姦計
翌朝。
グレートザップ超心理学研究所所長室の内線電話が鳴った。
「随分早いのね。まだ部屋に着いたばかりよ」
始業前のコーヒータイムを邪魔されたせいか、バレリーの声に刺が混じる。にも拘らず相手は話を切り上げようとしないらしく、彼女は受話器を握ったままだ。
彼女はわずかに声のトーンを上げ、「……誰が?」と返事をしつつ眉間に皺を寄せた。
「……自殺したのね、“被験体”の女の子が。あらそう」
穏やかではない内容だ。しかし彼女の応対は淡泊だった。せいぜい、飲食店で注文しようとした料理が品切れになった程度の反応でしかない。
「自殺した“被験体”の名前は? ……ノーラなのね。能力者じゃなくてよかったわ。
死因は? ……首吊りですって。よりにもよって後片付けが面倒なものを選んでくれたものね。
発見したのはいつ? ……五分前」
以前にも同じ事があったのだろうか、彼女はてきぱきと事務的に質問を投げ続ける。
「そのことを知ってるのは? ……ルームメイト一名とあなただけ? それ確実なのね。
警察と救急は? ……まだね。知らせなくていいわ。……ええ、いいの」
バレリーはしばらく相手の話を黙って聞いた後、ほんの一瞬顔をしかめた。直後、通話相手を見下すように目を細めると説得口調で話し出す。
「あなた、ここでの勤務は日が浅かったかしら。死体なんて見慣れてるでしょ。死んだのはいくらでも補充のきく孤児よ。ただの“被験体”なの。わかっているでしょう」
相手の返事に満足したのか、バレリーは「そうよ」と穏やかに言った。
「このことは“被験体”の教官たちには話していいし、協力してもらいなさい。死体は地下七階へダストシュートよ。……いちいち聞き返さないの、立派な耳がついているでしょ。ルームメイトの“被験体”については適切に処置しなさい。必要なら記憶を改変してもいいわ。いえ、改変するべきね」
どうやらこの研究所には地下七階が実在するらしく、しかも公開するわけにはいかないものであるらしい。
バレリーは一旦受話器を置き、再び手に取ると番号をプッシュした。
「おはよう、ジョンソンくん。クローンの中から女一体を“被験体”に加えなさい。……ええそう。フィールド能力の発現が確認できている個体がいいわ。最速でいつまでにできる?」
返事を待たされたらしく、バレリーは指でコツコツと受話器を叩く。
「四日もかかるの……。三日でやりなさい、一体だけでいいんだから。その一体を起こすために他が遅れることになっても構わない。いいわね」
バレリーは有無を言わせぬ口調で言い放つと一方的に会話を終えた。
今度は受話器を置くことなく終話ボタンを押すと、すぐ続けて新しい番号をプッシュする。
「私よ。おはよう、ベイリー大尉。朝早くから悪いわね。単刀直入に言うわよ。
あなた、“被験体”の女の子と寝たでしょ」
バレリーは受話器を耳から離す。その受話器から『滅相もありません!』と叫ぶベイリー大尉の大声がはっきりと聞こえた。
「とぼけても無駄よ。そもそも、隠し通せると思う方が不思議ね。……あなたがちょっかいをかけた子ね、昨夜自殺したわ」
ベイリー大尉は絶句したようだ。バレリーは微笑みすら浮かべ、世間話でもするかのように淡々と言葉を続けた。
「特に禁止するつもりはなかったわよ。でも、普通のプレイじゃなくて、それなりのことを要求したんでしょ、きっと。まあ、過ぎたことを言ってもしょうがないけれども。……ところで、私はそれほどせっかちな性格じゃないつもりだけど、今はそうも言っていられないの、わかるかしら。何としても研究を前に進めないといけないのよ」
ここでバレリーは間をあけ、予め用意しておいたコーヒーに口を付けた。全く責めるような口調でないというのに、この絶妙な間はどうやら相手に与える心理効果が絶大なようである。
「あらあら。今朝淹れたコーヒーがもう冷めてしまったわ。
……あなた、本当はユキさん――コーエン少尉と寝たいんでしょ」
バレリーはベイリー大尉が反論しようとするタイミングを制し、「お黙りなさい!」とぴしゃりと言った。
「認めなさいな、わかってるんだから。残念ながら、勘で言っているのではなくてよ。昨日、あなたのそばにボブって子がいたでしょ。“接触テレパス”はご存知かしら」
