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――だからそんなにのんびりしてたら危ないって言ったのに……。
床に座り込んだまま心の中でヒュー・ボルドウィンは呟いた。命を狙われていると伝えてからもう一月以上が過ぎているというのに、週に一度訪ねてくるパトロンのバーンスタイン男爵ときたら、大丈夫だと笑うだけだ。
もしかして冗談だと思ったのだろうか? こんな状況だというのに、ヒューは首を捻って考え込む。立ちこめ始めた煙の中で、ヒューは呆然と事件の始まりを思い出していた。
ヒューが危険を察知したのは、シアーズのボロアパートメントを出て、この屋敷に移ってきたのとほぼ同時だったといっていい。
まず夕食に毒キノコシチューが出た。貧乏時代に仕事でキノコ辞典のスケッチを手伝ったことがあったから難を逃れたが、味見した料理人がキノコにあたって病院に担ぎ込まれた。料理人はほんの一日足らずで戻ったが、料理人曰く、キノコをシチューに入れた覚えはないという。
次に階段にかけられていた絨毯の留め金が外されていた。ヒューは数段転げ落ちるだけですんだのだが、家付きのメイドの一人がけがをして職を辞した。それから磨き上げられた木の廊下にきっちり牛乳がすり込まれていて、幾度か派手に転ぶ羽目になった。これが地味に痛くて嫌だった。
そして極めつけは研究室の扉だ。扉は外側から大量の接着剤で固着されていて、開かなかったのだ。この接着剤をはがし取るのは一番手間だった。情けない思いで少しずつはがすのが切ない。
扉と戦い終えて中に入ると、大量の発明品設計図が、大量の紙吹雪になって置かれていた。その真ん中に突き刺さっていたのはナイフだったのだ。一番大切な設計図は身につけていたものの、これには肝が冷えた。
ここまでくればいくら鈍いヒューでも、命を狙われているのは自分だと気がつく。
すぐさま相談に行ったところ、のんびり屋のバーンスタインは穏やかにそれを聞き、何とかしようと請け負ってくれた。運び屋であり、何でも屋でもあるヴァインのシアーズ本部に知り合いがいるから、相談してくれるというのだ。
それが一月前の話になる。ヴァインといえば、迅速にして、的確な仕事をするイメージがある。なのに一月もの間誰も訪ねてこないのはおかしい。
ヒューはため息をついた。まさかとは思うが、わけの分からない発明をして、金を使う発明家のヒューが邪魔になって消そうとしているのは、バーンスタイン本人だったりして。そうだとしたら、どうしよう。
嫌な想像を打ち消すように、廊下の向こうから火柱が上がり、爆風と共に熱気が流れてくる。
「熱いですね」
新入りのメイド、アンナが小さく呟いた。彼女もスカートの中に足を上手に隠して床に直接座り込んでいる。ほんの一月ほど前にやってきた二十歳前後の赤毛の女性だ。長い髪をいつも高く結っている。王都シアーズの、さる国家の重鎮からの紹介状を持たされてきた有能らしい彼女も、この状況ではそれを発揮するすべもない。
言葉を発する気力もなく黙っていると、アンナがポツリとつぶやいた。
「お腹空きましたねぇ……」
「え……?」
「焼き豚は無理でも焼き鳥ぐらいは作れそう……」
「いや、それって、熱いとかいう問題じゃないよね?」
思わずうっとりと炎を見つめるアンナに、突っ込んでしまった。
「そうですか? お昼前だからそんなことばっかり考えちゃいません?」
「この状況でお腹空かないよ!」
大声で否定したヒューに、アンナはこんな状況であるというのに余裕の表情をみせて微笑む。その笑みに全く邪気がないのがかえって怖いぐらいだ。普通のメイドならば、もう少し怯えたり、泣いたりしてもいいはずなのに、アンナは全く笑顔を絶やさない。
もしかして自分の命を狙っているのは彼女では?
