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 ルイーズが誘拐犯を追って行ってから、三時間ほどでリッツとアンナが帰ってきた。急いで家を出たメグとは出会わなかったらしい。

マルティナとヘルマンに促されて、見たままの状況を二人に伝えたヒューは、そのまま椅子に座り込んでうなだれていた。

命を狙われても最後まで夢を叶えようとする覚悟を、ぐっと噛みしめる。

 しばらく黙っていた二人だったが、やがてアンナが口を開いた。

「何かあると思ってた」

 小声だったが、時計の針の音さえも聞こえている食堂では大声と同じぐらいよく聞こえた。いつものアンナとは打って変わって、少々尖った口調だ。

「何かって?」

 顔を上げてアンナに問うと、アンナは小さく頷いてリッツを見た。リッツが頷くのを確認してからアンナは口を開く。

「私たちへの呼び出し、ウソだったんです。本部は何の連絡もしていないって。でも呼び出し状は本物だったから、たぶん本部から盗まれたんだと思うんです。用紙の一枚や二枚、無くなっても気がつかないから」

「そんな……」

「ちゃんとヴァイン本部に捜査の依頼は出しとかなきゃ。でもたぶん犯人はこの事件の犯人と同じでしょうけど」

 アンナの目が微かに煌めいた気がする。笑顔だというのに少しその顔が怖い。アンナの指が微かにテーブルに触れ、こつこつと音を立てている。

「アンナ?」

「あっ、ごめんなさい。考え事してました」

 いつものように穏やかに微笑んだアンナだったが、その目の険しさだけは残したままは言葉を続けた。

「シアーズまで来たからついでだって、ダンと連絡を取って会ってきたんです。その時にダンの捜査結果を聞いてきたんだけど……遅かったみたいね」

 リッツを見つめてアンナが話しかけると、リッツも肩をすくめて頷いた。

「してやられたな」

「うん。やっぱりあそこかな?」

 何かを知っている様な口ぶりのアンナに顔を上げると、リッツが頷きながら口を開いたところだった。リッツは腕を組んでため息混じりに答えている。

「だろうな。やはりダンの報告は当たりだ」

「そっかぁ……だったら、ここからすぐだね」

「そうだな。何しろ貴族様は王都から近いのどかな田園地帯がお気に入りだしな」

「まとまってくれてるから助かるよね」

「確かにな。移動がしやすい」

 意味ありげな二人に、ヒューは身を乗り出した。

「もう彼らの居場所が分かっているんですか?」

「ええ」

「じゃあ犯人は!?」

「犯人が誰かも分かってます。まさかこんな仕組みになってるとは思わなかったけど……」

 ため息混じりにのアンナに、リッツが苦笑した。

「確かにな」

「あの時、もっときついお仕置きをしておけばよかったんだよ。テレンスもシャスタさんも優しいから」

「お前ね……。もしあいつらがそうしたら、お前は反省してるだろうから許してやろうって止めるだろうが」

「それはそうだけど、言って駄目ならちゃんと叱ってあげなくちゃ駄目だよ。今回は許さないからね」

 不穏な雰囲気を醸し出すアンナにヒューは目を丸くする。

今まで見てきた二人の関係から、どう考えても先に熱くなるのはリッツだろうと勝手に解釈していたのだが、アンナの怒りの方が格段強いようだ。

「あの……それで、犯人は?」

 思わず尋ねると、アンナはヒューがいたのを思い出してくれたのか、微かに微笑んだ。

「ごめんなさい。話しますね」

 二人が話してくれたのは、犯人についての詳しい情報だった。

ダンが突き止めてきた犯人は、クレイトン兄弟の父である、フランツ・ルシナ宰相参与と、テレンス・フォーサイス宰相に恨みを持った貴族で、元宰相参与のコールズという男だったのだという。