電話の向こうでベイリー大尉は再び絶句したらしく、受話器からは一切の音声が漏れ聞こえてこない。
「ただちょっと残念なことに、バロウくんの研究レポートによると、ボブは通常のフィールド能力は安定しているけど、特殊能力の方は不安定なんですって。接触テレパシーを一度使うと二十四時間くらいは使えないそうよ」
バレリーは再び間を空けた。眉と口端を吊り上げ、妖しく笑う。
「もうこの際、手段なんかどうでもいいから彼女をものにしちゃいなさいな。あたしが応援してあげるから」
ブラインドの隙間から朝日が差し込み、逆光となったバレリーの顔に影が差す。影より濃い陰影に縁取られたかのような口元から紡がれた言葉は——
「そのかわり、今後“被験体”に手を出すのはおやめなさい。あなたのそばには常にジム・ヘルマン曹長がいる。そしてあなたの手元にはジムを制御するためのコントローラがない。そのことを忘れないようにね」
紛れもない脅迫だった。
「ベイリー大尉……。残念だけどレイプ魔と一緒に仕事をする趣味はないわ」
電話を切った後で笑みを消して呟き、ひとつ溜息を吐く。
ただそれだけの動作で気分を切り替えたバレリーは、日常の事務作業に手をつけるべく机上の書類に目を通し始めた。
* * *
『“被験体”に自殺者が出た。しかし、警察にも救急にも知られたくないらしい』
その内容を、ユキは直ちに連絡した。原始的な方法である。芯を抜いたシャープペンで紙片になぞり、ゴミ箱に捨ててしまう。その紙片を清掃員が拾い、決められた掃除を終えて帰る。実は清掃員も中央情報局のエージェントであり、彼が紙片を鉛筆で擦ることによりユキのメッセージを確認するのだ。
事後処理への協力を命ぜられたユキは自殺者が使っていた部屋の後片付けを手伝った。彼女の他、その部屋には第一発見者とジムしかおらず、三人での片付け作業は昼近くまでかかった。真の第一発見者は自殺者のルームメイトの少女だが、ユキが部屋に到着した時、彼女の姿はそこになかった。
その後、臨時IDを発行されたユキは、地下五階へと向かった。
スレッジがエレベーターホール前の通路を通りかかる直前、エレベータの扉が閉まった。エレベータはユキを乗せ、地下五階へと降りていく。
そうとは知らず、スレッジはぼやいた。
「……んだよ、今日は。何かあったのかな。尾行者もいないし、デイビッドもいない。ユキと情報交換するチャンスだってのに、彼女までいないときたもんだ」
彼としてはナノマシンのコントローラがどこにあるのか、その位置を把握しておきたい。しかし、それを誰かに聞いたら一発で怪しまれるし、まず間違いなくバレリーの耳に入るだろう。
「俺のフィールド能力で透視するか……」
つぶやいてみたものの即座に否定する。彼はこの研究所に潜入した日、スレッジとユキを監視していたふたり組——ジム・ヘルマン曹長と“被験体”のボブ——の周囲にフィールドの揺らぎを感じたのである。自分がそれを感じるということは、“被験体”の中のフィールド能力者たちも同じように感じる可能性があるのだ。
今はまだ、リスクを冒して強引に行動する時ではない。スレッジはそう判断した。
「ユキの立場をやばくするだけだからな」
半ば自分を納得させるようにつぶやきながら、胸騒ぎが治まらない。彼とユキは、昼近い時間にはなるべく一階の軽食コーナー付近にいるように取り決めておいたのだ。もちろん、日々の状況によってはそうも言っていられないことだってある。わかってはいるのだが、スレッジはつい視線を泳がせてしまう。
「ユキだって警備員としての仕事が優先なんだ。彼女の姿が見えないくらいで何をびくついてるんだ、俺は。とりあえずメシだ、メシ。ひとり寂しくランチだ」
これまで緊張を強いられるような状況は一切なかったが、ずっと偽名のまま、言動にも気をつけて行動してきたのだ。さほど自覚がないものの、多少は気疲れしているのかも知れない――スレッジはそう考え、ゆっくりとランチを摂ることにした。
だが、カフェに入ることは出来なかった。エレベータから転がるように飛び出してきたデイビッドに肩を掴まれたのだ。
「頼む、助けてくれハンス!」
「うわっ、なんだどうした」
「四日かかる作業を三日でやらなきゃならなくなった」
まるで説明になっていない。スレッジはため息をついた。
