<5>
一人になったヒューは、小さく息をつくと一人職人街に向かって歩き出した。
商店が並ぶ大通りから一本折れただけなのに、道幅は細くなりごちゃごちゃとしていて、かなり混み合っている。
あちこちの工場や工房の前には材料などが積み上げられていたり、荷崩れして道路に道具が転がっていたりもするので、ぼんやりと歩いてもいられない。
注意していなければうっかり大怪我なんて事もあるのだ。
そんな場所だが、ヒューはこの職人街がシアーズで一番好きだ。
バーンスタインの世話になる以前は、暇さえあればこの街の様々な工房や工場をのぞき込んだものだった。
たった数ヶ月訪れなかっただけなのに、何だか懐かしくて街を見渡す。
小さな工房があれば、その隣に大きな鍛冶屋があったり、染色の壺が並んだ染め物屋もある。
家具を製作する工場の隣には、空き地のような空間があり、鉄くずと木材が積み上げられており、そこを挟んだ向かいには美しいガラスのグラスを作っている工房があったりと、あまり調和のとれた街ではない。
時折怪しげな精霊魔法グッズを作っている店があったり、本物か分からない怪しげな芸術品が積み上げられた工場もあるが、それもまたこの街の味だ。王都にあって、ここはまるで別世界なのである。
何よりヒューがこの街を愛して止まない理由は、活気が溢れていて、人々はみな自分の作品に誇りを持って働いていることだった。
よかれと思って作ったものが大失敗で落ち込んだ時に、誇りを持って作業をする職人たちを見ていると、自分も発明家として気概を持って夢を叶えようという気力が沸いてくるのだ。
それにヒューは自分で発明品を作るために、職人たちに材料を分けて貰うことが多い。職人たちに妙な発想だと呆れられても、彼らは快く余った材料をくれたり、特殊な道具を貸してくれたりする。
ヒューにとってはこの職人街は、第二の故郷のようなものだ。
この街を離れてからまだ七ヶ月程しか経っていない。それぐらいの時間が経ったというのに、職人街は全く変わらず声を掛けてくれる。
夢に挫けそうな時のヒューは、いつも顔に出てしまうようで、職人たちは自分の店で働けといってくれる。
そんな時はこの職人街で、何かを作って生きるのも悪くないと思ったりもする。
何かが焼ける匂い、鉄を打つ金属の音、家具を作る木槌の音、職人たちの荒っぽいかけ声。何故だか妙に懐かしい。
あちらを覗き、こちらを覗き、声を掛けてくれる職人と話し込んだりしながら職人街をそぞろ歩き、ようやく頼み込んだなじみの鍛冶屋に入る。
扉を開けたとたん、熱気が襲ってきた。熱い鋼を叩く激しい鉄の鎚の音が奧から響いている。
店の奥に目をやると、親方が下着一枚で鋼を打っている姿が見えた。この鍛冶屋は元々武器となる剣をメインに作っているのだ。
しばらく見ていたが、親方はこちらに気がつきもしない。
ヒューに気がついたのは、見習いらしい少年だった。渋々といった感じで親方の元から立ち上がると、明らかに不機嫌そうに店のカウンターにやってくる。どうやら彼の修行の邪魔をしてしまったらしい。
それでも商品を貰わないわけにも行かず、すすで真っ黒になった少年に名前を告げると、少年は無言で頷いて両腕で抱えるように木箱を取り出した。
「重いですよ」
「ありがとう。大丈夫だよ」
よろめきながら受け取り、その場で木箱を開けて中を確認する。その中には直径が十センチ、長さが二十センチほどの丸い筒状の鋼が、美しい輝きを放って収まっていた。
それを止めるために丁度いいねじ釘も一緒に木箱に収められている。ポケットから物差しを取り出して大きさを測ると、ヒューの設計したものとぴったり同じだ。
「すごいね、親方は」
「当たり前です」
自分の師匠が褒められているというのに、当然のように頷くと少年はさっさと工場に戻ってしまった。修行中の彼にとっては、客と話すよりも親方の手元を見ている方が重要なのだろう。
休み無く続いている鋼を打つ音に負けないぐらいに声を張り上げて礼を言うと、振り向きもせずに親方の手が軽く振られた。
どうやら聞こえたらしい。
ヒューは木箱を抱えて店を出た。重さは計算通りのはずだが、こうして実際に手に取るとかなり重い。
よろめきつつもぶらぶらと職人街を歩く。途中で時計の工房を通った時に見た時刻だと、アンナとの待ち合わせまであと十五分ほどだ。思った以上に街を歩き回っていたようだ。
元の場所に戻るべく引き返そうとした時、目の端に見覚えのある姿が映った。足を止めると、瓦礫の向こうに背の高い黒髪の青年の姿が見えた。
反射的に身を潜める。そこにいたのはリッツだった。
危なかった。遭遇してまた舌打ちされるのはこっちだって不愉快だ。
もう一度そちらを伺うとリッツは、汚らしい身なりをしてボロボロの帽子をかぶったひげ面の男と話しているのが分かった。
汚れた男は目元から鼻にかかるぐらい深く帽子をかぶっているから顔が見えない。
一体何者だ、と思ったが詮索しても仕方ない。そのまま帰ろうとした時、リッツの声が耳に入った。
「ま、諦めさせるのが一番早道だろうがな」
ぎくりとヒューは身を縮める。諦めさせる?