 コールズは、過去にルシナ宰相参与を殺そうとして捕らえられている。それ以後は投獄された上、仕事を失い、釈放後は自分の別荘にこもりきりなのだそうだ。

元々は自分の罪で総てを失ったというのに、コールズはずっとそれを恨みに思って、今回の復讐劇に及んだらしい。

 事件当時、ルシナ宰相参与は宰相秘書官室長で、フォーサイス宰相は宰相補佐官であったと言うから、この二人の付き合いはかなり長いようだ。

ちなみにルシナ宰相参与の名字は旧姓だそうで、本名はフランツ・クレイトンになるそうだ。

結婚して彼は婿養子に入ったが、ずっとこの名前で仕事をしてきた都合、仕事上はルシナ姓を名乗り続けているとのことだった。

「でもそれって僕には関係ありませんよね?」

「ま、一見するとな」

「じゃあ僕は一体何故、命を狙われたんですか?」

「そうだな。いわばお前は巻き込まれただけの被害者かも知れない」

 それを聞いてホッとした。アンナも頷く。

「まあそうだよね。あれ絡みじゃなかったのなら、ホッと一息かも。でもリッツ、本当に何も無いと思う?」

「分からないな。他にもテレンスやフランツに復讐するなら手は合っただろうが、奴らはこの眼鏡の研究に目を付けてきたんだ。そこに何らかの意図が無いとも言い切れん」

 難しい顔で黙り込んだ二人に、ヒューは不安になった。

「あの……」

 思い切って口を開くと、二人の視線が同時にこちらを向く。その視線の鋭さに、一瞬たじろぐが、決意して口を開いた。

「あれ絡みって、何ですか?」

 二人は目線を交わして黙った。そこに何らかの秘密があるのは確かだ。

だがこの二人の隠している事は、確実にヒューに関係している。それだけは間違いない。

ヒューはアンナを見つめたが、アンナは黙ったまま視線を逸らした。だからヒューはリッツを見つめて頭を下げる。

「教えてください。僕が巻き込まれてだけかもしれないけれど、もしもそのあれ絡みと言う奴だったら、僕の責任で彼らに迷惑を掛けていることになります。僕のせいで、子供たちや、ルイーズにまで害が及ぶなんて嫌なんです!」

 ヒューは立ち上がった。

「お願いします、リッツさん、アンナ!」

 頭を下げると、リッツは深々とため息をついた。

「悪いがマルティナ、ヘルマン、席を外してくれ」

 リッツが二人を見ながら告げると、二人は恭しく頭を下げて部屋から出て行った。ランドルフ以上にリッツは彼らの上司のように見える。

二人が出て行き、扉が閉じられたところで、アンナが静かに口を開く。

「リッツ、話すの?」

「仕方ない。それにこいつには話しておいた方がいい。でないとこの事件が終わっても何も知らずに飛ぶことを研究し続けるさ」

「だけど……」

 アンナが俯く。どうやら彼女はヒューがそれを知ることに反対らしい。それでもアンナは迷っているようだった。

「もしあれ絡みなら、こいつは実験に成功したら死ぬしか無くなる。やつらは空を飛ぶことを絶対に許さない」

 ヒューは弾かれたように顔を上げた。この言葉、ヒューが職人街で聞いてしまった言葉と一緒だ。

つまりあの時リッツは、怪しげな老人相手に、このことを話していたのだ。

 ヒューを殺す話をしているのではなかった……。

「……そうだね」

 アンナもようやく頷いた。アンナはリッツ以上にヒューが空を飛ぶという研究に入れ込んでいるのを知っているのだ。

二人の目が静かにヒューを見据えていた。

「これを聞けば、お前は怖くなって研究を続けられなくなるかも知れない。それでも聞くか?」

 リッツに確認されて、ヒューは唇を噛む。

「何も知らない方がいいと言うこともこの世にはある。それでもいいのか?」

「いいです。知らないで研究を完成させたら殺されて、知っていたら研究が続けなくなるなら、僕は知った上で完成させることを選びたい。僕は夢を諦められない」

「例えば周りの人々の命がかかっていても、か?」

「!」

 まだ選べない。でも夢は捨てられない。

「分からない。でも僕は諦められない!」

 子供の頃からずっとそれに手を伸ばしてきた。そこに大きな夢があった。

今その夢に、ほんの微かに指先がかかったところなのだ。だからその微かな手応えを捨て去ることなど出来ない。

 でなければ空を見る度に苦しくなる。空を見上げる度に後悔の苦さに俯くことになる。そんな未来は絶対に嫌だ。

「僕の命なら賭けてもいい。空を飛べるなら、その研究のためなら賭けられる。元々飛ぶ研究と死は隣り合わせです。落下、すなわち死ですから」

 それが発明家としての本心だった。口にして初めてその事に気がつく。

そうだ死ぬことが怖かったのではない。夢を失って生きていけなくなる方が怖い。

夢を間近に見ながら、わけが分からない事情で殺されるのが嫌だったのだ。

「なるほど、その覚悟はあったのか」

「当然です! でも他の人たちに危害が及ぶのは嫌だ。僕ら研究者はそりゃあちょっとは自分勝手です。自分の夢のために突っ走ることもあれば、周りが見えなくなることだってある。でもそれとこれとは違う」

