結城昌文②
「頼むから別れて欲しい」
目の前で頭を下げ土下座しているのは、美寿々銀行の野球チームで先輩だった池谷さんだ。
飲みに行こうと連絡が入り、先輩たちが集団で現れるかと思ったら池谷さん一人だった。
チームを辞めて2年、初めて差しで飲んでいる。
怪我をしたこと以外、土下座される謂れは無いが、あれは事故だ。
それに、事故の話ではなさそうだ。
別れる?
「晴海と別れて欲しい」
俺の頭は一気に冷えた。
浮気か?浮気相手か?
今度は急激に血がのぼってきた。
目の前がチカチカする。
「いみわからん」
ビールをぶちまけてやりたかった。
「ホンマすまん。でも聞いてくれ、大河くんは俺の子供や」
土下座して頭を下げたまま、池谷さんが押し殺した声で叫ぶ。
「ホンマすまん」
俺の頭では理解出来なかった。
池谷さんの言うことがわからない。
畳にこすりつけた顔が上がっていく。
俺の顔を真っ直ぐに見つめる真剣な目は、大河と同じ細い一重瞼。
頭が沸いて、脳みそが破裂しそうだった。
何言うてるんやコイツ。
俺は我慢出来ずに、池谷さんの顔を蹴りあげていた。
グゴと鈍い音がして、池谷さんは転がる。
壁に激しくぶつかりその振動で、グラスが倒れ料理が飛び散る。
ガシャン、ドン、ガーン!
騒がしい音が響いて、店員が個室の障子を開けた。
「お客様、何かございましたか?」
「……あかん。酔ってしもたわ」
池谷さんがよろよろと起き上がる。
「うるさくしてすまんね。大丈夫やから」
いえ、と店員が引き下がり障子が閉まると、正座し直した池谷さんが再び頭を下げる。
「晴海ちゃんが妊娠したの聞いて、俺の子じゃないかと思った。でも彼女、絶対に結城の子供だからゆうて、結婚してしもて……」
「……」
「幸せの邪魔したらいかんから諦めたんや。本当やぞ。ほやけど、大河くんの顔見たら、俺の子やんか。ほうやんか」
「……」
「最初は勘違いやと思て、赤ちゃんやし」
「……」
「ほやけど、どんどん似てきて」
「……うるさい」
「な?俺やろ?」
「……だまれ!」
俺は唸りながら頭を抱えていた。
「な。DNA鑑定したらええ。そしたらわかる」
「そんなもんするか、ボケ!」
大河は俺の子や!
池谷さんみたいに、叫ぶことが出来なかった。
冗談で「俺に似てないなぁ」と、晴海に言ったことがあった。
晴海は「死んだお爺ちゃんが公家顔だったからかな」って、笑っていた。
冗談のつもりだったから「へー大河は爺ちゃん似か」で、終わった話だった。
嘘だろ。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
俺はどうやって池谷さんと別れ、どうやって家に帰ったか覚えていない。
次の日から、晴海と大河の顔をまともに見ることは出来なくなった。
相談出来る相手は辻しかいなかった。
話を聞き終えた辻は、池谷さんを誉めた。
「お前らのこと全く噂になってないやろ。二股かけてたとかバレてたら、大河の事も噂になる可能性あったやろ。池谷さんは口が固いんや。お前ら夫婦の事を考えて、フラれた時もベラベラ喋ったりせんかったんや。腹いせにロクでもないことフカすヤツは山ほどおるわ」
確かにそれはそうだ。
だが、俺は認めない。
「まぁ。早くわかって良かったんやないの?」
お前、別れる事を前提に話してないか?
「晴海ちゃんは可愛いけど、寄りかかるタイプやろ。これから先の事考えたら、きちんと話し合って大河の為にも、正した方がええやろ」
何を正すと言うのだ。
俺は缶ビールを一気に煽る。
「ユーキ、痛風かアル中になるで。ひとりもんの病気もちは辛いでー」
辻の頭を思いっきりはたいた。
俺に大河と別れる事が出来るか!
風呂にも入れた。
オムツもかえた。
ボールを転がすと、キャッキャと喜んでいた。
もう四才になる。
大きなグローブを抱えて、野球の真似事もできるようになった。
大河……。
俺が全てを知っている事を知らない晴海は、いつものように弁当を作ってくれる。
俺はもう彼女の弁当を、喜んで食べる気にはなれないが、問い詰めることも出来ない。
大河の寝顔が俺の怒りを鈍らせる。
池谷さんの話をすれば、全てを失うと思っていた。
そんな歪んだ日が続く中、辻から能天気な連絡が入った。
「ユーキ。クラス会行くで。鶯谷小六年一組のクラス会。お前のマドンナ涼子ちゃんがいるクラス会」
「……涼子は来んやろ」
「それが戸倉情報で、涼子ちゃんから出席のハガキ届いてるて~。彼女隣市で働きよるんやって。さぁ、オモロなってきたでー」
情報通の辻がケタケタと笑う。
涼子の姿を思い描くと、甘く懐かしい気持ちが蘇ってくる。
ぐちゃぐちゃな心に爽やかな風が吹いた。
俺はクラス会のハガキを探した。
テーブルに放置されている物の片隅に紛れていた。
折れたハガキをきれいに伸ばし、出席の欄に印をつける。
涼子は俺の清涼剤。
高嶺の花だった。
「パパぁ~」
義父の誕生日で、晴海と実家に出掛けていた大河が帰って来た。
「大河~」
俺は走ってくる大河を受け止め、抱きかかえる。
晴海からは意識を遠ざける。
「美味しいもの沢山食べたか?」
「うん。ケーキとー、エビフライとー。えーとえーと」
大河は可愛い。
それは本当だ。
その事実が俺を苦しくさせている。