「ここじゃできない話ってことか。わかった、部屋で聞こうか」
デイビッドたち研究員の部屋の多くは地下三階にある。ぼさぼさの黒髪を揺らしつつがくがくと首を縦に振るデイビッドを促し、彼らはエレベーターへと歩いていった。
* * *
ここはデイビッドの部屋。スレッジの部屋よりは生活感があるのは当然だが、今までこの場所で生活していなかったスレッジと大差ないほど私物が少ない。基本的に、研究員たちにとって部屋は寝るだけのスペースなのかも知れない。
「……なんだって」
直前に語ったデイビッドの言葉をスレッジが理解するのに時間がかかった。聞き間違えてはいないが、意味を理解したくなかったのだ。
クローンを起こすというのか。しかも、フィールド能力を持つ個体を。
スレッジの反応を誤解したデイビッドが、同意を求めるかのように愚痴をこぼす。
「な、ひどい話だろう、ハンス。何があったか知らないが、バレリー所長、初めからこちらが要求する期限より一日短く言ってくるつもりだったのに違いない。だったら五日かかるって言ってやれば良かったよ」
「ううむ……」
そう、たぶん何かあったのだ。その内容まではわからない。スレッジは、バロウと交替する明日の昼までの間にユキと会い、できるだけ情報を共有しておきたいと思った。
(だが、どうやって)
「ここに来たばかりで悪いが、手伝ってくれるよな」
「待ってくれ、デイビッド。私の参加が予定されている研究プロジェクトは来週以降だから時間はあるが、私なんかで役に立つのかな」
「立つさ。ハンスの専攻、思念力学だろ。私では“フィールド能力を持つ女”という条件だけではどのクローンを起こせばいいのかさえ判らないんだ」
デイビッドが腰を浮かせた。今すぐにでも地下六階に連れて行かれそうになったので、思念力学などという怪しげな学問についての知識が一切ないスレッジは慌てた。
「落ち着けよ。闇雲に作業するより、段取りを組んで分担した方がよくないか。それに、私はまだナノマシンのことがよくわからないんだ」
「そうだな、実は今朝、バレリー所長から電話もらってから、ある程度は段取りを考えてみたんだ。ハンスが協力してくれるなら、三日でも軽いだろう」
スレッジの返事を聞いたデイビッドは、すでに協力を得られたものと思ったようだ。あっという間に彼の様子からそわそわした雰囲気が解消した。
「クローンの“起動”にあたって、ハンスにはクローンに埋め込んだナノマシンのコントローラを持っていてもらわないといけないからな。まずはコントローラだ」
スレッジはほくそ笑んだ。思わぬ形で、望む単語が耳に飛び込んできた。欲しかった情報が手に入りそうである。
「慌ただしくてすまんが、まずは三日後に起動する個体を選んでくれ」
「あ、ああ。わかった」
早速部屋を出て行くデイビッドの後ろに続きながら、スレッジはどうやってもっともらしく個体を選ぶか考えていた。しかし、まるで見当がつかない。つい、「適当でいいや、適当で」と声に出してしまった。
「何か言ったか、ハンス」
「何でもない。ただ、腹が減ったな、と」
スレッジたち遊撃調査班にとって、今以上にフィールド能力を持つ敵が増えるのは歓迎すべき事態ではない。それならば、クローンを起動する前に――。
(三日以内にバレリーの身柄を中央情報局に引き渡す)
少々きついが、それが最善策だ。
「悪いな、ハンス。私が考えた分担作業を手短に説明する。タイムスケジュールについてはきみにだって意見があることだろうから、分担の目途がついてからゆっくり食事を摂ってくれ」
「三日しかないんだろう。デイビッドの立てた段取りに合わせるさ。もちろん、あんまりキツイようなら二日目の朝に予定の修正を頼むかも知れないが、なるべく迷惑をかけないようにするよ」
「ハンス、きみは救世主だ」
スレッジはデイビッドの大袈裟な感謝の言葉を聞き流し、(明日以降のことはバロウがうまくやるさ)と高をくくった。
* * *
この日、スレッジが食事にありついたのは夕方というより夜に近い時間になってからだった。間の悪いことに、スレッジが注文した宅配ピザが届いたのは1階受付の職員が定時で帰宅する直前であった。受付職員は内線を使い、ピザが届いた旨を伝えるとさっさと帰ってしまった。