 ヒューはぐっと拳を握りしめた。

「他人の命はどうでもいいというのは覚悟じゃない。我が儘だ! 僕は夢を貫き通すし、周りの人も守りたい。それが叶うなら僕は、何だってする」

 目をあげてヒューはリッツを見つめ返した。

殺されることは怖い。だけれど立ち向かわねばならないなら、立ち向かうしかない。

エディとシャスは、ヒューの隼を本当に気に入ってくれた。ルイーズは、臆病なヒューを守ろうとしてくれた。だから何かがあるというなら、それを聞きたい。

夢を後押ししてくれる人たちに報いたいのだ。

「それが僕の覚悟だ」

 ヒューは絞り出すように言葉を投げ出した。これ以外の答えはない。これが一番、正直な気持ちだ。

「……たく。お子様だな。あれもこれも自分一人で守り抜けるわきゃないだろう」

 やがてため息混じりにリッツがそういった。ヒューは握った拳に力を入れる。

これでは駄目なのか。どうしてもどちらかを取らねばならないのか。

俯くヒューの肩に、アンナの手が乗せられた。顔を上げると、アンナは笑顔で目の前に立っている。

「アンナ……?」

「だから、ヴァインがあって、私たちがいるんだよ、ヒューさん。私たちはヴァインで唯一、この件を専門で扱う事務所なんだから」

「この件?」

 顔を上げて二人を見ると、リッツは肩をすくめた。

「それを俺たちは『科学』と呼んでる。まあ、奴らがそう呼んでるんだけどな」

「『科学』……?」

「そうだ。精霊魔法を頼らずに、自分の力で精霊魔法と同じ効果を得る方法を彼らは『科学』と呼んでいる。『科学』は神の領域を侵す、あってはならない所行なんだとさ。その中にあって、空を飛ぶことは一番の御法度らしい」