「ですがね。バーンスタイン卿のお気に入りですよ」
「んなことはどうでもいい。俺たちには関係ねえよ」
明らかに不機嫌そうにリッツがいうと、ひげ面の男が低く笑う。
「依頼人でしょう?」
「だからなんだってんだ?」
「本当にあの人を嫌ってますね」
「ああ、嫌いだね。あの顔でおどおどびくびくしてるくせに、どでかい夢をぶち上げていやがるのが腹が立つ」
「顔はあの人に責任無いでしょうよ」
ヒューは息を潜めていることしかできない。やはり決定的にリッツに嫌われているようだ。しかも依頼はどうでもいいらしい。
ヒューは命を狙われていて、ヴァイン所属のリッツからすれば護衛対象だろうに、一体どういうことなんだろう。
ヴァインって、依頼人を大事にするんじゃないのだろうか。
そんなことを考えていると、恐ろしい言葉が耳に届いた。
「奴には失敗するか、死ぬかしか選択肢がねえな」
血の気が引いた。リッツは実験が失敗しないと、ヒューを殺す気だ。
がくがくと膝が震え出す。そういえばマイヤース事務所は他のヴァイン事務所に比べるとおかしかった。
本部からの仕事しか受けないからといって、あんな風にひっそりと裏路地に立っているのが変だ。もしかしてバーンスタインは、何か間違ったところに護衛を依頼したのではないだろうか。
その彼らはヒューを狙っている人々と繋がっているのではないだろうか。
となると先に潜入していたアンナは、ヒューを殺そうとしていた? あのアンナが?
それはどうしても考えられない。先ほどまで一緒にいたアンナに、そんな裏があるなんて到底思えない。
でもリッツとアンナは本当に夫婦だ。だとしたら夫が殺そうとしている対象を本当に護衛しているはずがない。
何を信じたらいい?
木箱を掴む手にぐっと力を込める。
「そもそも、あの野郎が気に喰わねえ。何がバーンスタインだ。本名で依頼できない奴の依頼を受けるのが悪い」
ヒューは耳を疑った。バーンスタインが……偽名? ではバーンスタインは一体……ヒューのパトロンは一体誰なのだ?
「訳ありなんだ、仕方ないさ」
「何もかも気に喰わねえ。とっとと片付けちまいたいぜ」
ため息混じりにリッツがそう言った。片付けるって、殺すということだろうか。
いや失敗しなければ殺さないと言っていたから、ハヤブサを作り上げるまでは殺されないだろう。でも作り上げたら確実に殺される。
力が抜けそうになった瞬間に、後ろから肩を叩かれて、抱えていた木箱が派手な音を立てて地面に落ちる。
振り向くと、見事な金の髪が目に入った。ヒューの一目惚れした麗しの女神、ルイーズだ。
「よう。姉様のところの依頼人だよな」
思いの外大きな声で、しかも無邪気にそう言われて焦った。真っ正面からリッツと目が合う。硬直すると、リッツが明らかに不快そうに舌打ちをし、リッツと話していた怪しげな男は慌てて小走りで去っていった。
「こんなところで何してるんだ?」
ルイーズに澄んだアメジストの瞳に見つめられつつ、明るく訊かれて困った。
彼女もこの事務所の関係者だ。もしかしたらヒューを狙っている仲間かも知れない。
「材料を……その……」
口ごもると、ルイーズは足下に落ちていた木箱を軽々と拾い上げてくれた。
「はい」
「あ、ありがとう」
「立ち聞きかよ、眼鏡」
冷たい声でリッツに声を掛けられて、心臓が凍り付きそうなり、ヒューは身をすくめた。
だがこのまま逃げたくはなかった。
木箱をルイーズに持たせたまま拳を握り、力を込めてリッツを見返した。
「聞きました」
「ちっ、面倒だな」
「め、面倒って、僕を殺す事が面倒なんですか!?」
思わずうわずった声で叫ぶと、ルイーズはぎょっとして目を見開き、リッツは目を丸くした。
「はぁ?」
ヒューを小馬鹿にしたように、リッツが聞き返す。