スレッジとデイビッドは、デイビッドが考えた段取りを元に作業分担について少しだけ話し合った。今日の段階でスレッジが担当すべき仕事と言えば、結局のところ、明後日までに起動するクローンを決めることだけだった。
スレッジはクローンを決めた後、一階のカフェには向かわず、地下三階の自室に籠もったままこの時間まで過ごしてしまったのだ。何もせず無為に過ごしていたわけではない。むしろ、前夜以上に熱心にバロウのレポートを調べていたのだ。
そこにピザ到着の連絡が入ったため、スレッジは資料の閲覧を中断して一階までピザを受け取りに行った。そのまますぐ部屋に戻ろうとしたが、男性に呼び止められてしまう。
「おいバロウ」
スレッジは立ち止まったが、すぐに振り向いたりはしない。
「バロウ。どうした、聞こえないのかね」
中年男性の声だ。声の主はベイリー大尉。大尉は声をかけつつスレッジの正面に回りこむ。
スレッジは【ポメラニアン】を出る前にチェックした資料を記憶から呼び覚まし、目の前に立つ人物がベイリー大尉であることを思い出した。少し間を置き、小声で言う。
「ベイリー大尉、その名前は捨てました。今の私はハンス・ルーデルです」
「ふん、男前に変装しやがって。何がハンス・ルーデルだ。受付も帰ったことだし、周囲に人がいないんだからいいじゃないか」
役職に見合わぬ言い草に、スレッジは眉を顰めた。だが、どことなく上機嫌な様子に見えなくもない。
ベイリー大尉はスレッジをしげしげと眺めると、前言を少し訂正した。
「おっと、いまひとつ控え目な男前ってところか。どうせ変装するならもっと見栄え良くすればいいものを」
(ほっとけ!)
「おや、背も少し伸びてるようだが、シークレットブーツでも履いてるのかね。意外と気合いの入った変装をしているじゃないか」
スレッジは酔っ払いに絡まれているような気分になり、いらいらし始めた。そんな気分が伝わった様子は一切なかったが、大尉は少しだけ態度を軟化させた。
「……まあ、油断は失敗につながるからな。ここは君の気合いに免じて、この私が反省して呼び名を改めてやろうじゃないか。
さてルーデル、聞きたいことが――」
スレッジはピザの箱に隠した拳を軽く握り、(この野郎、人の癇に障る話し方のテクニックは天才的だぜ)と胸中でつぶやきつつも、なるべく柔らかい物腰でベイリー大尉の質問を遮る。
「大変申し訳ありません、ベイリー大尉。我々は現在バレリー所長の指示により緊急の案件に対応中です。実はこのピザ、私の今日初めての食事でして……、いえ、それはいいのですが。ご用の向きはバレリー所長を通してお申し付けください。バレリー所長はまだ所長室にいらっしゃるはずですから」
スレッジは答える途中から腰を曲げ、済まなさそうな態度を見せつつも毅然と会話を拒絶して立ち去っていく。
折良く階下へ向かうエレベータの扉が開き、職員がひとり一階で下りた。エレベータに残っていた職員が乗る人を探していたので、スレッジは「あ、乗ります!」と叫んで駆け込んでしまった。
その場に残されたベイリー大尉は表情を消して呟く。
「ずいぶんと気が強くなったものだな。尤も、貴様が本当にバロウならばの話だが」
彼はケータイを取り出すと通話ボタンを押した。
「ヘルマン曹長、私だ」
いくつかの遣り取りの後、ベイリー大尉は神妙な声で相手に告げる。
「ああ、“被験体”と遊んだことは反省しているよ。君が私に謝る必要はない、むしろ逆だ。ところで、ボブの特殊能力のことなんだが、明日にはまた使えるようになるんだな」
ベイリーは相手の返事に満足そうにうなずくと、口許に不気味な笑みを湛えた。
「実は、調べてほしいんだよ。ハンス・ルーデルと名乗る男が本当にバロウなのかどうか」
ベイリー大尉は電話を切った。
「むしろ別人であってほしいものだ。存分にいたぶってやれるからな」
誰もいない一階ロビーでひとりごちるベイリー大尉の顔には、陰惨かつ嗜虐的な笑みが浮かび上がっていた。
* * *
一階で声をかけてきたベイリー大尉から逃げるのに成功し、自室に戻ったスレッジは、ピザを囓りながらバロウのレポートの閲覧を再開した。“被験体”のフィールド能力に関するものだけでなく、バロウがプリントアウトして持ち出したナノマシンの設計図にも、わからないながらも目を通す。