「空を飛ぶことが何故?」

「空は人ではなく、神の領域だから、だそうだ」

「……はぁ……」

 確かに空は未知の世界だ。神の領域と言われるとそうなのかもしれない。何しろ、未だ誰も空を飛んだ者がいないのだから。

「僕の他にも研究者を知っているんですか?」

 気になって尋ねると、リッツは頷いた。

「ああ。人ってのはどうも空に憧れちまう生き物らしい。ま、お前同様に邪魔される事もあるようだが、殺された奴はいない」

 ヒューはホッと息をつく。殺された人はいないなら、ヒューも脅されるだけだろう。だが後に続くリッツの言葉は違った。

「でも敵は、お前を本気で殺そうとしていた」

「え……?」

「屋敷ごと燃やすなんてのは、本気以外の何者でもないだろう?」

「あ……」

 確かにあの状況は、邪魔されると言うレベルの出来事ではない。

「もしこれがお前を狙った『科学』絡みの事件だったなら、おそらくお前の研究は、神の領域に近づきすぎたんだ」

「神の領域……?」

「ああそうだ。奴らが信仰する神……闇の精霊王のな」

 一瞬にして目の前が暗くなった。

ここユリスラとは大陸中央山脈を挟んで対岸に位置する国、ゼウム神国。最も近いが、山脈を越えられないからぐるりと大陸を海伝いに一周するしかない最も遠い国だ。

そこは唯一、特別自治区を持たず、その国自体を亜人種が支配する闇の国である。彼らの存在は謎に包まれていて、噂には暗殺を生業としている人々がいると聞いている。

「な、何故、闇の一族が……」

「彼らの神は、精霊と人とが共存することを一番に望んでいるのさ。ま、それは一般的な精霊使いも同じだ。な、アンナ」

「うん。精霊使いは、精霊と共に生きる。それが鉄則だもの」

「つまり彼らは精霊使いの過激派ってわけだ。人の力だけで廻る仕組みを精霊の力を否定することだと忌み嫌っている。やがてその仕組みが精霊を滅ぼすと考えているんだ」

 淡々とリッツはそう語った。言葉を失っているヒューに、リッツは不敵な笑みを浮かべる。

「つまりだ、眼鏡。もしこれが『科学』絡みの事件なら、お前のハヤブサは、飛ぶんだよ」

「……え?」

「あいつらの指導者が、飛ぶと判断したから、お前を消しにかかっているってことだ」

「飛ぶ……僕のハヤブサが……?」

「まあそうだ。だが『科学』絡みじゃなかったら、闇の一族が研究者を殺そうと思うほどのことはない研究だということになる」

「あ……なるほど……」

 つまり巻き込まれただけなら、ハヤブサはたいしたことが無く、ヒューが狙われたのなら研究の方向が間違っていないということになる。どちらに転んでも複雑な心境だ。

 だがもう一つ疑問が浮かんできた。それは敵である闇の一族にとっても、絶対の秘密のはずだ。

なのにどうしてヴァインの一員であるだけのリッツが知っているのだろう。

「リッツさんは何故それを知っているんですか」

 当然の質問をしたはずだったが、リッツは押し黙った。アンナも困ったように口を閉ざす。しばらく沈黙した後、リッツが口を開いた。

「俺は長生きだから色々知ってるんだ。大陸中を旅して色々な情報も持っている。それだけさ」

「長生き?」

 口に出してからリッツのヴァインの身分証明書を思い出した。シーデナに住む精霊族は人間の十倍近い寿命を持っていて、千年近く生きるのだという。

もしリッツがあの英雄だったなら、長生きして当然なのだ。

「あの……」

「何だ?」

「あなたがリッツ・アルスター……だからですか?」

 思わず口に出すと、リッツが顔をしかめた。

「誰に聞いた?」

「あ、あの、これが納屋の棚の前に……」

 ヒューは慌ててヴァインの身分証を取り出してリッツの前に置いた。

「つい見てしまいました」

「……ねえと思ったぜ」

 受け取ったリッツはあっさりとそれを懐に入れた。

「じゃあやっぱりあなたは……」

「俺はリッツ・マイヤース。こいつは俺の叔父の身分証さ」

「は?」

「って言ったら信じるか?」

「……ええと……」

 ルイーズの言葉を信じるならば、やはり目の前にいるこの人物が、内戦の英雄の一人であるリッツ・アルスターだ。

だがどう答えたらいいのか分からず、言葉を探しているとリッツが苦笑した。

「まあ落としたのは俺のミスだな。問い詰めても仕方ねえ」

「じゃあ……」

「そ。俺の本名はリッツ・アルスターだ。シーデナ出身の精霊族さ」

「じゃあやっぱり英雄王の片腕の……?」

「まあ、そこは聞くな。今はこんな状況だ。説明するのも面倒くさい」

「あ、はい」

「お前は自分の目で見て経験し、考え、自分で信じたことだけを真実だと思っておけ。人の言葉に惑わされて、大事なことを無くさないようにな」

 リッツはそう言うと、肩をすくめた。この話はお終いと言うことだろう。

だがヒューはリッツが英雄王の片腕だと確信した。先ほどの言葉はルイーズの信条と同じだったからだ。

ルイーズにとってリッツは、憧れの人物なのだろう。

「じゃあ、あの……アンナは?」

 アンナという名前は歴史上に出てこない。案の定アンナはにっこりと笑って否定した。

「私はただのリッツの同族です。リッツよりは格段に若いんだけど、ヒューさんの倍以上は生きてるかなぁ?」

「……倍!?」

「今年で五十三歳になりましたから」

「!!」

「ヒューさんのお母さんぐらいの年じゃないですかねえ?」

 なるほどダンより二十歳以上年上なのだから姐御扱いするわけだ。

「ちなみにリッツは一七三歳ですよ。私より百二十歳も年上の夫なんです」

 ヒューは絶句した。年の差夫婦もここまで来ると人外だ。

横道に逸れそうなのを、リッツは咳払い一つで本道に戻した。

「長生きして、闇の一族を知っている俺たちだけに出来る仕事として、ヴァインから専門でこの仕事を回されてる。面倒だが、事情を広くヴァインに知れ渡らせるわけにも行かないからな」