「怪しいと思ったんだ。ヴァインにしては事務所が変だし、僕の発明のことを聞いても他の人と反応が違った。僕の命を狙っているのは本当はあなたたちなんですね!」
口に出してしまうと、恐怖も手伝って言葉が止まらない。
「アンナもグルなんですね! 僕はすっかり欺されてましたよ! まさか護衛が犯人だなんて思いも寄りませんでした!」
リッツに向かって叫ぶと、その騒ぎを聞きつけて職人たちがぞろぞろと通りに出てきた。
その様子を見たリッツが、ため息混じりに頭を掻く。
「ったく、世間知らずは面倒だな。ヴァインってのはな、慈善団体じゃねえんだ。綺麗事だけでやっていけねえんだよ。疑うなら疑え。いっとくがそうなりゃお前は確実に死ぬからな」
「あなたが殺すんでしょう!」
リッツが大きくため息をついて、ルイーズを呼んだ。
「……ルイーズ」
「何だ、リッツ」
「俺、まだやることが山積みでな。後頼むわ」
「頼むって……」
戸惑うルイーズにリッツはくるりと背を向けた。
「逃げるんですか!」
怒鳴ったがリッツは振り返りもしない。
ヒューは不意に思い出してポケットに手を入れた。そこにはアンナに渡された瓶がある。
彼らがヒューの命を狙っているのならば、これは信頼できない。何が入っているのか分からないのだから。
ヒューは思い切り振りかぶって、リッツに向かってガラス瓶を投げつけた。ガラス瓶はリッツを逸れたが、リッツの足下の地面に叩きつけられて砕け散る。
そのとたんにはじけたガラス瓶から流れ出た水が、明らかに意志をもって輝く。
次の瞬間、思いも寄らないことが起きた。その水がリッツに向かって輝く球となって牙を剥いたのだ。
水の球はリッツの背中に直撃し、長身のリッツをはじき飛ばした。
数メートル先にリッツが転がったのをみて、ヒューは瓶を投げた姿勢のまま固まる。
そんなに威力があるものだとは思わなかった。
「うわぁ……姉様の技、もろに決まったな」
ルイーズが呟く。
「アンナの技……?」
「そう。瓶を持っている護衛対象者に危害を加えようとした人に向かって炸裂する、圧縮された水の球」
ルイーズの説明を呆然と聞いていると、向こうでリッツが呻きながら立ち上がる。
反撃されるかと身構えたが、リッツは背中を丸めて微かに痛がるそぶりを見せながら、何も言わずにそのままこの場を立ち去ってしまった。
後に残されたのは何が起こったのか分からずにお互いの顔を見合わせる職人たちと、呆然とリッツが消えた方を見ているヒューとルイーズだけだった。
力が抜けてその場に座り込むと、ざわめいていた職人たちも、一人、また一人と店や工房に戻っていった。
その場に二人だけしかいなくなると、ようやくルイーズが口を開いた。
「君、大丈夫?」
木箱を地面に置いたルイーズの手が肩の上に乗った。
一目惚れ相手に触れられたら冷静ではいられないだろうと思っていたが、命を狙われていると分かったいまは意外と冷静にいられる。
「ルイーズっていったよね?」
顔を上げずに尋ねると、ルイーズが答えた。
「そう。ルイーズ・バルディア。よろしく」
「バルディア?」
妙な偶然だ。
内戦の時に活躍した英雄王が王になる前はバルディアを名乗っていたはずで、彼女が弟子入りしたい相手の名が英雄王の片腕と同じ名を持つリッツだ。
「そ。英雄王と同じ姓。それで君は?」
慣れているのか大して感慨もなさそうに頷いたルイーズは、ヒューに軽く聞き返してきた。
ゆっくりと顔を上げ、ルイーズを見つめる。ルイーズは相変わらず美しく、全く邪気のない静かな表情をしていた。
少しだけ戸惑いつつも、ヒューは口を開く。
「その前に聞きたい。君は敵だね?」
「……敵? 君は何かと戦っているのか?」
ルイーズは形のいい眉をひそめた。本当に何も知らないように見えるが、アンナのこともある。
これは演技か?