それとなくアンナから距離を取る。炎燃えさかるこの家の中にいて、脱出が不可能に近い状況なのに、余裕の表情を浮かべて昼食のことを気にするなんて怪しすぎる。そういえば彼女は、ヒューがバーンスタインに相談した直後にやってきた。思い起こせば彼女が来てからの方が、罠が悪質になったような気もする。
「大丈夫ですか?」
尋ねられて顔を上げると、心配そうに見ているアンナと目が合った。ヒューは黙って頭を振った。駄目だ。追い詰められると何でも疑わしくなってきてしまう。
アンナはいつも笑顔で、ヒューが追い詰められている時は厭わずに仕事の手を止めて話を聞いてくれる。これが演技だなんて、まかり間違ってもあり得ない。それに仕掛けられる一連の罠のいくつかを、驚く程の鋭い洞察力で見抜いて危険を知らせてくれている。彼女が犯人だったら、そんなことするはずもないのだ。
では誰が……何のためにヒューを狙うんだろう。どう考えても貧乏な発明馬鹿のヒューに、狙われるような心当たりはない。
「最悪だ」
今度はため息と共に愚痴がこぼれる。
「せっかくここまできたのに……」
金と機会に恵まれず、様々な発明品で糊口をしのいできたヒューに、やっと夢を叶えるチャンスが巡ってきたというのに……。最初の爆発で歪んだ眼鏡ごと顔を覆う。そう、ここまで来るのに五年もかかった。街で売りさばいていた滅多に売れない発明品が珍し物好きの金持ち貴族バーンスタインの目に止まったのだ。
その数日後、バーンスタインは惜しみなく金を使わせてくれ、牧草地と森と山に囲まれた素晴らしい環境の別荘を提供してくれることになったのである。それがどれほど嬉しかったか。なのに憧れの研究三昧生活が、こんな危険と隣り合わせだったなんて。屋敷ごと燃やされてしまうなんて、ありえないにも程がある。
今までの研究書類を総て服の中に忍ばせて持ち出せたことは、唯一の救いだろう。これがなければ、ヒューは何もかもを失ってしまう。
「大丈夫ですか?」
不意にアンナに声を掛けられて、ヒューは顔を上げた。
「ごめんね。こんな状況に巻き込んでしまって」
今までの習い性で頭を下げると、アンナは何故か申し訳なさそうに首を小さく振った。
「いえ、ボルドウィン様のせいじゃありませんし」
「……そうかな」
「そうですよ。命を狙われる方が狙う方より悪いなんて、聞いたこと無いでしょう?」
「うん……まぁ……そうだね」
これは慰めなのだろう。笑顔のアンナに他意はなさそうだ。眼鏡を何とか元に戻そうとこねくり返す。ヒューはかなり目が悪くて、これがないと目の前すら見えないのである。
「壊れちゃいましたね、眼鏡」
「うん。高かったんだけど」
「眼鏡は直せばいいんです。命があっただけもうけもんですよ」
「……うん」
何とか顔に眼鏡を乗せて頷く。それにしても彼女は変わっている。これぐらいの年の女性にしては、妙に年を経たような物言いをすることがあるのだ。見た目はともかく、その物言いを聞いていると、まるで母親と話しているような気分になることもある。
また再び爆発が起こった。鼻をつく焦げた匂いと、じりじりと焼かれるような熱気が迫り、煙が蔓延し始める。火事が広がりつつあるのだ。一体幾つ爆発物があるのだろう。
逃げようと思っても既に廊下は火の海で、状況は最悪だ。唯一の救いは、この家に使用人が最小限しかいないことだ。危険なことが起こるようになり、近所から行儀見習いにきていたたくさんのメイドが、全員やめたのだ。だから残っているのは執事夫妻と、メイド頭、料理人、そして新人メイドのアンナだけという有様だ。
『仮にもバーンスタイン様のお屋敷で何事か』とメイド頭は怒っていたが、ヒューはむしろほっとした。大人数が働いていたら、この爆発に巻き込まれてたくさんの人を犠牲にしてしまうからだ。狙われているのがヒューだったとしたら、自分のせいでたくさんの人に被害が及ぶのは嫌だ。
ヒューは隣に座ってなにやら考え事をしているアンナに目をやり、ため息をついた。アンナに年齢を聞いたことがないから実年齢は知らないが、明らかにヒューより年若いアンナを巻き込んでしまっったことを、後悔してもしきれない。ヒューだってまだ二十一歳なのだが、推測するとアンナの方が絶対に若い気がする。そのアンナを危険な目に遭わせていることが心苦しい。
ずり落ちた眼鏡を両目がかかるよう、ねじり上げて戻してから、顔をあげて隣に視線を向ける。するとアンナがいない。慌てて見回すとアンナは立ち上がって窓に張り付いていた。ガラス窓の外側は、はめ殺しの青銅飾りが付いていて、そこから脱出する事は不可能だ。なのにアンナはそこに何かを見つけたらしく満面の笑みを浮かべて振り返った。
「どうかした?」
「これで助かりますよ」
「え?」
何がどうしてこの状況で助かるのか、ヒューにはさっぱり分からない。だがアンナは自信たっぷりに微笑む。
「こちらもそろそろ行動開始、しましょうか?」
「え? 何が?」
アンナの言葉に思考がついていかない。困惑してアンナを凝視すると、エメラルド色をしたアンナの瞳が楽しげな色を浮かべて見返してきた。