「……そうですね……」

 精霊魔法を頼らずに、自分の力で精霊魔法と同じ効果を得る方法。それはおそらく人類ほぼすべての人の夢だ。

 水の精霊を操ること無しに、人々を治癒させられたら。

光の精霊無しに、人々の心を照らし導くことが出来たら。

風の精霊を使うこと無しに、遠くまで世界を見渡せたら。

土の精霊に頼るではなく作物を常に豊穣へと導けたなら。

 そして炎の精霊を使うことなく最大限の火力という攻撃力を持てたなら、どんなにいいだろう。

世界中の人々がそれを願ってやまないだろう。精霊魔法が使えなくても、精霊使いと同じ事が出来る力、それが『科学』。

 でもそれを実行すべく研究したら、実用にこぎ着ける前に、闇の一族によって殺される。こんな秘密を知られたら大変なことになるだろう。

初めて聞いたヒューだっても軽くパニックだ。

ただでさえ今日は衝撃的な事実が押し寄せてきている。英雄王の片腕がヴァインの一員で、妻に頭が上がらない愛妻家で、そしてこうして若い姿のままヒューの前に立っている。

それだけでもヒューの頭はいっぱいいっぱいだ。

 ヒューは眼鏡を取って、汗を拭った。あまりに想像以上の事が重なったから、流れ出る汗が熱いからか、脂汗か冷や汗か分からなくなってきた。

目の前に英雄の一人がいるし、自分は闇の一族に狙われているかも知れないと来ている。子供たちを連れ去ったのは貴族で元参与。

どう考えても雲の上の話なのに、それは身近で起きていた。

 闇の一族に殺されるような人々は、国の中枢にいる人たちだと思い込んでいたのに、まさかそんな暗殺理由があって、ヒューのような一般人が狙われることがあるなんて思わなかった。