疑いながらルイーズを見つめる。
今日のルイーズは、両肩を出した、水色のロングスカートのワンピースを着ている。動きやすいようにするためか、スカートの横には太ももまであるスリットが入り、当然の様に腰にレイピアを差している。
気品に満ちた、毅然とした美しい少女だ。どこにも隠し事をしているような後ろめたい感情は見つからない。
それでもルイーズに尋ねずにはいられない。
「リッツさんは、僕を殺そうとしている?」
声を潜めてそう言うと、ルイーズの綺麗なアメジストの瞳はみるみる見開かれた。
「何の冗談だ?」
「冗談じゃない! さっきそう言ってた!」
感情にまかせての手が両肩にかかった。ハッと顔を上げると、目の前にルイーズの端正な顔がある。至近距離でヒューの目をのぞき込んでいるのだ。
なめらかな白皙の頬に、微かな紅色がさしていることも、まつげがとても長くてツンとカールしながら上を向いていることも分かるぐらいに近い。
あまりにも距離が近い一目惚れ相手に硬直していると、吐息がかかるほど近くまで顔を寄せてきたルイーズが呟く。
「うん。君が冗談を言っているのではないことは分かった」
「じゃあ……」
やはり敵なのか。そう思った時、確信を持った口調でルイーズは断言した。
「リッツが君を殺すわけがない」
「え?」
「リッツはアンナに誓いを立ててる。ヴァインの活動において、やむを得ない場合以外、人を殺さないことを心がけると」
ルイーズの瞳は真剣だった。
「いいか? 王国一の剣士が、妻に離縁されないためにその誓いを守り続けてるんだ。なのに依頼人に手をかけることは、絶対にあり得ない」
「王国一の剣士……?」
「少なくとも私はそう信じている。リッツと兄上が戦うと、兄上はまるで子供扱いだ」
「……」
今まで見てきたリッツと、王国一の剣士のイメージが全く結びつかない。
何しろ初対面の際のリッツは、全裸に水浸しだ。
思わずルイーズを見つめてしまう。もしかして、ものすごく剣に弱い兄妹でリッツにからかわれているのかも知れない。
ヒューの疑いに気がついたのか、ルイーズは小さくため息をつく。
次の瞬間、ギラリと煌めく刃が、ヒューの喉元にあった。
「ひっ!」
いつ抜いたのか、ヒューには全く分からなかった。目の前のルイーズは、腰を軽く落として、真っ直ぐにヒューに向けた刃の向こうで笑っている。
「君を殺すつもりなら、私でも簡単に殺せる」
「る、る、ルイーズ……さん!」
「君の反応では、リッツに斬られれば、斬られた事に気がつかないまま死んでいる」
「ちょ、ま、待って!」
笑顔なのにかなり本気で殺されそうな凄味のあるルイーズの瞳に、慌てて両手を挙げて叫ぶ。
ヒューの態度に苦笑しつつ、ルイーズはレイピアを納めた。
「まあ、信じるのは自分の経験と勘だからな。君がリッツを疑うなら別に構わない。見ていたけど、リッツは君への態度が悪い」
遙かに年下のはずなのに、あっさりとルイーズはリッツを断罪する。
ヒューは困惑した。今まで生きてきた経験と勘は、このルイーズもアンナ同様、敵だと認識させない。
どうしたらいいのだろう。どうしたってヒューにはこのルイーズを疑うことが出来ない。
その目の輝きと、真っ直ぐな表情に嘘など絶対に無い気がするのだ。
もしかしてこれは恋は盲目というやつなのだろうか? いや、もしかしたらルイーズがリッツをよく知らないという可能性もある。
もしそうなら、ルイーズが何らかの思い違いをしている可能性だってあるのだ。なにしろヒューはリッツを信用できない。
「あと、私のことはルイーズでいい。みんなそう呼ぶ」
「あ、うん。ルイーズ。君とリッツさんは一体どんな関係なの?」
「突然だな」
ルイーズは大人のように苦笑する。不思議な少女だ。
「リッツは私の祖父の親友で、祖母の茶飲み友達だ」
「……え?」
父親ならともかく、祖父母の親友とは意外だ。
リッツという人物は口が悪くて外見も決して穏やかそうではないのに、実は老人に好かれるタイプなのだろうか。
「だから私が生まれた時から知っている。さすがにおしめを替えたことはないらしいがな」
「……はぁ……」
やはりルイーズの思い込みではなく、リッツはちゃんとした人物のようだ。
なのにどうして依頼人であるヒューを殺そうとしているのだろう。本当にヴァインに所属しているのだろうか。
自分の勘を信じて、自分の身を守る努力をするべきなのか、それともルイーズを信じてリッツとアンナを信頼すべきなのだろうか。
