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<2>

 神話の時代に、この地へ降り立った女神の名を頂く、エネノア大陸には、女神に従う精霊王たちの守護を受けた六つの国がある。

 光の精霊王の守護する、大陸一の農業・畜産業国家ユリスラ王国。

 火の精霊王の守護する、進んだ技術力を持つフォルヌ王国。

 土の精霊王の守護する、砂漠の国リュシアナ王国連邦。

 風の精霊王の守護する、法と香辛料の国サーニア連邦。

 水の精霊王の守護する、食と薬の国タルニエン共和国。

 この五カ国には総て特別自治区があり、そこには精霊王に祝福された人とは異なる亜人種がそれぞれ居を構えている。特別自治区にはいつ定められたとも知れない絶対不可侵の法があり、各国の王とて手を出すことは許されない神聖なる地であり、人間が踏みいることは出来ない。

 そんな大陸の最も北には、闇の精霊王の守護する、亜人種の国ゼウム神国があり、ここには特別自治区がなかった。

 なぜならこの国自体が、特別自治区と同じような扱いとされてきたからである。

 このエネノア大陸の南部中央に位置し、最も広大な領地を持ち、豊かで平和だと言われる国が、ユリスラ王国。つまり今ヒューが暮らしている国である。ユリスラでは、六十年ほど前の内戦を最後に、一度も戦争が起こっていない。

 六十年程前の内戦は腐敗した王家と貴族に対し、一庶民として暮らしていた国王の隠し子、英雄王エドワード・バルディアが、英雄王の親友にして片腕であった精霊族リッツ・アルスターや仲間たちと共に起こした、革命戦争だった。歴史の授業で学んだぐらいの知識しかないが、それぐらいは知っている。

 英雄王の片腕だったという精霊族の容姿は特別で、伝承の精霊族とは全く違ったらしく、それも英雄王の伝説に彩りを添えていた。

 現在の豊かなユリスラへと導いた内戦の覇者たちは、伝説のようにユリスラ王国内で語り継がれていて、本や研究書、小説まであり、英雄として人々にあがめられている。現在の王はその英雄王の息子であり、物静かなジェラルド国王である。

 革命戦争以後、貴族は名誉以外の総てを特権を失った。特権階級による支配社会は崩壊し、虐げられてきた庶民が生活を楽しむことが出来る社会へと王国の姿は変わったのだ。

 それでも一部の貴族たちに、革命以後も権力は残った。名誉以外を失って呆然としている大半の貴族たちと異なり、必死で残された財産を使って起業したり、土地を購入して農業を始めた貴族たちだ。彼らは貴族の誇りという無価値を捨てて実益を取り、家督を守った。

 そんな人々が、未だ貴族としての名目を保っているのである。

 ヒューのパトロンであるバーンスタインも、その一人だと言えるだろう。

 内戦以後国は富み、大陸一豊かな国になっていったのだと言われている。実際この国には、貧困の差が少なく、スラム街の住民は極端に少ない。その大半が他国から流れ着いてきた者らしい。

 ユリスラには全部で九の自治領区と、一つの王家直轄区と、一つの特別自治区がある。

 特別自治区はシーデナといい、そこに住んでいる亜人種は、人の十倍長い寿命と美しい容姿を持つ麗しき精霊族である。

 伝説では長身に金の髪、緑の瞳に蝶の片羽のごとく美しい耳といわれているが、ヒューは未だかつて一度も見たことがない。精霊族はシーデナから出てこないのが普通で、見たことのある人の方が珍しいだろう。

 王国の中で最も巨大なのは、首都であり、一大貿易港でもある王都シアーズである。王都は内戦の際に戦場となったらしいが、今はその面影などどこにもない。

 ちなみにヒューの出身地は、王国中央部に位置するファルディナ自治領区に所属する小さな農村である。

「マイヤース事務所、マイヤース事務所っと……」

 ユリスラ王国歴一五九五年春。

 館が燃やされた翌日、ヒューはバーンスタインに渡された紹介状を片手に、王都シアーズの街を歩き回っていた。

 あの後、農民の通報によって急いで駆けつけたバーンスタインは、自分の別荘が綺麗さっぱり焼け落ちているのに愕然としつつも、比較的冷静に使用人とヒューのために馬車を用立ててくれた。