今、スレッジの手元には、ナノマシンのコントローラがある。彼女――今日の昼過ぎにスレッジが選んだクローン――に埋め込まれているナノマシン専用のコントローラだ。デイビッドによると、クローンに限らず現在訓練中の“被験体”たちも、それぞれ専用のコントローラがあるとのことだ。
なお、コントローラを中心にして半径二十キロの圏外に出てから三時間以上経過したら、自動的にナノマシンは“被験体”を死に至らしめる。また、ナノマシン自体の位置情報も研究所内で把握できるように設計されており、“被験体”の脱走は不可能である。
それらのコントローラは地下五階にある部屋のひとつに保管されていた。その部屋にはバレリー所長とデイビッド以外の者が入室できないように制限されているのだ。
以前は研究者なら誰でも入室できたのだが、最近になって制限されるようになったのだという。
実は、バロウ脱走の知らせを受けたデイビッドの発案でセキュリティレベルが変更されたのだ。
デイビッドはそれを説明する際、「常に改良を考えるのも、研究の機密を守るのも研究者としての務めだからね」と胸を張っていた。
(余計なことしやがって。やっぱり俺は、こいつ嫌いだっ)
現在、フィールド能力者用の七つのコントローラは、トム・ベイリー大尉とジム・ヘルマン曹長がいくつかずつに分けて持ち歩いている。ヘルマン曹長自身のコントローラはバレリーが持ち歩いているらしく、それらのコントローラは毎日正午にデイビッドが受け取ることになっている。保管室で一時間ほどオートメンテナンスをかけた後、再びコントローラを持ち出すには原則としてバレリー所長の立ち合いが必要なのだそうだ。
同じ教官という立場にいるはずのユキがコントローラをひとつも持たされていないことを不自然に思ったスレッジは、その理由をデイビッドに聞いてみた。が、芳しい返事は得られなかった。
「そいつがユキの立ち位置ってわけか。ここでは彼女は新参者だから信用されていないんだろうが、そこは中央情報局のエージェントなんだし、きっとうまくやるさ」
だがこれで、コントローラを先に壊しておいた上で“被験体”の脳からナノマシンを取り出すという当初の計画は見直しを余儀なくされることとなってしまった。
複数のフィールド能力者と戦いながらひとりずつナノマシンを除去していくなど、成功の確率は絶望的に低い。
「しかし機械である以上、一時的にでも機能を無効化する手立てはあるはずだ。あるいは、コントローラを持つ人間が、それを操作できない状況を作り出す……とか」
携行用コントローラは、スレッジなら片手の掌で完全に隠せる程度の大きさの黒い箱だ。一方、ナノマシンを肉眼で見ることは不可能だ。バレリー所長はベイリー大尉の前では“手術”という言葉を使っているが、実際には手術というイメージからはほど遠い。粉末状のナノマシンを酸素マスク状の器具を使って鼻から吸引させるのだ。
しかし、“被験体”に吸引させたナノマシンはどうやって内臓ではなく脳に到達するのだろう。想像するだけでも気持ち悪くなってきたので、スレッジはその件についてはそれ以上考えるのをやめた。
「それにしても色んな特殊能力があるもんだ。発火、透明人間、念動力。ん? こいつはマークを撃った奴だな。ジャックというのか……、分身?」
スレッジは特殊能力の解説ページを参照した。分身というのは、離れた場所に自分の虚像を投影する能力だが、鏡に映したように実体と同じ動きしかさせられないらしい。
「侮れないぜ。実体か虚像か瞬時に見抜けなければ、背中から撃たれる危険があるってことだからな」
他の“被験体”の能力もチェックする。
「催眠に接触テレパス、そしてハウリング。ハウリングは声を聞かせた相手の鼓膜を破り、大量出血させて高い確率で死に至らしめる。助かっても聴力を失う可能性が高い……、おっそろしいぜ」
スレッジは研究所に潜入して以来、彼ら七人のフィールド能力者たちを直接見る機会に恵まれなかった。したがって、バロウのレポートに添えられている画像を頼りに顔と名前を覚えるしかない。毎月撮影して更新しているようで、いずれの画像も一週間前という比較的新しいものである点はありがたかった。