「あの……」

 眼鏡を手でもてあそんだままリッツを見上げると、目の悪いヒューにも分かるぐらいリッツが先ほどまでとはがらりと態度を変え、思い切り眉を寄せているのが分かった。

「眼鏡を外してこっちを見るな!」

「……は?」

「平穏無事な暮らしをしてるってのに、その顔は不穏だ!」

「……はい?」

 突然の不機嫌にわけが分からずに固まっていると、アンナが不思議そうに間に入ってきた。

「リッツ、何を人の顔に文句を付けてるの? ヒューさんの顔に何か問題でもあるの?」

 穏やかな言葉だったが、何故かリッツは椅子から音を立てて立ち上がる。

「おおありだ!」

「何かリッツ、変だよね? 最初っからヒューさんを嫌ってたし。今まで依頼人に対して、こんな事は一度もなかったよ?」

「……う、まあ……」

「何か隠している事があるでしょう?」

 アンナに詰め寄られたリッツが、たじたじと後ずさる。

「人の顔のことが気にくわないなんて言って差別するの、間違ってるよ。それにヒューさんは普通だよ?」

「普通なもんか!」

 ヒューは思わず暖炉の上に置かれていた鏡を見てしまった。子供の頃から見慣れた顔だ。

ごくごく普通の顔だと思うのだが、リッツから見てどこが普通じゃないのだろう。

「お前、気がつかないのかよ」

「だから何が?」

「こいつ、エドにうり二つなんだ!」

 リッツがこちらを指さして怒鳴った。言われたアンナはきょとんと目を丸くしている。

「……エドさんに?」

「気味悪いほど似てるんだよ! そのくせ性格は正反対だ。エドの顔して情けねえこと言われてみろ! エドの幽霊が出るよりも気色悪いだろうが!」

 リッツが半ば本気で顔をしかめた。

ヒュー自身は、そのエドなる人物を知らないから、何も言いようがない。だが言葉の端から察するに、その人物は死んでいるらしかった。

「そうかなぁ……?」

 アンナが不意にヒューの頬を両手で挟んだ。それから至近距離でのぞき込んでくる。

あまりの近さに鼓動が早くなった。ついついあの夜の、艶っぽいアンナを思い出してしまう。

「あ、瞳が水色なんだ。髪の色もエドさんと一緒だね」

「だろ?」

「でも分からないよ?」

「そりゃそうだろ。お前は年喰ってからのエドしか知らないんだからな。こいつは、エドの若い頃にうり二つなんだ」

「そうかなぁ~」

「疑うなら事件が片付いたら、こいつをパティの前に連れてってみろ! 絶対にパティも納得するぞ!」

「事件が片付いたらね」

 アンナはため息混じりにそういった。アンナの目は笑っているのに笑っていない。

先ほどから穏やかに笑うふりをして、目はずっと外を見ているの事に、鈍いヒューが気付くほど、いつものアンナとは違う。

「あの……」

「何だ?」

「何?」

 二人が同時に振り返る。顔は似ていないけれど、妙に雰囲気の似ている夫婦だ。

だがまたリッツの眉がギュッと寄る。どうやら自分の顔が悪いらしいと判断して慌てて眼鏡をかけ直す。

リッツの前で眼鏡を取るのはやめよう。こうポンポン怒鳴られるのはたまったものじゃない。

「犯人が分かっているなら乗り込んでは……?」

 思わず率直に尋ねていた。分かっているなら乗り込めばいいのにというのが、話を聞いたヒューの本心なのだ。一人犯人を追ったルイーズが無事に帰ってくる保証はない。

「今準備中だ」

 あっさりとリッツが答えた。ヒューが眼鏡を掛けたことに軽く安堵の吐息を漏らされた。

本当にこの顔が嫌みたいだ。

「準備中?」

「今日のうちにダンが侵入してる。きっと今頃は敵の屋敷の中にいるだろうよ。ダンなら状況を瞬時に把握して、伝言を必要な部署に回してくるはずだ。それにメグがヴァイン本部に報告に行ったんだろ?」

「はい」

「じゃあ、でかいのが動き始めているはずだ」

「でかいの?」

「事態は、お前の暗殺ではなく、要人誘拐に移ったんだ。軍が出てくるぞ」

「え……?」

「憲兵隊か、査察部がな」

 ヒューはゴクリと唾を飲み込んだ。あの子たちはそれほどまでの重要人物の子だったのだ。

「……それは……大事ですね」

「そうだ。ま、ルイーズはそれを狙ったんだろうな。それに俺たちがかき回すよりも、軍が動いてくれた方がこちらも動きやすい。相手は貴族だ。ヴァインよりも軍の方が有利に動けるはずだ」

