二人の少女
その病院には、一人の少女がいた。
彼女は孤独だった。一人だった。
家族と呼ばれるものはいた。だが、誰も少女の事を心配してはくれなかった。実際、ここに入院してからも、金は払っているようだが一度も見舞いには来ていない。
学校に友達もいた。いや、そんなものは見せかけだ。今まで見舞いに来たのは学校から強制された先生と日直の人だけだった。その二人も、来るなり物をおいて帰ってしまうので、彼女を見舞いに来たわけではない事はすぐに分かった。
ある日、少女は本を読んでいた。別に読みたくもない本だった。だが、彼女のいるような田舎の病院というのは酷なもので、テレビもない。もちろんパソコンもない。漫画さえないのだ。読もうと思っていた本も、全て読み切ってしまった。今彼女が見ている本は、彼女にとって半分も意味がわからなかった。でもいいのだ。何もしなければ、ただただ虚無感に襲われて怖くなる。それだけは嫌だった。
少女はぱたんと本を閉じ、顔を上げた。自分の黒くて長い髪が本に挟まる。それを払いのけると、少女は前方を見た。だが、そんなことをしても見られるのは壁と吊られたまま動かない自分の脚だけだ。少女は、身体が徐々に骨化していく病気にかかっていた。現在は左脚だけだが、治らなければいずれ全身を骨が覆い尽くすだろう。
かわいそうだね、と言う声が聞こえた。少女が声のした方を見る。そこには、白い服を着た、銀髪蒼眼の少女がいた。その肌は、まるで血が通っていないかのように透き通っていた。服はこの病院で貸し出されているものだ。私と同じ病人かな、と、黒髪の少女は思った。彼女は声の主に尋ねた。「どうして。かわいそうだと思うなら、みんな遊びに来てくれるでしょう?」と。
銀髪の少女は言った。
「わたしは、あなたをかわいそうだと思った。仲間だと思った。だから来たの。他は知らない。」
その言葉を聞いて、少女は理解した。何故みんなが自分を心配してくれないのか。見舞いに来ないのか。そして、なぜ常に自分の病室にいるのが自分だけなのか、を。
少女は泣いた。その黒い髪が顔を覆い隠した。白いシーツにいくつものシミができた。
「どうして、泣いているの。あなたは私の仲間。それでいいじゃない。」
蒼い眼の少女が黒髪の少女の顔を怪訝そうに覗き込んだ。ぱさりと滑らかな銀色の髪が少女の手を覆い包む。日本人の髪は外国人と比べて細いというが、その髪は日本人のそれとそう変わらないようにも思えた。
少女は腕で涙を拭った。見ず知らずの人に涙を見せるのは流石にはばかられたのだろう。拭い終えると、彼女は来訪者に向かって笑顔を見せた。
「仲間。そんなこと言ってくれたの、あなたが初めて。ありがとう。」
にかっ、と笑った顔に歯が見えた。白い歯だった。
それからというもの、毎日のように銀髪少女は黒髪の女の子の元へやってくるようになった。むしろ、常に同じ時間に来る彼女は、黒髪の少女にとって一日のなかで最大の楽しみとなっていた。笑うと病気はすぐに治るとはよく言ったもので、徐々に彼女の体へ回復の方向へ向かうようになった。
そんなある日、急に黒髪の少女の容体が悪くなった。そのせいで、数日間の間だけ、少女の病室に、一人の看護師がつくことになった。無論であるが、その間の面会は謝絶された。もちろん少女がすぐに死ぬような事はない。実際、少しずつ進行する病気で即死する人などそういないだろう。
少女は、またあの忌々しい日々に逆戻りだった。いや、まだ喋り相手がいるだけましだったかもしれない。だが、あの少女と会えない以上彼女にとってはあの日々と似たようなものだった。
「ねえ、あの子はいつ来られるようになるの。」
黒髪の少女は言った。その顔は少しやつれていて、目の下にはくまが出来ていた。
「さあね。」
看護師は手に持ったタブレット端末から目を離さずに応えた。面倒臭い子供の世話などしたくないという意思の表れであろうか、彼女がここに来るようになってから、一度も自分から少女に話しかけた事はなかった。せいぜい少女のつぶやきに反応する程度だ。
「……ねえ。」
少女はもう一度呼びかけた。だが、看護師はこちらを見ようとするそぶりすらない。相手するだけ全くの時間の無駄だとでも思っているのだろう。
「この病院って、今まで何人死んだの。私が、初めてかな。」
少女が看護師に聞こえるか分からないような小さな声で尋ねた。むしろ、聞こえないほうがいいと思っていた。
「今までは一人しか居ません。だから、貴方も普通に黙ってさえいれば、きっと治りますよ。」
看護師は目線を一点に据えて応答した。流石に、なんの音もない室内で聞かれないように呟くのは不可能だったのか。あるいは、本当はずっと話を聞いていたのだろうか。どちらにせよ、看護師のその一言は、少女を何気なく勇気付けたのだった。