 バーンスタインをのんびりした人物だと思い込んでいたヒューは、てきぱきと指示をするバーンスタインを少し見直したほどだ。

 呆然としたまま馬車に揺られ、馬車で小一時間ほど行ったところで王都シアーズについた。燃やされたバーンスタインの別荘は、シアーズの富裕層のために整えられた王都近郊の田園地区なのだ。有無を言わさずバーンスタインに連れてこられたのはホテルだった。自宅もシアーズにあるのだが、危険だという理由から帰ることを許されなかったのである。

 そして翌朝、バーンスタインに勧められて、ヴァインの事務所を訪れることになったのだ。

 バーンスタインに貰った地図を見るたびに、ずり落ちる眼鏡を何度も戻す。

 服や身の回りの品は、パトロンであるバーンスタインが出してくれたのだが、眼鏡だけはいかんともしがたく、爆発で歪んで壊れたまま掛けているのだ。

 眼鏡は職人が一つ一つレンズを磨きあげて掛ける本人に合わせる。その作業に何日も掛けてようやくできあがるかなりの高級品だから、貧しい発明家のヒューにとっては簡単に買い換えられる品ではない。

 だが眼鏡がないとヒューは、目の前の物もよく見えない。だから少しぐらい壊れていようと歪んでいようと、かけていないと生活できない。

 幾度も眼鏡を直しながら街の中央通りを折れて、飲食店が建ち並ぶ一角に足を踏み入れる。隣国からの働き手や、ごろつきがうろうろしているスラム街とは少し離れた健全な一角を歩きながら、ヒューは立ち止まった。

「……おかしい……」

 どう考えても飲食店や雑貨屋ばかりで、ヴァインの事務所なんて無い。ここまでの道すがら、見慣れたあの木の葉マークを一度も見ていないのだ。

 ヴァインとは元々、木の葉の葉脈を意味する言葉だ。その組織の歴史はまだ浅い。正式に立ち上げられたのは、王国歴一五八二年だというから、まだ十三年ほどしか経っていない。それでもヴァインはもはや、国民にとっては無くてはならないものになっている。

 ヴァインの主な仕事は三つある。

 一つは運び屋である。

 今まで馬車や旅人に託すしか無く、それでも届くか分からなかった荷物や手紙を、各地のヴァインを経由して王国中どこへでも届けてくれるのだ。しかも明確な金額表が存在しており、暴利をむさぼろうとする輩は通報されると即刻ヴァイン自体によって処罰されるという厳しい掟があるらしい。

 もう一つは情報屋だ。

 各地からやってくるヴァインの面々によって、当然荷物と一緒に色々な情報も運ばれてくる。商人や旅人は地方の情報を求め、情報を買うのである。

 そして最後は、困り事引き受け業だ。

 今まで困ったことが起きた場合、街の自警団に相談するか、ここ王都シアーズでは憲兵隊に相談するかしかなく、ごく個人的な困り事を引き受けてはくれなかった。事件にならねば動いてくれないのが、常なのだ。

 だがヴァインは助けが必要だと彼らが判断すれば、様々な困り事を引き受けてくれる。本当に困っていれば、迷子の動物でも探してくれるのである。

 そのためかヴァイン所属者は年齢も幅広い。ヴァインができてから、自活できない孤児の数が減ったという噂もあるぐらいだ。

 そんな生活に密着した組織だから、だいたい目立つように出来ている。シアーズ発祥だというヴァインの本部は大通り沿いにあり、大々的に木の葉マークを掲げたカフェと兼ねたロビーはいつも沢山の人で溢れている。他にも事務所を構えるぐらいのやり手のヴァイン所属者であれば、目立つようにヴァインの看板を掲げた事務所があって当然なのだ。

 なのに地図に記された場所には、ヴァインの事務所なんて無い。あるのは朝からかなり賑わっているレストラン『陽気な海男亭』だけだ。

 煉瓦造りだろうレストランは、白い漆喰に綺麗に塗り固められ春の日の光にまばゆく照り輝いている。真っ青な海と碇をモチーフにした看板が掛けられたその姿は、夏の日の海辺を思わせる彩りだった。

 朝食を食べてきたというのに、あたりに漂う美味しそうな香りに引きつけられそうになり、何とか踏みとどまった。手持ちの金が少々乏しい。ホテルに戻ればバーンスタインが貸してくれるだろうが、そこまで甘えるのも気が引ける。なにせ発明に進展がない穀潰しなのだから。