「このままじゃ、焼け死んじゃうじゃないですか」
「……そうだけど……」
「私、まだ死にたくないですし」
「ぼ、僕だって嫌だよ!」
「じゃ、そろそろ動きましょ。今なら大丈夫です」
窓際から離れたアンナは、廊下の先へ目を向けた。何を言い出して何をするのか見当も付かないから、圧倒されてアンナを見つめているしかない。
「あ、そうだ。これを聞いておかなくちゃ……」
独り言のように呟いたアンナが、至極真面目にこちらを見つめた。
「ボルドウィン様。いいえ、ヒュー・ボルドウィンさん」
はっきりと目的を持って自分を呼ぶアンナの声で我に返った。その今までとは明らかに異なる強い声の調子に思わずアンナを見ると、口元に笑みを残しつつも、逆らう事を許さない目でヒューをじっと見上げている。
「……アンナ?」
「この火災と爆発は、偶然に起きた事故だと思いますか?」
「え?」
思いがけない言葉に聞き返すと、噛んで含めるようにゆっくりとアンナが繰り返す。
「それともあなたを狙って故意に引き起こされた物だと思いますか?」
まるで教師のような物言いに、ヒューは逆らうことも出来ずに頷いた。
「うん」
「これが第三者によって故意的に、あなたを狙うために引き起こされた爆発であると思っていいんですね?」
笑みを浮かべ、穏やかなのにごまかすことを許されないようなアンナの口調に、ヒューは思わず頷いていた。
「うん」
「では一連の問題も、本物の殺意がある事件であると思っていいですよね」
「いいよ」
相手はメイドで年下のはずなのに、ヒューは従順に頷くしかない。えもいわれぬ妙な迫力に押し切られるようにヒューは押し黙って唾を飲み込む。そんなヒューをじっと見ていたアンナは、強い目の光を閃かせながら頷いた。
「分かりました。ではひとまず……逃げましょうか?」
「え?」
「故意か偶然かの確認に時間がかかっちゃいました。この家のメイドさんたちは優秀ですぐに現場を片付けてしまうんだもの」
アンナはいたずらがばれた子供のように照れくさそうに笑った。
「それって……どういう……?」
「調べようとしても証拠が無かったんですよねぇ」
「ええっ?」
「使用人の皆さんにあなたの評判を聞くと、嫌われたりしないタイプみたいですね。どちらかというと、存在感がものすごく薄いですね」
「存在感が薄い……」
たまにいわれることだが、面と向かって言い切られると流石にショックだ。
「だから恨みを持った使用人がひどいいたずらをする可能性もありません。つまり誰かが目的を持ってあなたを狙っていること間違いなしですね」
「え?」
「やっぱり、発明ですかねぇ。それ以外に目立つところもないし……」
至極真面目にアンナはそう呟いた。発明以外は無能なのかと軽くショックを受ける。だがよくよく考えるとそれだって妙な話だ。ヒューの発明してきたものなんて、それこそ人の目にはがらくたとしか映らない物ばかりなのに、何故発明で命を狙われるのだろう。
転げ回って逃げるから絶対に起きられる目覚まし時計、回した方が汗を掻く風起こし機、付けるのは簡単だけど消すのに非常に苦労する大火力小型ライターなどなど。どれもそれがきっかけで命を狙われるような代物ではないはずだ。
おそらく間抜けな顔で、口をあんぐり開けているだろうヒューを尻目にアンナは独り言のように呟いている。
「それにしても極端。いたずらから急に爆発物なんて」
考え込むように唇に拳を当てたアンナは、どう見てもメイドではなかった。そこにいるのは、知的で物事に動じない冷静な人物だ。だからついアンナに尋ねていた。
「あの、君はメイドじゃなかったっけ?」
「それは後です。とにかく、逃げましょう」
あっさり躱された。でもヒューにだって、今の状況がのんびり立ち話をしている状況ではないと分かっている。
「逃げるって……どうやって?」
先ほどの爆発から、炎が目の前に広がりつつある。玄関に行くにはその炎の中を通らねばならないし、使用人用の出入り口に行くには、更に激しく燃えさかる炎を超えていかなければならない。
どっちにしても普通では逃げられそうにない。
「大丈夫です。任せてください」
「任せてって……」
困惑してうろたえるヒューを無視してアンナはまっすぐに玄関を向いて立った。揺らめく炎に、アンナの顔が明るく照らされる。その凛とした顔は、何とも言えず頼もしい。こんな状況なのに思わず見とれていると、アンナはヒューの目の前でおもむろにスカートをたくし上げた。
「な、何を!?」
叫んだヒューの目の前で、アンナは形のいい太ももに填められていたベルトから銀色に輝く棒を抜き取った。目の前で振りかざした瞬間軽い音を立てて伸びたそれは、青く揺れる光を微かに放つ不思議な宝玉を頂点に抱いた見事な白銀の杖に変わる。
「本当はこうなる前に夫が迎えに来るはずだったんです。ごめんなさい」
「……夫……?」
「はい。だから申し訳なくて。さっき外にいましたから、状況は分かってると思います」
「え、でも……夫?」
意外すぎる。二十歳そこそこだろうに、人妻なのか?