「ジム・ヘルマン曹長も何か特殊能力を持っているはずだが、こいつだけは記録が一切ないんだな。志願してナノマシンを埋め込んでもらった、だと? そいつが本当なら、こいつは根っからバレリーのシンパだと思っておいた方がいいかも」
資料の閲覧が一段落ついたので、スレッジはピザの最後の一切れを齧るとすっかり冷めてしまったコーヒーを飲んだ。
しかしほどなく、睡魔に襲われて――。
* * *
あれは幻だったのだろうか。できることならもう一度確かめてみたい。しかし、用もなく地下六階に行くわけにはいかない。
いまスレッジは夢うつつの状態で、昼過ぎに地下六階で体験したことを思い出していた。
彼女は、確かに話しかけてきた。間違いない、はずだ。
(あたしを、見て)
デイビッドと共に地下六階に入った瞬間のことだった。スレッジの耳には確かにそう聞こえた。
(見てください)
女の声だ。デイビッドでは有り得ない。
壁にずらりと並ぶシリンダーを見回したスレッジの目が、一体のクローンの顔に釘付けとなる。クローンのシリンダーにはそれぞれ番号が刻印されており、彼女の番号は八十六だった。
「目が……開いている」
スレッジの呟きにぎょっとしたデイビッドが、彼の視線の先を追う。スレッジが見つめているシリンダーに入っているクローンは、他の個体と同様静かに目を閉じていた。
「なんだ、開いてないじゃないか。しっかりしてくれよ、ハンス。君には明日と明後日、担当してもらう仕事がたくさんあるんだからな」
(我が主。あたしを、起動してください)
まただ。彼女はスレッジに向けてメッセージを送っている。スレッジは彼女のシリンダーを真っ直ぐ指差した。
「デイビッド。この娘……個体、フィールド能力をもつ九体のうちのひとつかい」
「調べよう」
地下六階には、スタンドアローンの端末があり、そこに研究内容が記録されている。極秘扱いとなっているため、研究所内のネットにさえ繋がっていないのだ。
「……。十日前の記録が最新だが、その時点では“フィールド能力なし”と記録されているよ」
スレッジは室内に設置されているフィールド能力計測器の前に歩いていった。機器の位置は前回デイビッドに案内された際に聞いたので知っているが、操作方法は聞いていない。だが、スレッジには操作方法が手に取るようにわかった。八十六番の個体についての情報を呼び出す。
(なぜ俺は、こいつを迷いなく使えるんだ)
スレッジが操作すると、ディスプレイに数値が表示された。
「な! なんだこの数値は――」
背後からディスプレイを覗き込んだデイビッドが絶句した。スレッジには数値が意味するところまではわからないが、どうやらこの十日の間で彼女は他の個体を遥かに上回るフィールド能力が発現していたようだ。
「クローンである以上、ここの百体はみな同じ条件だよな。もしかして、いずれ百体すべてフィールド能力が目覚める可能性もあるのか」
「いや。バロウくんは、ナノマシンを埋め込んでから一か月以内にフィールド能力の発現が見られなかった個体には、今後も発現しないだろうと予測していたよ。もっともそれは、いま訓練中の第二世代たちの研究に基づいた推論だとも言っていたがね」
では、この八十六番の個体だけが例外ということなのだろうか。
「他の個体も調べてみよう」
スレッジが計測器を操作して調べたところ、予めフィールド能力が発現していた九体のフィールド能力値はいずれも似たような数値であり、彼女の半分にも満たない。残り九十体にはフィールド能力が発現していない。
さっき彼女から聞こえてきた声は幻聴に過ぎないかも知れない。スレッジが機器を操作している間、彼女から新たな声が聞こえてくることはなかった。
幻聴かどうかについてはひとまず措くとして、フィールド能力の高い彼女を起こすことは、スレッジたち遊撃調査班にとって致命的な脅威となる可能性が否定できない。だが。
(最悪、俺がコントローラを手放さなければいい。だがそんなことより、人工授精だろうと何だろうと生命には違いない。生まれた以上は目覚めるべきだ。そうだよな)
ここにいるクローンたちは本来ならまだ二歳半。筋力と知識は特殊な方法で育成し、一定レベル以上を確保した状態で“起動”される。だが情操教育等の配慮はなく、彼ら彼女らは最初から“戦闘人形”として扱われることになる。