 地図を片手にため息をついた時、不意に肩を叩かれて飛び上がった。体を硬くしたヒューに、明るい声が掛けられる。

「迷子?」

 おずおずと振り返ると、そこにいたのは帽子をかぶった男だった。帽子からはみ出す赤毛に近い茶色の髪は癖毛気味で縮れている。三十近いぐらいの年だろうか。男は明るい笑みを浮かべていて、こちらに危害を加えそうな感じではない。

「どうした?」

「いえ……あの……」

「こんなところで立ち止まってたら、馬車に轢かれるぞ。一応この道は馬車も走るからね」

「あ、ご親切にすみません」

 頭を下げると、眼鏡が滑り落ちて石畳の地面に叩きつけられた。

「あ」

「お、悪いね。驚かせたかな」

 いいながら男が眼鏡を身軽に拾い、立ったままうろたえるヒューに笑って返してくれた。

「マイヤース事務所を探してる?」

「! どうしてそれを?」

「うん。今手元を覗いたからね」

 言われて自分がまだ地図を広げたままいたことに気がついた。慌てて地図を、手の中で丸める。男がいつ覗き込んだのか全く気がつかなかった。もしかしてこの男、見かけによらず鋭いのかも知れない。少々警戒感を持ちながら見返すと、男は人の良さそうな顔で笑った。

「そんなに警戒しないでくれ。ほら」

 男が無造作に服の中から、チェーンに繋がれた薄い木の板のような物を取り出した。

「これ、ヴァインの身分証ですよね?」

 実際に見たのは初めてだ。ヴァインの人々は、身分証を持っていなければ仕事を受けられないのだと聞いている。偽造されないように色々と秘密があるらしいが、ぱっと見ただけでは普通の薄い板にしか見えない。

 目の前に突きつけられた身分証と男を交互に眺めつつ訪ねると、男は当たり前のような顔で頷く。

「そうさ」

「初めて見ました」

「そう? 盗らなきゃ手にとってもいいよ」

 さりげない仕草で男が身分証を外してこちらへ差し出した。ヒューは恐る恐るそれを手にとって、名前と所属を読んでみた。薄くて軽い木で出来た身分証は妙に固くて、表面にはくっきりと木を焼き付けて文字が彫り込まれている。

『ダン・リード シアーズ出身 シアーズ本部所属 マイヤース事務所』

 ヒューは弾かれたように顔を上げた。

「! マイヤース事務所の人ですか?」

「そう。小さな事務所だから、依頼人がよく迷ってるんだ」

 何気なくそういったダンなる人物は、身分証を服の中にしまい込んだ。やはり身分証は重要らしい。

「だから俺はね、依頼人が来るって本部から連絡を受けた時には、こうして『陽気な海男亭』のテラスでのんびりとお茶を飲むことに決めてるんだよ」

 ダンはそういうと、ポケットを探り、銅貨を数枚取り出した。

「アイビー、ごちそうさま」

 声を掛けたダンが無造作に銅貨を投げると、童顔な二十歳そこそこの女性が、片手だけ使って洗練された動作で銅貨を受け取る。運動神経に難があるヒューには到底無理な技だ。

「まいどあり~」

 明るい茶色の髪をひとまとめにして高く結い、元気に揺らすアイビーは、店の中に戻ると思いきや、こちらに歩み寄ってきた。

「事務所に行くの?」

 親しげにアイビーがダンに話しかける。

「そうさ。依頼人待ちだったからね」

「ふうん」

 アイビーは遠慮無い視線をヒューに向けてきた。人付き合いが得意とは言えないから、アイビーの笑みを浮かべた好奇心むき出しの表情につい一歩下がる。

「な、なんでしょう?」

「今までの依頼人とちょっと違うね。あんまり威厳とかないし」

 あっさりと評されて戸惑った。確かに自分に威厳は皆無だ。だがどうやらこの事務所にそんな人物は珍しいようだ。

「ま、いろいろあるさ」

「へぇ~」

 アイビーは妙に思わせぶりな返事をすると、ダンに視線を戻した。

「でもダン、今行くとまずいんじゃない?」

「う~ん。俺もそれだけは気がかり」

「だって昨日の今日だよ?」

「そうだよなぁ~」

 二人の表情は同じだ。その表情は苦笑いというのが一番近いだろう。少々不安になって恐る恐る二人に尋ねた。

「出直した方がいいんでしょうか?」

「いや。今日来る約束ならいいよ。姐御はそのつもりだろうから」

「……姐御?」

「姐御は真面目だもんね~。でもボスがね」

「ボスがなぁ……」

 この二人の口ぶりにヒューは首をかしげる。

 ボスとは昨日会ったあの大きなリッツと言う人物だろう。だが彼らが姐御と呼ぶのは、一体誰なのだろう。昨日までメイドをしていたアンナは、どう見てもダンよりかなり年下で、姐御という言葉は絶対に不釣り合いだ。でもあの二人は夫婦のはずだし……。