「じゃあ、今は……?」

「待ちの状態さ」

 リッツが淡々と説明した時だった。アンナが音を立ててテーブルに手を付いたのだ。

「でもリッツ。本当に待ってていいの?」

 苛立ちのこもった声でアンナがリッツを見据えた。エメラルドの瞳はやはり怒りで異様な煌めきを帯びている。

「アンナ。気持ちは分かる」

「分かるんなら一足先に動いてもいいよね? もうすぐ日が暮れるし」

 ポツリとアンナが呟いた。ヒューは首をかしげた。夏の日は長いから、真っ暗になるまではまだ三時間以上ある。

「ね、リッツ。日が暮れたら目立たなくなるよね?」

「……まあな」

「心配なの。動いちゃ駄目?」

「お前ね、敵を一網打尽にしなきゃ意味ないだろうが」

「一網打尽?」

 二人の会話に思わず口を挟んでしまった。軍が絡んでくると、何故一網打尽なのだろう。

「いいか? 要人誘拐の犯人は分かっている。だがそいつがお前の暗殺をしようとしてた理由が分からねえんだ」

「はぁ……」

「お前を殺す事がテレンスへの嫌がらせだけだったらまあいい。だがそこに闇の一族が絡んでいたらどうする? 俺ら二人で乗り込んで逃がしちまったら、元も子もねえだろ?」

「はい」

 色々な事が分かってきているけれど、いまだヒューが狙われた理由が『科学』絡みなのか、嫌がらせなのか分からないのだ。

「軍が主犯を捕らえる。その間に俺たちが目を凝らして逃げ出す奴をとっ捕まえる。もし闇の一族が絡んでいたなら、そいつをあぶり出せるんだ」

「なるほど」

 待ちの意味が分かった。ダンは時が来たら確実に捕らえるよう屋敷に潜入して、怪しげな人物を探っているのだ。

「だけどあの子たちはまだ子供だよ? それなのに怖い思いをさせてるなんて、絶対に許せないよ」

「落ち着けアンナ。慌てる乞食はもらいが少ないんだぞ?」

「落ち着いてるよ。でも何か早く助ける方法無いの?」

「それをいまダンがやってるんじゃねえか」

 冷静に告げられたアンナが、悔しげに唇を噛んだ。

「あの子たちに何かあったら犯人を許さないから……」

 アンナのエメラルドの瞳が、更にギラリと凄味を帯びた。いつものアンナじゃない……。

「あの、何か出来ることは無いんでしょうか?」

 思わず二人に尋ねていた。二人の視線は突き刺さるように痛い。

「その……僕のような素人が言うのもおこがましいんですが」

 素人だけど、もしこれが『科学』絡みなら、ヒューのせいで子供に危険が及んでいることになる。それなのに普通にしているなんて、落ち着かない。

「お前の気持ちは分かる。それからお前の気持ちも分かるぞ、アンナ。そう苛々するなよ」

 リッツがアンナの肩を後ろから抱いて引き寄せた。リッツの胸に寄りかかって体重を預けたアンナは、大きく息を吐き出しながら俯いた。

「ヴァインは、依頼人第一……かぁ……」

「ま、そういうことだな」

「そうだよね……」

 アンナは大きく大きくため息をついた。

「いつもは動く方だから、待つのは嫌だよ。心配ばっかり募っちゃう」

「そうだな」

 リッツも同じように軽くため息をついて頭を掻いた。苛立ちを隠しきれないアンナに同感だ。不安ばかりが募っていく。

自分は一体どうしたらいいんだろう。何が出来るのだろう。

 ふと窓の外を眺めていたら、風が木々を強めに揺らしていることに気がついた。しかもおあつらえ向きに丘の下から上へと吹き上げている。

これはずっと待っていた風だ。

この風を利用すれば、飛び立てるかもしれない。でもそれだけの力ではハヤブサが飛ぶ自信がない。ハヤブサはまだ軽量作業の途中なのだ。

ヒューは立ち上がって窓に張り付いた。それでも何か出来ることがあるはずだ。ヒューにしかできないことが。

 こぶしを握りしめて窓の外を見据えていたら、唐突に隼の折り紙を教えてくれた人のことを思い出した。

そういえばタルニエンの国には、凧と呼ばれる空を飛ばす玩具があるのだ。空を舞う竹細工に紙を貼り、飛ばすための持ち手に紐を着けた簡単なものだが、それが自在に空を舞うのだという。

 前に怪しげな市場でそれを購入して飛ばしたことがある。強めの風にぐんぐん空へと上がっていく凧にヒューは感動した。

よくよく考えて見れば、素材は違っているし、形状も違うけれど、木枠に布張りのハヤブサと構造が近くないだろうか?

 もしかしたら凧の技は、ハヤブサに使えるのではないだろうか?

 巨人手ので投げ飛ばされなくても、この向かい風と、急斜面から馬か何かを全力で走らせ、凧のように紐で引いて貰えればハヤブサは浮くのではないだろうか。

 ヒューはガラスに手を付いたまま、口元をほころばせた。

 ……あった。ヒューにも出来ることがあった!