現時点のどんなコンピュータよりも高度な自律思考を可能とする自前の脳を持ち、コントローラを持つ者によって意のままに操られる存在。
こんなものを国家への報告なしに研究しているのだ。スレッジは疑っていたわけではないが、スービィから聞かされていた“国家反逆罪”の単語がいよいよ現実味を帯びてきたように感じた。
「しかし、あの幻聴――」
もし、幻聴でないのだとしたら。
海藻のように逆立つ黒髪。開いた瞼の内側にあった漆黒の瞳。自分を見つめてきたあの瞳は幻覚だったのだろうか。いや、とスレッジは否定する。理屈では説明できないが、あれは現実だったとしか思えない。
彼女は何と言ったか。
(我が主。あたしを、起動してください)
すでに明確な自我が芽生えているのだろうか。
明後日までにバレリーの身柄を確保できるか否か。だがその成否にかかわらず、スレッジは彼女を起こすことに決めた。
「決まりだ、デイビッド。起こすのは八十六番の彼女にしよう」
そして、もし彼女を起こすまでにバレリーの身柄を確保できなかったとしても、彼女をバレリーに引き渡すつもりはさらさらない。
* * *
スレッジが地下六階での出来事を回想している頃、ユキはベッドの上で目を覚ました。白い天井、殺風景な部屋。窓がひとつ。
「病室?」
すでに夕暮れ時を過ぎ、空の色は藍色を濃くしつつある。遠景に見えるネオジップの街並みの様子から、ユキはここが研究所の二階か三階の一室であることを確信した。
自分はなぜこんな部屋で寝かされているのだろう。かけられていた布団を押し退けると、入院患者用の手術着を着せられているのが視界に入った。ユキは必死に記憶を探りつつ、勢いをつけて上半身を起こそうとした。
「…………っ」
身体を起こすことができない。声も出せないほどの激痛に襲われたユキは、ベッドの上で上体を仰け反らせ、両眼をきつく閉じた。
しばらくじっと寝ていたら痛みが治まってきたが、ユキは自分の感じた痛みが頭痛だと気付くまでに、それからさらに時間がかかった。彼女は生理の時でさえこれほど激しい頭痛を感じたことがない。
私物は全てベッド脇の小机にきちんと揃えて置かれていた。光線銃もある。それを半ば習慣のように枕の下に隠すと軍服を探したが、見つからない。
少しずつ記憶が戻ってきた。“被験体”の中に自殺者が出たが、バレリーとしては外部に知られたくないとのことで、ユキは後片付けを命じられたのだ。自殺者の部屋には自分の他、“被験体”の教官であるジム・ヘルマン曹長と、自殺者の第一発見者だという職員がいた。三人で部屋を片付けた後、エレベーターで地下五階へ下りた。記憶はそこで途切れている。あれは、今朝のことだったか。まさか、丸一日以上寝ていたのではなかろうか。
私物のケータイをチェックしたユキは、日付が変わっていないことを確認した。
「誰かに細工されていなければ、の話だがな……。しかし、これほどの頭痛。もしかして、私は殴られたのか」
穏やかそうな外見に似合わず、バレリー・ペイジ博士は隙のなさそうな人物だった。それがバレリーに対するユキの印象だ。だが、ユキには今のところ尻尾を掴まれるようなヘマをした自覚はない。
「まだ完全に治まらない。長いな、この頭痛」
ユキの頭には包帯を巻かれている様子はない。彼女は自分の頭を慎重に触ってみたが、どうやら外傷はないようだ。全身をくまなくチェックしたが、特に外傷はなく乱暴された形跡もない。では、突然体調を崩してしまったというのか。潜入作戦前に中央情報局で受けたメディカルチェックでは何の異常も発見されなかったというのに。
ユキは上半身を起こした。額に手を当て、束の間目を閉じる。
痛みは幾分治まってきたものの、物事をじっくり考える気力がわいてこない。
その時、ノックの音が聞こえた。
「お目覚めかね、少尉」
ベイリー大尉の声だ。返事をして入室を促すと、大尉が“被験体”の男を伴ってベッド脇まで歩いてきた。フィールド能力を持つ、ランディという名の十九歳の少年だ。二人とも締まった体つきだが肩幅がある。こうしてベッド脇に並ばれると細身のユキとしては壁にも等しい圧迫感に苛まれるが、努めて平静な表情を保った。