「ま、いいか。いつものことだからね」

 ダンは苦笑しながらも、アイビーに手を振って店を離れる。未だ二人のやりとりに疑問を抱きながらも、尋ねるきっかけがなく、ヒューは黙ってダンに付いていくしかない。

 ダンは『陽気な海男亭』と隣の建物の間にある細い路地を曲がり、レストランの裏口へと入っていく。ヒューもダンの後から裏口に入った。レストランの色々な物が置かれているかと思えば全然違って、綺麗に掃き清められた階段が二階へと続いていた。慣れた様子で上がっていくダンの背に向かって問いかける。

「さっきの話ですけど」

「何?」

「今日はまずいんですか?」

 おずおずと聞いたのだが、ダンは半笑いといった顔でヒューを振り返った。

「ボスは究極の愛妻家なんだ」

「は?」

「もう、妻が大好きで大好きで。端から見てもそれが丸わかりでね」

「はあ……」

「まあ、姐御もそんなボスに惚れ込んでるからお互い様なんだろうけど」

「そうですか」

 突然の言葉に頭が付いていかずに、間抜けな返事をしてしまう。だがダンは気にするでもなく肩をすくめた。

「でもってうちのボス、妻限定ですっごくエロ親父なわけだ」

「……は?」

「結婚する前は、相当な遊び人だったらしいしね」

「はあ……」

 他になんと応えたらいいか分からない。

「だからねぇ。姐御が潜入捜査なんてして帰ってきたら、大変な騒ぎなんだ」

「姐御って……アンナ……さんですか?」

 メイドだった時の感覚で名前を呼び、慌てて敬称を付ける。 

「そう。いっとくけど俺より遙かに年上だからね、あの人」

「え……?」

 今聞き捨てならないことを聞いたような気がする。どう見たってダンの方がアンナより十歳以上は年上だ。だがダンは何も無かったように笑った。

「きっと今頃は、修羅場さ。さてさて、ボスはどんなことになっているやら」

「え……?」

 また面妖なことを聞いた。何故夫婦が修羅場で、大変なのは小柄なアンナの方ではないのだろう。

 困惑しているヒューにはお構いなしに、ダンは二階に上がって廊下をどんどん進んで行った。階段はまだ続いているからまだ上があるらしいが、どうやら目的地はこの階らしい。

 頭の中に疑問符をたくさん抱えながらも、ダンに付いていくしかない。やがてダンは、廊下の中程よりも少々奧にある扉の前で足を止めた。

「ここがマイヤース事務所」

 そういってダンが指し示したのは、小さな金色の表札だった。そこには確かにヴァインを司る木の葉の葉脈のマークと、マイヤース事務所の文字があった。

「こんなに目立たなくて、大丈夫なんですか?」

 これでは商売になりそうにない。ヒューの心配をよそに、ダンはさも可笑しそうに笑う。

「大丈夫。うちは特別な顧客専門で、本部からの仕事しか受けないから」

それはつまりバーンスタインは、そんな大物だということなのだろう。貴族だし。それで先程のアイビーの言葉に合点がいく。

「だから威厳がある偉そうな客ばかりなんだ……」

「まあ、そんなところかな」

 曖昧に返事をしながら、ダンは慣れた手つきでポケットから鍵を取り出した。

「何が起きても驚かないように」

「ええっ?」

「大丈夫。黙って温かい目で見ていれば、巻き込まれないから」

「はあ……」

 もう何がなにやら分からないが、ダンのいわれたとおり黙っているしかないだろう。鍵を回して開けたダンに促されて中に入る。

「わぁ……」

 足を踏み入れたとたん、飛び込んできた室内の雰囲気にため息が出た。初めて見たヴァインの事務所が物珍しく、周りを見渡す。

そこは応接室だった。暖炉があり、立派な布張りのソファーで構成された応接セットがあり、たくさんの資料が並ぶ本棚がある。かなり立派な事務所だ。心地よさそうな揺り椅子まであって、家具はいい具合に歴史を経て磨かれているようだった。