「どうした、眼鏡?」

 リッツに問いかけられて振り返る。

「『科学』絡みの事件なら、その屋敷に闇の一族がいるんですよね?」

「ああ?」

「いますよね!?」

 詰め寄ると、リッツは一歩下がった。

「いるだろうな」

「じゃあ、もしその上を僕が飛んだら、どうなりますか?」

 思いつきだった。タルニエンの凧のようにハヤブサを飛ばすことが出来れば、ハヤブサは空を舞うことができるかも知れない。

そのためには凧の紐をもって、助走してくれる人が必要だ。

「もし敵の本拠地で飛んだら、闇の一族は確実に僕を殺しに屋敷の外に出て来ますよね?」

「くるだろうな。お前もろともハヤブサを破壊するさ」

「そうですよね! それって好都合じゃないですか?」

 リッツが絶句し、アンナが目を見開いた。

「まってくださいヒューさん、もしかして飛ぶ気ですか?」

「そうしたら一網打尽になるよね?」

「お前……餌になるつもりなのかよ?」

「はい。確か敵の本拠地は近いんですよね?」

「ここから馬で数十分のところにある貴族の別荘地だ」

 ヒューは外を見た。風が徐々に強くなってきている。これ以上強くなられても困るが、弱まられるともっと困る。

ならば飛び立つチャンスはまさに今と言うことになる。

「今なら風がある。飛び立つなら今です!」

 断言して二人を見ると、二人は唖然とした顔でヒューを見ていた。

やがてリッツが口を開く。

「試験飛行はしてないんだよな?」

「してません」

「これだけ時間を掛けて作ったのに、墜落しちまえば何も残らねえぞ?」

 頭の中に、心血を注いできたハヤブサの姿が浮かんだ。墜落すればあの美しい機体は、粉々に砕け散るだろう。

でもヒューに迷いはなかった。

「今まで風がなかったんです。なのに今、丘に向かって向かい風が吹いてる。絶好のコンディションじゃないですか。それならば、初飛行と救出とを一緒にやれば効率がいいでしょう?」

「ヒューさん……」

「バラバラになってもハヤブサの設計図はここにあります」

 ヒューは自分の頭を指さした。

「僕が生きていれば何度でもハヤブサは蘇ります。ハヤブサが墜落しても、ちゃんと実験結果が僕の手に残る」

「お前の命だって危ないんだぞ?」

 腕を組みながら眉を寄せてリッツに言われたが、ヒューの心はもうすでに決まっていた。

「僕のハヤブサが、僕を殺すわけがない!」

「お前……」

「僕は夢を諦めません。でもエディもシャスも、ルイーズも失いたくない。だったら僕だって出来る限り事をやって命張るしかないじゃないですか! それが僕の覚悟です!」

 言い切ると、誰もが押し黙った。やがてアンナが口を開く。

「本当に出来ますか、ヒューさん?」

「分からない。でもやる価値はあると思う」

 決意を込めて告げると、リッツが腕を解いた。

「飛べるんだな、眼鏡?」

「それも分かりません。でもさっきリッツさんが言いましたよ? もし闇の一族に狙われているとしたら、僕のハヤブサは、飛ぶと」

「ああ。でももし飛べなかったら、当初の予定通りダンの連絡待ちだ。そこはいいな、アンナ」

「うん……分かってる」

 二人の気持ちも決まったようだった。

「もし失敗したら、僕はその場に捨て置いてください」

 真っ直ぐにリッツとアンナを見つめて告げると、アンナが微かに目を伏せた。

「……本当にそうするかもしれませんよ? あの子たちは、私の親友の子で私がこの手で取り上げた大切な子供たちです。だからあなたと子供たちの命を天秤に掛けた時、子供たちの命を優先しちゃうかも知れませんよ?」

 淡々とアンナに尋ねられて、ヒューは力強く頷く。

「構いません。飛ぶことに失敗して何かがあっても後悔しません。空は僕の夢です! 夢に命が賭けられずして、何が発明家ですか!」

 断言してアンナの瞳を見つめ返すと、アンナは頷いた。

「リッツ、やろうよ」

「……試す価値はある、か」

 リッツも頷いた。ヒューは大きく息を吸った。これで戻れないところに来た。

でもハヤブサの初飛行は、この状況がとても似合っているような気がするのだ。

「で、眼鏡。どうやって飛ばす気だ? ここから自力で飛べねえだろう?」

「はい。飛べません」

「どうするつもりだ?」

 思い切り疑いの目で見るリッツを、ヒューは見つめ返した。

「リッツさん、タルニエンの凧を知っていますか?」

「ああ知ってる。傭兵をやってて長いことタルニエンにいたからな」

 またまた気になることをさらりと言う。だが今は時間がないから聞かない。

「僕のハヤブサを、二人で空にあげてください」

「どうやってだ?」

「ハヤブサの胴体にロープを二本括り付けます。そのロープを馬に括り付けて、敵の屋敷まで僕とハヤブサを飛ばしたまま引っ張っていってください!」

「なるほど。引く力で上げようってんだな」

「はい。それで敵に見つかったら合図するんで、思い切り引いて戻ってください。たぶん敵がいたなら、僕とハヤブサを追って屋敷の外に出てくるはずです。だから……」

「あとは、俺たちに何とかしろって事だな」

「はい」

 一瞬押し黙ったリッツだったが、すぐに顔を上げた。

「明るいうちに飛べそうか?」

「はい。あとは両翼を金具で本体に取り付けて、凧用のロープを二本、本体に固定するだけです」

「……そうか。じゃあ、やるか」

 その一言で、事態が一気に動き出した。 

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