「とりあえず火を消して玄関に行きましょう。出られる可能性のある場所に行っておくのが、今できるベストです」
アンナは何の説明もせずに、きっぱりとそう告げて微笑んだ。
何が何だか分からずにヒューが混乱しながら見上げると、アンナが白銀の杖をかざした。炎の明かりに照らされて、青い宝玉がまるで深い海の水のようにゆっくりと揺らめく。
「安息と癒しを司る水の精霊よ、我に力を与えよ」
アンナの口から滑り出した言葉に息をのむ。
「精霊使い……!」
呻くヒューの目の前で、手をかざすアンナの目の前に強大な水の球が現れた。それはゆっくりと波打つように回転していた。
「道を作って、水の球!」
アンナの言葉通り、水の球はゆっくりと回転しながら火事の炎を消していく。
「火が消えている間に逃げましょう!」
アンナに促されて戸惑う。精霊使いは千人に一人いるかいないかといった逸材だ。その彼女が経歴を隠してメイドをしているなんて怪しすぎる。もしかしてこうして助けてくれるのも、何らかの罠ではないのだろうか。
疑うヒューにはお構いなしに、アンナはさっさと水の球が火を消して作った玄関までの道を小走りで駆けていく。途中でヒューが付いてきていないと気がついたアンナが、振り返って大声で呼びかけてきた。
「早くしないとまた爆発が起こるかもしれませんよ!」
「……でも……」
「この道、長く持ちません。そのままそこでこんがり焼けちゃったら困りません?」
「困る!」
「じゃあ急いで!」
ヒューは唇を噛んだ。まだだ。まだ夢の入り口に入ったばかりだ。ここで死ぬわけにはいかない。ようやく大空を目指せる翼の片鱗を手に入れたのだから、このまま焼け死ぬなんてごめんだ。罠だろうが何だろうが、少しでも希望がありそうなアンナの方に逃げてみる方が生きられる可能性が高い。
決意をしたらやることは一つ。入り口まで走るのみだ。
立ち上がりアンナの後を追って、炎が消えた焦げ臭い廊下を走る。もうもうと立ちのぼった湯気の濃さときつい匂いに、息が詰まりそうだ。水が通った部分だけ見事に炎は消えているが、当たっていない部分はくすぶっている。やはり完全に消すのは難しいのだろう。
大急ぎで応接セットの置かれた玄関ホールに飛び出た。正面に屋敷の正面玄関を飾る大扉がある。火の回っていないホールの空気を胸一杯に吸い込むと、やっと生き返った気分になる。これでようやくこの屋敷から出られそうだ。
扉の前には今までヒューたちがいたのと反対に使用人住居にいた料理人や、執事、執事の妻、メイド頭がすすけた顔で立っていた。全員煤で汚れた顔を強ばらせている。
「皆さん大丈夫ですか? 全員いますか?」
「はい」
全員を代表して頷いた老執事のランドルフの返事に、ヒューは安堵の吐息を漏らした。
「よかったぁ……」
安堵したのもつかの間、ランドルフが険しい顔でヒューを見た。
「ボルドウィン様、扉が開きません」
「え? 何で……?」
「鍵が壊されているようでございます」
「鍵が……」
一気に血の気が引いた。頭から血が下がる音が聞こえそうだ。磨き込まれたこの大扉は、バーンスタイン自慢の物で、かなり重たくて厚い。これだけ大きなマホガニーの扉もないと、常々ヒューは聞かされている。鍵を閉めてしまえば体当たりしてもびくともせず、丸太を持って攻め込んでこない限り打ち破れないというのが、バーンスタインの自慢だ。
鍵が壊れて扉が開かないなら、そんな自慢の扉を開ける方法なんて無い。ヒューはどうすることも出来ずに黙り込んだ。これで終わりだと思うと、膝ががくがくと震えてくる。死ぬのは嫌だ。まだまだ死んでたまるかと歯を食いしばっても、ここから出る手段が思いつかない。
ちらりと隣に立つアンナを眺めたが、ため息をついた。いくらアンナが水の精霊使いであるとはいえ、巨大で重たく開かない扉をこじ開ける事なんて出来るはずがない。このまま爆発の炎に巻かれて全員焼け死んでしまうんだろうか。