その中でも特徴的なのは、どっしりと窓際に鎮座する巨大な書斎机だ。よく磨かれただろう机は整頓されていて、数冊の書類と使い込まれた数本の羽根ペンがおかれていた。

 この応接室だけを見ると、立派なヴァインの事務所だ。

机の後ろの大きな窓にはカーテンがひかれたままだがが、隙間から光が木漏れ日のように落ちている。よく見るとそこはテラスになっているようだ。

応接室の左右両側に扉があり、向かって右側の扉は開け放たれていて中に小さなキッチンと、二段ベットのような物があるのが分かった。

そして左側にある扉は、右側よりかなり手前にあった。そこにはプレートが一枚かかっていて『プライベートスペース』と書かれている。

「この事務所、もとはボスと姐御の家だったんだ。その扉の奥が夫婦の生活スペースってわけ」

「そうですか」

「正式な事務所メンバーは、ボスと姐御と俺の三人。臨時雇いは決まって二、三人ってとこさ。かなり極小な事務所だけど、まあそれなりにヴァインの中では名が通っている方なんだ」

 明るくそう話すダンだったが、やはり扉の向こうが気になるらしい。

「ことに約束の時間って、何時かな?」

 ダンに聞かれて、ヒューは懐から懐中時計を取り出した。これは実家から追い出される際に、息子を哀れに思った母が恵んでくれた大切な品だ。

「朝十時とのことだったので、今が丁度ぴったりです」

「そうか……仕方ないな」

 独り言のように呟いたダンが、プレートのかかった扉に手をかけた。それからため息混じりにノブを捻る。扉が開いたとたん、男女の争う声が聞こえてきた。

「だからぁ、依頼人がもうくるんだってば!」

 思い切り苛立ったような、でも何処か艶っぽいその声は、一月共に過ごしたメイドのアンナだ。

それに男の低いぼそぼそした声が何かを囁くのだが、それは聞こえない。その代わりアンナの声がまた響く。

「駄目だったら!」

 抵抗を試みているのか、アンナの声が尖る。だが男はへこたれずに、こちらにも聞こえる声で堂々と言い放った。

「一ヶ月留守しておいて、翌日から仕事なんて絶対に嫌だからな! せめて今日一日ぐらいはお前を抱いて過ごすんだ」

「昨日穴埋めしたでしょう! ちゃんとリッツのしたいだけさせてあげたのに!」

「一晩ぽっちりで穴埋めになるかよ。確かに穴は埋めたが……」

「馬鹿なこと言ってないで下りて支度!」

「嫌だ! せめてもう一回やらせろ、アンナ」

「駄目ったらだめぇ!」

 その内容を耳にしたとたん、頭と頬と耳に一気に血が上り、顔がかっーっと熱くなった。

あのアンナとその夫は、こともあろうにベットでもめているようだ。しかも内容が生々しすぎる。

 アンナは夫のリッツに襲われている。アンナの口調に、呆然と立ち尽くすヒューとは正反対に、ダンは帽子を取って頭を掻き、大きくため息をついた。

「ボス……扉開いてるっつーの……」

「……そういう問題ですか?」

「違うかい?」

「いや、止めないんですか?」

 至極真面目に尋ねたのだが、ダンは半笑いで軽く肩をすくめた。

「止めないさ。結末はいつも同じだからね」

「結末?」

 ヒューが聞き返すと同時に、突然部屋から聞こえてくるリッツの口調ががらりと変わった。

「ご、ごめん。ちょっと悪ふざけが過ぎましたっ!」

 半ば悲鳴に近い謝罪にぎょっとしていると、リッツの叫びが聞こえる。

「やめっ……」

 次の瞬間激しい水音がして、男が全裸のまま扉から廊下まで転がり出てきた。そしてそのまま廊下の壁に叩きつけられる。それと同時に部屋から吹き出した水が、更に男を襲った。

