえるよう、かなりの大きさの棚が作り付けられていて、そこに適当に荷物を納めていく。
ヒューは整理整頓が苦手だが、アンナやマルティナが整頓し直してくれるから、物がなくなることがなかった。
いつも何かを探している状態のヒューにはそれがとてもありがたい。
この棚の端に、まるで荷物のようにリッツのベットが置かれている。綺麗にベッドメイキングしたのはアンナだろう。
あの後どうなったのか、ヒューは知らない。アンナとリッツは、昨夜ヒューに告げたとおり、早朝のうちにこの家を出てしまったのだ。
朝食の席には既におらず、事情を聞いたルイーズが、フォーサイスの事を謝ってきただけだった。
やはりルイーズはフォーサイスのことを知っていた。アンナの推測通り、彼がバーンスタインを名乗っていることを知らなかっただけだったのだ。
ちなみにリッツとルイーズの間にあった弟子入りルールは停止中だそうだ。こうして共にいなければならない状況になると、依頼人を守ることに支障が出るとのことだった。
自分の事より依頼人。
やはりルイーズもマイヤース事務所の人なのだろう。
そういえばダンに初めて会った時、事務所の構成員はリッツとアンナとダン、それから二、三人と言っていたではないか。
それならばアンナを姐御と呼ぶダンに倣って、姉様と呼んでいても違和感はない。
そんなことを考えつつ荷物を納めていたヒューは、考えに気を取られて最後の工具を取り落としてしまった。
「おっと」
工具は床を跳ねてリッツのベットの側まで転がっていく。ルイーズが早く食事をしたがっているのにこんな事をしている場合じゃない。
慌ててしゃがみ込んで工具に手を伸ばして拾い上げようとした時、小さな落とし物に気がついた。
それには見覚えがある。薄い木の板で出来ている、ヴァインの身分証だ。葉の葉脈がデザイン化された紋章も入っている。
工具と一緒に拾い上げて工具を戻し、何気なく身分証に目を通す。見慣れた名前が書かれていた。
「あ、リッツさんのか」
確かに名前はリッツの物だった。だが名字が聞いている物と違う。見覚えのある名前だなと一瞬思ったが、次の瞬間ヒューは目を疑った。
そこには信じられないことが書かれていたのだ。
『リッツ・アルスター シーデナ特別自治区出身 シアーズ本部所属 マイヤース事務所』
鼓動が跳ね上がり、身分証を持つ手が震えた。この出身地でこの名前の人物は、王国にたった一人ではなかったか?
そう、かの英雄王の片腕が、シーデナ出身の精霊族、リッツ・アルスターだったはずだ。シーデナに人間はいないのだから。
身分証を持っている掌に汗がにじみ出てきた。息も吸えなくて苦しい。
いやまて、リッツは確か『リッツ・マイヤース』だったはずだ。だとしたらこの身分証は一体?
聞いた話だが、ヴァインの身分証にウソの記載など出来ないはずだ。特殊な作りがされていて偽造できないと聞いた。
だとしたらこれは何だ? これは誰の身分証だ?