結局、その日少女が得た情報は、それだけだった。
それから数日がたった。看護師は来なくなった。少女の病気がまた快方へ向かい始めたからだ。彼女の病気は日に日に良くなった。それどころか、骨化していたはずの左脚までもが少しだが自分の意識で動くようになった。
銀髪の少女は、また再びいつもの時間に現れるようになった。だが、以前と違っていくらか元気がなくなっているようにも見えた。
「どうしたの。元気、少ないね。」
不意に黒髪の少女は尋ねた。それは、少女が病院から退院するのが翌日と迫った日のことだった。
銀髪の少女は俯いて言った。
「だって、やっとできた仲間だったのに、あなたはもういってしまうんだもの。」
そういう彼女の顔は真っ白だった。まるで白粉でも塗っているかのように白かった。
「会いに来るよ。きっと。私が心を許せるのは、貴女だけだもの。」
黒髪の少女は励ますように微笑んだ。その顔には偽りはなかった。どうせ、戻ったところで誰も自分など相手にしてくれないことを彼女はとっくに理解していた。
だが、銀髪の少女は目を閉じ、顔を横に振った。その蒼い眼には涙が浮かんでいた。
「無理だよ。だって、私は……」
銀髪の少女は黒髪の少女に歩み寄り、手を握った。
氷のように、冷たい手だった。
「私は、死んでるんだもの。」
銀髪の少女はその蒼い眼で黒髪の少女を見つめた。深い闇が隠れているかのような眼が、黒い髪の少女の心を哀しく貫いた。
黒髪の少女は何も言えなかった。銀髪の少女の言葉と手の冷たさは、少しづつ穴の空いた心に深い闇を刻んでいった。
結局、その言葉を言い残したまま、銀髪の少女は部屋を出て行ってしまった。
その夜、少女は闇の中で目を覚ました。とっくに部屋は消灯され、月明かりだけがカーテン越しに部屋を照らしている。
よし、行こう。少女は吊り下がった足を抜きながら、ゆっくりと体を起こした。
少女は廊下へと歩み出た。夜の病院の廊下は、意外に静かだった。田舎の病院とはいえこの病院は五階建てである。何人もの人が入院してもあまり部屋が埋まることは無いのだ。
ぺたり、ぺたりと少女は裸足のまま歩いて行く。エレベーターの前まで来たが、電気はついていない。どうやら急患は受け付けていないため、夜はエレベーターを止めているようだ。こんな田舎に警備員はいないので、実際のところなくても問題はないのだろう。
少女はすぐ隣の階段を使うことにした。ここは四階。彼女の目指す階はそう遠くない。少女はうまく動かない足を引きずりながら一段一段階段を登った。足の痛みはない。そもそも骨化に痛みは伴わない。ただただ反応が鈍くなり、動かす筋肉が弱くなっていくだけである。
五階へつくと、さらに上へ続く階段を見つけた。いや、梯子と言った方が正確か。彼女はそれを見つけるやいなや一番下の段に手をかけた。
少女が向かっているのは屋上であった。少女は梯子を一番上まで登ると、その先にあった金属の扉に手を掛け、ぐいと押した。
ぎいい、という音とともに扉は開いた。金属製の扉は少女には少し重かったが、それでもどうにかして開けることはできた。
少女は開いた扉の隙間から外へと出た。さすがに屋上とは言ってもデッドスペースにするつもりはないようで、そこには無数の物干し竿とシーツがはためいていた。
不意に風が吹いた。少女は風にあおられてよろめき、シーツはバサバサと音を立てた。少女の美しい黒髪が風に乗ってはたはたとなびいた。それはまるで糸のように細く、そして華やかであった。
少女は躊躇わずに冷たいコンクリートで出来た屋上を端の方に向かって歩いた。
彼女の頭の中に、もう迷いは無かった。あの銀髪の少女とずっと一緒にいたい。ただそれだけの気持ちが彼女を突き動かしていた。彼女は死んでしまって、だから一緒の仲間が欲しかった。だから弱っていた少女のところへとやってきた。でも、少女が治ってしまえばもう会えなくなる。そうなればまた、一人ぼっちの日々に逆戻りだ。黒髪の少女はそんな彼女に自分を重ねた。彼女と似た境遇をもつ自分には、痛いほどそれがわかる。そう思ったのだ。それに、少女の方もせっかくできた仲間を失いたくはなかった。
黒髪の少女は、屋上の屋根の端に足をかけ、下を覗き込んだ。およそ数十メートルはあろうかという高さだった。ここなら、大丈夫だ。少女はそう思った。
少女は、死ぬつもりであった。死ねば、ずっと彼女と一緒に居られる。そう思ったのだ。
黒い髪の少女は屋上の端で深呼吸をした。夜の風は、彼女の髪を哀しそうになでた。
少女は一歩、前へ足を踏み出しーーーー地上へと、吸い込まれるように堕ちていった。
一度違った感じで書く、という目的のもとで書いてみたものです。
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