「!」

 言葉を失い立ち尽くすしかないヒューを尻目に、ダンは苦笑しながら言った。

「な? ボスが姐御にかなうわけ無いんだから」

「あ……精霊使い……」

「そ。分かってるくせに、ボスは何度も挑んでは負けるんだよなぁ……」

 もはや達観したといった、妙に温かい目をしてダンが呟いた。

「はあ……」

 こんな事務所で大丈夫なんだろうかと、わき上がる不安に苛まれるヒューの視線の先で、全裸男が呻いた。 

「くーっ……いってぇ……」

 ダンとヒューがここにいることなど全く気がついていないらしい全裸男は、頭を抱えてうずくまっている。顔は見えないけれど状況から考えると、昨日分厚い扉を斧で破って助けてくれた、リッツなる人物に間違いないだろう。

だが、それにしても情けない姿だ。

 動くことも出来ずに見ていると、結った髪と服装の乱れたアンナが扉から出てきた。

見慣れているはずの笑顔のアンナだったが、その笑顔の中に怒りと凄味がたっぷりと混じって、どう見ても恐ろしい。

 そのアンナはゆっくりとリッツの目の前で腕を組んだ。それに対して夫のリッツはといえば、全裸のまま床に手を付いて謝っている。

「ごめんなさい! ちゃんと仕事します」

「最初からちゃんとしてくれれば怒らなくて済むんだよ?」

「ごめんなさい!」

 びしょ濡れの髪からは、止めどなく水がしたたり落ちている。垂れた水はリッツの周囲に水たまりを作っていた。

 水の精霊使いを妻に持つと、喧嘩の度に家がずぶ濡れになるんだなと人ごとのように考えていると、ヒューの隣にいたダンがさりげなく二人の間に割って入った。

「その辺で許してあげてよ、姐御」

 不意に割り込んだダンに、痴話げんか中の二人が弾かれたようにこちらを見た。目があったので、ヒューはおずおずと頭を下げる。

ダンに手招きされるままにダンの隣に並ぶと、アンナは慌てて振り返って頭を下げた。

「ごめんなさいボルドウィンさん! 時間でしたよね?」

「こちらこそ……あの……取り込み中だったよね……?」

 なんといえばいいのか困って、歪んだ眼鏡を外して手に持った。それを所在なくもてあそぶ。歪んでいる部分はそう簡単には元に戻らないが、この際はそんなことどうでもいい。

ただひたすらに気まずい。

 次に何を言ったらいいのかさっぱり分からずに、眼鏡をいじっていたヒューは唐突にリッツに言葉を掛けられて顔を上げた。

「お前……」

 何だかよく分からないが、リッツは眉を寄せている。怒っているのかも知れない。歪んだ眼鏡を掛け直して、ヒューはおずおずと頭を下げた。

「ヒュー・ボルドウィンです。発明家、やってます。昨日は助けて頂いてありがとうございました」

 形通りの挨拶をしてからリッツを窺ってみたのだが、リッツは何故かヒューの顔を見たまま動きを止めている。顔に何か付いているのかと不安になって、ヒューはダンに視線を送る。

気がついたダンが咳払いをした。

「ええっと、ボス。依頼人の前で全裸ってどうなんだろうね」

「やっべ、忘れてた」

 頭を掻きつつリッツが立ち上がった。昨日もその背の高さに驚いたのだが、全裸で間近に見るリッツは、彫刻のように整った、まさに鋼の肉体という体格をした青年だった。

服を着ていると細身に見えるのだが、裸体を見ると、かなり鍛え上げられている。

 しかもなかなかの二枚目だ。冴えないともっぱらいわれているヒューとは雲泥の差で、ため息混じりに視線をそらせるしかない。

ヒューはどちらかというとすべての体型が超標準で、どうみてもぱっとしない。その上、ドジでどんくさいと来ている。

世の中って少し不公平だ。

 だがヒューから見れば羨ましい容姿のこの男がアンナに襲いかかって、撃退されて飛ばされたと思うと、かなり複雑な心境だ。

 しかも全裸ではインパクトが大きすぎて、言葉が出てこない。

 そんなヒューにはお構いなく、リッツは軽く伸びをしてダンに命じる。

「しゃあねえ。支度してから行くから、コーヒーでも出しとけ、ダン」

「了解」

 苦笑混じりのダンに促されて、廊下を元来た方に歩く。

プライベートスペースを出かけたところで一瞬だけ振り返ると、リッツがアンナの肩に頭を乗せて何かを囁いているのが見えたが、すぐに扉は閉じられる。

 何だかその様子が妙に真剣で気に掛かったのだが、夫婦の問題に口を突っ込むとろくな事がないと昔からいわれているから忘れる事にした。

 支度を調えて二人が揃ったのは、それから数分後だった。 

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