でもこのベットにいて、リッツという名前なのは、あのアンナの夫のリッツしかいない。
「ルイーズ」
名前を呼んで振り返ると、ルイーズが笑った。
「ようやく終わったか。さ、昼食に行こう」
明るく促されたが、ヒューの足は動かない。
「ルイーズ」
声を掛けると、既に歩き出しかけていたルイーズが振り返った。
「なんだ?」
「これなんだけど」
ヒューがルイーズに向かって身分証を掲げると、ルイーズは手を出した。軽くルイーズに向かって放り投げると、ルイーズはいとも簡単に片手で受け取る。
こんな小さい物を簡単に掴むとは、すごい反射神経だ。
「ヴァインの身分証だな」
「それは分かる。その人物のことだよ」
真剣に尋ねると、ルイーズは妙な顔をした。
「人物?」
「そうだよ。それ、誰の身分証なの?」
きわめて真面目に尋ねたのだが、ルイーズは奇妙な顔をして首をかしげる。
「ヒュー、君は私をからかっているのか?」
「からかう?」
「そうだ。ハヤブサを発明できるのに、文字が読めないと言うことはないだろう?」
「もちろんだよ。文字は読める!」
「ならば分かるはずじゃないか。それはリッツの身分証だろ?」
当たり前のようにルイーズはそういった。
「だって、名前が違う」
「名前? ああ……そうか……」
ルイーズはようやく自分の過ちに気がついたようで、少しこわばった顔でヒューを見た。
どうやらルイーズはリッツの名を知られたくなかったようだ。
「ルイーズ、リッツの名前ってリッツ・マイヤースだったよね?」
「……まあ、それは……うん。シアーズではそうだ」
「シアーズでは?」
「……ユリスラでは……かな?」
歯切れが悪い。
「じゃあこの名前は何なんだ? リッツ・アルスターって……シーデナ出身って……英雄王の片腕の事じゃないか」
重苦しい沈黙が二人の間に下りた。ルイーズは困ったようにまとめた金の髪を掻いた。
「ルイーズ!」
「同姓同名がいるかもしれないぞ?」
「シーデナ出身で? シーデナ出身者って精霊族じゃないか」
「まあ、そうだけど」
「じゃあこれは一体何?」
思わず問い詰めると、ルイーズはため息をつき、リッツの身分証を放り返してきた。慌てて受け取る。
「私に詰め寄らないでくれ。渡しがてら、本人に聞けばいいじゃないか」
ヒューは我に返った。自分が思いきりルイーズに詰め寄っていたことに気がついたのだ。
「ごめん、ルイーズ」
慌てて離れると、ルイーズは小さく息をついた。
「身分証を落としたのはリッツのミスだが、それを本人ではなく私に問い詰めるのはどうかと思うぞ。聞きたいことがあれば本人に聞いた方がいい」
「でも……」
「君は『ヒュー・ボルドウィンがどういう人物か』を私がリッツや姉様に聞いて勝手に話されていたら、いい気分になるか? 少なくとも私は嫌だ。ルイーズ・バルディアはどんな人物かなんて、私にしか分からないだろう? 違うか? 」
「違わないけど……」
「だとしたら私は他人に語られたくないな。特に友達にはね。君は平気なのか?」
言葉が出てこない。
ルイーズにはヒュー自身を見て知って欲しいから、ヒューがちゃんとルイーズと話したい。勝手にルイーズにヒューの事を話して欲しくない。
もしもルイーズがリッツにヒューの事をどんな人物なのか聞いたなら、最悪の印象になってしまいかねない。
誰がヒューという人物を評したとしても、きっと本当のヒューは伝わらない。ヒューを知って貰うためには、ヒューが直接面と向かって話すしかない。
「いいかヒュー。人には色々秘密がある。君にだって知られたくないことはあるだろう?」
無いとは言えない。だからヒューは押し黙るしかなかった。
「それを勝手に話されたら嫌だろう? それに勝手に話したことで、自分がその人から敬遠されるのも嫌だ。私はリッツを剣士として尊敬している。だから嫌われるのはごめんだな」
ルイーズにとってリッツは剣の師匠になって貰いたい人だ。リッツを尊重して当然だろう。言葉が出てこずに押し黙っていると、ルイーズは小さくため息をついてから頭を掻いた。
「なぁヒュー」
「……何?」
「リッツが、あの英雄だったら、君は何か変わるのか? それだけで君は今日から突然リッツを英雄として尊敬できるのか?」
「それは……」
確かに急にそれでリッツの印象が変わるわけではない。
「違うだろう? 彼が何者でも君の中のリッツ像は変わらない」
言いくるめられてヒューは俯いた。
確かにそうだ。ヒューが知っている英雄像は、本で読んだり歴史の授業で習ったものでしかない。彼らは救国の英雄たちであり、輝かしき正義の使者でもあった。
だからといって、現実の彼らが書かれたような聖人君子であるとは限らない。