再び顔を両手で覆い、うなだれた。自分だけじゃない。ヒューが狙われているというのに、ここにいる全員が死んでしまったりしたら、後悔してもしきれない。
「ごめんなさい」
ヒューは全員に深々と頭を下げていた。
「僕のせいで巻き込んじゃってすみません。本当にごめんなさい」
頭を上げられずにうつむいたまま黙り込むと、ランドルフに優しく呼ばれた。のろのろと顔を上げると老執事は穏やかに微笑んでいる。
「ボルドウィン様のせいではございません」
「でも僕のせいで……」
再びうつむきかけたヒューに、慌てることなく余裕の表情を見せたのは、アンナだった。
「諦めちゃ駄目ですよ、ヒューさん」
力強くそういったアンナは、料理長ヘルマンに指示して、重たい応接セットの椅子を一緒に持ち上げた。何が始まるのかと息をのむと、アンナはヘルマンと共に、重たい椅子を扉にめいっぱい叩きつけたのだ。
両方とも固くて重たい素材だから、ものすごい音を立ててぶつかり合う。
「もう一回お願いします!」
アンナが確信を持って告げると、再びヘルマンが手を貸した。繰り返し椅子が扉に叩きつけられる。突然の行動に戸惑い、動けなくなったヒューの目の前で、アンナは怯むことなく料理人に指示をして椅子を扉に叩きつけ続ける。気がつくとヘルマンだけでなく、ランドルフやその妻、メイド頭までもが同じ行動を始めた。その様子を呆然と見ているしかない。そんなことを続ける意味がわからないのだ。
しばらくすると、確かに扉の向こうから反応が返ってきた。力強く叩かれたノックに全員が気がつく。当然一番扉の近くにいたアンナも気がついて、全員を制止してから大声を上げた。
「リッツでしょ?」
アンナはそう扉の外に呼びかけた。その名はここユリスラ王国ではかなり耳にする平凡な名前だ。六十年ほど前の内戦時に活躍した英雄王の片腕の名なのである。内線の英雄たちの名は、この国の人々の心に深く刻み込まれており、少々前にかなり流行った。当時の一番人気が英雄王の名・エドワードで、次点がこのリッツの名前だった。その名が流行った時代に生を受けたヒューの周りにもその名を持つ者がいたが、この屋敷にはそんな人物はいなかった。
その時、再び爆発が起こり、先ほどまでヒューとアンナがいた廊下が炎に巻かれた。怯えて逃げることを拒否していたら確実に死んでいただろう。だが離れたとはいえここは室内だ。逃げ場のない爆風が扉の前で立ち尽くす面々を襲う。
万事休すかと思ったとき、分厚い扉の外から声が聞こえた。若い男の声だ。
「そこをどいてろ!」
「了解!」
大声で扉の向こうに答えたアンナが、全員に少し離れているように指示を出した。この開かない扉をたたき壊すつもりらしい。ヒューは絶望的な思いにとらわれた。この扉はかなり厚く、簡単には壊れないだろう。もし普通に壊すぐらいの時間がかかったなら、全員が爆発の炎に巻かれてしまう。
「間に合わないよ、アンナ」
肩を落として告げたヒューにアンナは笑った。
「大丈夫!」
やけに自信満々にアンナが答えた瞬間、ものすごい勢いで扉に穴が空き、斧の刃先が覗いた。
「なんと……マホガニーの一枚板を一撃で……」
ランドルフが呆然と呟き、それと同時に大きくため息をついた。
「マホガニーの扉が……」
助かる安堵はあるだろうが、主人の自慢の品が一撃の下に打ち壊されるのは見ていて辛いだろう。確かにこの扉が一撃で壊されるとは夢にも思わなかった。一同が仰天している中でも休むことなく斧が二回三回と扉にふり降ろされ、そのたびに穴が広がっていく。
「鍵が壊れてる。鍵周辺を壊して」
「了解」
空いた隙間から伝えられるアンナの的確な指示で、斧は両開きの扉の中央、鍵と取っ手部分をすべて破壊し尽くすとようやく動きを止めた。それから男は一瞬姿を消す。