考えれば考えるほど堂々巡りだ。
心の中で葛藤していると、ルイーズが静かに切り出した。
「話してくれ」
「え?」
「リッツが言っていた話の内容だ」
言ってしまっていいのだろうか。ルイーズの顔を見ると、その美しい表情には一点の曇りもない。
迷いに迷った末、ヒューは口を開いた。
麗しい恋の女神に逆らえるわけなんてない。
「リッツは僕の実験が成功すれば僕を殺すって。でも僕は自分の実験を失敗させたくない」
「まあ当然だろうな」
軽くルイーズが相づちを打つ。そんな小さな事に少しだけ背中を押されたような気がして、ヒューは正直に告げてしまった。
「まだ死にたくない。なのに犯人は近くにいるかも知れないなんて、たまらないよ」
ルイーズがいうように、リッツは人を殺さないのかも知れない。だけどルイーズも言っていたではないか。やむを得ない場合を除くと。
もしかしたらヒューがそのやむを得ない場合かも知れない。
「死にたくないけど、僕は夢を叶えたいんだ」
告げるとルイーズはいとも簡単に頷いた。
「なんだ。なら叶えればいいじゃないか」
「何が……?」
「実験を成功させるまで殺されないんだろう? だったら夢を叶えればいいじゃないか」
「だって……完成したら……」
「気にするな。私が付き合ってやるさ」
「え?」
意味が分からずに顔を上げてルイーズを見ると、ルイーズが笑う。美少女なのに少年のように明るい笑顔だ。
「実験に成功した時、隣に立っててやる。もし、万が一にもリッツが君を殺そうとしたら、私が戦うさ。これでも少しは剣の覚えがあるんだ」
「……ルイーズ?」
「リッツを信じろとは言わない。リッツが君を嫌っていることだけは確かだしな」
やはりルイーズにもそう見えたようだ。
「でも姉様は信じていい。姉様はヴァインで精霊使いだけど、本職は人命を一番とする医者だ。リッツはああいう人だが、姉様が総てをかけていいほど愛している夫だ。そんな行動に出ることを許すわけがない」
「医者?」
「そうだ。君は知らなかったのか?」
何も知らない。ため息混じりにルイーズを見つめた。もう一つ聞きたいことがある。
「ルイーズ」
「何だ?」
「バーンスタイン男爵を知っている?」
「バーンスタイン?」
「ヴァインに僕の護衛を頼んだ人で、僕のパトロンだ」
しばらく考え込んでいたルイーズだったが、やがて首を振った。
「そんな名前の男爵は、シアーズにいないと思うがな」
「そう……」
リッツが言っていたように、依頼人のバーンスタインは偽名だ。
ならば彼は何者だ? もしかして彼がヒューの命を狙っているのか? だとしたらなぜヒューに資金を援助しているのだろう。
バーンスタインがヒューの話を聞いている時は、本当に楽しそうで、あれだけ年上の人が子供のように目を輝かせている姿に少し感動した。
そのバーンスタインが偽名だったとしても、あの姿にウソがあるようには見えない。
もう、一体何が何だか分からなくなってきた。
「本当の本当にシアーズにいないの? 僕は何度もシアーズで会ってるんだけど?」
思わず繰り返して尋ねると、ルイーズは眉を寄せて首を捻った。
「シアーズの貴族はかなり知っているはずだが知らないな」
ルイーズの呟きに、思わずルイーズを見つめ返してしまった。一般の庶民が貴族をかなり知っていると言うことはまず無いのだ。
ということはつまり、彼女は貴族だと言うことになる。
「君は……貴族なの?」
「それに近い、とだけ言っておく。女には秘密があった方が美しいらしいぞ。お祖母様がそう言っておいでだった」
「そう……」
何だか上手く誤魔化されてしまったような気がする。だが気がつけばもうルイーズを疑うことが出来なくなってしまっている。
何しろ彼女はやはり……ものすごく美しいヒューの女神なのだ。
「君にまだ聞いていないことがあった」
唐突に尋ねられて顔を上げ、ルイーズの美しいアメジストの瞳を見つめ返す。
「何?」
「君の名は?」
そういえば彼女に名乗らせておきながら名乗っていなかった。
「僕はヒュー・ボルドウィン。発明家だ」
「そうか。それで先ほどから言っている君の夢は何だ、ヒュー」
改めて聞かれて、ヒューはルイーズの目を見つめる。
「空を飛ぶこと」
「ほう……それは素敵だ」
ルイーズの顔が花が咲きこぼれるかのように美しく綻んだ。
その瞬間に、ヒューの心は完全にルイーズへと転がっていったのだった。