歴史とは常に時の権力者たちによって歪められるものだと言うことを、内戦を生き抜いた祖父からさんざん聞かされてきたから、ヒューだって心得ている。
もしリッツが本当に英雄王の片腕だったとしても、本に出てくる人物のような存在であるわけがないのだ。
そもそも本に出てくる英雄が、妻に水の精霊でぶっ飛ばされて、全裸で土下座はあり得ない。
「ヒュー。私は、自分の目で見て、経験し、考え、自分で信じたことが自分の中で真実になると教わってきた。だから……願わくば君も……」
ルイーズは言葉を切った。なぜか悲しげに口元を歪める。
「君も……そうなってくれたらと思うんだ」
リッツの事を話していたはずなのに、なぜかルイーズは苦しそうな表情で俯いた。心配になってその名を呼んでみる。
「ルイーズ?」
ハッとしたように顔を上げたルイーズは、一瞬にしていつも通りの明るい表情を作り上げる。
「リッツは今日中に帰ってくるんだ。帰ってきたら聞けばいいさ。なんなら私も同席する」
そうだ。今朝早く出かけた二人は、用事が済んだら急いで帰ってくるといっていたのだ。だったらこうしてルイーズを苦しめるよりも、直接聞いた方がいいだろう。
アンナが一緒にいれば、リッツは嘘をつけない気がする。
「ごめんルイーズ」
「何故謝るんだ?」
「何だか君を苦しめるようなことを聞いたみたいで……」
頭を下げると、ルイーズは笑った。
「いいさ。普通の人はあの名前を見ると、どっきりするしね」
その言い方は、まるで自分が普通ではないような言い方だ。
そういえばルイーズは何者なのだろう。ルイーズの名はルイーズ・バルディア。奇しくも英雄王と同じ名字だ。
そして彼女が師匠にと願っているのはリッツである。もしかすると何か関係があるのかも知れない。
でも先ほどの悲しげな表情を思い出すと、ヒューにはそれを聞けない。聞いてしまえば、きっと彼女はまたあの苦しそうな顔をするに違いなかった。
もしもっと親しくなって彼女が聞くことを許してくれたら、それを聞いてみたい。でも今は、彼女が苦しい顔をしているのを見たくないから、口をつぐんでおくのが正解だ。
ルイーズを苦しめるより、笑顔を見る方が幸せなのだから。
「昼食にしようか?」
あえて明るくルイーズに言うと、ルイーズは目を見張った。
「……君は……気にならないのか?」
「気になると言えば気になるよ。リッツさんの事も、君のことも。だけどねルイーズ、僕は君と願わくばもっと仲良くなりたいなぁ、というか親密になれたらなぁ、なんて思ってるから……この話はここまででいいんだ」
率直に言ってしまって、ヒューは赤面する。
しまった。これではルイーズとの仲をもっと狭めたいと言ってしまっているようなものだ。
もしかして思い切り引かれたりしないだろうか。
正面にいるルイーズを伺うと、ルイーズは綺麗な瞳を見開いてヒューを見ている。
やはり引かれたか? そう思ったのだが、ルイーズの口からは全く違う言葉が出てくる。
「君はお人好しだな。こう言っては何だが、普通は気に掛かって私に食ってかかるところだと思うぞ?」
「……そう?」
ばれてない。もしかしてルイーズはそういうことに疎い?
ヒューは照れ笑いをしながらすっとぼけた。お人好しではない、惚れた弱みだなんて口に出すこともおこがましい。
例えルイーズが何者でも、ヒューの心はもうルイーズめがけてまっしぐらなのだ。これがもしかしたらリッツの言う『夢への覚悟がない』と言うことなのだろうか。
でも分かっていながら両方を望むヒューは、欲張りなのかも知れない。それでも今は両方大事だ。
「さ、昼食にしよう」
再び促すと、ルイーズは緊張した表情を崩し、柔らかく微笑んだ。
「君は本当にいい奴だな」
「やめてよ。こんな事で褒められても嬉しくない」
「でもいい奴だ。よし、これだけは教えておく。リッツは王国一の剣士だ」
「それはこの間も聞……あ……」
伝説では強力な精霊使いであるはずの精霊族だが、何故か英雄であるリッツ・アルスターは、精霊を使うことが出来なかったそうだ。
その代わり彼は王国最強を誇る剣士として、英雄王をその隣で守り続けた。
それはつまり、やっぱりリッツがあのリッツ・アルスターであることを意味するのではないか?
「ルイーズ!」
「さて真実はどこにあるかな。君ならそれを聞ける気がするよ、ヒュー」
「どういう意味?」
「君はかなりなお人好しだってことさ。私もリッツもお人好しは嫌いじゃないんだ」
「だからお人好しじゃないってば!」
「君が気がついていないだけさ」
朗らかに笑いながらそういったルイーズが、跳ねるように身軽に食堂へと足を向けた。