ベイリー大尉はユキの肩に手を置いて「気分はどうかね」と声をかけた。その口元に浮かぶ笑みがどこか好色そうで気持ち悪い。手を払い除けたい衝動を我慢して答える。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。もう大丈夫ですので、今すぐ勤務に戻ります」
「無理しなくていい。もうしばらく寝ていなさい」
ベイリー大尉の声は、普段聞いたこともないような猫撫で声だ。
彼はようやくユキの肩から右手を離すと、その指で自分のこめかみを指し示した。
「私からのプレゼントは気に入っていただけたかな」
「!」
その一言による衝撃は世界の明と暗が反転するかのような錯覚を伴った。
「ナノ……マシン……」
答えるかわりに口端を吊り上げるベイリー大尉。彼を睨みつけ、絶望的な気分に浸りつつユキは聞いた。
「なぜ私にナノマシンを」
「私がきみのファンだからだよ」
ベイリー大尉は即答した。どうやら、ユキが中央情報局のエージェントであることを知られたわけではなさそうだ。
今やベイリー大尉はいやらしい笑みを隠そうともせず、ユキの全身を舐め回すかのような無遠慮でねちっこい視線を絡みつかせてくる。
ベイリー大尉の慰み物になるなどまっぴらだった。全くもって虫酸が走る。ユキは枕の下に隠しておいた光線銃を素早く取り出し、迷わず自分のこめかみに当てた。
だが――。
「ぬん!」
ベイリー大尉による手刀が、ユキの銃を弾き飛ばしてしまった。
ベイリー大尉は、ユキの行動を予測していたのかも知れない。加えて、頭痛がユキの反射神経をいくらか殺いでしまっていたのかも知れない。そうは言っても、ユキは中央情報局エージェントとしての訓練を嫌と言うほど受けている。そんな彼女にとって、一般兵としての軍役しか経験していないベイリー大尉に後れをとり、あっさりと己の銃を弾き飛ばされたという事実はかなりショックだった。
床を転がる銃を呆然と見送ったユキは、その銃を拾うために腰を屈めた少年——ランディと目が合った。
「……」
その瞬間、ユキの目が虚ろになり、両手を毛布の上にだらりと下ろす。
それは、ランディの特殊能力が発動した瞬間だった。彼の能力は催眠暗示であり、相手の目を見るだけで催眠状態に誘導できるのだ。
「コーエン少尉。ベイリー大尉の指示に従ってください」
ランディの言葉にユキがうなずくのを確認すると、ベイリー大尉は満足そうに微笑み、ユキに話しかけた。
「きみにまで自殺されては困る。言っただろう、私はきみのファンなのだと。いいか、自殺は禁止だ」
ユキは無言でうなずいた。
「安心したまえ。バレリー所長はきみにナノマシンを埋め込んだが、コントローラは私が持っている。私の言うことさえ聞いていれば、きみは今までと同じようにしていられるのだよ、ユキ」
何の慰めにもならないことを言いながらベイリー大尉はベッド脇のパイプ椅子に座り、ユキを見つめた。
「私の質問に正直に答えなさい」
ユキは「はい」と返事をしながら虚ろな視線をベイリー大尉に向けた。
「きみの本名は」
「ユキ・コーエンです」
「ここに来る前はどこに所属していた」
「グレートザップ……陸軍情報部です」
催眠状態のユキは嘘をつける状態ではない。実際、聞かれたことに正直に答えただけだ。ユキにとって中央情報局は十代の頃から所属していた組織であり、そこでの任務とは言えこの警備会社に来る前に所属していたのは陸軍情報部なのである。
ベイリー大尉はその答えに満足して頷いた。
「きみは手術したばかりだからね。今夜はここでゆっくり休みたまえ」
少し間をおくと、聞く者を不快にさせる猫撫で声で告げる。
「そして、明日からきみは私の恋人だ。だから私と同じ部屋で生活するのだ。わかったね、ユキ」
ユキは目を閉じ、身体を横にしてベッドに倒れ込んだ。
「おいランディ、これはどうしたことだ」
「おそらくベイリー大尉が“休みたまえ”と仰ったので、コーエン少尉は本当にお休みになったのでしょう。それ以後の言葉はお聞きになっていないものと思われます」
即答するランディに背を向けたまま、ベイリー大尉は舌打ちをした。名残惜しそうにユキを見つめるが、彼女はすでに熟睡している。
「ちっ。まあ、時間はある。明日もつきあってもらうぞ、ランディ」
ユキを見下ろしながら呟くと、ベイリー大尉は名残惜しそうに病室を後にした。