次の瞬間、重く開かなかったはずのその扉が、ものすごい勢いで一気に開け放たれ、男が転がり込むようにして屋敷に踏み込んできた。どうやら体当たりしたらしい。
「いってーっ……」
小声で呻いたのは、身長二メートルはありそうな長身に黒髪の男だった。腰に大ぶりの剣を差している。がっちりと筋骨逞しいわけではないが、鍛えられている事は間違いない。どう見てもその姿はユリスラ王国の一般庶民の格好ではなかった。軍人か、傭兵か、ごろつきだ。
「早く出ろ!」
呆然と男を見上げていたら、突然現れた男に半ばつまみ出されるように外へと放り出された。業火に包まれた屋敷の中が嘘みたいに、屋敷の外は平穏そのもので、緑を吹き抜けてきた冷たく心地よい風がヒューの頬を撫でる。
夢を見ているような感覚でヒューは今飛び出してきた館を振り返った。わらわらと男に追われるようにして、使用人たちが飛び出している。彼らの全員が出た後、一番最後にアンナと大きな男が続いて飛び出してきた。
全員が脱出した直後に、大きな爆発が今までいた屋敷を襲う。
「うわ……」
赤々と燃える炎が、建物内部を焦がす。間一髪とはまさにこのことだろう。目の前の光景とは一転、屋敷とは反対側の草原と森を見れば、未だ昼前の柔らかな日差しが溢れていてまばゆい。耳を澄ませば鳥の歌声さえも聞こえてきそうだ。まるでこの燃えている屋敷の方が夢の中の出来事のように見えて、ヒューは愕然と座り込んでしまった。
一体全体、何が起きたのだろう。どうして自分が狙われなくてはならないのだろう。
言葉もなく崩れるように座り込むと、丁度目の前まで悠々と歩いてきたアンナとあの長身の男が向き合った。嬉しそうな男とは反対に、目の前でアンナがむくれたように背伸びをして両手で、男の頬を引っ張った。
「もう! 遅いよ!」
「いってえな!」
「一回目の爆発で助けてくれなきゃでしょ? 依頼人に大怪我させちゃったら、事務所の信頼がた落ちなんだからね」
「分かってるって。だからちゃんと助けただろうが!」
「遅すぎるの!」
男の胸までしかない身長だというのに、圧倒的にアンナの方が強そうだ。アンナの手はまだ男の頬を抓りあげている。痛いとか、やめろなどと言いつつ、男はその手を無理矢理放す気はないらしい。それに男はアンナに反撃する気もないらしく、いたずらをしかられた子供のようにアンナから視線を逸らしている。その姿はまるで、よく慣れた大型犬と飼い主のようだ。
一体全体、この二人は何なのだろう。
ぼんやりと二人を見つめていると、ようやく思い出してくれたのか、アンナがこちらを見てにっこりとほほえんだ。
「申し遅れました。ボルドウィンさん」
「はい?」
唐突に呼ばれ、呆けた顔のままアンナを見る。アンナは片手はまだ男の頬を抓ったまま、極上の笑顔でにっこりと微笑んだ。
「バーンスタイン男爵様にご依頼いただき、ヴァイン本部より派遣されましたマイヤース事務所です」
その瞬間に総ての謎が氷解した。バーンスタインはちゃんとヴァインに依頼してくれていたのだ。そして護衛と調査のために派遣されていたのがアンナだったというわけだ。
「私がマイヤース事務所のアンナ・マイヤースです」
ぺこりと頭を下げたアンナは、抓りあげたままの男の頬を引っ張った。男は顔をしかめながらも、アンナにされるがままに、顔をアンナの方へ寄せる。
「そしてこちらが夫で所長の、リッツ・マイヤースです」
「……どうも」
アンナによって微妙に歪められた顔のまま、アンナの夫は返事をした。何だか不機嫌そうなのが妙に気に掛かるが、それ以上にヒューは安堵してひっくり返った。ヴァインが護衛してくれるなら、これから生命の危機に怯えなくても済むかも知れない。
まさかこの二人が、ヴァインの規格外だなんて、このときのヒューは全く気がつかなかった。